夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

たかが石川啄木、されど石川啄木、ときには齢ばかり重ねた私でも、思い馳せれば・・。

2011-07-31 14:55:24 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
たまたま昨夜より、歌人・石川啄木に関しての2冊の本を再読している。
一冊目は、三枝昂之(さえぐさ・たかゆき)・著の『啄木-ふるさとの空遠みかも』(本阿弥書店)の単行本、
あとの一冊は松田十刻(まつだ・じゅっこく)・著の『26年2か月 啄木の生涯』(もりおか文庫)の文庫本である。

この二冊の本は、昨年の夏の終りの頃の8月30日から9月4日まで5泊6日で、
家内と共に東北地方の太平洋に面した三陸海岸で、宮古市の海岸にある『浄土ヶ浜』、
そして盛岡市の郊外にある繋(つなぎ)温泉の奥地にある鶯宿(おうしゅく)温泉に訪れた時、
盛岡駅のターミナルビル内にある『さわや書店』で買い求めた本でもある。


私はこの旅行の時でも、その地を訪れる前には、岩手県の賢人を思い浮かべたりしていた・・。
無知な私は恥ずかしながら告白すれば、
宮沢賢治、石川啄木、そして金田一京助の各氏、
そして新渡戸稲造の一族、そして米内光政、原敬・・この各氏ぐらいしか浮かばないのである。

そして、旅立つ一週間前頃から、改めて関しては石川啄木氏のことを思索していた。

私は若き頃、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をした。
そして、中央公論の『日本の文学全集』(80巻)で、
石川啄木の作品を読んだことがあるが、氏に関してはこの程度の読者であった。

そして手元にある山本健吉・編の『日本名歌の旅』(文春文庫ビジュアル版、1985年)を見ていた時、
近代日本文学・専攻の岩城之徳(いわき・ゆきのり)氏の『歌人 その生と死 石川啄木』を読み、
深く考えさせられたのである。

《・・
明治31年、啄木13歳のとき、
彼は合格者128名中10番の好成績で岩手県・盛岡尋常中学校に入学した。
しかしその後上級学年に進むにつれて、文学と恋愛に熱中して学業を怠り、
明治35年の秋、あと半年で卒業という時期に中学校を退学し、
文学をもって身を立てるという美名のもとで上京した。
しかしこの上京は結局失敗に終り、翌年2月帰郷し病苦と敗残の身を故郷の禅房に養うのである。

啄木は美しい魂とすぐれた才能の持主であったが、
正規の学歴を身につけなかったことは、その生涯を決定する痛ましいできごとであった。
学歴のないために下積みの人間としての悲惨な運命から逃れることは
啄木の才能をもっても不可能だったからであった。
・・
明治41年の春、啄木は北海道の生活に終止符をうって上京、創作生活にはいった。
正規の学歴のない文才の持ち主が社会的に恵まれた地位を獲得する随一の方法は、
東京に出て小説を書いて流行作家になることであった。

北海道時代の彼が異常なほどの熱心さで東京での創作生活にあこがれ、
生活を捨て家族を残してまで上京したのも、
その随一のチャンスをみずからの手でつかもうとしたからにほかならない。
しかしその願いも努力もむなしく東京での創作生活は失敗に終った。
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。

このようなことを改めて深く感じたり、
或いは『日本の名歌150首を選ぶ 近代』に於いて、
5名の選者から石川啄木は下記の一首が選定されている。

呼吸(いき)すれば、
胸の中(うち)にて鳴る音あり。
  凩(こがらし)よりもさびしきその音!

                《悲しき玩具》

この5名の選者のひとりである詩人の村野四郎(むらの・しろう)氏が、
解説されている。

《玄人(くろうと)の歌人たちが、啄木の歌を素人(しろうと)筋の歌としてしりぞけることはやさしい。
しかし、あの大衆的魅力の芸術性について語ることは、
そんなにやさしいことではない。

彼は、けっして単純なセンチメンタリストではなかった。
実存意識を日常的な悲哀感によって比喩することの名手であった。

そういう作品は、彼の名歌においても枚挙にいとまない。
この歌にしても、彼の胸中の孤独と寂寥とは、
木枯しの風音によって、素早く諷喩(ふうゆ)されている。

誰でもよく考えれば、その音の寂しさを感じることができるはずなのに、
誰もそれに気付かないか、
それを表現する勇気を持てなかった。

しかし啄木はあえてそれをした。
ただそれだけの話である。
そしてそれが啄木の天分であり、啄木の魅力でもあった。
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。

私は村野四郎氏の解説文を数度読み返したりし、更に深く考えされた・・。


このような心情のあった私は、この旅先で、
盛岡駅で、山田線に乗り換える間、
駅構内の一角にある本屋で、啄木の本を探し求めて、購入できたのが、今回の二冊であった。

改めて再読しているが、啄木の人生、そして遺〈のこ〉された作品に、深く思いを馳せている。
そして生前には生活に困窮する中で、これだけの歌を遺され、
死後に多くの人たちから愛読され、やがて名声が高まる軌跡に、圧倒的な感銘させる確かな歌人のひとり、
と認識させられている。


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東京郊外の田舎者の私、何かと長年に於いて選定している和菓子は・・。

2011-07-30 21:17:17 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
地酒の辛口を愛する呑兵衛のひとりなので、
平素は原則として甘い物は苦手で、和菓子、洋菓子は余り食べない。

しかし旅行先などで、煎茶、抹茶などを頂きながら、
和菓子を食べさせてくれる処では、家内と共に頂いたりしている。

日常、私が親族、知人宅に訪問する時は、
お子様が高校生ぐらいの場合は、洋菓子を買い求めるが、
これ以上のお歳を召している場合は、和菓子を使っている。

家内は中学生の時から茶事を学んでいるので、
程々に和菓子に関しては詳しく、私は和菓子も無知な方であるが、
季節感がかもし出されていれば、私は独断と偏見で選定している。

旅先で和菓子の買い求める場合、
その地で長い歴史を育(はぐく)んだ老舗の和菓子店を使う。

私は差し上げたお方から、こうした場合は喜ばれている。

その地に生まれ、長年におよび人々から愛用されて、
もとより味そのものが長年培(つちか)われた和菓子となっているので、
まぎれない和菓子と私は確信している。

そして和菓子は、その地の風土、文化を代表するひとつと思っている。

このような思いで、ときたま家内と和菓子について話したりすると、
貴方は人前では和菓子について話されないように、
と和菓子の基本も由来も無知な私に、家内は幾たびか苦言されたりしている・・。


