夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

偏(ひとえ)に数多くの諸兄諸姉に感謝を重ね、改めて良いお年をお迎え下さい!!

2013-12-31 13:45:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
民間の中小業の会社を35年近く奮戦して,2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・と思いながら
直ちに年金生活にして、身過ぎ世過ぎの日常生活を過ごしてきた。

そして私は随筆、ノンフィクション、近現代史などの読書に続いて、文章を綴るのが好きである。

退職してまもなくして、偶然にブログの世界を知り、
日々に感じたこと、或いは思考したことを心の発露としてあふれる思いで、
原則として少なくとも毎日1通は投稿し、綴ったりしてきた。

投稿の内容は、定年後の身過ぎ世過ぎの年金生活の日々の思いはもとより、
過ぎ去った幼年期から定年退職するまでを余すことなく綴り、投稿を重ねてきた・・。

このように私はパソコンが故障、或いは国内旅行をしていない限り、
毎日投稿をしてきたので、少なくとも定年退職後の丸9年過ぎた日々の思いは、
私の日常の証(あかし)のひとつでもある。
               
もとより、人それぞれ誰しもが光と影を持ちあわせているが、
つたない私でも、ささやかな光、秘められた影があるが、余すところなく綴ったりしてきた・・。

ここ数年、このサイトに綴ることが生きがいのひとつになっているので、
数多くのお方にお読み頂き、私がブログが継続できたこともあり、偏(ひとえ)に感謝の一言です。
          
               ☆ 自宅の近くの野川の遊歩道、昨日の昼、私が四季折々の魅了されている情景を撮った ☆

こうした中で、数多くの諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂くと、
ここ6年ぐらい殆どの方が心ある写真を添付し、
いつまでも言霊(ことだま)を信愛し、散文のような文章だけでの表現は、
時流に残されてしまう私なりに憂慮してきた。
そして 特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもある。

過ぎし昨年の2012年(平成24年)の『文化の日』の翌日の4日から、
私は遅ればせながら写真添付を始めて、投稿文を重ねているが、
昨今、写真を添付しないと、何かしら寂しい心情となり、我ながら独り微苦笑したりしている。

                 
或いは何よりも数多くの50代以上の諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが圧倒的に多く、
確かな人生の教科書と思い、私は励まされたり、微笑んだりして、年金生活を過ごしたりしている。

そしてコメントを頂いたり、或いは私は数多くの方の投稿文を読ませて頂き、
感きわまってコメントをしたりしている。
何よりもこの広い空の下で、未知のお方に投稿文の上で、
めぐり逢えたことに秘かに感謝を深めたりしている。
          
           ☆ 野川の遊歩道に隣接している『きたみふれあいひろば』を歩いていると、
             遥か遠望に富士山が観え、撮ったが豆粒のようであった ☆

           ☆ やむなく少し望遠機能により、富士山だよねぇ、と心の中で呟いたりした ☆
           

我家では、大晦日の今宵は、お年取りのささやかな酒宴を致しますので、
今年の最後の投稿とします。

今年は安倍政権の基で、デフレ脱却に果たし経済復興をめざす様々な施策が提示され、
国民のひとりとして無力な私でも、戸惑いながら思案をしたりし、
その上に社会に置いては余りにも悲惨な出来事が多く、私は悲嘆したり、憂(うれ)いたりしましたが、
来年こそは、明るいニュースで数多くの方と共に微笑んだりしたい、と祈願しています。

諸兄諸姉には、良いお年をお迎え下さい。

                  2013年(平成25年)12月31日
                               『夢逢人』

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除夜の鐘、ときには拙(つたな)私でも、心を寄せて・・。

2013-12-31 10:05:45 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると『大晦日』と明記され、
今年も今日で終わってしまうのか、と過ぎ去り日々が早いと思いを深めたりした。

そして何かと単細胞の私は、『大晦日』は何かとベートーヴェンの『第九』、
或いはNHKの恒例番組の『ゆく年くる年』かしら、と瞬時に思い浮かべたりした。

やがて『ゆく年くる年』は、確か各地の寺院が映しだされて、
こうした中で除夜の鐘が撞(つ)くシーンがあった、と思ったりした・・。

私は生家の実家は、仏教の中で多い曹洞宗であるが、
お墓参りは私の母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸ぐらいあり、
散策とか旅先で寺院にめぐり逢った時は、手を合わせる程度の拙(つたな)い身である。

私は身過ぎ世過ぎの年金生活の中、自宅の周辺の3キロ範囲を散策をすることが多く、
ときおり家内との共通趣味の国内旅行に行ったりしているが、
そして寺院の梵鐘を吊した鐘楼堂(しょうろうどう)に逢ったりしてきた。

今年も1月11日に付近の狛江市を散策していた時、
生家の実家のお墓が通称『泉龍寺』と称されている『曹洞宗 雲松山泉龍禅寺』であるので、
冬の暖かな陽射しの中、立ち寄ったりした・・。

山門から入ると、境内は広く数多くの大木があり、冬枯れの情景で静寂であった。
          

そして本堂に向かい歩くと、鐘楼堂が観えたりした。
              

或いは2月の中旬に南海ある八重山諸島を周遊した9泊10日間の旅路の中で、
石垣島の『桃林寺』を訪ねたりした。
この寺院は、石垣市にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は南海山、本尊は観音菩薩でり、
1611年鑑翁西堂の開山により創建された寺で、1771年には大津波の被害を受けている、
と解説されていた。
                    
しかしながら私は寺院を恥ずかしながら鑑賞できる知識もなく、
この日本の南海の果ての地域でも、住民の方たちに信愛されていることに驚き、
本堂などの建物を眺めたり、鐘楼堂を観たりした程度であった。
          


そして6月の初め、私は45分ばかり歩き、この時節の数々の樹木の情景を観る為に、
都立の神代植物園に訪ねた帰路、隣接している深大寺に立ち寄ったりした。

そして本堂で123円ばかりのお賽銭で多くの願いを託した後、鐘の音が聴こえて振り返ったりした。
境内の山門の近くに鐘楼堂があり、たまたま時を告げる鐘が撞(つ)く時であった・・。
          

こうした情景を観たりしていると、単細胞の私は何故かしら『除夜の鐘』に思いを重ねてしまった・・。

恥ずかしながら私は『除夜の鐘』に関しても無知な方であった。

過ぎ去り2000年(平成12年)の春、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)を購読していた時、
大晦日の夜、日本の各地で除夜の鐘を撞(つ)くが、古来より108回となっていることに関して。
遅ればせながら55歳の時に教示された。

《・・仏教で人間の煩悩(ぼんのう)が、108あるとされる・・
煩悩とは、身体や心の欲望、他人への怒り、ないもののへの執着などとされている。

仏教に於いては、①生まれてくる苦しみ
        ②年をとる苦しみ
        ③病気の苦しみ
        ④死の苦しみ
4大要素を『四苦(しく)』とし、

        ⑤欲しくても手には入らない苦しみ
        ⑥愛する人と別れる苦しみ
        ⑦いやなことをさせられる苦しみ
        ⑧その他の色々な苦しみ
『八苦(はっく)』があるとされている。

そして、この『四苦八苦』の四苦(4x9=36)と八苦(8x9=72)を加算すれば、108になる。

108回の来歴については、他にも諸説があるが、
一年の様々な思いをかきたてる除夜の鐘は、 旧年中に107まで撞(つ)き、
最後の1回を新年に撞くのが慣例である。

尚、『除夜の鐘』は、中国の宗(960年~1279年)の時代に始まった風習だと云われて折、
『除夜』とは、旧暦で一年の最後の夜のことである・・》

こうしたことを学んだりしたが、私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、その直後から多々の理由から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

そしてこうした人生の『四苦八苦』の怜悧を深く思案したりすると、
つたない私は、どうしたらよいの、と迷うばかりが本音となっている。
            
せめて過ぎ去り今年の日々を愛惜を重ねて、
来たる新年にささやかなことを願い、そして少しは達成できるようになれはよい、
と私は思い、『除夜の鐘』を聴こうと思ったりしている。

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年の瀬、心のふるさとの原景が残る神社・寺院を訪ねて・・。

2013-12-30 13:57:33 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内の父が2004(平成16)年の秋、私の定年退職時の直前に病死し、
家内の母は独り住まいとなったので、
私たち夫婦は年末年始の期間は我が家で共に新年を迎えよう、と誘い、
この年から恒例のようなこととなっている。

ほぼ毎年、28日か29日の夕方に来宅して貰い、年末を過ごし、
新年を迎え、3日か4日の午前中に帰宅する。

我が家の年末年始の情景は、居間の17畳ばかりの一角に6人用の炬燵(こたつ)を設置し、
家内の母には、奥の6畳の和室で休んで頂く。

こうした中で、居間の炬燵で、それぞれの好みの御節(おせち)料理の単品の数々を頂いたりし、
談笑するか、テレビを視聴したりして過ごすことが多くなっている。

過ぎし23日から家内は大掃除で孤軍奮闘し、私は庭の手入れをする程度であり、
その後に年末年始の買物で、私は家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供となり、お互いに奮戦し、
28日の朝から『お正月飾り』を始めた・・。
          
家内は何かしら末広がり吉日だわ、と毎年この日に、
和室の戸袋から取りだして玄関の片隅に置いたりした。
              
そして昨日の29日の夕方に家内の母が予定通り来宅され、私達3人は、夕食を兼ねてささやかな酒宴をし、
互いに談笑を重ねたりした。


今朝、私は近くの神社、寺院を訪れ、まもなく到来する新年の初詣の前であったので、
人影もない静寂の中を歩いたした・・。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれに住み、
付近には野川が流れ、霞嶺(かすみね)神社、明照院(みょうしょういん)があり、私の生家も近くにある。
私は結婚前後の5年を除き、この地を60数年ばかり過ごしているので、
住宅が密集している中、心のふるさとの原景も我が家の周辺にある。

たまたま本日の午前中、暖かな冬の陽射しが射す中、
霞嶺神社、明照院を訪ねてみょう、と思い立ち、私は独りで自宅を出た・・。

この霞嶺神社、明照院は、1985年(昭和60)年に調布市の市制30周年を記念の中、
調布市内の自然、史跡などの中から市民に選ばれ、『調布八景』のひとつとなっている。


私は1944(昭和19)年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
そして私が小学校に入学した1951年〈昭和26〉年の春の当時、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。

そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。

このように私の生家の地域は大きく時代と共に変貌し、
私も生家の近くに1978〈昭和53〉年の春に一軒屋を構えて住んできたが、
何かと幼年の小学3年生の頃まで、多くの思いがあったので、四季折々訪ねたりしてきた。

霞嶺(かすみね)神社の鳥居に入ると、
                                      
小高い丘が聳えるようになり、
                                     
陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、高い所には老樹に囲まれた霞嶺神社があり、
隣接した低い所には明照院があり、仲良くふたつに別れている。

霞嶺神社に関しては、農業の神、霞嶺大神を祀るかつての村社(武蔵国多摩郡的矢荘入間村)で、
社殿は高さ3.81m、周囲127mの墳陵(墓)の上に建っている、と亡き父の知人から、
          
私は教えられてきた。
                                  
そして左側には、それぞれの旧家が奉納した大稲荷神社があり、
                     
周辺には推定樹齢が約500年、幹の周囲3.4mのクロマツの古木は、
幼児の頃から私は見つめたりしてきたが、松枯れにより枯死してしまい、
やむなく大きなクロマツの数本を私は眺めたりしてきた。

先ほどの本堂への石段を上がる前は、少し広い境内があり、 
私の幼年期の頃は、秋のお祭りが開催され、
地方の劇団の招いて、旧家から借用した丸太を組み立てて即席舞台を作り、
田舎芝居が行われ、住民の多くが筵(むしろ)の上に座り鑑賞された。
          
お祭りは若い男性の青年団が運営し、年配者が後方支援となり、
大きな太鼓を載せた曳(ひ)き車を、30人前後の少年が曳(ひ)き、
青年団の人が進行と護衛をして、それぞれの地域を廻っていた・・。
私も小学生になると、この曳(ひ)き車を曳く一員となったりした。

やがて旧家毎の門で停車し、青年団の雄姿が太鼓を叩き、この旧家の方から、私たち少年はミカンやお菓子を頂き、
そして上納金が青年団の方に手渡されていた。
          
今の境内の片隅には、社務所と称される集会所があり、隣接に宮司の家があるが、
霞嶺神社の基軸の情景は余り変わらない、と深く感じたりした
そして初詣、節分の時は豆まきをしたことも、思いを重ねたりした。


やがて私は小高い社殿を参拝した後、隣接した明照院に向った。
          
そして霞嶺神社の石段を下ると、明照院が観えた。                    
          

石段を下りて、振り返ると、霞嶺神社と明照院の仲良しの境界となっている。
          

                 
明照院は室町時代に開かれた天台宗の寺院であり、正面には提灯のさがる本堂のほか,
弁財天が祭られている観音堂,えんま堂そして整備された庭には地蔵尊・六地蔵巡拝供養塔などがある。
                                     
そして私は後年に、観音堂に祀ってある弁財天は、美人の神様、 と私は学んだりした。
                    

私はこの明照院で、幼稚園がなかった当時で託児所となっていたので通ったりした。

或いは小学校の入学前、この境内で隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。
この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。
この映画は、『長崎の鐘』であり、私としては最初に観た作品なので、心の片隅に残っている。

そして小学生の夏休みには、この境内でラジオ体操が行われていた。
本堂の前のお賽銭箱の横にある階段にラジオを置き、付近の小学生と共に、
私も日参したりした。
          
このように何かとお世話になった明照院に別れを告げて、石段を下りた。
                          
               
この路も幼年期から、馴染のある路で、遠い昔は素朴な路であった。
                           
この後は塀、石垣などが整備されたりしてきたが、やはり私は幼年期に農家の児として育ったので、
何よりもやすらぎを感じ、愛惜の秘めている路のひとつである。

この後、自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道を一時間ばかり散策して、帰宅した。

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御節(おせち)料理、我が家も38年の結婚生活の中、変貌をして・・。

2013-12-29 10:51:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日の昼過ぎ、家内からスーパーのチラシを私は手渡しされて、
『悪いけれど・・このスーパーで買って来て下さる・・お願い』
と私は言われて、家内は多忙の中、せめて買物メール・ボーイしかできない私は、
『はい! 了解致しました!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく返事をした。

この後、私はチラシを見ると、最寄りのスーパーで安堵したり、
家内がいつものようにサインペンで赤丸の印を付けた購入品を視たりした。

そしてこの指定外の商品には、
《 蒲 鉾 紅白は祝いの色
  数の子 子孫繁栄を願って
  伊達巻 巻物の形から文化発展を願う縁起物 》
などと明記されて、御節(おせち)料理に欠かせない品々に付記されていたので、
私は上手(うま)い文面を書きよなぁ、と微笑んでしまった。

やがて家内から依頼された品を買い求めて帰路に向う時、
私たち夫婦の38年の結婚生活の中、御節(おせち)料理に関しても、大きく変貌をしてきたなぁ、
と思い馳せたりした・・。
          
私が東京郊外の調布市の長兄宅の実家から離れたのは1972年(昭和47年)の春で、
神奈川県・川崎市の登戸でアパート経営をしながら住んでいる母の宅に同居した後、
千葉県・市川市の国府台で賃貸マンションで新婚生活を2年ばかり過ごし、
実家の近くに一軒屋を構えたのは1978年(昭和53年)の春であった。

家内は中学生の時から茶事を学んできたので、私は33歳の若さで世間知らず、
気負いもあり住居の中で茶室を設けたりした。
しかし作庭費用に困り果て、やむえず雑木主体の庭とした。

何より困窮したのは、色々な面で想定した価格より遥かに高く、すべてのローンは多額の借金となり、
月々の返済は、私が孤軍奮闘しても赤字が多かったのである。
まもなく家内は、パート、契約社員などで、3年ぐらい援軍を受けたりした。

そしてクリスマスの頃になると、家内は御節(おせち)料理の素材を付近の専門店、スーパーなどで買い求めていた。
栗、黒豆、田作りなどの素材であり、
たとえば栗は丹波の栗、といったように家内は茶事で学んだ体験を生かし、
程ほど高価な品を選定していた。

家内は大掃除、御節(おせち)などで奮闘し、茶室の床飾りとして『結び柳』などをし、
私は28日頃に仕事納めをした後、翌日頃から我が家の庭の手入れをしていた。

大晦日の昼過ぎ、家内が御節(おせち)料理の完成を私に告げた後、
独り住まいの母用に、三段のお重に風呂敷でしっかりと結び、
私は家内から受取り、独りで母の所に届けたのである。

そして、途中で私は酒屋に寄り、地酒の四合瓶を買い求め、母の所に行ったりした。
その後、母の宅で、出前のお寿司を食べながら、私は持参した地酒を呑み、
母とふたりだけで他愛のない話を数時間を過ごしたのである。

こうしたことは、母の亡くなる1998年(平成10年)の新春の前の年まで、
20年間続けた。
          
こうした中で、毎年の新年の2日の私の実家の長兄宅の『新年の祝い』に於いて、
家内は9時前に長兄宅に行き、長兄の奥方と共に、料理の仕上げ、席の準備などをしたり、
私は新年会の始まる30分前頃まで長兄宅に行き、
長兄の家族はもとより、叔父、叔母さんなどに新年の挨拶をしたりした。
この間、母、次兄、妹の家族も加わり、11時頃から新年会となった。

やがて3時頃に散会し、家内は長兄の奥方と共に後片づけをしたりしている間、
長兄、そして長兄の子供らと私は茶の間で談笑したりした。

こうした長兄宅での新年会は、母の亡くなる前の年まで続いた。


私たち夫婦が1978(昭和53)年の春に新居を構えた後、
1980(昭和55)年の大晦日に家内の両親に来宅して貰い、『お年取り』を復活させた。
私は家内の父と心身の波長が合うので、程々に遠慮なく、食べたり、呑んだりし、
私たち4人ながら心身盛り上がったりした。

そして宿泊して頂き、元旦の新年を迎え、殆ど昼下りに家内の両親は帰宅されたりした。
その後、ときには家内の弟が加わったり、家内の妹夫婦に宿泊してもらったりし、
家内の父の体調が悪化するまで、20年ぐらい続いたりした。
                                               

1998(平成10)年の新春に私の母は死去した後、晩秋に喪中の葉書を関係者に送付したりした。
そして年末年始、喪に服するのは戸惑いを覚え、
何よりも母親の死去で失墜感、空虚感が私の根底にあった・・。。

世間の人々の多くに残された息子は、幾つになっても父親の死より、母親の死の方が落胆を増すと聞いたりしていた。
私の場合は父は小学2年に病死され、もとより母、そして父の妹の叔母に育てられたので、
50歳を過ぎた私でも、心は重かったのである・・。

このような私の感情を家内は察して、
『年末年始・・どちらかに旅行に行きましょう・・』
と私に言った。

そして私たち夫婦は、私の定年退職する2004年〈平成16年〉の前年まで、
年末年始の休暇を利用して、国内旅行に行ったりしていたので、
もとより御節(おせち)料理は我が家では、お休みとなった。
          

家内の父が2004年(平成16年)の秋、私の定年退職時の直前に病死し、
家内の母は独り住まいとなったので、
私たち夫婦は年末年始の期間は我が家で共に新年を迎えよう、と誘い、
この年から恒例のようなこととなっている。

ほぼ毎年、28日か29日の夕方に来宅して貰い、私たち夫婦と3人で年末を過ごし、
新年を迎え、3日か4日の午前中に帰宅する。

我が家の年末年始の情景は、居間の17畳ばかりの一角に6人用の炬燵で設置し、
家内の母には、奥の6畳の和室で休んで頂く。

こうした中で、居間の炬燵で、それぞれの好みの御節料理の単品の数々を頂いたりし、
談笑するか、テレビを視聴したりして過ごすことが多くなっている。

こうしてお互いに齢を重ねてきたので、御節料理は簡略となっている。
駅前、最寄りのスーパーで伊達巻、かまぼこ、栗きんとん、黒豆、田作り、
昆布巻などの単品を買い求めたり、
やつがしら、里芋、くわい、蓮(ハス)、ごぼうなどの農作物は、家内は相変わらず料理をしている。

このように私の母が生前した時代は、家内は黒豆、栗などの素材を吟味して買い求めて、
そして御節(おせち)の品々を3日ぐらいで仕上げていた事は、今や省略している。

余談であるが、私の御節(おせち)の好みの品は、数の子を食べながら、
純米酒の辛口を呑むことが好きである。
そして蛸(たこ)は、高級と称される明石の『蛸(たこ)』よりも、
何故かしら国民の多くから愛されている北海の『酢だこ』が好み味で、何かと食べまくり、
家内は呆れ果てて早や35年ばかり過ぎている。

