私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
たまたま昨夜より、歌人・石川啄木に関しての2冊の本を再読している。
一冊目は、三枝昂之(さえぐさ・たかゆき)・著の『啄木-ふるさとの空遠みかも』(本阿弥書店)の単行本、
あとの一冊は松田十刻(まつだ・じゅっこく)・著の『26年2か月 啄木の生涯』(もりおか文庫)の文庫本である。
この二冊の本は、昨年の夏の終りの頃の8月30日から9月4日まで5泊6日で、
家内と共に東北地方の太平洋に面した三陸海岸で、宮古市の海岸にある『浄土ヶ浜』、
そして盛岡市の郊外にある繋(つなぎ)温泉の奥地にある鶯宿(おうしゅく)温泉に訪れた時、
盛岡駅のターミナルビル内にある『さわや書店』で買い求めた本でもある。
私はこの旅行の時でも、その地を訪れる前には、岩手県の賢人を思い浮かべたりしていた・・。
無知な私は恥ずかしながら告白すれば、
宮沢賢治、石川啄木、そして金田一京助の各氏、
そして新渡戸稲造の一族、そして米内光政、原敬・・この各氏ぐらいしか浮かばないのである。
そして、旅立つ一週間前頃から、改めて関しては石川啄木氏のことを思索していた。
私は若き頃、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をした。
そして、中央公論の『日本の文学全集』(80巻)で、
石川啄木の作品を読んだことがあるが、氏に関してはこの程度の読者であった。
そして手元にある山本健吉・編の『日本名歌の旅』(文春文庫ビジュアル版、1985年)を見ていた時、
近代日本文学・専攻の岩城之徳(いわき・ゆきのり)氏の『歌人 その生と死 石川啄木』を読み、
深く考えさせられたのである。
《・・
明治31年、啄木13歳のとき、
彼は合格者128名中10番の好成績で岩手県・盛岡尋常中学校に入学した。
しかしその後上級学年に進むにつれて、文学と恋愛に熱中して学業を怠り、
明治35年の秋、あと半年で卒業という時期に中学校を退学し、
文学をもって身を立てるという美名のもとで上京した。
しかしこの上京は結局失敗に終り、翌年2月帰郷し病苦と敗残の身を故郷の禅房に養うのである。
啄木は美しい魂とすぐれた才能の持主であったが、
正規の学歴を身につけなかったことは、その生涯を決定する痛ましいできごとであった。
学歴のないために下積みの人間としての悲惨な運命から逃れることは
啄木の才能をもっても不可能だったからであった。
・・
明治41年の春、啄木は北海道の生活に終止符をうって上京、創作生活にはいった。
正規の学歴のない文才の持ち主が社会的に恵まれた地位を獲得する随一の方法は、
東京に出て小説を書いて流行作家になることであった。
北海道時代の彼が異常なほどの熱心さで東京での創作生活にあこがれ、
生活を捨て家族を残してまで上京したのも、
その随一のチャンスをみずからの手でつかもうとしたからにほかならない。
しかしその願いも努力もむなしく東京での創作生活は失敗に終った。
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。
このようなことを改めて深く感じたり、
或いは『日本の名歌150首を選ぶ 近代』に於いて、
5名の選者から石川啄木は下記の一首が選定されている。
呼吸(いき)すれば、
胸の中(うち)にて鳴る音あり。
凩(こがらし)よりもさびしきその音!
《悲しき玩具》
この5名の選者のひとりである詩人の村野四郎(むらの・しろう)氏が、
解説されている。
《玄人(くろうと)の歌人たちが、啄木の歌を素人(しろうと)筋の歌としてしりぞけることはやさしい。
しかし、あの大衆的魅力の芸術性について語ることは、
そんなにやさしいことではない。
彼は、けっして単純なセンチメンタリストではなかった。
実存意識を日常的な悲哀感によって比喩することの名手であった。
そういう作品は、彼の名歌においても枚挙にいとまない。
この歌にしても、彼の胸中の孤独と寂寥とは、
木枯しの風音によって、素早く諷喩(ふうゆ)されている。
誰でもよく考えれば、その音の寂しさを感じることができるはずなのに、
誰もそれに気付かないか、
それを表現する勇気を持てなかった。
しかし啄木はあえてそれをした。
ただそれだけの話である。
そしてそれが啄木の天分であり、啄木の魅力でもあった。
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。
私は村野四郎氏の解説文を数度読み返したりし、更に深く考えされた・・。
このような心情のあった私は、この旅先で、
盛岡駅で、山田線に乗り換える間、
駅構内の一角にある本屋で、啄木の本を探し求めて、購入できたのが、今回の二冊であった。
改めて再読しているが、啄木の人生、そして遺〈のこ〉された作品に、深く思いを馳せている。
そして生前には生活に困窮する中で、これだけの歌を遺され、
死後に多くの人たちから愛読され、やがて名声が高まる軌跡に、圧倒的な感銘させる確かな歌人のひとり、
と認識させられている。