このように和菓子にも拙〈つたな〉い知識しかない私が、
ここ10数年、新年、春のお彼岸、お中元、夏のお盆、秋のお彼岸、お歳暮などの折、
実家、知人宅に選定している和菓子がある。

文明堂の三笠山であり、この詰め合わせを愛用している。
三笠山を中核に、ゆず、白桃、あんず、抹茶、栗などの風味の品が、
それぞれの季節に応じてあるので、私なりに調和して詰め合わせにして、進呈しているのが、
ここ10数年の習わしのようになっている。

もとより味覚も良く、色合いも良く、そして日持ちも良いのである。
その上、高齢者から幼年者まで、どなたでも賞味できるので、
今回もこの品にしたよ、と私は訪問日の前日に家内に云ったりしている。


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『東日本大震災復興宝くじ』、齢ばかり重ねた私でも、国民の責務と思いながら購入して・・。

2011-07-30 16:31:39 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
午前11時過ぎに駅前のスーパーに向かい買物に行き、
このスーパーの外面の一角に『宝くじ』売り場があり、この近くに喫煙場があり、
私はハンドタオルで顔、首すじを拭ったりしていた。

この後、煙草を喫ったりしていると、10メートル先ぐらいの『宝くじ』売り場の一面に、
『東日本大震災復興宝くじ』発売中と明記された張り紙が見えて、
やっと震災復興宝くじが販売されたか、と思いながら、私は購入した。


帰宅後、こっそりとネットで調べたりした。
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いては、
《・・
       震災復興宝くじ発売へ、143億円が被災地に
                               読売新聞 7月26日(火)19時43分配信

収益金を東日本大震災の被災地での復旧・復興事業の財源に充てる「東日本大震災復興宝くじ」が30日、
全国の宝くじ売り場で発売される。

1枚200円で、賞金は1等3000万円が30本、1等前後賞1000万円が60本――など。

発売総額は300億円で、完売すれば、当選金や経費を除く143億円が発売元の9県2政令市に配分され、復興事業に充てられる。
8月9日まで発売され、抽選は同11日に行われる。震災復興宝くじは、阪神大震災、新潟県中越地震に続き、今回で3例目。
〈略〉
・・》

このように明記されていた。


しかし、確か今回の『震災復興くじ』に関しては、3月23日に於いて、
《・・
片山総務相は22日、東日本巨大地震の被災県・政令市から震災復興宝くじ(復興くじ)の発売申請があれば、
「最優先で進めたい」と述べ、速やかに許可する考えを表明した。

発売されれば、阪神大震災、新潟県中越地震に続き3例目となる。
今回の震災は被害規模が大きいため発売規模も過去最大となる見通し。
全国自治宝くじ事務協議会は、25日に次回協議会を開き、対応を協議する。

阪神大震災では兵庫県と神戸市が計288億円を売り上げ、
当せん金や経費を除いた収益金計135億円を震災復興事業に充てた。
・・》

このような記事を私は読売新聞で読んでいたので、
政府は被災地の復旧・復興の具体的な計画、そして実施は、余りにも遅すぎる、
と無力な私でも、怒り疲れているのが、ここ数か月の私の心情であった。


高齢者2年生の私は、この間、ささやかながら義援金、そして自治会の回覧で義援金など、
恥ずかしながら年金の一部をしてきた程度で、
今回の『東日本大震災復興宝くじ』も国民の責務と思い、購入したひとりである。


こうした心の根底には、今回の3月11日の東日本巨大地震に際して、
一週間過ぎた頃、年金生活の我が家でも、ささやかながら義援金のことを家内と話したりした。

家内との共通趣味は国内旅行であり、たまたま5月に東北旅行を予定していたのであるが、
今回の巨大地震で、不謹慎と思い旅行の意欲は消えてしまったのである。
そして、わずかながら義援金の金額のことを話し合っていた。

その後、今回の『震災復興くじ』の提案を知り、これだったならば、
現役世代の働いて下さる諸兄諸姉のお宅と違い、
社会貢献に乏しい無力な年金生活のひとりなので、私は購入しょうと決意したのである。

平素の私は、一汁三菜をこよなく愛し、食事をしているが、
『震災復興くじ』の購入資金が不足したならば、
被災された地域のことを思い馳せれば、たとえ食費を削減しても、購入しょうと思ったりした。

1944(昭和19)年の生を受けた私は、
敗戦後の幼年期に困窮した生活を過ごしてきた時期もあるので、
定年退職後でも年に数回、大根(ダイコン)飯を涙を秘めながら、頂くこともある。

そして、特に社会貢献に乏しい多くの年金生活の方たちは、
かっての現役時代に所得税、地方税などで多々国や自治体に貢献してきたように、
余生の今、『震災復興くじ』が発売されたならば、大いに購入して頂き、
東北地方の被災地の復興に貢献して頂きたい、と思ったりしてきた。

このような思いを秘めてきたので、たまたま本日に発売を知り購入したのである。


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大暑(たいしょ)の過ぎた昨今、東京の郊外は梅雨の天気が続き、私は大いに戸惑いながら・・。

2011-07-29 22:04:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
今朝も小雨が降る朝を迎え、朝の6時は24度となり、
日中も気まぐれのように小雨が降ったり止んだりし昼下がりは29度、
夕暮れの6時は26度となり、雷鳴も響かせたりしていた。

昨日も朝の6時は24度で霧雨の朝となり、10時過ぎに止み、
どんよりとした曇り空の日中となり、午後の5時過ぎから小雨が降りだして、
夜の9時前後には、花火のような雷鳴を幾たびか響かせ、激しく降ったりした。


過ぎし23日の土曜日は、暦(こよみ)の上では『大暑(たいしょ)』と明示され、
一年中で最も暑さの厳しい時節と古人から伝えられているが、
快晴であったが、昼下がりは30度ぐらいの過ごしやすい日となり、
翌日の24日の日曜日も同様な天候となり、
暑さに苦手な私は、秘かに微笑んだりしていた。

その後、25日の月曜日からは、小雨の多い日となり、
梅雨の時節のような天気となって、私は戸惑ったりしている・・。


私の住む地域では、平年の『梅雨(つゆ)入り』は毎年6月中旬の頃であり、
そして『梅雨(つゆ)明け』は、学童たちが夏休みに入る7月21日の直前の終業式の頃である。

今年の『入梅入り』は確か5月27日で、平年より12日、昨年より17日早く、
雨の降るのは少なく、7月9日に私の住む地域も早くも『梅雨明け』となった後、
陽射しは燦々と30数度の暑さとなり、
今からこのような熱い日が続いたら、節電の折、夏本場の猛暑の時はどのようになるの、
と、私は青空を見上げながら、天上の気候の神々は、せっかちな性格に変貌したのか、と私は微苦笑したりした。

