夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

我が家の年金生活の実態、やはり変貌して、私は微苦笑して・・。

2023-04-30 12:27:39 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む78歳の年金生活の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、雑木の多い小庭の中で、
古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。


こうした中、我が家の生計は原則として、
私たち夫婦は、お互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で、
日常生活を過ごすことを原則としている。

そして耐久品の購入、冠婚葬祭、そして私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して、丸18年を過ごしてきた・・。

こうした中で私たち夫婦は、原則として月初めには
家計簿をお互いに確認しながら実施している。



こうした根底の理由としては、47年前、私たち夫婦が婚約する前、
お互いに隠し立ては・・やめましょうねぇ、
と私は妻となる人から言われたりしてきた。

そして私たち夫婦は、結婚以来、毎月家計簿を原則として翌月の初めにしているが、
もとより生活費をお互いに確認した上で、
私、家内が趣味に使える費用を捻出する為に、 毎月確認し、家計簿の月次決算をしている。

このような関係で、本日の午前中、4月度の家計簿を締めたりした。
たまたま4月度は、年金収入があり、もとより2カ月分であるので、
黒字であったりした。

しかしながら、ここ数カ月、私たちの晩秋期に備えて、
寝室とか居間を見直してきたので、ベツトや寝具まわりなど、買い改めたりしてきたので、
支払いがの一部が4月にあったりしたので、程々の黒字だったので、
私たち夫婦は、お互いに微苦笑したりした。




過ぎし年、私が定年退職後のセカンドライフについて、家内と話し合ったのは、
定年退職時の5年前のリストラ烈風の中、私は出向となったのは55歳の時であった。

もとより老後の資金の予定額も必要で、経済にも疎(うと)い私は、
経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読んだりした。

そしてデフレ経済の蔓延している中、定年時に持家(マンションか戸建て)のローンは返済完了となり、
預貯金が3000万円あれば、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
少しづつ取り崩して生活すれば、少しゆとりのある年金生活ができるかしら、と学んだりした。

このように私は、経済ジャーナリストの荻原博子さんを信頼し、
何かと年金生活のお金に関しての指針のような御方と感じ深めてきた・・。


やがて35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
                          
そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。




こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、
結婚以来、国内の各地をときおり旅路を重ねてきた・・。

やがて2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
旅行の日程から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなったりした。

そして季節としては、5月の大型連休が終わった後、
或いは舞い降る雪が恋しく冬の時節に旅行をすることが、多かったりしてきた。


私たちの旅路、定年後まもなく自動車の免許書の更新を中止した私は、
最寄駅の近くにある旅行代理店に私たち特有のプランを依頼して、JR、航空機、フェリーなど、
そして宿泊先を選定したりしてきた。

或いは通販のクラブツーリズムの滞在型で、魅了されたプランに参加して、
幾たびか活用したりしてきた。

いずれにしてもリゾートホテル、観光ホテル、観光旅館などに滞在して、
街中、周辺を歩き廻ったり、郊外の山里の小道を歩いたりして、遊学をしたりしてきた。

このように私たち夫婦は、家内だけは一人住まいの家内の母の介護で、
毎月、6泊7日前後で行ったりしていたが、これ以外は、
私たち夫婦は安楽に過ごしてきた・・。



やがて4年前の
2019年の4月、家内は初期の膵臓がんに遭遇して、
 家内は2泊3日で検査入院した後、
5月12日より摘出する手術で入院をして、この後の経過状況、
やがて回復状況も医師より順調と診断され、19泊20日間を得て退院となり、
我が家に生還してきた。


もとより、この間の私たち夫婦は、最悪の場合を想定することもあったりして、
震撼しながら揺れ動いたりした・・。

そして転移などで死去する確率も高く、家内は身の回りを整理し、
やがて私たち夫婦は、再入院、葬儀、お墓、ひとり住まいなどを、
人生の晩年期の終活を話し合ったりした。



やがて手術後、まもなく4年を迎えるが、体調は万全ではないが、
幸運にも転移していなく、お互いに安堵したりしている。

もとよりこの間、新コロナウィリスの烈風もあり、
私たち国民の多くは、自粛が余儀なくされて、
やっと解放感を享受している・・。

こうした体験も重ねてきた私たち夫婦は、年金生活丸18年が過ぎ、
19年生となっているが、いろいろな人生の体験をしてきたなぁ・・、
とりとめなく思い馳せたりしている。

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『昭和の日』を迎え、78歳の私は、過ぎし昭和の時代に、愛惜を深めて・・。

2023-04-29 07:44:27 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であり.
今朝、ぼんやりとカレンダーを見たら、『昭和の日』と朱記されていたので、
『昭和の日』かょ・・と戸惑いながらも微苦笑したりした・・。

私は『昭和の日』については、遅ればせながら自覚したのは確か12年前の頃で、
やはりに、私に取っては昭和19年(1944年)の秋に農家の児として生を受け、
昭和64年(1989年)の1月7日の昭和天皇が崩御される年まで、
この日の4月29日は・・身も心も『昭和天皇陛下のお誕生日』と思いながら、長らく過ごしてきた。

このような心の奥底に秘めてきた私は、今回『昭和の日』に際して、
私の『昭和』の時代は、少なからず45年近く空気を共にしてきたので、
もとより私の自己形成は『昭和』の時代であったので、今でも過ぎし『昭和の時代』は愛惜を深めて、
時折あのようなことがあったよねぇ、と私は思い馳せることがある。


                        

私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、私が今住んでいる近くで農業をしていた。

こうした中、私が地元の小学校に1951年〈昭和26年〉の春に入学した当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑を耕していた。
そして所有している田んぼの中に小さな川が流れ、湧き水もあったりした。