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年末年始の休暇が本日より始まり、東京郊外に住む私でも微笑み・・。

2013-12-28 09:48:49 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、ぼんやりと年末年始をふるさとなどで過ごす人たちの帰省ラッシュが始まり、
新幹線や空の便、高速道路で混雑が始まる日かしら、と思ったりした。

昨日の27日の金鵜日は、『官公庁の御用納め』と明記されていたので、
多くの民間会社もこれに準拠して『仕事納め』になり、
新たな年の2014年(平成26年)1月6日の月曜日は『官公庁の御用始め』と明示され、
民間会社の多くも『仕事始め』かしら、と感じたのである。

そしてこの間の本日の28日の土曜日から新年の1日5日の日曜日まで・・
9連休か、とカレンターの日付を指で追ったりしたのである。

もとより官公庁は原則として年末年始は12月29日から1月3日まで定義されているが、
たまたま土・日曜日が今回は前後にあったので、このような9連休になった、
と少しボケた私は思ったりした・・。

そして私は、民間の苦楽の激しい中小業に35年ばかり勤めた体験があったので、
ここ10数年、特にたえず短期に成果を問われる民間のサラリーマン諸兄諸姉に、
今年も大変な年でしたねぇ、
と働いて下さる諸兄諸姉の健闘に感謝の言葉を心の中で呟(つぶや)いたりしていた・・。
          

私の故郷(ふるさと)は、今住んでいる処は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域であり、
近くが生家の実家があるので、この辺鄙な処に結婚前後の5年を除き、64年近く住んでいることになる。

こうした関係なので、帰省の方たちを見かけると、少し羨(うらや)ましいのが本音である。
過ぎし一年の思いを秘めて、ふるさとの親、親族、そして友人たちに再会して、共に語る合う情景が浮かび、
どうかご無事で行かれ親愛を深めて下さい、と祈願したりしている。

そして、日本の各地、或いは海外に旅行される方たちにも、
せっかくの年末年始の休暇を楽しまれて下さい、と思ったりしている。

或いは自宅で年末年始を過ごされる方たちには、
ご家族で大掃除、買物などをされたりした後、ゆったりと新年をお迎え下さい、
と深く思ったりしている。

そして、年末年始も仕事で業務に携(たずさ)わる方たちには、
大変ですね、お身体を程々にご自愛して下さい、と心を寄せたりしている。

          
           ☆本年の初詣の時に、私は『七福神』のひとつに瞬時に魅了されて買い求め、
            私は秘かな心の声援を受け、何かと励まされて私の守り神となっている☆

我家は、私の定年退職後は、独り住まいの家内の母を大晦日の数日前に迎え、
新年の3日頃まで私たち夫婦と3人で生活を共にする恒例となっている。

ここ1週間は家内の孤軍奮闘で大掃除、母を迎える準備、そして年末年始の料理等であり、
私は齢ばかり重ねた買物のメール・ボーイとなり、
幾度なく家内の指示された買物に通ったりしていた。

そして明日の29日に家内の母が来宅される。

平年の年の瀬は、私たち3人は、夕食を兼ねてささやかな酒宴をし、
互いに談笑を重ねたりしていることが多い。

そして夜の9時過ぎに酒宴を終り、私は寝室で布団にもぐり読書をしているうちに眠ってしまい、
早朝の4時に目覚めてしまい、早寝早起き元気な児、となっている。

果たして、我が家の新年の3日まで、私は69歳、家内は64歳、そして家内の母は83歳、
老々介護のようにお互いを労(いた)わり合い、
どのような言動、しぐさ、談笑が繰り返すか、こればかりはその時の心情と思い、私は微笑んだりしている。

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『仕事納め』、過ぎし年の私のささやかな想いを馳せたりして・・。

2013-12-27 11:57:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを眺めると、『官公庁の御用納め』と明記されていたので、
多くの民間会社もこれに準拠して『仕事納め』になる、と微笑んだりしたのである。

そして私は、民間の中小業に35年ばかり勤めた体験があったので、
ここ10数年、たえず短期に成果を問われる民間のサラリーマン諸兄諸姉に、
今年も大変な年でしたねぇ、
と働いて下さる諸兄諸姉の健闘に感謝の言葉を心の中で呟(つぶや)いたりしていた・・。

この後、ぼんやりと私の現役時代の『仕事納め』のことを思い浮かべたりしたが、
私の心の片隅に残っていることを思い重ねたりたりした・・。
          

私の現役時代の多くの時は、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社の本社に勤めていたが、
この当時は、官公庁の御用納めの翌日か当日に年内最後の業務となり、納会をした。

御用納めの該当日に、私は同僚たちと昼食の為に食事処に行った時、
所在地が六本木の四丁目の交差点に近い場所だったので、
この当時は近くに防衛庁(現在は『東京ミッドタウン』)があり、
この方たちが少し赤い顔して、テープルを一角を占領していた。

『官公庁はいいよなぁ・・午前中で終りかょ・・』
と同僚のひとりが呟(つぶや)いたりして、私たちは苦笑したりしていた。

会社の年内の最終日は、夜の6時に業務完了時なると、
本社で1番大きな会議室で立食のパーティ形式となった・・。
          

私が若き27歳の頃は、勤めていた会社がヒット曲に恵まれた『仕事納め』の時は、
やはり大きな会議室で本社一同の社員が結集する中、
総務部の依頼で、餅つきの関係の業者が来社され、『餅つき』大会が開催され、
邦楽の責任者が、杵(きね)を掲げて、そして臼(うす)の蒸されたもち米を搗(つ)いたり、
その後、若手の有志の邦楽の担当者たちが、
杵(きね)を持ち上げて臼(うす)の中のもち米を搗(つ)いたりした。

そして私たちは、日本酒、ビールを呑みながら、それぞれに拍手喝采をしたり、
お互いに健闘を讃えながら高揚感が増して、幸福なひとときを共有したりしていた。

こうした時の私は、日頃に業務に接する人達とは、
歓送迎会、居酒屋での『呑みニケーション』をしているので、
このグループは避けて、他部門の方達と話し合ったりした。
          
或いはヒット曲に恵まれない年の『仕事納め』の時は、
早々と立食のパーティを終わり、『来年は頑張ろうねぇ・・』とお互い言い合ったりして、
この後、有志50名ぐらい最寄りの居酒屋で二次会、
その後は勇士20名前後て洋風の居酒屋で三次会を開催し、
遠方のお住まいの方もいるので、終電の一時間前に散会したりした。
          

こうした中で、1983年(昭和58年)の時は、私は情報畑で社内のシステム開発に悪戦苦闘し、
日曜日以外は殆ど出勤し、奮闘していた年であった・・。

そして土曜日の休日に会社に独り出勤し、
システム開発・運営までのスケジュール概要の進度状況をチエックしていたりしていた。

ある日、気分転換にひとつとして、自席から離れて会議室に移動して、
前方の首都高速道路で、渋谷から赤坂方面に走り数多くの車を視たり、
遠い彼方に東京タワーを眺めたりしていた。
やがて会議室の片面のステレオケットの横に置いてあったレコートの見本盤をセットし、
自動販売機のコーヒーを飲みながら、聴いたりしていた・・。

そして演歌のような要素を秘めブルースの基調が流れ、
ハスキーな歌声で圧倒的な歌唱力で唄い上げた歌に、私の心は叩きのめされたように、
心の中で膨張するように占領され、世にいわれている鳥肌がたった・・。

そして曲が終ると、ジャケットを見て、内藤やす子の『悲しい色やね』であった。
          
この当時、この歌手に一昨年に他社から移籍し、程ほどのヒットを私が勤めていた会社から4枚ぐらいだして、
この見本盤のアルバムは『I Miss You~愛のつづれ織り~』と題され、 
この当時としは、世の中でヒットされた原曲を編成され、カバーした稀なカバー・アルバムであり、
この中のひとつ歌が上田正樹さんの原曲の『悲しい色やね』(1982年)であった。

たまたま偶然に聴き、瞬時に圧倒的に惚れた私は、この後、私はこのアルバムを買い求め、
自宅で何百回もこの曲を聴きながら、心身励まされたりした。
そして、この曲を私は、人に会うたびに絶賛し、
『XXさんが・・ブルースが好きだったとは知らなかったょ』
と洋楽の編成の方に言われたりしていた。
          
やがて1984年(昭和59年)の半ば、新システムは何とか軌道にのり、
この年の暮れの『仕事納め』の社員の立食のパーティを行っている時、
たまたま内藤やす子さんがマネジャーに付き添われて、参列された。

そして偶然に 内藤やす子さんが私に近づいてきたので、
平素は何かと奥手の癖に、ときおり悪目立ちがり屋の私は、
『貴女の・・『悲しい色やね』に励まされて・・私のシステム開発が・・何とか軌道にのりました・・』
と私はビールを呑みながら、内藤やす子さんに言ったりした。

『嬉しいわ・・』
と内藤やす子さんは驚いた表情を浮かべた後、
周囲の社員の方達に大声で、
『この方が、あたしの『悲しい色やね』のお陰で・・担当されているお仕事・・
上手(うま)く行ったですって・・』
と言ったのであった・・。

この直後、傍にいたマネジャーは、私に握手を求めてきた。

そして、内藤やす子さんも私に握手を求めてきて、
あたり一帯、先輩、同僚、後輩達の拍手で盛り上がった・・。

私は少し高揚しながら恥ずかしげに、内藤やす子さんの手を握った・・。
          
このようなささやかな『仕事納め』の時を思いだしながら、
あの時はあんなことがあったよねぇ、と私は微苦笑を重ねたりしている。

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年末年始の買物、齢ばかり重ねた私でも、家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供となり・・。

2013-12-26 15:57:53 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

我が家の平素の買物は、私が年金生活を始めて以来、私は自主的に専任担当となり、
近くのスーパー、駅前のスーパー、専門店などに殆ど毎日独りで出かけている。

昨夕、家内から、明日から年末の買い物に行きませんか、と私は告げられた。

何かしら自宅より20分ばかりの歩いた駅前の商店街に行き、
年末年始に対応した食糧品を第一弾としてスーパーを数店廻り買い求める主旨であった。
『はい! 了解しました・・行きましょう』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく大きな声で応(こた)えた。

