私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり.
今朝、ぼんやりとカレンダーを見たら、『昭和の日』と朱記されていたので、
『昭和の日』かょ・・と朱記されていても齢ばかり重ねた私は、
戸惑いながらネットでこっそりと調べたしたのである。
私は日頃から何かとお世話になっているフリー百科事典と名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』を開いたら、
《・・
昭和の日(しょうわのひ)は、日本国の国民の祝日の1日である。
平成19年(2007年)から加わった、現在のところ最も新しい国民の祝日である。
国民の祝日に関する法律(祝日法)の一部改正により追加されたもので、日付は昭和天皇の誕生日である4月29日。
同法における定義・趣旨は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」となる。
ゴールデンウィークの中の1日である。
昭和64年(1989年)1月7日の昭和天皇崩御により、
同年以降の4月29日はそれまでの天皇誕生日としては存続できなくなり、
祝日法の天皇誕生日に係る項を改正する必要が生じた。
当時から同日を「昭和記念日」など昭和に因んだ新祝日として存続させようという意見が出ていたが、
左派の反対からそのような案は見送られ、同年以降の4月29日は『みどりの日』という名称の祝日に改められた。
その後、『昭和の日』の実現を目指す運動に呼応・共鳴する国会議員により、
平成12年(2000年)の第147回国会(参議院先議)、
平成14年(2002年)の第154回国会(衆議院先議)においていずれも議員提出法律案として審議に付され、
ともに先議の議院では可決したものの、国会会期終了・衆議院解散などにより後議の議院での可決に至らず廃案となった。
平成16年(2004年)の第159回国会において、
都合3度目となる改正法案提出(議員立法形式・衆議院先議)がなされ、
継続審議を経て平成17年(2005年)の第162回国会で成立した。
同改正法は平成19年(2007年)から施行され、
同年以降の4月29日は『昭和の日』、従前の『みどりの日』は5月4日に移動した。
(略)
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。
このように明記されてことで、私は何となく理解できたが、
私は昭和19(1944)年に農家の児として生を受けたので、
昭和64(1989)年の1月7日の昭和天皇が崩御される前年まで、
この日の4月29日は・・身も心も『昭和天皇陛下のお誕生日』と思いながら、
『天皇誕生日』の祝日である、と安堵していたのである・・。
昭和天皇が崩御された後、4月29日は『みどりの日』として制定され、
私は中小業のサラリーマンの時代で、悪戦苦闘ながら奮闘していた多忙時であったので、
この時節は日本の多くが若葉に染められ、美しい日本の風土かしら、
と単細胞の私は感じたりしていた・・。
『昭和の日』と改称されたのは平成19(2007)年から施行されたと遅ればせながら学び、
私は定年退職は平成16(2004)年の晩秋であり、
その後は念願の年金生活となったので、少しボケた私は気付かずに今日に至っていたのであった・・。
そして、今回『昭和の日』に際して、私の『昭和』の時代は少なからず45年近く生活をしてきたので、
私なりの昭和天皇への思い、そして懐かしき『昭和』のことを綴ってみようかしら、と思ったりした・・。
私は『昭和の時代』を45年近く空気を共にしてきたので、
つたない身ながら、それなりの深い想いがある・・。
こうしたことの思いひとつとしては、
【 私は長渕剛 (ながぶち・つよし)氏の『昭和』を聴きながら、昭和天皇に愛惜を重ね・・。】
と題して、昨年の2010年の1月7日に於いて、このサイトで3回に及び投稿をしたが、
今回は編集を兼ねて、大幅に補筆したものを掲載する。
【・・
今朝、何気なしにカレンターを見たら、『七草』と明記されていて、思わず微苦笑したりした。
私は、昭和天皇が崩御された朝の方が、遥かにインパクトがあるので、
主庭のテラスに下り立ち、まばゆい朝の陽射しに向い、思わず両手を合わし、しばらく黙祷をしたのであった。
私は昭和19年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
天皇家には何かと敬(うやま)う空気の中で家庭で育ち、
昭和天皇に関しては、私の40代かばまで自己形成、歴史観などで、多大な影響を受けていた。
1988(昭和63)年の晩秋、私はこの頃、あるレコード会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。
昭和天皇が病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれていた・・。
そして、私の勤めていた会社でも、音楽の世界では世界的な有名な『ボン・ジョヴィ』と命名したロック・グループが、
日本のある大手家電メーカーが強力なスポンサーとなり、
年末に日本で公演されることになり、テンカウントダウンを華はなしく実施する予定が、なぜか中止となり、