母屋の周囲には、竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、納戸などがある農家であった。

母屋の中のひとつの10畳の和室には、梁の近くに神棚が備えられ、
ある10畳の和室には、片隅みの一角には仏壇があり、
朝には新たにお茶、お線香を捧げていた。

この部屋の梁の近くには、昭和天皇のご一族の皇族の写真が掲げられていた。
そして土間の竈(かまど)のある梁の近くに、小さな神棚が備えられいた。


長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。

もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、

万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。



私が地元の小学校に入学したのは、1951年(昭和26)年の春であり、
それ以前は周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。

託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、
幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、
ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。


幻燈機は、若い方には不明と思われるが、

現代風に表現すれば、白黒の(モノクロ)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。

私も実家で、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。

総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に、
確かなストリーの
意味合いも理解できなくとも、
なぜかしら感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。




こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、

『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。

私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であった。

この当時は、駅の周辺は商店街があったが、実家は駅までは15分の道のりであり、
この店しかなかったのであった。

私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。

そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と言ったりした。

店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡(ます)に満たし、その後は一升瓶に移したりした。

この当時は、周囲の農家の殆どは、冠婚葬祭で一升瓶を数本贈答したり、
年末年始とか行事のある場合は、
何本かの一升瓶を購入していたが、

平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。

この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。

『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。

そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。

そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。



やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。


後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたりした。

昨今、私はスーパーで買物をしている時、
丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、

ときおり幼年期に酒屋さんから頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。




この間、6歳の私は母に連れられ、年に一度ぐらい新宿の伊勢丹(デパート)に行ったりした。
母は私と妹を両手につなぎ、末妹は乳児だったので背中にしょっていた・・。

そして京王線の『金子(現在・つつじが丘)』駅から『新宿』駅まで電車に乗ったりした後、
新宿三丁目まで歩いたりした。

そして伊勢丹(デパート)の階段の踊り場、或いは地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。

こうした中で、ある時は母から私は勝手に手を放して、デパートの店内で迷子となり、
人形の売り場で半ベソになっていた私は、店員さんから救出されて、
探していた母の元に行ったりした。
                         

私が小学校の高学年になると、映画に魅せられて、
付近の調布、布田、千歳烏山の映画館に、独りでよく通ったりしていた。

こうした中、次兄から都心の日比谷にある映画を観ようと誘われて、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物酔いで私は吐き気がして困苦した・・。

確かあの頃の都電は、運賃は均一13円と記憶しているが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、
青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。
                

このように私の小学生時代までの思いでは、走馬灯のように思い浮かび、
その後の地元の中学時代、そして都心にあこがれ始めた高校時代・・など限りなく、
思いでを秘めている。



やがて昭和64年(1989年)の1月7日の昭和天皇が崩御された当時の私は、

音楽業界のあるレコード会社に勤務して、情報畑で悪戦苦闘ながら奮闘していた多忙時であり、
もとより私にとっては『昭和の時代』は、あふれるように愛惜を重ねたりするが多い。
          

過ぎ去る年の昭和63年(1988)年の晩秋、会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。
昭和天皇が病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれていた・・。

そして昭和64年(1989年)の1月7日の朝、
私は昭和天皇が崩御された、とNHKのテレビのニュースで視聴し、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。

この後、私はいつものように会社に出勤した後、
フロアー別の朝礼の時、専務取締役のひと言で、私たち一同は皇居の方面に向かい、
黙祷をした・・。


その後の私は、4月から『消費税』の対応策で多忙な身である上、
更に『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したので、慌しい日々を過ごしていた。

こうしたこともあり私の心情は、平成元年といわれるより、
昭和64年といった方が心身の波長が合うので、何かしら戸惑ったのは事実である。
         


もとより敗戦後の荒廃した日本は、
敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。


私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、

少なくとも世界の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代も奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。

私たちが過ごしてきた昭和の時代は、
日本の多くの人たちは、一生懸命に働けば、年収も毎年増え、

そして家族で明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。



こうした中でバブルが終息し、そして平成元年(1989年)11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』した後、
やがてソ連が崩壊し、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変し、
世界の経済が自由主義経済の一色となり、やがて日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などに国際競争力に敗退し、かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。
          

やがて殆どの民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、
低下してきた・・。


そして私は確か15年前の頃、
働いて下さる現役世代の男性の民間会社に勤めている正社員の人たちが、

平成9年( 1997年〉の時点から、年収が横ばいと知り、無力な私は悲嘆した・・。

      
こうしたことは私たちの息子、娘の世代から観れば、
お父さんは会社で一生懸命に奮戦し働き、マンションか一軒家を買い求めたり、
もとより家計の責務があったりしていた。

そして『昭和妻』と称せられたお母さんは、専業主婦で家庭を守る中で、
子供ふたりは程ほどの自由な生活を満喫し、大学まで学び、

やがて子供は結婚して独立させてくれた典型的な中流社会は、大半は崩壊した・・。

その上、経済は低迷していると言われている現在さえも、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。
          
          

こうしたことを思いつくまま昭和の時代を思い馳せたりし、

平成の時代になってから大きく変貌したことを綴ってきたが、
私は何より社会が劣化し、言葉、しぐさが雑になった、と憂いている。

はじらい、うつむく、待ちわびる・・死語に近く、
どうしてなの、と私はため息をすることが多いのである。

何よりも戸惑うのが、ジーンズの膝付近に、あえて穴を開けたり、
わざわざ磨耗したような生地にしたりすることである。

私は10代から30代の頃までは、ジーズンを愛用したひとりであるが、
新品を購入し、
数年過ぎれば、それなりの磨耗した状態となる。

もとよりジーズンは、普段着の長ズボンであり、
気軽な労働服のような思いながら穿(は)きつぶしてきたが、

決してファーション着ではないのである。
          


こうしたことを余り綴ると若き諸兄諸姉に嫌われるので、これ以上は記載しないが、

平成の時代に生まれ、現在は10代、成人となられた20代の世代の方たちに、
たとえば映画の小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年=昭和28年)を観た時、
どのように感じるか、と齢を重ねた78歳の私は、限りなく関心がある・・。

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ゴールデンウィークを迎え、78歳の私は、微笑みを重ねて・・。