私は2004年(平成16)の秋に定年退職した直後から年金生活をし、
やがて高齢者の身になったので、何かと世情に疎(うと)くなっているので、
ボケてはいけない、と家の中でも明るく大きな声で家内と会話することが多くなっている。

そして私は何かと家事の大半は家内をしてもらっているので、
せめて家内のボディ・ガード、荷物持ちをして、お供をしなければ、
一家の主(あるじ)としての責務が果たせない、と私は齢を重ねるたびに深めたりしている。

恥ずかしながら我が家は自動車もなく、私は根がケチなせいか、路線バスには乗らず、
ひたすら歩くことが多い。
私は買物をする時、多くの品を購入する時とか、或いはビール、お米などの重い品を買い求める時、
買物の引き車と称される『キャリーカート』を曳〈ひ〉いたりして歩いたりしている。
          
          ☆過ぎし5月、この『キャリーカート』を私は玄関の前で、段ボールを乗せて、
           ゴムバンドで括(くく)り付けた状景をたわむれで撮ったりした☆    

私は現役時代の緊張感から解放されて以来、身過ぎ世過ぎの年金生活の身であるので、
買物、散策をしたりする往復路で、ご近所の奥様の数人と立ち話をすることが多く、
私の秘かな楽しみのひとときとなっている。

こうした時、確か4年前に、あなたは演歌歌手の吉幾三〈よし・いくぞう〉さんに似てるわ、
と言われたりした。

私は顔立ち、大きな声で明るくユーモアをまじえながら話すことは確かに似ているが、
しかしながら私は歌を唄うことは、どう贔屓目に見てもNHKの『素人のど自慢』で鐘ふたつぐらいで、
吉幾三さんを思い浮かべて、申し訳ございません、と心の中で詫びることもある。

今朝、どんよりとした曇り空の朝を迎え、昼下がりの頃から小雨が予測されていたので、
午前の9時半過ぎに家を出て、駅前の商店街に向った私たちは夫婦は歩きだした・・。

私はフリースのジャケットの上に防寒着のフイールドジャケットの防寒着を着て、
家内は薄紫色のセータの上に赤い防寒着を着て颯爽と私の前を歩き、
数歩遅れで私は『キャリーカート』を曳〈ひ〉いたりしたりした。
          

やがて商店街、駅ビルなどのあるスーパーに3店ばかり廻り買い求めたりした。

我が家の年末年始は、家内の父が2004(平成16)年の秋、私の定年退職時の直前に病死し、
家内の母は独り住まいとなったので、
私たち夫婦は年末年始の期間は我が家で共に新年を迎えよう、と誘い、
この年から恒例のようなこととなっている。

ほぼ毎年、28日か29日の夕方に来宅して貰い、年末を過ごし、
そして新年を迎え、3日か4日の午前中に帰宅する。

こうした中で、我が家の年末年始の情景は、居間の17畳ばかりの一角に6人用の炬燵(こたつ)を設置し、
家内の母には、奥の6畳の和室で休んで頂く。

大半は居間の炬燵で、それぞれの好みの御節(おせち)料理の単品の数々を頂いたりし、
談笑するか、テレビを視聴したりして過ごすことが多くなっている。


このような我が家の年末年始などであり、家内はここ5日前の頃から、
家内の母を迎える準備をしたりしている。

そして肝要の御節(おせち)料理のような数の子、かまぼこ、伊達巻、栗きんとん、黒豆、
昆布巻、やつがしら、里芋、ごぼう、こんにゃく、蓮(はす)などを買い求めに、本日出かけたのである。

しかしながら家内は、 御節(おせち)料理の素材とか単品の完成品を買い求めたのであるが、
家内は少なくとも『鮮度』、『味付け』、『お値段』などの三拍子を懸案するので、
なかなか妥協点に達しせず、あちらの店へと移ったりして、無知に私は苦笑するばかりであった。

この間、私はボディ・ガードを一時的に放棄して、本屋に寄り、
丸尾茂雄・著『往生際 ~”いい加減な人生”との折り合いのつけ方~』(ダイヤモンド社)、
五木寛之・著『新老人の思想』(幻冬舎新書)、
佐藤信之・著『鉄道会社の経営 ~ローカル線からエキナカまで~』(中公新書)
3冊ぱかり10分以内に買い求めたりした。

そして私は家内がいるあるスーパーの店内に戻ったが、家内は選定に迷ったりし、
私は苦笑したりした。

やがて帰路、私は『キャリーカート』に買い求めた品をダンボールを載せて、曳〈ひ〉きながら、
『XXちゃんさぁ・・今年あと何度出陣するの?』
と私は家内のお供の買物に出かける予定を訊(き)いたりした。

『あと2回くらいで済ます予定・・』
と家内は疲れを浮かべている私に応(こた)えた。

『あと2回ねぇ・・でも、雨が降らないうちに帰宅できそうで、良かったねぇ』
と私はカラ元気で家内に応(こた)えたりした。

私は平素はブログの投稿文は国内旅行とかパソコンが故障しない限り、
定年後の9年間は毎日投稿しているので、早く帰宅して一筆綴らなければ、
と思ったりしていたのである。
                         
昨今は日中の2時間ばかりパソコンに触れることが多いので、
パソコンは本日の日中はどうしてかまってくれないの、と寂しそうになっている、
と私は思いながら私たち夫婦は自宅に向った。

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クリスマス、私たち夫婦のささやかな歳月の歩みは・・。

2013-12-25 07:26:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨夜のクリスマス・イブの日は、家内がささやかな室内飾りをして、
平素より幾分多めの料理を頂きながら、
私はウィスキーをオンザロックと称した氷片を入れただけの濃いめを呑みながら、
家内はビールを呑みながら、いつものように談笑したりした。

こうした中で私たち夫婦は、遥か遠い日の結婚前の交際していた時も話題になったりした・・。

確か39年前の頃は、クリスマス・イブの時は、銀座の4丁目に近い喫茶店で待ち合わせ、
私は少し背伸びをして、高級な食事処を誘って、
ワインなどを呑みながら、イタリアン料理などを頂いていた。
そしてプレゼントを交換したりしていた。

この時のこぼれ話の中、この当時の私は六本木が勤務先の所在地で、
少し待ち合わせ時間に遅れそうになり、銀座までの地下鉄の電車の中が、
この日には特に遅く感じ、もどかしい心情となり、下車後の地上までの階段を駆け上り、
喫茶店に行ったりした・・。

この当時の1975年(昭和50年)の頃時は、もとより携帯電話もない時で、
待たされる方は、待ちわびる時代となり、駆け付ける方も何とか連絡する方法はないかしら思える時代で、
お互いに信頼だけで結ばれていた時代てもあった・・。

あんなこともあったねぇ、と昨夜もお互いに笑い合ったした・・。
          

その後、結婚してからは、私は退社後に付近の専門店で一週間前の頃から思案していたプレゼント品を購入し、
封筒状のクリスマス・カードにささやなな一文を認〈したた〉め、
そして幾たびか魅了されてきた洋菓子店の『クローバー』でケーキを買い求めて、
新居の賃貸マンションに帰宅してたりした。

この後は、一軒家を建てて、ローン返済で苦節していた時代が3年ばかり続き、
せめて愛用している『クローバー』でケーキだけ購入して、帰宅していた。

          
やがて私が40代の頃には、家内に何か欲しい品、とやんわりと訊(き)いたりしていたが、
必要な品は、デパートで買い求めているから必要はない、
できたら旅行に行って温泉にゆっくり・・と要望されたりした。

この当時は私は多忙であったのは、40代の後半の頃から、業務が幾分空〈す〉いた2月頃に、
冬の旅をして、家内の念願に応〈こた〉えたりしていた。

そして定年退職後の年金生活に於いても、我が家はプレゼントの品よりも、
観光ホテルに滞在して、ゆっくりと温泉を満喫することが多くなっている。
          
もとより子供に恵まれたならば、クリスマス・イブの日も含めて、
大幅に変貌してきただろう、と思いながら、こればかりは叶わぬ夢となっている。、


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退役する老兵の『ウィンドウズ XP』、私は愛憎を重ねながら、別れを告げて・・。

2013-12-24 09:34:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
過ぎ去る日の14日に家電量販店で、モバイル風の秘めたパソコンの『ウィンドウズ 8(エイト)』を買い求めた。

我が家は、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、家内とたった2人だけの家庭であるが、
世の中は携帯電話が普及し、ここ5年前の頃からスマートフォンの到来の時代となって、
若い方たちはフェイスブックも愛用されている今日であるが、
私たち夫婦は、携帯電話も使えず、ましてフェイスブック、スマートフォンは遠い世界のように思え、
世の中の時流から取り残されている感じている・・。

こうした中で、せめてパソコンでインターネットの世界を学び為に、
自宅にラップトップ型のパソコンを置き、ささやかながら対応していた・・。

そして主力機としてOSと称される基本システムの『ウィンドウズ7(セブン)』で殆ど毎日愛用し、
補助機として旧機の『ウィンドウズXP』を時折使用している。
                     
           ☆右側は旧機の『ウィンドウズXP』、左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』☆

もとより『ウィンドウズXP』は、2001年の秋に発売され、世界の数多くの方に愛用されたパソコンで、
2010年の秋に販売が終了するまで、圧倒的に好評された基本システムを有したパソコンである。

しかしながら『ウィンドウズXP』は、マイクロソフトからのサポートが、
来年の2014年4月9日に終了する、と過ぎし日の9月頃に知り、
やむえなく最新の『ウィンドウズ8.1』の搭載したパソコンを購入しょうかしら、と思案してきた。

そして10月から各社の『ウィンドウズ8.1』の公表を雑誌とかネットで見たりすると、
タブレットが搭載、或いは無線LANの最新版が対応、などと明記されて戸惑ったりしてきた・・。
                     
                              
私が初めてパソコンを購入したのは、 確か1983(昭和58)年の頃であったと思われ、
NECのPC8801だったと記憶している。

そしてフロッピー・ディスク装置、プリンター、この当時は漢字の表示が出来なかったので、
やむえなく漢字対応させる為に漢字ロムを付加させたりしたので、
この当時の私の年収の15%ぐらいで、住宅ローンの返済もあったので、
私としては高価なパソコン・セットであった。