そして乾ききった連日の33度前後の暑さの中で、雨乞いをしたくなるように日々が続いた・・。

その後、19日の火曜日から台風6号の影響で、小雨が降ったり、ときおり風が吹く程度が、
数日続き、もとより台風で被災された方には不謹慎であるが、秘かに快適よ、と喜んでいた。


このように東京郊外は過ぎていたが、
今年は今頃になって梅雨のような日々となり、
私は大いに戸惑い、天上の気候の神々はどうしてご機嫌が悪いの、と思ったりしている。


ひとつ思いあたることは、飛躍した発想が許されるならば、
菅首相は原発問題を政局の梃子〈てこ〉のように使い、国政を弄〈もて〉あそび、
ご自身の延命の為か、幾たびか園児のような言動を繰り返し、
国難の最優先課題の東日本大震災、福島原発の被災された方たちを放置したように遅延させ、困窮させている。
そして政治の混迷は益々深めて、国民は希薄な空気につつまれて、日本は劣化を深化させている・・。

私は、新聞、テレビのニュースを見るたびに、
このお方は政権与党の総理なのか、と無力な国民の私さえ、呆れ果て軽蔑し、
菅首相は非国民、と深く感じている・・。

やむなく私は、ときおり首相官邸のある方面の空を見上げたりしている・・。

このような憂いながら、私はこの数か月は天候の異変と共に過ごしている。


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西垣千春・著の『老後の生活破綻 ~身近に潜むリスクと解決策~』、年金生活の私は読みはじめて・・。

2011-07-28 22:03:53 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
午前中のひとときに、駅前のスーパーに向かい買物に行き、
その後はいつものように本屋に立ち寄った。

そして新刊本、新書本、文庫本のコーナーを見て、結果としては3冊ばかり買い求めた。

新書本を見ていた時、過日の読売新聞の出版広告で、
たまたま中央公論新社の新書本の案内のひとつで、
西垣千春・著作の『老後の生活破綻 ~身近に潜むリスクと解決策~』を知り、
いずれは読んでおきたいと感じたりしたことを思い出して、本書を手に取ったのである。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2011/07/102121.html
☆【中央公論新社】ホームページ <== 西垣千春・著作の『老後の生活破綻 ~身近に潜むリスクと解決策~』〈中公新書〉☆

そして目次をパラパラと目を通して、購入した。


私は家内と結婚して35余年は過ぎているが、子供に恵まれず、たった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私の父は、私が小学2年の昭和28(1953)年に病死され、
母は、私の50代のなかば、平成10(1998)年に入退院を繰り返していた母に死去された。
家内の父は、私が定年退職の平成16(2004)年の秋に、やはり入退院を繰り返し病死し、
残された家内は母は、一軒屋に独り住まいとなっている。

この間、私たち夫婦は、私の定年の5年前に、私たちの老後の生活のことを話し合ったりした。
どのような生活をしたいのか、もとより主体であり、
80歳の頃までを想定して、資金面のことも含めて、具体的に予測できることを配慮して、
年次別に収支概要を立案したりした。


定年後の私は、念願の年金生活を始めて、
日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このような生活をしているが、私は60代に五体満足で生かしてくれれば、
70歳以降は余生と思っている・・。
そして痴呆症などあわず、心が明確な時にポックリと死去できれば良い、
と秘かに念願しているが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。

或いは、私は煙草を喫う愛煙者で、運動も散策、ときたまウォーキング程度であるので、
家内より先にあの世に行っていると確信しているので、
私の葬儀、お墓、そして家内の独りの老後で程ほどに生活できそうな状況のことも、
話し合ったりしている。

しかし、このことも天命に寄り、家内に先立たれることもあり、
私が独りぽっちとなることも、一年に数回ぐらいは、おひとりさまの生活を思いめぐらすこともある。


こうした思い秘めているが、世の中は想定できないことが多々あるので、
もとより私が知らないことも数多くあり、
本書より、老後生活の実例の数々の問題、そして解決のような策を学びたく、
私は読みはじめている・・。


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その昔、ひとりの無名な詩人の死後、やがて宮沢賢治として蘇〈よみが〉えり・・。   

2011-07-27 23:42:44 | 真摯に『文学』を思考する時
私は机の中の引き出しに、一冊のノートがあり、
8月27日 詩人・童話作家の宮沢賢治の生誕の日、と綴られている。
そして、この下段には、
 ==>嵐山光三郎・著の『追悼の達人』(新潮文庫) 最重要
と記している。


私は宮沢賢治が遺(のこ)された作品の多くは、
45年前頃、文学青年の真似事をしていた時代、人並みに読んだりしていたが、
それ程、感銘を受けない人であったが、何かしら気になる人であった。


2004〈平成16〉の秋に定年退職の数年前、
雪の降る時節に、花巻温泉に2泊3日であったが滞在して、
その時に、宮沢賢治記念会館に行ったり、付近を散策し、
遺(のこ)された偉業は実感できたが、何かしに不可解な面が残ったりしていた・・。


その後、2005〈平成17〉年の秋に、
遅ればせながら嵐山光三郎〈あらしやま・こうさぶろう〉・著の『追悼の達人』(新潮文庫)を読み、
私は嵐山光三郎氏に導かれ、私なりに宮沢賢治氏の人生の軌跡を学んだのである。

そして、【 無名な宮沢賢治が亡くなった後・・♪  】
と題して、あるブログ・サイトに、投稿したりしている。

特にこの中で教えを受けたのは、
宮沢賢治は追悼によって世に出た、と読んだ時は驚いたりした。

著作者の嵐山光三郎氏の格調たかい名文を無断であるが、引用させて頂く。

《・・
昭和8年、花巻で無名の詩人が急性肺炎で死んだ。

〈略〉

(宮沢)賢治の死は、詩人仲間の草野心平の手で友人たちに知らされたのみであった。

〈略〉

没後、唯一、次郎社より「宮沢賢治追悼」雑誌が出た。
草野心平が逸見猶吉と企画した同人雑誌「次郎」が形を変えて出版された追悼集で・・・

この薄い一冊の追悼文集に寄り、宮沢賢治への評価の起爆剤となった・・・
・・》


生前の彼は、『春の修羅』、そして童話集『注文の多い料理店』を自費出版したが
まるで出廻らず、殆どの人はこの詩人の名を知っている人は少なかった、
と記載されている。
これは文学的な評価の側面であった。