2023-04-28 13:39:47 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、雑木の多い小庭の中で、
古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中、今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、今年のゴールデンウィークは、
明日の4月29
日の土曜日の『昭和の日』から 5月 8日の日曜日までかしら、と思ったりした・・。

我が家のゴールデンウィークに関して、過ぎし4年前に家内は大病に遭遇し、
体調が万全ではないので、旅行など遠出、人出の多い都心、行楽地など自制して、
過ごす予定である。


こうした中で、午前中のひとときは、私は独りで外出して、
自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園、住宅街の歩道などを散策して、
季節のうつろいを享受する予定となっている。

こうした時は、殆どデジカメをネクタイのように首回りから下げて、
颯爽と歩き、 歩いている中で瞬時に魅了された情景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりできれば・・。

そしてできうれば、雨は夜に降り、朝は雨あがりの中、
やわらかな朝の陽射し・・日中は紺碧の空の中、ときおり薫風を身体に受け、
若葉を眺めたり・・散策できれば、
この世の最上の贈り物・・と78歳の私は思ったりしている。



この後、午後より夜にかけて、
読みたい随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書をしたり、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴ければ・・、と願ったりしている。

この間、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりする予定である。

或いは家内がお茶を飲みたい、と私は察知した時、
素早く茶坊主に徹して、まもなく家内と語り合う・・。

このように過ごす予定であるが、昼下がりのひととき眠くなったら、
昼寝をしょうと思ったりしている。



このように漠然と思ったりしていると、
平素の年金生活の私と殆ど変わらないなぁ・・と微笑みを重ねたりしている。

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78歳の私は、家内に『まもなく丸4年・・何よりだよなぁ・・』

2023-04-27 14:49:21 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。


私が年金生活の当初から、我が家の平素の買物は、 私は自主的に買物専任者として宣言し、
家内から依頼された品を求めて、 独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、
買物メール老ボーイとなっている。

こうした中で、私たち夫婦は3週間に一度ぐらい最寄り駅の付近で買物して、

私は家内のボディガード、お供そして荷物持ちで、3週間に一度ぐらいしている。

或いは年に3回ぐらい都心の新宿にある伊勢丹、小田急、京王などのデパートに買物をしてきた。




こうした中、過ぎし2019年の4月、家内は初期の膵臓がんに遭遇して、
 家内は2泊3日で検査入院した後、
5月12日より摘出する手術で入院をして、この後の経過状況、
やがて回復状況も医師より順調と診断され、19泊20日間を得て退院となり、
我が家に生還してきた。


もとより、この間の私たち夫婦は、最悪の場合を想定することもあったりして、
震撼しながら揺れ動いたりした・・。

そして転移などで死去する確率も高く、家内は身の回りを整理し、
やがて私たち夫婦は、再入院、葬儀、お墓、ひとり住まいなどを、
人生の晩年期の終活を話し合ったりした。



やがて手術後、まもなく4年を迎える本日の4月27日、

定例の3カ月毎のCTなどの精密検査を受診した。

この結果は5月11日に、手術をして下さった担当医師より、
今回の精密検査の結果情況を診断され、
当事者の家内に伝えられるのが定例となっている。

前回の2月16日は、幸運にも転移した情況はなし、と診断されて、
私たち夫婦は安堵をしたりした・・。



本日、朝の8時過ぎに我が家を出て、

手術した大きな病院に予約時の前に、家内は検血検査があったり、
この後、CTなどの精密検査を受診した・・。

しかしながら、いつものようにCTなどの精密検査の場合、
前日の夜の9時以降は食べ物は厳禁であったりして、
家内は幾分緊張気味であったりして、
私もこうした事態、少し疲れてしまい、苦笑したりした。



やがて病院を辞したのが午前11時45分過ぎで、
帰宅の途中でコンビニで、昼食代わりのお弁当を買い求めて、
帰宅したのは午後1時半であったりした。

やがて遅い昼食のお互いに食べながら、
『まもなく丸4年・・転移せずに迎えられたこと・・何よりだよなぁ・・』、
と私は家内のこれまでの心身の戦いに労(いたわ)り、言ったりした。
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恥ずかしながら、我が家のカレンダーのひとつ、特記事項は・・。

2023-04-26 11:18:02 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、雑木の多い小庭の中で、
古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中、我が家の平素の買い物に関して、年金生活を始めた当初より、
私は自主宣言をして、家内から依頼された品を求めて、
ここ半年は2日毎にスーパー、専門店に独りで行っている買物メール老ボーイとなっている。




私はある民間会社に35年近く奮戦して2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めたりした・・。

そして定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。

そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と確信し、
平素の買物専任者を自主宣言したりした。

          

平素は、朝食後に家内は、いつものように新聞に添付されているスーパーのチラシを見た後、
赤のサインペンで丸印を付けたりする・・。

やがて私は手渡されて、赤丸が付いたのが本日の買物の対象品であり、
そして私が店内で魅せられた品を追加するのが、我が家の鉄則となっている。

このような年金生活をしている私は、
スーパー、コンビニ、専門店のドラック・ストアー、
ときおり本屋に立ち寄って買い求めたりしている。



今朝、家内がスーパーのチラシを見た後、
微笑んだりしていた・・。

やがて私は家内よりスーパーのチラシを受け取り、見たりした時、
赤丸が二重丸付いた箇所を見て、私は微苦笑したりした・・。

4月26日(水) ~ 28日(金) 3日間
    ジャム・はちみつ  2割引

4月29日(土) ~ 30日(日) 2日間
    スパイス  2割引
    缶  詰  2割引

このように代表的な商品名が写真入りで明示されていた。

我が家は、家内がジャムで、確かアラハタのあんずが、
わたしの味覚にビッタリょ・・と私に幾たびも言ったりして、
特売の時に、少なくとも一か月分として6つ前後は、購入している。