そしてベーシック言語でプロクラムを書いたりして、この当時はネットの世界が一般の方に普及していなく、
独学の勉強のひとつとして、新古今和歌集を入力したりしていた。
          

その後、1998(平成10)年の夏に、会社と自宅で使うので、買い改めたりした。
ノートパソコンで『ウィンドウズ 98』の基本ソフトであり、たまたま富士通を選定し、
この当時は付属の記憶装置はフロッピーであった。
そして自宅の居間で、表計算ソフトを活用して、会社の資料を作ったり、
或いは日記ソフトを買い求めて、私自身の日記を書いたりしていた。
          

やがて2001(平成13)年の秋になると、 定年退職時が2004(平成16)年の秋であったので、
定年後の生活に備えてパソコンを一新した。

この当時はウィンドウズ旋風の中で、ウィンドウズの基本システムは
『ウィンドウズXP』であり、たまたま富士通のディスクトップのタワー型を選定した。
そしてこの当時は、液晶ディスプレイが普及し始め、迷ったりしたが何よりも安定性を配慮し、
19型のこの当時の最後の画面のブラウン管ディスプレーを買い求めたりとした。

そして基本の付属の記憶装置は、DVD-ROM、CD-R/RW、フロッピーであり、
10年ぐらいは大丈夫かしら、と漠然と思ったりしていた。
プリンターも新調し、民芸風の大きな机、脇机、そして椅子を買い揃え、定年後に備えたりした。

こうした中で、私が何より私は困り果てるのは、パソコンの無知な家内が、
パソコンは半永久的商品よねぇ、と確信したように思い続けていることであった。

私が現役時代の時は、程ほどの年収を得ていたので、
オーディオ、テレビ、パソコンなどの商品は幾たびか買い換えてきたが、
しかし年金生活となれば、限りある厚生年金、企業年金、積み立てきた個人年金からの収入には、
もとより限度があるので、私は気弱になり、予算を計上するできなかったする。

こうした根底には、故障もしていないパソコンを買い改め費用があったならば、
国内旅行で、旅先の滞在日数を増やしましょう、
と家内が私に提案することが予測されるので、私はパソコンの予算計上をためらったりしてきた。
                    

やがて私は2004年(平成18年)の秋に定年退職後、まもなくブログの世界を知り、
私が無我夢中に毎日数通は投稿し、そしてブログ上のコメントで知り得た8名の人と、
お互いにコメントを交わしていたブログ熱中時代の時であった・・。

そして定年後の生活に備えた肝要のパソコンは、
2006年(平成18年)9月中旬に、予告もなく突然にダウンして、
まもなく年金生活2年生を迎えようとしていた私は、
『10年ぐらい利用しょうと思ってたのに、どうして突然に故障するのよ・・』
と心の中で呟(つぶや)きながら、長らく黒い画面を見つめ大いに落胆したりした。

やむなく買い求めたパソコンの量販店に修理を依頼したが、1週間後に我が家に来宅することをなり、
私は困窮した・・。
我が家は無念ながらパソコンはたった一台しかなく、この来宅するまでの1週間の間、
どうしょうかしら、と悩んだりした。

この当時はブログ上で盛んにコメントで交流を重ねていた時代で、
コメントを頂いていたので、半日以内に必ず返信していたので、返信が出来なく、
相手のお方は戸惑うと思い、悩んだりした。

もとよりリアルの交流であったならば、電話でお詫びの連絡もできるが、
ブログの世界は匿名が多く、連絡できる方法がない、と困苦したりした。
          
この修理の期間、パソコンのレンタルを量販店に依頼をしたが、
弊社は扱っていません、と素っ気ない返事を私は受けたりした。

そして修理が最悪の場合に備えて、このパソコンの量販店に最新のパソコンの下調べに行き、
魅了されたパソコンが販売価格25万円にため息をしたのである。
そして我が家の予算計上にしていないので、困り果てた・・。
この帰路、25万円・・空から舞い降りてこないかしら、と思ったりして帰宅した。
          

そして待ち焦(こ)がれたパソコンの量販店の技術者が予通り来宅した時、
パソコンの故障を点検して結果、
心臓部のキャッシュメモリ、メインメモリの一部でわずかな磨耗があり、
部品の交換すると10万円を超える、と私は言われた・・。

私の現役サラリーマン時代の50代の頃は、冷蔵庫、クーラーなどを新調しょう、
と私は家内に気軽に言ったりして、購入したりしていた。

しかしながら、この当時の我が家の年金生活の年次購入予定品目もなかったが、
やむなくパソコンの新製品を買い改めることに決意した私は、家内にどう説得するかであった。

私は長らく中小業の民間会社のサラリーマンをしていたので、多事多難の対処には鍛(きた)えられ、
こうした中で多少の悪知恵も備えられてきた。
家内が冷蔵庫、洗濯機をよく手入れをするタイプで、
過剰に掃除し過ぎ、やむえず新調した体験があったのを、思いだしたりした。

私は居間に置いているパソコンから、台所にいる家内に近くに寄り、
『昨今のパソコン自体、飛躍的に進歩しているし・・
前に買ったパソコンより遥(はる)かに廉(やす)くなっているの・・
この際、思い切って新しいのにしょうねぇ・・』
と私は少し懇願するように家内に言った。
          
結果として、データ強制移行料などを含めて、27万円弱で、魅了されたパソコンに新調し、
やはり最新のCPUは速い、と私は微笑んだりした。

          
私が魅了されて買い改めたのは、『ウィンドウズXP』の液晶の富士通のディスクトップで、
ディスプレイは、この当時の流行の20.1型のワイド画面のスーパーファインVXのハイビジョン対応であり、
CPUはインテルのデュアルコア、メモリは1GB、ハードディスクは400GB、
付属の記憶装置は、DVDスーパーマルチ等で、この当時としては、程ほど最強版となっていた。

パソコンのデザインも良く、安定したドライブの配置もあり、好感し、
年金生活の中で、日々こよなく愛用してきたのであった・・。
          

しかし後年になると、このパソコンのハードディスクの基本設計の2分割管理が、
時代から遅れてしまったのである・・。

基本システム、プログラム、個人の写真、音楽などは、Cドライブとして実質30GB、
そして自由エリアとして、Dドライブは実質338GBと分割構成されていた。

問題はシステムを含むCドライブで、私の個人用に使用しているソフトを記憶させたり、
何よりもインターネットの各サイトで、数多くの更新が加わるので満杯近くとなり、
やむなく私は、写真などは、Dドライブに移動させて管理したり、
そして不必要なファイルの削除をした後、ディスクの圧縮作業のデフラグをしたりした。

やがて2010(平成22)年12月は、やむなくハードディスクの再分割作業し、
Dドライブを減少させ、Cドライブを増加させて、パソコンを日々利用しているが、
ネットの世界は益々進化し、そして情報の洪水のような状況に戸惑ったりした。

こうした中で、私はパソコンの量販店で、富士通以外の『ウィンドウズXP』を見たりすると、
NECのパソコンはCドライブは70%、Dドライブは30%の分割設計で常識性を深めたり、
或いはソニーは大胆にもドライブを分割せずに統合していたのに、
私は溜息をして、あれほど愛してきた富士通の分割の割合に落胆を深めたりした。
                 

このような事情を秘めていたので、遅ればせながら、
この当時の主流の『ウィンドウズ7(セブン)』の新機種を買い改めたのが、
一昨年の2011〈平成23〉年の6月であった。


選定した機種は、ソニーのディスクトップのテレビ不要型で、
ディスプレイは、この当時から流行したワンタッチパネルの21.5型のワイド画面で、
CPUはインテルの最強版、メモリは4GB、ハードディスクは1TBであった。

そして付属のドライブ装置は、ブルーディスク対応で、
この上に、外部ドライブ装置として、ある専用メーカーのハードディスクの2TBを連結させて、
現在に至っている。
                    

そして私はこれまで愛用してきた『ウィンドウズXP』は、予備用として利用することに決めた。
こうした根底には、以前にパソコンが故障した時、修理期間の2週間にあり、
パソコンのない空白の『パソコン迷子』になった寂しい体験があったりした。

或いは、ときおり家内が、旅行関係のネットの検索で、
家内は徹底的に調べるタイプなので、我が家の一台のパソコンは家内の独壇場となったりした。

このような体験があったので、私の少しばかり広い机には、
やむなく従来の『ウィンドウズXP』と新たな『ウィンドウズ7(セブン)』を
当面2台のパソコンを置いたりしている。


このような私のささやかなパソコンの足跡があるが、
『ウィンドウズXP』は来年の2014年4月9日に賞味切れとなるので、
やむえなく私も『ウィンドウズXP』に別れを告げて、
最新の『ウィンドウズ8.1』を思案してきたのである。
          
そして過ぎし日の14日、家電量販店のパソコンフロアーの中で、
ノートパソコンとして魅せられたのは、ソニーの秋冬モデル『VAIO Fit 15E』であった。

何かしら『Windows 8 64bit 
インテルCore i7-4500U(1.80GHz)、メモリ 8GB、HDD 1TB、15.5型の高輝度液晶』
このように記載されていた。
そして小さく、最新の『Windows 8。1』へ、無償アップデート。

結果として、基本システムの『ウィンドウズ 8』と最新の『ウィンドウズ 8.1』との差異は、
改定内容が少ないと思え、このノートパソコンは10月下旬に発売されていたので、買い求めることにした。


そして私は付帯購入条件として、
恥ずかしながら私はいつまでもネット初心者の若葉マークであり、初期設定などの依頼をした。
このような事情で、技術サポートの担当者が我が家に23日の10時半過ぎに来宅してもらう際、
買い求めたノートパソコンを持参して頂くこととした。

昨日、我が家に新たな基本システムの『ウィンドウズ 8』のノートパソコンが来て、
お役目ご免と言ったように、長年こよなく愛用し、
やがて富士通の方のディスク分割の割合の設計に、悪感情が増した『ウィンドウズXP』の愛機に、
別れを告げた・・。
          
           ☆左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』、そして右側は買い求めた『ウィンドウズ 8』☆

        
このような関係で私は、スマートフォン、フェイスブックそしてモバイルパソコンにも当面は無縁となり、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事だ、と微苦笑したりしている。
そして私は、どこまでモバイル情報が進んだら、人は満足するのょ、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

或いは昨今は情報が洪水のように溢れ、人々はたえず情報に翻弄されている時代と思え、
パソコンの進化で表現するならば、『ウィンドウズXP』が普及した10年前頃が、
多くの人にとって程ほどに心安らぐ情報の時代だった、
とサラリーマン時代の1970年代、1980年代、そして1990年の数年間までの20数年及び、
情報畑で奮闘してきた退役した老兵だった私は、微苦笑したりしている。