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たまたま昨夜より、歌人・石川啄木に関しての2冊の本を再読している。
一冊目は、三枝昂之(さえぐさ・たかゆき)・著の『啄木-ふるさとの空遠みかも』(本阿弥書店)の単行本、
あとの一冊は松田十刻(まつだ・じゅっこく)・著の『26年2か月 啄木の生涯』(もりおか文庫)の文庫本である。
この二冊の本は、昨年の夏の終りの頃の8月30日から9月4日まで5泊6日で、
家内と共に東北地方の太平洋に面した三陸海岸で、宮古市の海岸にある『浄土ヶ浜』、
そして盛岡市の郊外にある繋(つなぎ)温泉の奥地にある鶯宿(おうしゅく)温泉に訪れた時、
盛岡駅のターミナルビル内にある『さわや書店』で買い求めた本でもある。
私はこの旅行の時でも、その地を訪れる前には、岩手県の賢人を思い浮かべたりしていた・・。
無知な私は恥ずかしながら告白すれば、
宮沢賢治、石川啄木、そして金田一京助の各氏、
そして新渡戸稲造の一族、そして米内光政、原敬・・この各氏ぐらいしか浮かばないのである。
そして、旅立つ一週間前頃から、改めて関しては石川啄木氏のことを思索していた。
私は若き頃、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をした。
そして、中央公論の『日本の文学全集』(80巻)で、
石川啄木の作品を読んだことがあるが、氏に関してはこの程度の読者であった。
そして手元にある山本健吉・編の『日本名歌の旅』(文春文庫ビジュアル版、1985年)を見ていた時、
近代日本文学・専攻の岩城之徳(いわき・ゆきのり)氏の『歌人 その生と死 石川啄木』を読み、
深く考えさせられたのである。
《・・
明治31年、啄木13歳のとき、
彼は合格者128名中10番の好成績で岩手県・盛岡尋常中学校に入学した。
しかしその後上級学年に進むにつれて、文学と恋愛に熱中して学業を怠り、
明治35年の秋、あと半年で卒業という時期に中学校を退学し、
文学をもって身を立てるという美名のもとで上京した。
しかしこの上京は結局失敗に終り、翌年2月帰郷し病苦と敗残の身を故郷の禅房に養うのである。
啄木は美しい魂とすぐれた才能の持主であったが、
正規の学歴を身につけなかったことは、その生涯を決定する痛ましいできごとであった。
学歴のないために下積みの人間としての悲惨な運命から逃れることは
啄木の才能をもっても不可能だったからであった。
・・
明治41年の春、啄木は北海道の生活に終止符をうって上京、創作生活にはいった。
正規の学歴のない文才の持ち主が社会的に恵まれた地位を獲得する随一の方法は、
東京に出て小説を書いて流行作家になることであった。
北海道時代の彼が異常なほどの熱心さで東京での創作生活にあこがれ、
生活を捨て家族を残してまで上京したのも、
その随一のチャンスをみずからの手でつかもうとしたからにほかならない。
しかしその願いも努力もむなしく東京での創作生活は失敗に終った。
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。
このようなことを改めて深く感じたり、
或いは『日本の名歌150首を選ぶ 近代』に於いて、
5名の選者から石川啄木は下記の一首が選定されている。
呼吸(いき)すれば、
胸の中(うち)にて鳴る音あり。
凩(こがらし)よりもさびしきその音!
《悲しき玩具》
この5名の選者のひとりである詩人の村野四郎(むらの・しろう)氏が、
解説されている。
《玄人(くろうと)の歌人たちが、啄木の歌を素人(しろうと)筋の歌としてしりぞけることはやさしい。
しかし、あの大衆的魅力の芸術性について語ることは、
そんなにやさしいことではない。
彼は、けっして単純なセンチメンタリストではなかった。
実存意識を日常的な悲哀感によって比喩することの名手であった。
そういう作品は、彼の名歌においても枚挙にいとまない。
この歌にしても、彼の胸中の孤独と寂寥とは、
木枯しの風音によって、素早く諷喩(ふうゆ)されている。
誰でもよく考えれば、その音の寂しさを感じることができるはずなのに、
誰もそれに気付かないか、
それを表現する勇気を持てなかった。
しかし啄木はあえてそれをした。
ただそれだけの話である。
そしてそれが啄木の天分であり、啄木の魅力でもあった。
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。
私は村野四郎氏の解説文を数度読み返したりし、更に深く考えされた・・。
このような心情のあった私は、この旅先で、
盛岡駅で、山田線に乗り換える間、
駅構内の一角にある本屋で、啄木の本を探し求めて、購入できたのが、今回の二冊であった。
改めて再読しているが、啄木の人生、そして遺〈のこ〉された作品に、深く思いを馳せている。
そして生前には生活に困窮する中で、これだけの歌を遺され、
死後に多くの人たちから愛読され、やがて名声が高まる軌跡に、圧倒的な感銘させる確かな歌人のひとり、
と認識させられている。
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