私の好みは、缶詰のとうもろこし(コーン)、そしてサバの味噌煮を
特売の時に多めに購入している。

とうもろこし(コーン)は、私の昼食の時に、デザートとして愛食している。
そしてサバの味噌煮は、生魚などが苦手な私は、せめて代わりに缶詰で補っている。

このような私たち夫婦の事情であり、
ともすれば忘れがちの多くなった私は、居間にあるふたつのカレンダーの中で、
小さなカレンダーの方に、こっそりと小さな青色のサインペンで、
  
26日(~28日) ジャム
29日(~30日) 缶 詰

と記入している。



こうした根底には、昨年の晩秋の頃より、私はスーパーのレジで精算する時、
思ったより支払額が高く、テレビのニュースで報じられた値上げラッシュ、
実感させられたりした・・。

こうした中、我が家は高齢者の年金生活の身であり、
もとより厚生年金、わずかな企業年金は、減ることはあるが、
増えることは稀(まれ)が実態となってきたので、
せめて我が家は、買い物は特売品を重視している。
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過ぎ去った日々の写真、情景はもとより、心情まで、蘇(よみがえ)り・・。

2023-04-25 10:22:12 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
昨夜のひととき、パソコンに収納している『写真』の整理をした・・。



私のこれまでの写真は、パソコンの内部の【 ピクチャ 】に保存し、
万一の場合に備えて、外部ハード・ディスクにコピーしている体制としている。

しかしながらパソコンの反応が鈍(のろ)くなり、
ここ一週間、ときおり写真の一部を破棄してきている・・。

もとより事前に、パソコンの内部の【 ピクチャ 】を、
とりあえず2004年から2017年までブルーディスク(BD-R)にコピーし、
8枚となり、こんなに撮ったの・・と一週間前に、我ながら微苦笑したりした。



もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
私は独りで外出して、 自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、
季節のうつろいを享受している。

こうした時は、殆どデジカメをネクタイのように首回りから下げて、
颯爽と歩き、 歩いている中で瞬時に魅了された情景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりしている。

或いは家内と共通趣味の国内旅行を幾たびも重ねる中、
その地の情景に圧倒的に魅せられて、撮ったりしてきた。
 

こうした中で、恥ずかしながら私は、齢を重ねるたびに忘れることもあり、
やむなく記憶のかたみ、として撮り続けてきた・・。
 
そして過ぎ去った日々の写真を見たりすると、
あんな情景があったのか、と愛惜を重ねたりしている。
 



昨夜、写真の整理をしている中で、2年前の撮った写真を見ていたら、
こうした撮った時の情景を見ていると、
この時の心情まで蘇(よみがえ)り、独り驚いたりした。



そし何よりも驚いたのは、たった2年前の今頃の時節の情景・・
新コロナウィルスの烈風の中、公園も閉鎖される中、
やむなく自宅の付近にある小公園をさまよったりしていた・・。

この時は、こうした光景に魅せられ、こんな風に撮ったの・・
と心情まで、蘇(よみがえ)り・・、
独り微苦笑をしたりした・・。 
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夢は貧富に関係なく、感性の賜物〈たまもの〉と私は確信を深めて・・。

2023-04-24 09:44:55 | 喜寿の頃からの思い
ほとんど日頃から夢の中で叶(かな)えられ、殆ど毎夜享受している。

もとより夢は貧富に関係なく、その人なりの日頃の思い、言動の余韻、余情、
そして感性の賜物(たまもの)と私は確信を深めて、微苦笑したりしている。

つたない人生航路を歩んできた私でも、夢をみたりして、
目覚めた朝方に、薄らと汗ばんたりしていることが多い。



私は2004年(平成16年)の秋に定年退職するまでの半生は、
何かと屈折と卑屈感を秘めて、つたない人生航路を歩んだりしてきた。

こうした中、夢はときには昨日の続きの連続ドラマのようなことがあれば、
或いは映画館で観た三本立てのようにみることがある。

そして、総天然色(カラー)の時もあれば、白黒(モノクロ)だったりし、
目覚めた朝、ぼんやりと微苦笑することもある・・。
          
私は小学生の後半期、地元の映画館などで3作品を一挙に上映した三本立てを
数多く観たりしていた映画少年だったので、
この習性の余情かしら、と思ったりしている。

          


私は1960年(昭和35年)の中学3年の終りの頃、
私は職員室で担任の女の先生から呼ばれ、
『XXくん・・あなた眼・・悪いわね・・0.3って・・』
と先生は、健康診断書を見ながら、私に言った・・。

『・・どうして・・今まで黙っていたの・・
メガネを掛けないと・・黒板の字も見えないでしょう・・』
と先生は苦笑しながら、私に言った。

私は教室の指定された後部に座って、黒板の字もかすれていたが、
同級生もこのような状態と思い、信じていたのである。

こうした根底には兄ふたり、妹ふたりもメガネをしていないので、
それなりに思い込んでいたりした。

このようなことがあり、特に算数の基礎である因数分解など理解できず、
高校生になっても微分、積分などの授業には、理解できず
逃げ回っていたグループのひとりであった。

このような結果として、もとより期末試験などは惨澹たる結果であり、
ときおり今でも、悪夢となり呻(うな)されたりすることもある。

                         

サラリーマン現役時代だった頃の夢みる時は、どうしてなのか、業務の成功例より、
遥かに失敗したことを多く、目覚めた時に苦笑したりしている。

たとえば、上司、同僚、後輩がいる中、突然に中学時代の悪友が出てきたり、
どうしてお前がいるのょ・・、 と私は戸惑ったりしている。

ときには秘かに思い続けた小学校時代の初恋の同級生に見つめられたりし、
貴女はどうしているのょ・・、とありえない時代の落差に戸惑ったりし、
冷や汗をかくこともある。

或いは幼年期の私は農家の児であったので、
田畑、雑木林など景観を観たり、湧き水、竹林の筍(タケノコ)、野菜の収穫時などの
情景をみることもある。

こうした体験をしてきた私は、夢はもとより貧富に関係なく、
その人なりの日頃の思い、言動の余韻、余情、
そして感性の賜物〈たまもの〉と私は確信を深めて、微苦笑したりしている。