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私のサイト、閲覧数(PV)は400万を超え、偏(ひとえ)に数多くの皆様に感謝を重ねて・・。

2013-12-23 07:24:53 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
先程、この【gooブログ】の私のサイト『夢愛人かりそめ草紙』に開くと、
『ブログの開設から3,259日』と明示されて、こんなに過ぎたのかしら、と微苦笑してしまった。

そして、昨日までの『トータルアクセス数の閲覧数(PV)は4、001、615』、
『訪問者数(IP)は833,405』と表示され、閲覧数(PV)が400万が超えたのか、
と微笑んだりした・・。

しかしながら閲覧数(PV)に関しては、数多くの方が御存知のように、
ここ5年ぐらいはグーグル、マイクロソフトなどの大手のロボット検索が、
懸命に追跡するように活動しているので、
大幅に加算されている実態であり、無念ながら実質数は不明であり、200万ぐらいが妥当かなぁ、
と苦笑したりした。
                  
   
私は2004(平成16)年の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職して、
まもなく偶然にブログの世界を知った・・。

そして私は、2004年(平成16)年11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入したり、
まもなくブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入し、
原則として毎日数通ぐらい投稿したのは、2004(平成16)年11月17日であった。

その後、ブログ形式に準じた【すくすくブログ】を知り、
気楽に綴れる専用サイトとしたのは、翌年の2005(平成17)年1月11日であった。
一週間ぐらい投稿したが、会員数の多い【gooブログ】を知り、取り止めた。

この後、この【gooブログ】に加入して、
少し気楽に団塊世代、社会、政治・経済の諸問題を綴ろうと思い、投稿をはじめたのは、
2005(平成17)年1月19日であり、この日から3,260日が過ぎたのである。
                    
          
この後は、会員数の多い【gooブログ】とブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】
二刀流のようなことを一年半ばかりし、
【gooブログ】は特に政治・経済に関しては、専門知識がなく素人の感性で、
投稿文を認(したた)めてきたが、つたなさ、そして無責任の広言を反省し、投稿を中止した。

やがて2007(平成19)年、肝要の本命である【簡単gooホームページ】が9月末で閉鎖と知り、
8月より半ばより、これまで投稿文が移動できるブログ形式に準じた【OCN Cafe】を知り、
やむなく加入したりした。

この間、2008(平成20)年の春先から、少し悩んだりした・・。
定年退職後の3年半、このように4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
4月の初めに、振り返った時、何かしら鍋物の《ごった煮》のような思い、
投稿を休止していたブログ【gooブログ】に、今まで書き散らかした投稿文3000通前後を
コピーしながら整理、統合し始めたりした・・。
          
そして2008(平成20)年4月中旬から本格的に【gooブログ】を再開させて、
私が幼少時代から年金生活までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

やがて併設していた【OCN Cafe】は、2010(平成22)年7月で中止し、
これ以来【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』を単独とした。

この後、昨年の初めの頃に、『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称した後、
『夢逢人かりそめ草紙』と短縮して今日に至っている。
                                
                    
私はブログを投稿する際、最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、文才に乏しく試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
2008(平成20)年の当時は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中で、たった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。
          
このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
          
こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
          
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010〈平成22〉年の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008〈平成20〉年の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、
と目安ができるので、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
一昨年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行している。
                          

こうした中で、50代から70代の多いシニア層に於いて、
『にほんブログ村』に加入している方を中核に、多くのお方の投稿文を読ませて頂いた。

日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)える。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を学びながら年金生活を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
               

私のブログサイトの左側の『ブックマーク』に於いて、
ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
少なくとも1年半以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトである。

そしてこの一年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトのお方も多く、
大半は『にほんブログ村』で知り得たお方である。

この諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。
                    
              
私は気楽にコメントを書くことはできない身で、
コメントを書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプであるので、
時間を要して、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響したので、
原則としてコメントの返信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌した時代もあったりした。

ここ数年は、来訪しコメントを残して下さった方には、原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。

そして上記の諸兄諸姉のサイトを明記した以外に、ときおり読ませて頂くお方も多く、
ここ3が月に於いても、瞬時に魅了されたお方のサイトも30名のお方もいる。
               
私がブログを書き始めて、丸9年が過ぎて、早や10年生であるが、
この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
その上に、数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、改めて感謝している。

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今年わずか10日残すところとなり、愚図の私でも何かと慌ただしく・・。

2013-12-22 07:31:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、ぼんやりと私はカレンダーを見ると、『冬至』と明記され、微笑んだりした。
もとより一年で最も夜である時間が長いことで、これからの日は朝の日の出が日増しに早くなるので、
私は好感しているのである。

この後、27日の金曜日は『官庁御用納め』と明記され、
いよいよ今年も『大晦日』の日を含めても10日ばかりとなり、
今年も早くも終わってしまうのか、
と何かと鈍児(にぶこ)のような私でも感じたりした・・。

私の現役サラリーマン時代は民間の中小業に勤めていた時、
『官庁御用納め』に準拠し、『仕事納め』となったりすることが多かったが、
それまでの期間は年末年始を控えて、その上に外資系の為か年の決算月もあり、より一層奮戦したしていた。
そして『大晦日』の前日まで奮闘していた時代もあったりした。

昨今のサラリーマン諸兄諸姉の多くは、昨日の21日の土曜日から3連休を過ごされた後、
短期に成果が問われる時代なので、年末年始の前に過酷な業務に奮戦される、と思ったりしている。
そして3連休の時ぐらいは、愛する妻と可愛いお子様とゆっくりとお過ごし下さい、
と諸兄に無力な私は応援してしまうのである。
          
私は年金生活をしている中で、何かと愚図の私でも、この時節は何かと慌ただしい過ごしている。
我が家の住む地域は、市からの年末年始のごみの収集日程が定められ、
今年の年末は下記の通りとなっている。

23日の月曜日の祭日は、燃やせないごみ、有害ごみ ==>今年最後の収集日
24日の火曜日は、燃やせるごみ、カン
25日の水曜日は、古紙、古布 ==>今年最後の収集日
26日の木曜日は、容器包装プラスチック ==>今年最後の収集日
27日の金曜日は、燃やせるゴミ、ビン(==>今年最後の収集日)
28日の土曜日は、ペットボトル ==>今年最後の収集日
30日の月曜日は、燃やせるごみ ==>今年最後の収集日
31日~1月5日は、お休み

このような日程となり、23日に『燃やせないごみ』が今年最後の収集日で要注意日であるが、
30日の月曜日は、『燃やせるごみ』の今年最後の収集日であるので、
小庭を手入れを少しした後、掃き清めるのは前日の29日に行えばよいかしら、と微笑んだりした。

そして私は家内の指示棒に基づいて、少しばかり奮闘すれば良いと思ったりしている。
          

年賀状に関しては、私の住む地域は確か25日まで郵便ポストに投函したら元旦に配達できます、
と明記されていたので、私は過ぎし日の19日の木曜日に50通ばかり投函したりした。

そして平素の買物専任者の私は、殆ど毎日のようにスーパー、専門店を廻ったりしているが、
年始に伴い、家内が御節料理の真似事をするので、
家内の要請のひと声に基づき、私は家内のボディガード兼お供、そして荷物持ちで、
駅前に買物に何回か同行するが、家内はその後に料理の重責がある。

家内は大掃除にここ4日ばかり孤軍奮闘し、独り住まいの家内の母を29日に来宅して頂き、
私たち夫婦と共に三人で年始の1月3日まで共に過ごすのが、
ここ9年の恒例となっているので、これらの準備で多忙なのである。

こうした我が家の予定となるので、 私は平素のように読書をしたり、
のんびりと遊歩道、公園を散策したいのであるが、私はこの時節は叶わないことが多い。
そして愚図でノロマの私でも、何かと慌ただしいのである。
          
或いは『お正月飾り』もあり、無知な私でも12月29日は「苦待つ」といわれ縁起が悪いので、
31日は「一夜飾り」と云われ、神様に対して礼節がない、
と亡き母から学んできたので、26日から28日までの時、心身清めた後にしょう、
と思ったりしている。

そして私も散髪屋(理容店)行き、身ぎれいで新年を迎えたいので、
いつ空白な時ができるか、と思案したりしている。


こうした中、我が家のパソコンは、
主力機としてOSと称される基本システムの『ウィンドウズ 7(セブン)』で殆ど毎日愛用し、
補助機として旧機の『ウィンドウズ XP』を時折使用しているが、
          
『ウィンドウズ XP』は、マイクロソフトからのサポートが、
来年の2014年4月9日に終了するので、やむなく『ウィンドウズ 8(エイト)』のパソコンを購入した。

この買い改めたパソコンが、23日に購入元の技術サポートの担当者が我が家に来宅してもらい、
恥ずかしながら私はいつまでもネット初心者の若葉マークであり、
初期設定などをして頂いた後、私なりに変貌した基本システムの画面、操作手順など
戸惑いながらのお勉強もあり、平年の年末より慌ただしい日々を迎える。

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首都直下地震に備え、家庭備蓄は1週間分、と私は学びながら戸惑い・・。

2013-12-21 08:15:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の20日の朝、いつものように購読している読売新聞の朝刊を開くと、
《 首都直下地震 「死者2万3000人」
  最悪想定 経済被害は約95兆円 
               中央防災会議 報告 》
トップページの見出しとして掲げられ、寝ぼけまなこの私は、正気となり、記事を精読した・・。

この記事の詳細は、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されているので、
添付させて頂く。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20131219-OYT1T00980.htm
☆【YOMIURI ONLINE】==>『社会』==>『首都直下地震で死者2万3千人…中央防災会議 』☆
          

このように首都直下地震が発生した場合、首都圏の甚大な大災害を読み、
東京郊外の調布市に住み私は、どうしたらよいのか、無力の私は動揺したりした。

この後、14面を視たりすると、
《 生き延びる備え
     家庭備蓄 一週間分
         一人分 21食と水21リットル 》
と見出しされ、私は驚きながら、記事を精読してしまった・・。

この記事の詳細も、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されているので、
添付させて頂く。
http://www.yomiuri.co.jp/science/feature/20131220-OYT8T00358.htm
☆【YOMIURI ONLINE】==>『科学』==>『首都直下地震』==>『生き延びる備え』☆
          