せっかくのチャンスだったのに、と私なりに落胆をしたりしていた・・。
そして1989(昭和64)年の1月7日の朝、
私は昭和天皇が崩御された、とNHKのテレビのニュースで視聴し、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。
この後、私はいつものように会社に出勤した後、
朝礼の時、専務取締役のひと言で、私達部の一同は皇居の方面に向かい、黙祷をしたのである。
その後の私は、4月から『消費税』の対応策で多忙な身である上、
更に『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したので、慌しい日々を過ごしていた。
こうしたこともあるが私の心情は、平成元年といわれるより、
昭和64年といった方が心身の波長が合うので、何かしら戸惑ったのは事実である。
まもなく、他社の東芝EMIからシンガー・ソングライターの長渕剛が、
アルバム『昭和』というタイトルで3月25日に発売されて、
私自身レコード会社に勤め、音楽に直接たずさわる制作畑でない私であっても、
この時期に『昭和』を掲げた長渕剛の感性に注視させられたのである。
そして、まもなく長渕剛が『昭和』と題したツアーを行い、
横浜アリーナで1989年7月13日、14日の両日で行われた公演から
収録されたライブ盤の『長渕剛 LIVE’89』の2枚組CDを買い求め、
特に『昭和』の歌に感銘を受け、少なくとも百回以上は聴いたりしているひとりである。
このライブ盤に収録された一番最後の曲として、『昭和』(作詞・作曲:長渕剛)があり、
私はこよなく愛聴しているのである。
私は無念ながら私の所有しているCDから、このサイトに添付する技量はないので、
やむえず【YouTube】のお力をお借りした中で選定した『昭和』の名曲を掲載させて頂く。
http
://www.youtube.com/watch?v=82PhpraMei4&feature=PlayList&p=95B31D81E1936AF6&playnext=1&playnext_from=PL&index=30
☆【『昭和』 作詞・作曲・唄 長渕剛 】☆
私は東京郊外の農家の児として、1944(昭和19)年の9月に生を受け、
昭和天皇に関しては、多くの日本人と同じように複雑な思いで、
何かと敗戦後から今日まで、注視してきたひとりである・・。
私もこのサイトに於いて、昭和天皇に関しは数多く投稿してきたが、
今回はこの中のひとつを再掲載をする。
【 私なりの『マッカーサー元帥』の想いは・・。 ② 】
と題し、昨年の2009年10月19日に於いて投稿しているが、敗戦の一年近くの頃の昭和天皇に関して、ふれている。
【・・
小学校の高学年になると、1葉の写真を見た時は、その夜は子供ながら、浅い眠りとなった。
この写真は、天皇陛下の横で悠然とたたずむマッカーサー元帥の姿であった。
そして私の生を受けた9月27日の1年後であったので、なおさら印象深く、私の心に残った。
読売新聞の『編集手帳』に綴られていたこともあるので、無断であるが引用させて頂く。
《・・
昭和天皇が東京・赤坂の米国大使館にマッカーサー元帥を訪問したのは、
1945年(昭和20年)9月27日であった。
2日後に新聞各紙に写真が残った。
モーニング姿で直立する陛下の隣で、開襟シャツの元帥が腰に両の手を当てて悠然とたたずむ。
勝者と敗者の違いを伝えて、余すところがない。
・・》
私は小学生の頃から昭和50年の頃までは、アメリカに対して複雑な思いでいた。
そして、敗戦の間際にソ連が北海道占領プランがあった、とおぼろげながら何かの本で読んだりしていた。
昭和50年のなかば、一冊の本に出会った。
『ドキュメント昭和史』(平凡社・発行)の全8巻を購入し、読み耽っていた。
この中で、第6巻目に《占領時代》を読み、この敗戦直後の状況を教示してくれた。
《・・
日本分割占領案が歴然と存在していた。
各国の国益をかけた外交が行なわれ、最終的にはアメリカのトルーマン大統領の国益の基に、
アメリカ人の連合国司令官の下で統治された。
・・》
この書物のお陰で、アメリカを静観した形で、アメリカを見ることが出来た。
あの敗戦の1年後に近い9月27日は、
陛下と元帥の写真を蘇るたびに、勝者から観た歴史の背景を知り、より一層鮮明な日の想いとなった。
このことと同時に敗戦後の日本の状況が鮮明に、私なりに理解できたのである。
日本の敗戦の1945(昭和20年)年8月15日は、もとより『敗戦記念日』であるが、
国土の大半は戦禍にまみれ、食料、衣料、住宅が国民の大半は困窮していた。
日本は国連軍の名の基にアメリカ軍隊の下で、占領された。
そして、占領軍は連合国最高司令官総司令部(GHQ)の指令に基づいて、
現行公布されている日本国憲法をはじめ、
農地改革、財閥の解体、要人の追放、言論の弾圧などが実施された。
そして、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の最高責任者はマッカーサー元帥である。
このような占領軍の最高責任者ともなれば、
アメリカ大統領の意向、そしてアメリカ議会の状況、アメリカ国民の世論さえ配慮すれば、