          
               

私の理想的な夢のひとときは、恥ずかしながら告白すれば、
齢ばかり重ねた今でも、女性への煩悩を捨て切れない拙(つたな)い身として、
秘かに思いながら、眠りにつくこともある・・。

街中、駅前などで、たまたまワンピース、ツーピースが似合う60代、70代の人を見かけ、
たまたま謙虚な会話が聴こえたり、魅了されるしぐさを感じた時、
或いは紬(つむぎ)が似合いそうな臈長(ろうた)けた人を見かけた時などある。

ときにはブログの世界で、シニア層と称せられる女性の方の投稿文に於いて、
読ませて頂だく中で、瞬時に魅了されたりすると、
どのような顔立ち、しぐさ、言葉を平素の生活の中で重ねる御方かしら、
と思わず想像してしまい、微笑んだりすることが多い・・。

私はこうした御方と語り合い、散策した後、無念ながらお別れねぇ、と握手する、
このようなことを私なりに夢で願望したりしている。

私はこのようなことを思い馳せれば、思い込みが強い性格であるので、
ほとんど日頃から夢の中で叶(かな)えられるひとりである。

          

昨夜は、たまたま夢の中でお逢いできた人は、
サラリーマン時代にめぐり逢えた上司、同僚、後輩であったりした。

何かしらOB懇親会で、男性メンバーで二次会まで有志が参加され、
やがて延長戦として、新幹線で熱海まで行き、宿泊してゆっくりと語り合おう、
という内容であったりした。

現実的には、二次会まで考えられるが、
この年代で突然に社員旅行のように宿泊することはないので、
目覚めた後、どうしてなの・・と戸惑いながら微苦笑したりした。

思い当たることは、新コロナウィルスの烈風で、OB懇親会は幾たびに延期となり、
たまたま昨日、パソコンに保存しているOB懇親会の記念写真を見たりして、
それぞれの御方と立ち話を思い馳せたり、しぐさを想い重ねたりしてきたので、
こうした余韻が脳裏に残っていたと思われ、独り微苦笑したりした・・。

         
                          

私の現(うつつ)の日常生活に於いては、
近所の奥様、ときには御主人と自治会の回覧、買物、散策の時などで、
私は立ち話をしたりすることが多い。

過ぎし3月のある日、日常の我が家の買物専任者の私は、
いつものように独りでスーパーに行った。

そして家内から依頼された品を買い求めた後、
レジ袋を両手に提(さ)げた上、
12ロール入った1ケースのトイレット・ペーパーも提(さ)げて、
重くてかさばるよなぁ、と歩きながら帰宅に向っていた。

こうした時、近所で好感している奥様と出会ってしまい、
大変ですわねぇ、と言葉をかけられて、
私は赤面したりした。

このように私は、夢のひととき、現(うつつ)の日常生活では、
落差がありすぎる、と苦笑することが多く、
つたない人生航路を歩んだ私は、戸惑ったりしている。
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映画好きの方たちは、その作品を観た年代で評価は変貌する、と私は思いながら・・。

2023-04-23 08:02:54 | 喜寿の頃からの思い

私は齢ばかり重ねた78歳の身ながら、映画を観ることが好きである。
しかしながら感性は衰えた為か、殆ど20世紀に上映された作品を鑑賞することが多い。

私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年で、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりしたが、
脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人のアドバイスで、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。

純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。



そして、やむなくサラリーマンに転職しょうと、軌道修正をした。
コンピュータの専門学校に一年ばかり学び、これを梃子(てこ)にした上、
この当時は大企業のある音響・映像メーカーに、何とか中途入社できたのは、
1970年の春であった。


この後、まもなくしてこの会社の音楽事業本部の中のひとつが、
外資系のレコード会社として新設されて、

私もこの新たに創業された外資系のレコード会社転籍させられたりした。

やがて
35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
                          
そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。




日常のひととき、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、
たまたま作家・小池真理子さん著作の『恋愛映画館』(講談社文庫)、
そして作家の塩野七生さん著作の『人びとのかたち』を再読し、
映画批評を思い浮かべたりした。

私は映画批評の基本として、何年生まれで、何時鑑賞し、
何時に批評を書かれたかは最大の力点に於いている。

それぞれのお方なりに映画館に通って、
当時の映画を観たかは、社会の世相が当然加味されるから重要視している。



さしずめ私は1944年生まれであり、
小池真理子さんは1952年生まれ、
そして塩野七生さんは1937年生まれである。

こうした考えにたつと、例えば私が二十歳で封切館で鑑賞したとすれば、
もとより塩野七生さんは大人の風格があり、
小池真理子さんは少し大人びた中学生となる。

例えば、1964年の時代の名画のひとつの『かくも長き不在は』に関し、
塩野七生さんでしたら、明確な輪郭を持った筆力で表現でき、
私は背伸びしながら拙(つたな)いなりに表現が可能だが、
小池真理子さんの年齢を配慮すれば無理なことがわかる。

そして1966年の時代になれば、
たとえば『ドクトル・ジバコ』の映画となれば、
才気のある小池真理子さんは的確に批評が描き出される,
と思ったりしている。

この前提としては、当然それなりの情熱と知性、そして感性が必要であることは、
いうまでもないことである。

私は単たる映画批評といっても、それぞれの人なりに人生を歩まれてきた中で、
もとより主観も相違があるので、それなりに思想としての人生観の一部を
かいわ見ることが出来る。

このようなことをボンヤリと私は思い、独り微苦笑している・・。

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『ブログ開設から6666日』、偏(ひとえ)に多くの皆様に感謝を重ねて・・。

2023-04-22 07:53:44 | 喜寿の頃からの思い

昨夜、私が所属しているブログの【 goo blog 】に於いて、
『 ブログ開設から6666日 』と表示され、我ながら驚き、微苦笑したりした・・。

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
5歳若い家内と雑木の多い小庭の中で、古ぼけた戸建てに住み、
ささやかに日常を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や19年目となっている。