この記事を読んだ私は、《・・「最低でも3日分、可能な限り1週間分」の備蓄を求めている。
飲料水は1人1日あたり3リットル必要で、1週間分は21リットルになる。
家族全員の備蓄となると、飲料水だけでかなりの量となる・・》と学び、
私は1週間分の水21リットルだと、2リットルのペットボトルで10本強で、
我が家は二人なので、少なくとも21本になるのか、
まして簡易トイレか、と驚きながら戸惑ったりした。
          


私たち夫婦は東京郊外の調布市に住み、結婚前後の5年間を除き、
調布市の片隅で世田谷区と狛江市に隣接した地域に63年ばかり過ごしている。

そして古惚けた築後35年の一軒屋に、家内と2人だけで住んでいるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

   
我が家は防災全般に関しては、恥ずかしながら確固たる対策をしていない。
ただ、漠然と思いながら、東京湾からは40キロ以上離れた地域であるので、津波からは対象外だし、
豪雨による付近の野川の洪水による床下浸水も、高台の住宅街であるので、心配はしていない。
しかし地震については、どのような対策をとったら、と思案したりしてきた・・。

こうした地震については、私たち夫婦が考え始めたのは、
一昨年の2011年3月11日の観測史上最大の地震の東日本巨大地震に伴い、
岩手県、宮城県、福島県などの太平洋の沿岸に、大津波が発生して壊滅的な大惨事となった時からであった。

その上、福島第一原子力発電所で事故が発生、その後も相次ぐ事故に関して、主要国の諸国まで注視された。
そして、私さえも恐れていた周辺の一時避難、その上に農作物、畜産、水産、農地、牧草地、森林、
水の汚染などに影響をもたらした。

こうした中で、私はテレビでNHKニュースを視聴したり、
新聞、ネットでニュースを読み、各地域で甚大な災害に、知るたびに身体はもとより心まで震(ふる)えた・・。
この間、大惨事の被災した地域で、亡くなわれるた方が日ごとに増え、
私はただ呆然としながら、犠牲者の多数に悲しみに、ときおり黙祷をしたりしてきた。
そして特に、行方不明となられた方のせめてご遺体だけは、ご遺族のお手元に、と思ったりしてきた。
          

この時の東日本大震災の時の我が家は、
大きく揺れ、こんなことこの世にあっていいの、と震度5度ぐらい、その後の直後の余震に、
私たち夫婦は居間で立ちすくんでいた。

そして本棚から10数冊の本が床に落ちたぐらいであったが、
我が家は防災に不備なことに気付かされた・・。

懐中電灯が2つばかりあるだけで、予備電池がないことも解かったりした。
そしてペットボトルの2リットルの煎茶が6本あるだけであった。

この後、改めて調布市から市民に配布された『調布市防災マップ』を見たりし、
この中の注意事項、連絡表の記載事項を互いに確認したり、
家内と共に買物に行った帰路に、指定された避難所の場所を近くを通り、確かめしたりした。
          
             我が家から7分ぐらい歩けば、NTT東日本の研修センターがある。
          
             この場所が、私の住む地域の避難所と公表されている。

そして我が家は、そのうちに電池不要の手回しで電源が発生する軽い携帯ラジオを購入しょう、
と話し合い、買い求めたりした。

その後、旅行用の肩掛け、或いは斜め掛けでもできるバックを居間の片隅に置いてある。

この当時、何かしら新聞で、たとえ避難所に行けたとしても、
緊急救援食料は3日間を過ぎた後と知り、私たち夫婦は3日間は自助努力で対処しなければならない、
と学んだりしてきたが、今回は一週間分の水と食べ物が必要、と知り戸惑ったのであった。

こうした緊急時に、いざ避難所に行く時に、最低限に持って行こう、と互いに決めている。
               
                  私が20数年前に買い求めた軽く廉(やす)いナイロン製のバックで、
                  押し入れの中で休眠していたのを、取りだし、再活用とした。                    

この中身は、電池不要の手回しで電源が発生する軽い携帯ラジオ〈電池対応、可〉、
懐中電灯、電池、タオルを4枚、スーパーで売っている大きなゴミ袋(シート或いは身体に巻き防寒用として)4枚、
板チョコレートを4枚、食事代わりのラスク6袋、ペットボトル500mlが2本、
百円玉を中核として10円玉も少しで、3000円。
そして私のメガネの予備、タバコ、
脇サイドには『調布市防災マップ』が入っているだけである。

無念ながら携帯電話は私たちは互いに使えないので、この程度ぐらいと思っている。
あとは、非常食として、乾パン6袋、ラスクの缶詰12個を購入した程度が、我が家の現状である。


このように過ごしてきた間に、昨年の2012年1月22日に於いて、
『マグニチュード(M)7級の首都直下地震が今後4年以内に約70%の確率で発生する』という試算を、
東京大学地震研究所の研究チームがまとめられて、公表された。

私はこの公表されたその内容を新聞などで知り、
優(すぐ)れた英知結晶である東京大地震研究所のグループの方たちの予測を真剣に受け止めた。

しかしながら、巨大地震が発生しても、高齢者の私はその時はその時に対処すればよく、
何よりも肝要の平素の日常生活をたんたんと過ごし、残された人生を過ごせれば、
よいと私たち夫婦は思っている。
                              

昨日の昼下がり、この避難袋のバックを私は久々に点検し、
ペットボトル、タバコを最新の物と取り換えたりした。

この時、板チョコレートを4枚が不明で、家内に訊(き)いたりした。
『XXちゃんさぁ・・この避難袋の中にある板チョコレート・・見つからないょ』
と私は家内に言ったりした。

『そこにある板チョコ・・一週間前の頃、甘い物がなかったから・・食べてしまったわ』
と家内は微笑みながら私に言った。

『非常用なのに・・明日(あした)の買い物の時、買ってくるょ』
と私は苦笑しながら家内に言ったりした。

このように我が家の避難袋の中身は、いい加減となっているので、私は微苦笑したりしている。

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堺屋太一・著『団塊の秋』、過ぎ去り年の哀歓、そして今後の情況が的確に・・。

2013-12-20 10:00:35 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、家内の要望で、一昨日の18日の午前中、私たち夫婦は駅前に買物をした。
そして高齢者の私でもボディーガード兼お供、荷物持ちであったが、
午後より雨が予測されていたので、珍しく私たちは手分けをしてそれぞれの店で買い求めたりしていた。

そして私は依頼品を買い求めた後、駅ビル内の本屋に立ち寄った。

そして単行本の新書コーナーで、何か読みたい本は・・、と探し求めたいた時、
偶然に堺屋太一(さかいや・たいち)氏の著作の『団塊の秋』(祥伝社)にめぐり逢い、
そして手に取った後、本書の帯の解説文を読んだりした・・。

《 西暦2015‐2028年、彼らは想定外の人生に直面する。
  本書は、『団塊の世代』の総決算である。 堺屋太一
  未来の新聞記事付き。的中率91% 衝撃の未来予測 》

このように明記され、私は瞬時に興味が湧き、買い求めることとした。
          
私は東京郊外の農家の三男坊として1944年〈昭和19年〉9月に生を受け、
やがて東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉の秋に、
大学を中退し、契約社員・アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事をしたが、
あえなく敗退し、やむなくある企業に何とか中途入社できたのは、
1970年〈昭和45〉年の春で、満25歳の時だった。

この時代、定期採用で新入社した人達は、団塊の世代の人々であった。
そして机を並べ、この業界の荒波の多い時代の苦楽を共にし、
何かと友人には団塊の世代の人々が多かったので、彼らの世代には何かと親近感がある。

そして私の妹のふたりは、1946年〈昭和21年〉1月、1948年〈昭和23年〉10月、
家内も 1949年〈昭和24年〉12月に生を受けたので、
私は彼らの時代の流れの風潮を少しは知っているひとりである。
          
そして団塊の世代の多くは、2007年〈平成19〉年に定年退職時を迎えるに際し、
数多くの団塊の世代について出版され、私は愛読してきたひとりである・・。

たとえば山口文憲・著作の『団塊ひとりぼっち』からは、多々教示され、
団塊世代の多くは、これからの時期も《ひとりぼっち》と学んだりした。
私は中途入社の身であったので、彼ら同期で何かと励まし合いながらも時代を過ごしてきたのを、
羨ましく感じたりしてきたので、私は衝撃を受けたのである。


堺屋太一 (さかいや・たいち)氏に関しては、私は1975年(昭和50)年に『油断!』を偶然に読み衝撃を受け、
そして翌年の1976年(昭和51)年に『団塊の世代』は多々教示された。
敗戦後の一時時代の突出した多産の世代を「団塊の世代」と命名され、
その後の氏の数多くの著作された中の20作品ぐらい私は愛読してきた。

昨日、本書の『団塊の秋』(祥伝社、刊行・11月10日)を読み出し、
第6話に構成された中で、第1話の「さまよえる活力」、第2話の「年金プラス十万円」を読んだ限りであるが、
過ぎ去ったそれぞれ時代を描写されると、
そうでしたよねぇ、あの時代は、と私は思い馳せながら哀歓を深めたりした。
          
或いはまもなく到来する時代に、こうした風潮の時代になるの、
と著者から教示されて、憂いを重ねたりして読んだりした・・。

こうして著者の描写はもとより、行間から感じられる著者の思いを私なりに重ねると、
次のページが進むことが遅く、著者の的確な時代の表現に魅了されて読んだりしている。

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年金生活の健康の源は、何よりも熟睡こそ肝要、と実感を深めて・・。

2013-12-19 06:54:41 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
民間の中小業に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎え、
その後は多々の理由で、年金生活を始めた・・。

そしてダラケた日常生活を過ごすのは、何かと世間に恥ずかしく、
起床の時間は日の出前、と気合い一番で起床してしてきたが、
私は何かと読書が好きで、ときには深夜まで読んだりしているので、
寝不足となり、ときには昼寝をして、補(おぎな)ったりした。

やがて3年が過ぎる63歳の頃から、日の出前の起床の必須事項のひとつは止めて、
目覚めた時に少しまどろんだ後、起きればよい、と改めて今日に至っている。

このような結果として、早朝の5時前後に起きることもあれば、7時頃になることもある。
          
そして私は年金生活をして丸9年が過ぎた身であるが、
風邪などで内科の病院に治療を受けたことはないなぁ、と思ったりした。
こうした私の秘かな対策のひとつとして、風邪気味の時は、
風邪薬も敬遠し、早めに布団にもぐり本を読み、そして睡眠時間を多めにしている。