敗戦国の日本などは自在に裁量できる帝王のような存在である。
こうした日本の中の動乱期の折、
米ソの冷戦、中華人民共和国の建国、そして朝鮮戦争の勃発、と各国の怜悧な国益に基づき、歴史は動いた。
このした中で、『対日講和条約』により占領下から独立でき、
朝鮮戦争の特需も含め日本の経済躍動のはじまりが、『対日講和条約』と私は思っている。
『対日講和条約』に関しては、知識人の藤野邦夫氏の言葉を借りれば、
《・・
第二次大戦の末期、日本が降伏勧告の宣言である『ポツダム宣言』を受け入れたのは、
1945(昭和20年)年8月14日。
これによって戦争は終結したが、この宣言には、幾つかの条件と共に、
日本が民主的で平和な政府が出来れば、直(ただ)ちに占領軍は引き上げるという条項が明記された。
しかしそのあと、アメリカと旧・ソヴィエト連邦の対立が激しくなり、
またアメリカ国内にも、軍事的な目的から占領状態の継続を望む国防省のような勢力があって、
対日講和は進展しなかった。
ところが、1950(昭和25)年6月に『朝鮮戦争』が勃発。
アメリカは日本を西側の陣営の一員として再建する為、講和条約を早く結ぶ方針の転換した。
こうして1951(昭和26)年9月8日、
サンフランシスコで、連合国と日本の間の戦争状態の終結を意味する『講和条約』に署名が行われ、
翌年の1952(昭和27)年4月28日に発効した。
この時の当事国は、45ヶ国。
幾つかの国とは、個別に講和条約が結ばれた。
これは結局、西側諸国を中心とした講和条約であり、
また連合国との協定によってアメリカ軍が駐留を続けたので、その後の日本の国際的位置が決定づけられた。
・・》
このような日本が激動する中、朝鮮半島は冷戦の大国の怜悧な国益に基づき、
過酷で悲惨な朝鮮戦争が行われていた。
私は高校生の時から時事好きで、教科書、雑誌、歴史書などで学び、
同じ民族の北朝鮮と韓国がお互いの半島地域を戦場を大国のもくろみで、
ローラーように南進したり、北進したりする戦争状況を過酷過ぎると思ったりしていたのである。
もとより韓国の強い背景となったのは、国連軍と称したアメリカ軍であり、
最高司令官に任命されたのはマッカーサーである。
そして中華人民共和国の大軍が半島になだれ込み、
結果として劣勢になったマッカーサーは中華人民共和国の本土に原子爆弾を落とす決意をするのであるが、
時のアメリカ大統領からマッカーサーは解任される。
こうしたことは高校生で学んだのであるが、
私は何よりも太平洋戦争のフィリンピンの統治下で日本軍の襲来で撤退、
そして日本の敗戦後の占領軍として、その後の朝鮮戦争の原子爆弾を落とす決意など含め、
マッカーサー自身の軌跡、思い、周辺の状況を知りたくて、数多くの本を読んだりして、今日に至っている。
・・】
そして、かの大戦で敗戦となり、これらの私なりの心情を、
【 64回目の『敗戦記念日』に際して・・。 】と題して、投稿している。
【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは早朝の5時過ぎであった。
私は昭和19年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
敗戦となった8月15日からは、ほぼ一年前になるが、
少なくとも沖縄戦が事実上集結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そしてこの8月15日は、
たった一枚の赤紙と称せられた召集令状で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方達、
そして戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
そして、私はここ3年に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌を重ねたりしている。
国のため いのちささげし
人々の ことを思えば 胸せまりくる
昭和天皇
戦なき 世を歩みきて
思ひ出づ かの難き日を 生きし人々
平成天皇
私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代の歳月に思いを馳せ、鎮魂曲のような感じている。
この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、詠まれた伝えられている。
平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、と報じられていた。
そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005(平成17)年の9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と何かの新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを馳せたりしているのである。
私は毎年、『全国戦没者追悼式』が執り行われている中、
私はテレビを見ていて『黙祷・・!』の声を聴くと、
思わず襟を正し、黙祷をした後、しばらくするとこのふたつの歌を思い重ねている。