             

私は民間会社のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
                          
そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。



過ぎし年金生活を始めた当時、ネットの世界は私は殆ど無知な癖に、
この当時にIBMなどからホームページ作成素材のソフトを買い求めて、
漠然としながら『ホームページ』を立ち上げようと思ったりした。

そして自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを
出来うる限り随筆風の散文を綴り、公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、
無名の私が開設・運営した所で果たして、と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。


この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。


                         
           
ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれの御方が自由に、私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済、社会などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、
誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来してきた・・。

この少し前の時代は、もとより各専門知識のある有識者が、
雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、せめて新聞・雑誌などの読者コーナーで、
記事を投書できる範囲であり、
何よりも掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、政治、経済、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露できる上、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。

そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後は、
2つばかりの10万人ぐらい加入していた小さなブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ= goo blog 】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入し、
たまたま昨日で6666日が過ぎている。

この間、まもなく他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
やがて2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
        
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸18年が過ぎて、早や19年生となっている。
結果的には、パソコンの故障、国内旅行、入院などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。



                         
               
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどが
心の叫び、思いがあふれ、
心の発露の表現手段として、
ブログの投稿文を綴ったりしている。

                                                 
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。



こうした中で、60代の投稿文の内容は、やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、ありのまま数多くの投稿文を綴ってきたりした。

そして70代になると、無念ながら自身の体力の衰えを実感した為か、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに、
私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、
独り微苦笑する時もある。                                   

ここ一カ月前の頃より
、反省をして、初心に帰れと、随筆風の投稿文に回帰している。

                       



こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、

投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは10年近く前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
         
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省する時もある。


ここ10数年、このサイトに綴ることが生きがいのひとつになり、
数多くの皆様に支(ささ)えられて、私がブログが継続できたこともあり、
偏(ひとえ)に感謝の一言です。

             
                      

こうした中で、数多くの皆様の投稿文を読ませて頂くと、
ここ12年ぐらい殆どの方が、心ある写真を添付されたりしてきた。

そして私は、いつまでも言霊(ことだま)を信愛し、散文のような文章だけでの表現は、
時流に残されてしまうかしら、と私なりに憂慮してきた。

特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもある。

過ぎし2012年(平成24年)の『文化の日』の翌日の4日から、
私は遅ればせながら写真添付を始めて、投稿文を重ねているが、
昨今、写真を添付しないと、何かしら寂しい心情となり、我ながら微苦笑したりしている。
               
                 
こうした中、私は特に数多くの50代以上の皆様の投稿文を読ませて頂きながら、
いつも感じられることは、それぞれ生を受けた環境も違い、
その後に育った状況、学歴、その後の社会人として職業、結婚生活・・、
やがてシニア世代となり、それぞれの生活をしていて、
もとより誰ひとり、同じ人生航路を歩んできた人はいないのである。


その上、人それぞれ思考、信条、性格なども違うし、この広い世界で同じ人はいなく、
男性グループのSMAPの唄った『世界に一つだけの花』のような存在でもある。
                    


そして人は誰しも光と影を有している中、
日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、

圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生航路の軌跡に思い馳せながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、つたない私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を学びながら、年金生活を過ごしたりしている。



或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

または言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。


          


こうした数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
私は瞬時に心の中の琴線(きんせん)が静かに奏(かな)でり始めて、
やがてその御方のブログに魅了されて、愛読者のひとりになってきた・・。

或いはコメントを頂いたり、或いは私は数多くの方の投稿文を読ませて頂き、
感きわまってコメントをしたりしている。

何よりもこの広い空の下で、お逢いしたこともない御方に投稿文の上で、
めぐり逢えたことに秘かに感謝を深めたりしている。

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都立の『神代植物公園』、78歳の私は、一時間ばかり立ち寄りして・・。

2023-04-21 14:26:02 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒家に住み、
ささやかに過ごしている。

こうした中、年金生活の生活の当初より、我が家の平素の買物担当の私は、
家内より、本日は京王線の『つつじが丘』駅の周辺の買物を指示されたりした・・。

そして血液B型のお調子者の私は、『つつじが丘』駅の周辺の買い物だったら、
その前に『神代植物公園』に少し立ち寄った後に、買い物をしてくるょ、
と私は若き自衛官に負けないように大きな声で、家内に言ったりした・・。

我が家は、お互いに高齢者夫婦であり、特に私はボケてはいけないと思い、
少し離れている時は、はっきりと大声で家内に伝えるのが、ここ10年の習性となってきた。

午前中にお帰りになれば、結構ですわょ、
と家内は微笑みながら私に言ったりした。

まもなく私は路線バスを活用して、やがて都立の『神代植物公園』に到着した。

こうした根底には、我が家の周辺は家並みが密集した住宅街であり、
私は幼年期農家の児として育った為か、
ゆったりとした樹木がある林、森が安らぎを感じるので、
殆ど毎日のように散策している習性となっている・・。



            



園内で今の時節を彩るのは、『シャクナゲ』、『ボタン』、『フジ』の花、
或いは『つつじ』などが百花繚乱のような景観となっているが、
今月は幾たびも訪れてきたので、省略するように、歩いたりした・・。
















そして藤棚のある処は、多くの来客者ににぎわっていたので、
素早く撮ったりした・・。




この後、ベンチが多く、人出のない所で、私が秘かに指定席しているが、
こうした前景を見ながら、ペットボトルの煎茶を飲みながら休息した・・。



やがて再び歩き出して、私の好きな数多く観られる落葉樹の中、
『モミジ』園の今の時節の情景も好きで、見惚(みと)れたりした・・。






やがて、午前中に帰宅する、と家内との約束もあり、園内に辞することにした。

この後、ときおり隣接している『深大寺』は、立ち寄って参拝することもあるが、
今回も『本堂』が多くの御方が参拝で訪れてきているので、
近くにある『元三大師堂』に立ち寄ったりした・・。