そして、もうひとつ驚かされたのは、宮沢賢治の人そのものであった。

《・・
賢治は花巻の富豪宮沢商会の息子である。

〈略〉

東京を嫌いつつ東京にあこがれて9回も上京している。
農民を大切にしつつも「農民から芸術は生まれない」と言っている。

〈略〉

理想主義者の裏に「お坊ちゃん」のわががまがある。
それらは賢治文学を理解するうえの条件であり、
賢治もまた矛盾だらけの人間である。
その「教育癖」ゆえに賢治を嫌う人もいる。

〈略〉

賢治にとって、生身の自分がさらされないことは幸運であった。

〈略〉

詩人にとって死は有効であり、虚構に生きようとした賢治は、追悼によって生き返った。
詩人は裏技の魔法を使い、死者をよみがえらせてみせる。
・・》
注〉原文にあえて改行を多くした。

そして、著作者の嵐山光三郎氏は、
いまの日本詩壇に、無名詩人を発掘する第二の草野心平がいるだろうか・・
と結びの文として綴っている。


私は著作者の嵐山光三郎氏の書物については、数多く発刊されているが、
殆ど読んできている愛読者のひとりである。
その上、現存されている作家の中で、圧倒的に感銘を受け、
信頼を寄せている作家の方でもある。


私は俳句を詠(よ)んだり、詩を綴ったりする素養はないので、
やむなく散文で綴っている。

散文の世界といっても、確固たる根拠もなく、
独断と偏見が多い中、屈折した日々の半生を歩んできたが、
拙(つたな)いなりに、表現者のひとりとして、ブログ等に投稿しているに過ぎない。


ときおり、私は宮沢賢治氏を思い浮かべたりする時、
私は定年後の3年過ぎた頃、ブログに準じたサイト【Cafe.OCN】に加入して、
偶然に、ある人の詩を思い馳(は)せる時もある。

私はこの人の詩を2年ばかり読み、感じながら、
励まされたり、表現者のひとりとして喚起されたりしたことがあった。

その人も孤独であると感じ、魂まで響きせながら自己格闘をされる中で、
ときおり、たぐい稀(ま)れ詩を表現する時もある。

http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/pikkipikki

私は無名で無力な年金生活の身であり、
拙(つたな)い感性と感覚の持ち主であるが、
少なくとも、この方からは、私は宮沢賢治氏の遺された作品以上に感銘を受ける時もあった。

尚、私は2年前に【Cafe.OCN】から去って、【gooブログ】に集中させているので、
昨今のこの方の詩は、拝読する機会をなくしているのが本音である。


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ラムネ、そしてサイダー、私の小学生の時に初めて飲んだ時、懐かしき夏の想いは・・。

2011-07-27 14:33:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
いつものように午前中のひとときに最寄りのスーパーに買物に行った。

店内は婦人が子供連れの方も多く、私は園児、小学生の児も夏休みになった、
と実感させられていた。

飲み物コーナーは、煎茶、コーラー、サイダーなど夏の飲み物が多彩にあり、
小学1年生ぐらいの男の子が母親に、
『あのサイダーを買ってょ・・』
と大きな1リットルぐらいのベットボトルに入ったサイダーを指していた。

『XXちゃん、ママは買い物した品が多くなったから・・明日にしましょうねぇ』
と若き母親は男の子に諭〈さと〉していた。

『でも・・ママ・・僕が持って帰るから・・お願い・・』
と男の子は若き母親に懇願していた。


私はスーパーで買い物を終えて、大通りの脇のゆったりとした歩道を歩き、帰路に向かっていた時、
水色のワンピース姿の方が両手にスーパーの袋を両手に提げ、
その後に男の子が重そうにスーパーの袋を持って歩いていて、
先程スーパーの店内で見かけた人たちだった、と私は気づき思わず微笑んだりした。


私は帰宅し、洗面所で顔を洗った後、居間のエアコンの冷風の下で、着替えて、
冷やした煎茶を飲んだりした。

そして私は家内に、先ほど見かけた若き母親と男の子の情景を話したりした。
その後、私は小学生の夏に、ラムネ、サイダーを初めて飲んだ頃の話を、
家内に微笑みながら私は話しかけたりした・・。


1951(昭和26)年の春、小学校に入学して、初めての夏、
父の妹の二十歳過ぎの叔母に連れられて、付近の雑貨屋に行った。

この当時は駅前の華やいで商店街は15分ばかりの少し遠かったので、
砂利道の村道を5分ぐらい歩いた所に、酒、塩、砂糖、菓子などを販売している雑貨屋が一軒ばかりあり、
私たちの住む地域では、便利な店でもあった。

叔母が、ラムネひとつ、と店の主人に言った。
店の主人が、栓を開け、ポーンと音がし、瓶の中から泡立ちながら溢〈あふ〉れてきたのを、
私に手渡された・・。

私は不思議な形の瓶もさることながら、
刺激のある飲み物であったが、喉越しに甘さが残る飲みと感じたりし、
3分過ぎて、お腹の満腹感を感じた頃、飲み終えた。

そして、瓶の中にビー玉のような玉に気付き、
瓶を少し振ると、不思議な音がした。

叔母は私を少しみつめながら、微笑(ほほえ)んでいた。
そして、叔母は購入したアイス・キャンディをかじっていた。

その後、夏休みになると、独りでこの雑貨屋に行き、
おじさん、ラムネ頂戴、と言って飲んだりした。

そして飲んだ後、いつもビー玉のような玉はどのように入れているのか、
不思議な思いでいた。

私はこの頃、家にあったB29(アメリカの爆撃機)の鉄製のおもちゃがあり、
どうして空に飛べるの、と同様に、
ラムネの中にある玉、どうして入れて作れるの、
と母や叔母を困らせた。

小学5年の夏休みになると、私はサイダーに変った。
三ツ矢サイダー、と明示されたサイダーをやっと飲み終えると、満腹となり、
これ以上の幸せはない、と子供心に充たされていた。


このような他愛のない話を、私は五つばかり齢下の家内と話したりしている。


20数年前、家内と旅先で、ラムネを見つけた時、
私達は飲んだ後、こんな味だったかしら、とお互いに笑ったりした。
そして、瓶を振ると、かすかな音がし、
もう一度、手を振り、音色を楽しんだ。

昨今、スーパーで偶然にラムネを見かけたりすると、
お洒落(しゃれ)な瓶だったかしら、
私の幼年期のラムネの瓶は、蒼く素朴な色合いをしていた、
と思ったりしたが、少なくとも60年近くの歳月が過ぎ去っているので、
少しボケたのかしら、と微苦笑したりしている。