尚、私は8月15日は、『終戦記念日』と、どなたが名付けたかは無知であるが、
国際間の怜悧な視線からは、まぎれなく敗戦であり、
都合よく『終戦』と命名された方たちは、国際各国から観た場合は、国家としての信義にかかわることなのである。
そして、命名された方たちは、余りにも恥知らずと思ったりしながら、
私は無念ながら『敗戦記念日』と思っているひとりである。
・・】
このように私なりの昭和天皇に関しての思いなどが多々あるが、
このサイトに投稿しているので、これ以上は省略する。
ときおり私は、『昭和』の時代を45年近く社会の空気を共にし、
『平成』の時代も22年近く生活をしてきて、
平成の時代になってから、私たち日本の国民の多くは何を手にいれたのかしら、と考えたりすることがある。
もとより平成の時代は、昭和天皇がご逝去されたのが1989(昭和64)年1月7日により、
平成元年は1月8日から始まり、本年は平成22年5月となり、若者の成人された一部のお方は『平成』生まれで、
『昭和』の時代が無知なのに、私は驚いたりする。
私は平成の時代の始まりを思う時、
何故かしら1989年11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』の出来事と重ねてしまうのである。
世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変したからである。
このような思いもさることながら、平成の時代になって、
私達の生活に於いて急速に変貌したのは、アナログからデジタルに変貌したこと。
そして水をペットボトルなどで購入したこと、思い浮かべたのである・・。
音楽の録音品のレコード、カセットはCDに普及して平成を迎え、
録画のビデオ・テープは平成になってDVDに変貌し、昨今はブルー・ディスクを迎えいる。
こうしたことは実感度は薄いが、パソコンが普及し、インターネットの急激な浸透である。
1995(平成7年)の秋に『Windows 95』が発売され、それまでのパソコン愛好者、専門職を領域から、
大衆化したことである。
そして、これに連動して、インターネットが急激に普及した。
もうひとつの変貌は、携帯電話であり、カメラ機能もある上で、
今や財布代わりの機能となり大きく変貌をしてきている。
映画のオリバー・ストーン監督の『ウォール街』は1987(昭和62)年にアメリカで公開された作品であるが、
冷酷で貪欲な投資銀行家が浜辺で大きな携帯電話を持ち、会話しているシーンがある。
確か、この頃はラジカセのように大きな形の携帯電話であり、
この当時としては破格な高価な品であった。
平成になると、形も性能も向上、価格も廉くなり、昨今は日本で一億台突破となり、
殆どの日本人が愛用している。
私は20世紀の時代は、テレビと原子爆弾の世紀だった、といわれたりしているが、
こうしたことを流用すれば、
平成の時代は、ネットと携帯電話、と断言したくなる。
もうひとつの日常生活に於いて、水を買い求める時代である。
『缶』から『ペットボトル』に変貌しているが、私は日常の外出先とか旅先で、
自動販売機で煎茶のペットボトルを買い求めることが多いのである。
これも平成の時代の始まりの頃からと記憶している。
私は煙草の愛煙家のひとりであるが、日本に嫌煙ブームが始まったのも平成になってからである。
喫茶店でテーブルの上には、灰皿と喫茶店独自のマッチが置いてあったりした。
飛行機の機内でも水平飛行になれば、スーモキング・ランプが点(つ)き喫煙可となり、
そしてJRの車内の座席の脇に灰皿が設置されたりして、ときおり煙草を喫う方が見られたりした。
私が酷いギックリ腰で入院生活を1991(平成3)年の頃は、
整形外科のフロアーの片隅に喫煙コーナーがあり、煙草を吸わない人でも憩いの場として、団欒していたのである。
昨今の社会状況は、諸兄姉はご存知であるから、省略する。
こうしたことを思いつくまま昭和の時代が終わり、
平成の時代になってから大きく変貌したことを綴ってきたが、
私は何より社会が劣化し、言葉、しぐさが雑になった、と憂いている。
はじらい、うつむく、待ちわびる・・死語に近く、そして黒髪などが少なくなり、
どうしてなの、と私はため息をすることが多いのである。
何よりも戸惑うのが、ジーンズの膝付近に、あえて穴を開けたり、
わざわざ磨耗したような生地にしたりすることである。
私は10代から30代の頃まではジーズンを愛用したひとりであるが、新品を購入し、
数年過ぎればそれなりの磨耗した状態となる。
ジーズンは普段着のズボンであり、気軽な労働服のような思いながら穿(は)きつぶしてきたが、
決してファーション着ではないのである。
こうしたことを余り綴ると若き諸兄諸姉に嫌われるので、これ以上は記載しないが、
平成の時代に育ち、現在は10代、成人となられた20代の世代の方たちに、
たとえば映画の小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年=昭和28年)を観た時、
どのように反応するのかしら、と齢を重ねた66歳の私は限りなく関心がある・・。
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