たまたま参拝する御方はいなく、私は恥ずかしながら100円玉ひとつ、五円玉ひとつ・・、
こっそりと入れて、家内の体調が早く戻りますように・・、
そして私たち夫婦が沖縄に再び旅行に行けますように・・、
と長らく祈願したりした・・。

このように本日の午前中のひととき、一時間ばかり立ち寄りした・・。
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五月晴れの中、世田谷区立の『次大夫堀公園』を散策すれば・・。

2023-04-20 20:57:14 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の78歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒家に住み、
ささやかに過ごしている。

こうした中、朝のひととき、ぼんやりと私はテレビの天気情報を視聴していると、
安定した晴れの一日となりますが、最高気温は五月のような25度前後となりますので、
朝夕は長袖、日中は半袖が最適と思われます、
と若き女性のキャスターが微笑みながら、報じていた・・。

この後、私は久々に世田谷区立の『次大夫堀公園』を訪ねてみよう、
と思ったりした。





この『次大夫堀公園』は、世田谷区立として『岡本公園』と共に、
姉妹のような民家園であり、私は3月上旬に『岡本公園』訪ねて、魅了されてきた。

そして今回、訪ねる『次大夫堀公園』は昨年の3月上旬に訪ねて、
過ぎし2011年1月下旬、そして2007年の2月下旬に訪れ、
いずれも私の住む近くに野川が流れ、両岸にある遊歩道を下流に向かって、
40分ぐらい歩いたりした。



今回は体力の衰えもあり、園内でゆっくり散策しょうと思い、
路線バスを初めて活用した。

そして長年に於いて通勤に活用していたコースである
我が家の付近に走行している『成城学園前』行のバスに乗り、
やがて『二子玉川』行のバスに乗り換えて、まもなく『次大夫堀公園前』のバス停で下車した。

そして数分歩くと、『次大夫堀公園』に到着して、
足の衰えた私でも楽なコースだよなぁ・・と驚きながら微笑んだりした・・。



この後は、いつのものコースをゆっくり訪ねて、
私は幼年期は農家の三男坊として育てられたので、
心のふるさと・・情景のひとつとなっている・・。








こうした中で、ほかの訪問客は見当たらなかったので、
それぞれの棟の管理のスタッフより、話しかけられたり、
或いは私の方から、さりげなく話しかけたりして、
10分ぐらい真摯に歓談したりした・・。

やがて一時間半ばかり、園内を過ごしたりした・・。

















こうした中、鯉(こい)のぼりが見られて、この後、近寄ってみたりした。

そして4月20日であるが、五月晴れにふさわしい情景だ・・、
と微笑んだりした。




やがて家内から依頼された『成城学園』のある店で買い物があるので、
名残欲しく『次大夫堀公園民家園』を辞したりした。

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朝まどろむ時、この世で最も贅沢なひととき、と私は微笑みを重ねて・・。

2023-04-19 22:22:19 | 喜寿の頃からの思い
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、私より5歳若い家内と2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた戸建て住んでいる。

そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
『働らなくても、何とか生活ができるので助かるわ・・』、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりする。

『そうだよねぇ・・』
私は苦笑しながら応じたりしている。



過ぎし2004年(平成16年)の秋、
民間会社のある会社に35年近く勤めて定年退職した・・。

この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

そして私も年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。




2004年(平成16年)の秋、年金生活の当初は、
現役サラリーマン時代を思い浮かべると、解放感で高揚したりした・・。

そして独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。


私たち先輩、そして私たち同世代、少し若い団塊世代のサラリーマンの多くは、
もとより職務、そして家計の責務で、睡眠時間を削り奮戦してきた。

私も職責を果たす為に、私なりに奮闘して、平日は睡眠時間を削ることが多く、
休日のひとときに昼寝などをした補(おぎな)ってきた。

或いは若き40歳前後は、コンピュータ自社導入のシステム開発、運営業務などで、
徹夜も幾たびもして、今働くなくていつ働くょ、と自身を叱咤激励したりしてきた。

やがて最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となったりし、
従来の都心勤務地より、遠方となり、朝の4時45分に起床して、帰宅できたのは午後9時前後が多く、
不馴れな物流センターで、自分の敵は自分だ、と奮(ふる)い立たせたりした。
          



やがて年金生活の当初は、朝布団(ふとん)の中で目覚めた後、
もう会社に行かなくてよいんだ、と安堵感に微睡(まどろみ)ながら微笑んだりした。

そして二度寝などを甘享したりすると、夢の中で職務上の成功体験の出来事より、失態した出来事が多く、
目覚めた後、独り苦笑したりしてきた。


やがて数年後は、サラリーマン時代の夢は激減し、
朝まどろむ時、夢と現(うつつ)の世界を往還するように、今日はどこを散策しょうか、
駅前の本屋に行き、あの本を買い求めようか、などを思い馳せたりしてきた。

或いは家内と国内旅行に行き、旅先のロビー、食事処で隣席して談笑した人たちを思い浮かび、
たとえ一期一会でも、人生の微笑みひとときを過ごせた、と走馬灯ように感じたりしてきた。


          

やがて70歳を過ぎた頃より、布団の中でまどろむ時間が多くなってきた・・。

まるで飛行機の機内に着席して、そして飛行機が滑走路を走り、やがて離陸し、
上空で安定飛行するまでのように、身をまかせて時間となっている。

過ぎし日の出来事とか、これからのささやかな願いの数々が、
夢と現(うつつ)の世界を彷徨(さまよ)うようなひとときが多くなっている。

そしてボンヤリとして正気には程遠く、
やがて起床してボンヤリとして煎茶を飲んだりした後、
正気になり微苦笑することが多くなっている・・。


このように朝のひととき、まどろむ時が多くなっている今、
貧富に関係なく、この世で最も贅沢なひととき、と私は微笑んだりしている・・。
  

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この時節、都立の『植物多様性センター』、そして『神代植物公園』を訪ねれば・・。

2023-04-19 07:52:36 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒家に住み、
ささやかに過ごしている。