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【掌(たなごころ)小説】 世にも稀な飛行機の機内で、私はある人と出会いながら・・。

2011-07-26 18:40:55 | 掌(たなごころ)小説
私は旅行の帰路、苦手な航空便に乗り、疲れを感じていたのか、
座席のシートに身を任せると、直ぐに眠りこんだ・・。

目覚めると、前方に『お食事のご希望の方は、前の方でご用意しております』
と案内表示板が見えたのである。

私はうつろな思いで、前に進むと連結列車のような処を抜けると、
誰も乗っていないお座敷客車のような室を通り過ぎたのである。

そのまま前方に進むと、昭和30年代に街で観られた大衆食堂のような情景であり、
デコラ調のテーブルが幾つか並んで折、電子レンジが各テーブルに置いてあった。

そして、入り口の周囲には、魚の干し物があり、
カマス、鯵(あじ)などの干し物が並んでいた。

私は二枚の鯵を買い求め、ひとつのテーブルに座ろうとした時、
奥まった席でご高齢の男性がいて、私を手招きをしたのである。


私はそのお方に近づくと、テーブルの中央に七輪があり、
赤くなった炭火、網の上にカマスが載(の)せられていた・・。

『よかったら・・座らない・・』
とそのお方は私に微笑みながら、云った。

『先生の・・随筆・・いつも拝読致しまして・・』
と私はそのお方に云った。

『鯵・・載せなさいよ・・』
と私は促された。

私は鯵を一枚載せたのであるが、
そのお方は、隅に富山産の地酒の一升瓶、
目の前に茶碗に入った酒、そして灰皿が置いてあった・・。

そのお方は、私に隅にあった茶碗を私の前に置き、
一升瓶から酒を注(つ)いだのである。

その後、ピースの缶から両切りのショート・ピースを口に咥え、
洒落たライターで火を点けて、美味しそうに喫ったりしている。


私は茶碗酒を呑みながら、煙草のチェリーを取り出して、
煙草を喫ったりした。

『先生・・飛行機でこのようなこと・・
出来るなんて・・
夢のようですね・・』
と私は嬉しげにそのお方に云った。

鯵から煙が出て、窓際に大きな換気扇が幾重にも並んで折、
私はこんなことって飛行機でありえるの、
と思ったりしたのである。

『鯵・・焼き過ぎよ・・』
と私はそのお方から忠告されたりした。

『そうですよねぇ・・』
と私は云いながら、網の上に焼いていた鯵を皿に移し、
醤油を少し垂らして、食べようとしたら、
目の前に居たお方が忽然と消えたのである・・。

私は不思議な思持ちで、周囲を見まわしたりした・・。



私は昼寝から目覚めた・・。
いくらなんでも、飛行機の中で、七輪の炭火で鯵を焼くなんて、
有り得るはずがない、と思ったりした。

そして、そのお方も確か5年前の春に他界されているので、
どうしてなの、とぼんやりと私は思い返したりしたのである。

しばらくして、私は最近は鯵の干物を食べていなかったし、
何よりこのお方の遺(のこ)された随筆の数々を再読していなかったことに、
気付かされたのである。

そのお方は久世光彦〈くぜ・てるひこ〉と称せられた方で、
テレビの演出、作詞家、そして小説家と多芸な方で、
私はこの人の随筆を敬愛しながら、愛読したひとりであった。


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なでしこジャパンに国民栄誉賞の授与検討、民主党政権に於いて、初めて国民の心情を理解し・・。

2011-07-25 21:20:15 | 定年後の思い
私はいつものように読売新聞の夕刊を読んでいたら、一面の中央の上段に、

《 なでしこ 国民栄誉賞
             官房長官 表明 》

と見出しされた記事を読み、
枝野官房長官は本日の25日、『なでしこジャパン』に国民栄誉賞の授与する意向を表明した、
と私は知った。

私は民主党政権が一昨年の初秋に発足以来、初めて国民の心情の期待に応えた決断、
と思いながら、微苦笑させられ、何よりも良かった、と安堵したりした。


私は平素からサッカーにも関心がなく、
初めて『なでしこジャパン』の存在を知ったのは、
何かしら「FIFA女子ワールドカップ ドイツ 2011」がドイツで行われ、
大会3連覇を狙う開催国ドイツに、延長戦の末1-0で勝利した、
とNHKのテレビ・ニュースで知ってからである。

そして準決勝は背の高い選手が揃っているスウェーデンと対戦することになり、
できたら日本は奮戦して勝って欲しいけれど、無理だろうと、
と私は思っていた。
しかし、NHKのテレビ・ニュースで、
何か得意のパスサッカーで3-1で快勝して、決勝進出を果たす、
と知り、驚いたりした。

その後、決勝は世界ランキング1位のアメリカで、日本はこれまで1度も勝利できなかったことを知り、
これまで『なでしこジャパン』は、良く奮戦してくれた、
とサッカーに無知な私でも、秘かに感謝をした。

そして『なでしこジャパン』は、終始アメリカの猛攻にさらされながらも、
延長戦に持ち込み、先行された延長も残り4分、澤選手の同点弾で2-2となり、
PK戦の末、無敵のアメリカに対し初勝利の偉業を達成した、
とNHKのテレビ・ニュースのダイジェトで私は知った・・。

何かしら日本のサッカーの世界で、男子チームを含めて、
日本代表としては初のFIFA主催の世界大会優勝という快挙を成し遂げた、
とニュースは伝えていた。

私はサッカーに無知であったが、こうした熱戦の末、『なでしこジャパン』の各選手の奮闘に、
圧倒的な感銘を受けた・・。


このように今回の女子のサッカーの世界大会を感じたりし、
そして一昨年の初秋に民主党の政権発足して、益々政治は混迷を深める中、
今年の3月11日に発生した東日本大震災、そして福島原発・・
息苦しい閉塞感を私は感じながら過ぎしてきたが、
今回の『なでしこジャパン』の偉業に、圧倒的に感動を頂き、
何よりも日本の数多くの人々に、日本の復興への道に希望をもたらした、
と私は感じたりした。


過日、『なでしこジャパン』のメンバーが帰国し、
菅首相が首相官邸に招待された時、この時に何らかの形で多大な貢献をもたらしたメンバー全員に、
国家議員から感謝の賛同金を徴収した上で、
それぞれの方に特別勲章、そして1000万円ぐらいの賞与を与えて欲しい、
と私は願っていたが、やはり菅総理の感性では無理であった、と私は苦笑した。