もとよりこうしたグウダラなことは、年金生活の自在の身だからできることなので、
この世で一番贅沢なことかしら、と思いながら甘受している。
          
しかし働いて下さる現役の諸兄諸姉は、この時節は歳末に向けて短期に成果を問われる昨今、
睡眠時間を削りながら奮闘されていると思われる。

そしてここ50年ぐらい大学受験に際して、『4当5落』という格言があった。
睡眠時間を4時間程度にし、5時間以上睡眠に貪(むさぼ)れば、
目指した受験校の合格には覚束ないと長らく伝えられてきた・・。

私は若き18歳の時、大学入試の際は、目指していた第一志望の大学に合格する自信がなくなり、
安易に入学ができそうな大学を選定した。

その後、大学を中退し、契約社員、アルバイトをしながら映画、文学青年の真似事をした後、
あえなく敗退して、ある大手の民間会社に中途入社できたのは25歳の時であった。
          
もとより会社に勤めれば、多くのお方と同様に、
上司を見習いながら勤務に励み、ときには土日の休日出勤などもあったりした。

やがて情報畑でシステムの開発業務などの期間は、幾たびか徹夜となったりし、
睡眠時間を削って奮戦したりした。
しかし開発の業務は、殆ど一年以内であるので、その後の勤務体制は10時間前後となったりし、
このようなサイクルを繰り返して、ひたすら奮闘してきた。

その後、定年退職の7年前より業界全般としてリストラ烈風の中、
やがて私は出向となり、少し遠方の勤務先となった。

朝は4時45分に起床し、帰宅は夜の9時半過ぎが圧倒的に多く、
消却法として睡眠時間は4時間程度となり、
こうした勤務体制を5年間続けて、定年退職時を迎え、サラリーマン生活は卒業した。

私は『4当5落』の言葉を聞いたりすると、安易に逃げた大学入試の受験期でなく、
社会人の最後のサラリーマン5年間の出向期間だった、と後(のち)に微苦笑する時もある。
          
私は年金生活を過ごす健康の源は、程ほどに歩き、薬などに頼らず、
熟睡こそ肝要である、と思っている。
そして生きがいのある言動をしていれば、
たとえ齢を重ね体力が衰えても、心も身も溌溂(はつらつ)と確信している。

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クリスマス・ソング、高齢者の私が圧倒的に魅了されている歌は・・。

2013-12-18 06:46:24 | 音 楽

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
12月初旬の頃から、新聞の折り込みチラシのデパート、スーパーなどで、
クリスマスに関しての贈り物、或いは駅前の洋菓子専門店のケーキが広告チラシとして掲載されてきた。

生家は仏教の曹洞宗の中で育てられ、キリスト教には無縁であるが、
中学生の頃から何かとアメリカの文化を影響されてきた私は、
この時節を迎えると、クリスマスのシーズンかしら、と微苦笑したりしてきた。

過日、家内の依頼で商店街の洋菓子店に行った時、
店内にはクリスマス・ツリーが置かれて、思わず私は微笑んだりした・・。
そしてクリスマスの歌も流れて、高齢者の私でも少し高揚感となり、苦笑してしまった・・。

この帰路、数多くあるクリスマス・ソングの歌を思い浮かべたりし、
この中で私が圧倒的に魅せられた歌に思いを重ねたりした・・。
            
     ☆過ぎ去り2008年の12月下旬に『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観に行った旅路で、
      『サッポロファクトリー』に入店し、喫茶店の外庭のテーブルに座っていた時、
      レンガの煙突にサンタさんが這い登る情景に魅せられ、たまたま雪が舞い降り始めた☆


確か1995〈平成7〉年のクリスマス・シーズンの前、
たまたまドナ・サマーのクリスマス関係の名曲の数々に惹かれて、一枚のCDアルバムを私は購入したりした。

ダンス・クィーンなどと称されていたドナ・サマーが、
1994年に名プロデューサーのマイケル・オマーティアンとの共作に寄る
『CHERISTMAS SPIRIT』と題されたアルバムである。
          
そして日本ではマーキュリー・レーベルから発売され、
アルバム・タイトルは、『ホワイト・クリスマス/ドナ・サマー』となっている。

①ホワイト・クリスマス
②クリスマス・ソング
③神の御子は今宵しも
④クリスマス・イズ・ヒア
⑤クリスマス・メドレー
  a.このみどり子は誰なるぞ
  b.ドゥ・ユー・ヒア・ホワット・アイ・ヒア
  c.もろびとこぞりて
⑥クリスマスはわが家で
⑦クリスマス・スピリット
⑧プレイス・オブ・ヘヴン
⑨オー・ホーリー・ナイト
⑩ラム・オブ・ゴット

私は初めて聴いた後、真の大人の歌手が圧倒的な歌唱力で唄い上げ、
オーケストラとゴスペラ・コーラスを背景にした作品であり、
黒人霊歌を根底に育ったドナ・サマーが、真摯に唄うクリスマス・ソングの一曲でも聴くと、
まさに使い古された言葉であるが、鳥肌が立ち、思わず襟を正された・・。

かといって、どなたでも親しみのある名曲ばかりであるので、
たとえ一流のホテル、街のお洒落な居酒屋でも聴きやすいアルバムでもある。

私はクリスマス関連のアルバムを10数枚を所有しているが、
このアルバムのドナ・サマーが、『クリスマス・ソングス』、『神の御子は今宵しも』
そして『もろびとこぞりて』等を聴いたりすると、
やはり日常生活でキリスト教に信愛し、親しみを持たれた類(たぐい)稀(まれ)な歌手に、
底知れぬ唄声に降参し、魅了されるのである。

私はドナ・サマーに関しては、このたった一枚のアルバムしか知らないが、
毎年クリスマス・シーズンになると、
このアルバムを盛んに聴いたりして、早や18年は過ぎている。


私のサラリーマン現役時代の時、確か1983年のこの時節に初めて聴いて、
巧過(うます)ぎる歌だなぁ、と瞬時に感じた山下達郎さんの『クリスマス・イブ』である。

この後に、JR東海のCMに盛んにテレビで放映され、
離れ離れの若き男女で、待ちわびて、そしてやっと逢える、といった情景だったと思い浮かべている。

山下達郎さんのこの曲の唄声を背景に、
その後も毎年のように幾つかの若い男女のせつなく、もどかしい情景が映しだされ、
私は微笑みながら、秘かに若い男女に幸せあれ、と心の中で祈ったりしていた・・。

そして昨今は、携帯電話、スマートフォンなどを若い方たちは愛用しているので、
待ちわびる、と言った情感は死語になってしまい、愛惜感も増す名曲である。

そして私は、若き男女のおふたりに、冬の天の川のように心寄せながら、
ときめき、もどかしさ、せつなさの恋情を齢を重ねた私さえ、
感じられ、感銘させてくれる歌である。


クリスマス・ソングの中で、園児から高齢者まで高揚させてくれる歌は、『赤鼻のトナカイ』である。
年金生活を始めて、確か翌年のクリスマスの直前だった、と記憶している。

平素の買物専任者の私は、午前のひととき、私は二軒ばかりのスーパーに買物に行った。
数多くの人々が三連休の最終日、その上、クリスマス・イブなので、
何時もの平日と違い、込み合っていた・・。
ご家族の方たち、現役の40代のご夫婦等が見受けられ、私なりに微笑ましく、感じられた・・。

店内からは、

♪真っ赤なお鼻の トナカイさんは
 いつもみんなの 笑いもの

【 『赤鼻のトナカイ』 作詞・新田宣夫 作詞・MARKS JOHND 】

メロディが流れた・・。

私は何かしら追われるように、買物の選定をしたのであるが、
クリスマス・ソングの中で、誰しもが知っていて、親しまれ、心を高揚させる曲は、
『赤鼻のトナカイ』は、突出した最高の曲と思ったりした。

買物の客が、何かしら追われるようにクリスマス関係商品を数多くお買い上げ頂ければ、
と店長の発想であったならば、優秀な店長と私は誉(ほ)め讃(たた)える。

そして選曲を『ホワイト・クリスマス』などにした場合、
買い物客は、何かしらしっとりと聴きこんでしまい、お買い上げの向上に図れないと思う。

たかが、クリスマス・ソング、されど選定された曲は何かしらの向上に役立つ、
と私は微苦笑したのである。

この時節、元気のない人は、『赤鼻のトナカイ』の一曲を聴けば、
心身元気を取り戻す特効薬かしら、と微笑んでいる。
          

このように選曲していたが、私は読み返しながら、
歌の世界から、私の人生に於いて、最も影響を受けたひとりのお方を忘れていたのである。
古い表現で云うと、シンガー・ソングライターの中島みゆき・女史である。

私は40代の1989〈昭和64〉年に、偶然に中島みゆきさんの『エレーン』を聴き、
この当時の私は情報畑で、消費税実施が4月から実施されるのでシステム改定、
そして昭和天皇がご逝去となり、『昭和』から『平成』の年号改定に苦闘していた時で、
心身ボロボロのような時に聴き、人生の心のピンチを救われたりした。

その後、私は40代の半(なか)ばに、ギックリ腰が悪化して、
28日ばかり入院して、もとより業務から離脱し、社会から取り残されたように心情の時、
『永久欠番』で救われたり、
私が勤めていた会社がリストラ烈風の中、55歳から出向時代していた中で、
『ヘッドライト・テールライト』が支えのひとつとなったりした。

そして何よりも『HAFE』は少なくとも55年間で数多く音楽を聴いた中で、
最も影響を受けて感銘しさせられた作品である。

私にとっては、やはり中島みゆき女史は、たぐい稀な女神であり、
この思いは、ここ25年近く、敬愛している。

このような私であるので、中島みゆき女史のクリスマス・ソングは知っているし、
秘かに心の中で唄ったりしている・・。

『歌麿』と題したコンサート(1986年)の中で、
この中の一曲として『クリスマスソングを唄うように』である。
          
この世に、珠玉、という言葉があったならば、
まぎれなく『クリスマスソングを唄うように』の歌は最もふさわしい、
と思いを重ね、私なりに最も愛すべきクリスマス・ソングである。


このように独断と偏見がある私が選定した歌である。
もとよりクリスマス・ソングは、松任谷由実さんの『恋人がサンタクロース』、
竹内まりやさんの『今夜はHearty Party』、マライア・キャリーの『恋人たちのクリスマス』、
ワム!の『ラスト・クリスマス』などが多々あるが、私は上記の曲に圧倒的に魅了されている。

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