今回、遅ればせながら、国民栄誉賞を政府が授与検討したのは、当然なことながら、
大いに賛意である。


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下駄は私の日常の友のひとりとなり、早や30数年が過ぎて・・。

2011-07-25 12:54:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
自宅に居(い)る時は、殆ど下駄(げた)を履(は)いている。

主庭のテラスに下り立つ時、或いは玄関庭の軒下、門扉の近くにある郵便受け入箱、
ときには駅前までの遊歩道を散策する時も履いたりしている。


私が現役時代の30代のなかば頃、
数多くのサラリーマンと同様な多忙な期間が続いた折、
休日の時、気分転換として、下駄を買い求めたのであった。

平素はビジネス・シューズで長い勤務時間を過ごし、
自宅では健康サンダルを履いていたが、
何かしら下駄は鼻緒と足裏の感触が心身の波長に心地よく、この時以来愛用している。


晩秋の時節から梅の満開になる頃までは、黒の足袋(たび)を穿(は)いて、
この季節以外は、素足で下駄を履いている。

早春のひととき、
私は主庭のテラスに下り立ち、春のような陽気につつまれた中、
白梅、しだれ紅梅、そして日本水仙を眺めながら、煙草を喫ったりしている。
そして居間に戻り、黒足袋を脱いで、素足となった。

ときおり、微風が吹いたりすると、
風の匂いは甘く、そして素足を通り過ぎるが、これなりに心地よいのである。


晩秋になり、数多くの雑木の葉が朱紅色、黄色に染められ錦繍〈きんしゅう〉の頃、
いつものように素足で下駄を履きながら庭に下り立つと、ときおり冷たい風が足元を通り過ぎると、
黒足袋が恋しくなり、何かと家の中でも履いたりしている。
そして冬の季節は、セーターとズボンと足袋で家の中にいたり、
近所の買い物は、下駄を履いて、半纏を羽織っている。


私の履いている下駄は、会津の高級な数万円する特選の桐下駄でなく、
5000円前後の下駄であり、三品を適度に履き分けていたのが、年金生活の初めの頃であった。

その後、家内と国内旅行に行った時、たまたま寺院の近くのお土産屋で、
民芸風の下駄を見かけたのである。
通常の下駄よりも幅が狭いが、鼻緒が民芸風の布地であり、底は木製のサンダルの形状に近くゴムが付いて、
これだったら滑ることなく、全般としてお洒落であり、瞬時に魅せられたのである。
そして、こっそりと値段を見たら、2000円前後で、
年金生活のわが身にぴったりだ、と心の中で恥ずかしながら歓喜していたのである。

この後、旅先でこうした民芸風の下駄を見かけると、幾たびか購入して、
私の日常の友のひとりとなって、愛用している。


そして、私が愛している民芸風の下駄は、スーパーなど買い物をしている時、
ご婦人方は、この夏の時節は、おしゃれなサンダル、或いは素敵な夏靴を履いているのが多く、
通常の下駄を履いている時、すれ違ったりする時に触れたら大変と気づかってきたが、
幅も狭く、ゴムの滑り止めが付いているので安心である。

或いは、一昨年の夏、マンションにお住いの悪友宅を訪ねた時、
共同の通路を歩いたが、歩く音も静かで、
どの方でも愛用できる下駄かしら、と微笑んだことがあった。

ある日、若き女性が浴衣姿を召して、恋しい彼の手を握りしめ、
このような民芸風の下駄を履いて、共に歩くのも素敵であり、風情があり、微笑ましいと、
齢を重ねた私は、妄想したこともあったりし、微苦笑をしたりした・・。


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齢ばかり重ねた私でも、秘かに10数年、慈父のように敬愛している人生の師は・・。

2011-07-24 20:14:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


私は神や仏様にすがる気持ちは、日頃から持ち合わせてないが、
神社仏閣を観た時は、そぉっと手をあわせている程度の男である。
しかしながら、ある方の言葉の前には敬愛する余り、神や仏様より高い存在となっている。

書家で詩人であった今は亡き、相田みつを氏で、
彼の遺〈のこ〉された言葉を毎日、早朝のひととき居間で心の中で読んで、
私の拙(つたな)い心を戒(いまし)めている。

居間にあるビデオケースのひとつの上に置いて、
本日のお言葉を読み、手を合わしたしている・・。


私は1999〈平成11〉年の5月中旬、私たち夫婦は家内の両親と、
伊香保温泉に2泊3日で滞在した時、
ある民芸土産店で私はひとつの品に目がとまった・・。

『ひとりしずか』、と大きく題され、みつを
と署名されていた。

私は左下に『相田みつを作品集』、と読みながら、
著名なこのお方の名は知っていたのであるが、
遅ればせながら初めて接した書物の言葉、そして書体であった・・。

《・・
  ただいるだけで

  あなたがそこに
  ただいるだけで
  その場の空気が
  あかるくなる

 あなたがそこに
 ただいるだけで
 みんなのこころが
 やすらぐ

     そんな
     あなたにわたしも
     なりたい

                 みつを
・・》

この言葉が表紙を捲(めく)った後、
最初のページに掲載され、瞬時に圧倒的に魅了されたのである。


私は幾つになっても拙(つたな)い我が身を振り返り、
私の父は小学2年の時に病死されたこともあり、
この日以来、私はこのお方を秘かに慈父のように人生の師と掲げたのである。

この作品集は、『トイレ用日めくり』、と明記されて折、
その日に応じたページに、さりげなく深い人生の教訓の言葉、そして特有な書体で書かれている。

その後、私は彼の遺されたた『じぶんの花を』、
『いのちいっぱい』などの作品を拝読し、
ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私を戒(いまし)めている。


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『名前』のおみくじ、私は読みながら、残された人生どうしたらいいの、と微苦笑し・・!?。

2011-07-23 23:55:29 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
夜のひととき、机の引き出しを整理していたら、片隅に『おみくじ』ひとつが出てきて、
私は読んだりし、微苦笑を重ねたりしていた・・。

平素の私は、実家は仏教の曹洞宗であるが、神社の神様や仏閣の仏様にすがることなく、
参拝した時は手を合わせる程度であり、
何よりも書家・詩人の亡き相田みつを氏の遺(のこ)された格言を日頃から学び、信愛して過ごしている。

そして、私たち夫婦は神社に参拝した時、
家内は殆どおみくじを買い求めたりするが、私は3年に一度ぐらいは、
たわむれに購入して見ることがある。

こうした時は、中吉、小吉が大半であるが、ときには大吉もあり、
凶は私が生まれてこのかた66年一度もなく、たぶん『おみくじ』の世界では対象外と思ったりしている。
そして古来より神仏の配慮は、公平な采配、と伝えられているので、
どのような結果であっても気にすることなく、読んだりしている。


私が机の引き出しが出てきた『おみくじ』は、
二年前に京の『祇園祭』を拝観する団体観光ツアーの小旅行に参加した時、
八坂神社の境内の外れで、おみくじのような『名前』で占う、
と大きく明示されていたので、
珍ずらしく、私の名の字を探して、たわむれに購入したのである。

この夜、市内のホテルの部屋で、家内が大浴場に行っている間、
私はビールを呑みながら、こっそりと読んだりした・・。

《・・
貴方の運勢は、貴方の姓名の持つ運命に支配されやすいのですが、
この判断は姓名の「天・人・地」三才の中より、
「地(名前)のみ」による観相ですが
ご参考までに 
    より良い人生を歩んで下さい

一代的総観は、主役を演じさせるには、シブイ脇役と言った感じです。
一代を評価するには主役の出来の良い悪しによるが、
ご自分の努力懸命なるも主役の評価が悪ければ巻き添えを招くが、
主役良ければ他力本願とも言える周りのアドバイスや協力があって、
信用を得る事ができ、重宝な存在となることでしょう。

貴方は主演でないのに、受け身で相手や周りの注文、出来事に、
いつの間にか被害者になったり、加害者になっている場合もあります。

貴方は補佐的なポストで、人の才能を伸ばすような役割で、貴重視されます。
アクセサリーの如く高価な宝石を生涯にかけて求め、
身に付けなくても持っていたいと言う人もあり、
喜怒哀楽が付いて廻ります如く、
自分は動かずとも求め探し、持つ人の差によって、色々と異なった運命をつくります。

貴方は本当はおとなしい人と思いますが、
生来の見栄張りで、栄光欲が強く、その場の感激やショックで、
遠慮勝な貴方にも似合わず、派手になる傾向も持ち併せていますので?

家庭面、社会面又異性面でも、自分主体より、むしろ人の因縁が原因として、
別離やトラブル、不信、不安が起こる如く、
周囲の因縁が幸せを作ってくれたり、不幸せになったりします。

愛情問題は積極的より受け身的で、
相手任せに強烈な求愛求婚を求めて良いが、
ずるずると抜き差しならぬ泥沼の中へ入らぬように注意する事。

母性的なシブイ相談役で大衆に好かれ、つっかい棒の役割で、
その棒に一生懸命にすがる人も居る事を忘れないで下さい。

お遊び事が好きな為に一生を滅ぼす人も有りますので、
幼少の頃の教育を大切に


職業は人の為に動く保護的な事が良い
弁護士 保母 書士 ホステス アシスタント スポーツのコーチなど
・・》

このように明記されて、最後に厳(おごそ)かに、
     政府登録 高島易断 神姫館 泰匠
と明示されていた。


私は東京郊外の調布市で、1944〈昭和19〉年に農家の子として生を受けた。
この頃の私の住む地域に於いては、田畑、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であり、
祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人の手を借りて、耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた三男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、今度も男の子か、と命名に困り果て、
不憫に思った祖父は、自身の名の一文字を私に与えてくれた、
と思われる。

このようなことで、名の命名は子にとっては、もとより与えられたことであり、
いかしがたいが、幼児より馴染んだ私自身は、それなりに深い愛着がある。


このような思いもあり、この『おみくじ』のような易断を読んだりし、
ある程度は当たっているかしら、と微苦笑をさせられたのである。
そして、主役ではなく、シブイ脇役で、主役に振り廻される人・・
困るよなぁ、と少しばかり溜息〈ためいき〉をしたのである。

私は無力な年金生活の身であり、残された人生は大幅に変更も出来ないし、
困った、と苦笑したりした。

この後、シブイ脇役でも、せめて主役に振り廻されることなく、
少しばかり存在感のある人になりたい、と無邪気に思ったりした。

もとより誰しもが、人生はやり直しのきかない、と古今東西の古くからの確かな格言であるので、
私の残された人生は、少なくとも目の輝きだけを持ち続けて日常を過ごす、
このくらいが適度な目標かしら、と微苦笑を重ねたりしている。


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庭の手入れ、汗まみれ泥まみれになりながら、微風の中、孤軍奮闘して・・。

2011-07-23 18:33:20 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
朝の8時過ぎに、ぼんやりと玄関の軒下に下り立つと、
それぞれの樹木の枝葉も伸び、草も生い茂ってきているので、
日中も30度ぐらいと予測されているので、少しばかり庭の手入れをしょう、と思い立った。

玄関庭は、この時節は、紫紅色の花の高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)がたわわに咲き、
塀際に群生している蒼色の紫露草(ムラサキ・ツユクサ)花が咲き、
群生させた可憐なピンク色した花が咲く秋海藤〈シャカイドウ〉、
そして枝につぶらなピンク色した花を数多く付けている紫式部〈ムラサキシキブ〉ぐらいで、
あとは雑木の樹木となっている。

10時過ぎより、樹木の剪定を早々と済ませて、難問の草むしりをしたのであるが、
ドクダミの草が地面にへばりつくように繁っているので、労苦を要する。
或いは樹木のある地面も草が生えているので、
樹の下にもぐるように、はいつくばって草を取ったりすると、泥だらけになる。

陽射しの29度前後の中、孤軍奮闘していると、
汗まみれとなり、一時間ぐらい過ぎると、玄関の軒下に簡易椅子を置いてに腰かけ、
5分ばかり休憩する。

ときおり微風が吹き、身をゆだねると、心地よく、微笑んだりした。
そして、冷茶を飲み、煙草を喫ったりし、
庭の草むしりの終えた場所を見つめたりし、残りはまだまだあり、
と実感させられながら、昼食抜きで奮戦した。


結果としては、2時過ぎに玄関庭は終了したが、
主庭の手入れには体力の余力はなく、私は断念した。

若き40代のサラリーマン時代は、休日の時に真夏の炎天下の中でも、
7時間ぐらいは気力で、庭の手入れをしたりしたが、
あの頃の自分の若さには適〈かな〉わない、と高齢者2年生の私は苦笑したりした。

そして、お風呂に入った後、家内と共に玄関の軒下に下り立ち、
小綺麗になったわねぇ、と家内から私は云われたりした。


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ブログの投稿文、日々のあふれる思いを心の発露として、言霊(ことだま)の力を信愛し、私は綴り・・。

2011-07-22 21:51:44 | 定年後の思い
私は民間会社を2004〈平成16〉年の秋に定年退職して、まもなくブログの世界を知った。
そして私は、各サイトのブログ、ブログ系に加入して投稿をし始めて、早や7年生となっている。

私は定年後に年金生活を始め、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、写真、イラスト、絵とかの素養もないが、
何より言葉の力を信じて散文で投稿してきた。

古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきたのである。

そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの遺〈のこ〉されて、現世に至っている。


私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作のように幾たびか校正することなく、
ブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまう。

この間、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多い・・。

このような時、言霊に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。

このような時、私は文章を綴ったのは、少年期の何時頃であったのかしら、
そして、その後は・・と拙(つたな)い我が身を振りかえることがある。


私は1944〈昭和19〉年の秋に、東京の郊外の農家の三男坊と生を受けた。

初めて文字を書いたのは、小学校に入学したからだった・・。
この頃は、私の住む村では幼稚園が出来たのは、私が小学校3年頃だったと思う。

私は最寄の託児所で2年ばかり通い、小学校に入学したが、
託児所は、文字などは教えることのない時代で、礼儀作法、お遊戯で過ごしていた。

小学校に入学すると、『こくご』の授業で初めて、文字を覚え、
真っ先にひらがなで、私の名前を升目の大きなノートに書いたりしていた。

そして、ひらがな、カナ字、そして漢字を学び、
3年生頃から『さくぶん』の授業で、今の時代で云うと粗雑な藁〈わら〉半紙で書かされたのである。

この頃に家にある本と云えば、
農協の発刊する『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
書棚に本が並んでいたを見たときは、
子供心でも眩暈(めまい)を感じたのである。

夏休みには、宿題として作文があったが、苦手な私は苦心惨憺で綴ったのは、
今でもほろ苦く覚えている。

私が都心にある高校に入学してから、
突然に読書に目覚めて、高校二年の夏に小説の真似事の原稿用紙に習作をした。


東京オリンピックの直前に、私は大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画青年、文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。

この間、養成所の講師から、ある月刊誌の記事の取材、下書きを分けて貰い、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。

或いは養成所の関係により、アメリカのテレビドラマの準出演を演じたり、
斡旋して下さるアルバイトで生活費を賄〈まかな〉ったりしていた。


そして、講師の知人の方から、小説を書いた方がよいとアドバイスを頂き、
確固たる根拠もなく、独創性はあると思いながら小説の習作したりして、
純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選した。

こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30歳頃に結婚をして果たして妻子を養っていける自信もなく、
あえなく敗退した。


この後、やむなく大手の企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年通った後、サラリーマンの一員となり、
35年ばかり勤めて、定年退職時となった。


私は幼年期にたくさんの本のあるサラリーマンの家に生まれ、
学生時代は素直に文学部の国文学を専攻した後、最終として大学教授の国文学関係になった人に、
嫉妬と羨望を感じたりすることもある。

しかしながら、この世はもとより、どの人も人生は2度とない、と古人からの伝え通り、
私はやむえず、亡くなわれた小説家のひとりの方が、
マイナスの人生を体験すれば、何よりの言霊の支えになる、
と遺(のこ)された格言を信じて、今後も随筆らしき散文を綴り投稿したりしている。


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暑さに苦手な私にとっては、夢のような爽〈さわ〉やかな日を迎えて、私は微笑みながら・・。

2011-07-22 08:44:50 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

東京の郊外は、19日の火曜日から台風6号の影響で、小雨が降ったり、ときおり風が吹く程度が、
昨日の昼下がりまで続いていたが、
それ以前の18日の月曜日までの連日の33度前後の暑さが遠ざかり、
暑さの苦手な私は、もとより台風で被災された方には不謹慎であるが、秘かに快適よ、と喜んでいた。

昨日も朝の6時は霧雨が降る中、24度となり、昼下がりは26度、
そして天候も回復した後、夕暮れの6時は25度となり、
この時節としては、涼し過ぎて、私は戸惑いながら長袖のスポーツシャツを着たりした稀〈まれ〉な一日となった。


昨日の夕方4時過ぎ、主庭のテラスに下り立つと、空はブルースカイとなり、
樹木を眺めたりしながら、煙草を喫ったりしていた。

庭の中心には、アメリカ芙蓉(フヨウ)の白と淡いピンクの複輪で底紅した花が、
30数輪ばかり咲いているが、台風の風が受け過ぎて、少し首を傾(かし)げたように、
もう駄目といったように斜めになっている。

唐糸草(カライトソウ)のピンクのたわわな花穂も同じようで、
傾いて咲いている。

しかし半夏生(ハンゲショウ)の群生に、梅雨の時節から数枚の上葉が白く染められ、
名残りの花のような情景となっているが、
過日の暑さから三日ばかり小雨を受け、茎もしっかりしているので、
私は元気よ、といったように整然としている。


居間の付近に紫木蓮(シモクレン)があるが、
桜が咲く前の頃には、紫色の大きな花が盛大に咲き、
春爛漫の到来のまえぶれに相応しく、毎年華やいだ情景を見せてくれる花木のひとつである。

この紫木蓮も5月過ぎに大幅に枝葉を剪定すると、
今の梅雨の時節に10数輪の花が咲き、主(あるじ)の私の性格に似たらしく、
狂い花となり、残り花として彩〈いろど〉っている。

私はご近所の手前少し遠慮して咲いて欲しいと思ってるが、
春と同様に華やかに咲き、少し困ったりしている。

この紫木蓮は梅雨明けになると終わりを告げるのが、平年の習わしであるが、
やはり台風の影響の冷気で、3輪ばかり咲いて、私は思わず微苦笑したりした。


こうした中で、主庭の樹木と樹木の間を20前後の蜻蛉(とんぼ)が舞っていた。
多くの蜻蛉(とんぼ)は、群れをなして悠然と舞っているが、
ひとつの蜻蛉だけは群れから勝手に離れて、自在に舞って折、私に似ているのかしら、
と私は思わず微苦笑したりした。

15分ぐらい舞った後、蜻蛉の群れは青い空に向かい、
そして独りぼっちの蜻蛉も群れに遅れながらも、何処に去って行った。


今朝は爽やかな陽射しに恵まれ、朝の6時は18度、昼下がりは28度前後、
夕暮れの6時は25度前後で快晴の一日となり、
暑さに苦手な私にとっては、理想的な気候となり、
買い物、散策もスキップしながら、小躍りしたくなるような快適な日をある。

このような夢のような一日を迎えるが、
こっそりと明日からの天気情報を見ると、やはり33度前後の日が続き、
少し落胆して、程ほどの暑さにしてね、と天上の気候の神々に祈願したりしている。


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