そして今住んでいる処は、私の生家も近くにあり、
農家の三男坊として生を受けたりし、
私自身としては結婚前後の5年を除き、 この地域に住んで、早や73年は過ぎている。

やがて都心の高校に通学して以来、都心の底知れぬ魅力に圧倒的に魅了され、
通勤を含めて45年ばかり彷徨(さまよ)ったが、
定年後に年金生活を始めて、私の住む3キロ範囲を歩き廻るのが、何よりも心身安らぎを得ている。

            

そしてここ10数年、デパートに買物、懇親会、冠婚葬祭などで都心に出れば、
人出の多さに疲れ果て、やがて我が家の最寄駅のひとつ『成城学園前』駅に降り立つと、
何故かしら安堵している。

こうした中は、自宅から3キロ範囲にある遊歩道、小公園、住宅街を歩いたりし、
ときには45分ばかり歩くと深大寺があり、隣接した処に都立・神代植物公園があり、
年金生活の中、幾たびも尋ねたりしてきた。


こうした根底には、私が自転車で通学した神代中学校があり、
この当時、近くに開園する前の都立・神代植物公園になる雑木林の地域があり、
私は自転車で、下校後に学友と周辺を自転車で廻ったりしてきた・・。

やがて私は、1960年(昭和35年)の春に神代中学校を卒業して、
そして1961年(昭和36年)秋に、開園になったりしてきた。


この後、季節の変わるたびに訪れ、やがて2004年(平成16年)の秋、
ある民間会社を定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めると、
月に2回ぐらい訪れて、季節の移ろいを享受されたりした・・。
 
こうした深情には、小学生の頃までの生家の情景を思い馳せて、
この地域の失われたふるさとの情景に愛惜を感じたり、
つたない私の過ぎし出来事の人生の軌跡・・思い重ねたりしてきた・・。



こうした深情もあり、昨日の18日の午前中のひととき、
市内にある都立の『神代植物公園』に向かった・・。


いつものように最寄り駅のひとつの京王線の『つつじが丘』の駅前より、
路線バスで調布市の『総合体育館前』で下車した。

そして歩き出すと、総合体育館前の広場の入り口で、
私を歓迎して下さるような情景に私は微笑んだりした・・。



そして、この日は珍しく閑静な広場の前を通り過ぎたりした・・。




やがて10年前の頃、都立の『神代植物公園』に隣接した都立の『植物多様性センター』を知り、
これ以来、立ち寄っている・・。
















今回は、このような情景に瞬時に魅せられたりした・・。

この後、都立の『神代植物公園』に向かって5分足らずで到着した。

そして今の時節を園内を彩るのは、『シャクナゲ』、『ボタン』、『フジ』の花、
或いは『つつじ』などが百花繚乱のような景観となっている。

予測されたようにシニア世代の人出も多く、たまたま私は13日にも訪れていたので、
あえて人影がないような構図で撮ったりした・・。










この後、『ボタン園』に行ったが、私はボタンに関して、あえて斜めに撮る習性があり、
少しばかり撮ったりした・・。










この後、『フジ』の花は、過ぎし13日は白い花が取れなかったので、
今回は意識して撮ったりした・・。






この後、ベンチが多く、人出のない所で、こうした前景を見ながら、
ペットボトルの煎茶を飲みながら休息した・・。



やがて再び歩き出して、私の好きな数多く観られる落葉樹の中、
芽吹きは終わり、若葉の色合いは、萌黄色から黄緑色にうつろい、
昨今は新緑色に染められている情景に、見惚(みと)れたりした。










こうした中、樹の切り株を見たりした・・。

私は70代に入った頃より、こうした情景に足を止めて眺めてきた・・。

やはり大きな大木でも、いつの日にか寿命があるように、
そして周辺の樹木の関係か、或いは遠からず枯れる運命が到来してくるので、
やむなく討伐されたと思い深めてきた・・。

そして人も同じように、いつの日にか・・
このような思いを痛切に感じてきたのは、私は70歳を過ぎた頃であったりした。




やがて少し広い場所に、菜の花がぽっんと咲いて、私は微笑みながら眺めたりした。

この後、午前中に帰宅する、と家内との約束もあり、園内に辞することにした。



こうして、都立の『植物多様性センター』、そして隣接した都立の『神代植物公園』、
1時間半ぐらい遊学し、心も身も安らぎを感じたりした・・。

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78歳の私は、自宅の周辺を散策すれば、安らぎのひとときを過ごして・・。

2023-04-18 12:34:07 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒家に住み、
ささやかに過ごしている。

そして今住んでいる処は、私の生家も近くにあり、
私自身としては結婚前後の5年を除き、 この地域に住んで、早や73年は過ぎている。

最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。
或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は良い所で、 

たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、

或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。





     

こうした中で、そして好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

昨日は、自宅の住宅街の歩道を歩き始めた・・。



たまたま昨日は、京王線の『仙川』駅の駅ビルにある本屋に寄った後、
帰路は、少し遠回りした散策コースとした・・。

そして音楽専門学校の『桐朋学園』の隣接している路を歩いたりした。





やがて10分歩けば、住宅街を過ぎると閑静な所を歩いたりした・・。







やがて再び住宅街を歩いたりした・・。



ときには住宅街、はずれの歩道を25分ばかり散策し、
何かしら遥か遠い小学生の時、独りぼっちで下校したコースと似通(にかよ)っている・・、
と独り微苦笑したが、安らぎのひとときを過ごしたりした。
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年金生活の中、私なりの健康体の三種の神器、信愛して18年半を迎えて・・。

2023-04-17 07:40:04 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒家に住み、
ささやかに過ごしている。

過ぎし2004年(平成16年)の秋、
民間会社のある会社に35年近く勤めて定年退職した・・。

この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。




年金生活を始め、やがて62歳の時、現役時代の一時時期に交遊した友も、
無念ながら病死したりした。

まもなく、知人のひとりの50代の奥様が病死されて、 この知人は『おひとりさま』となり、
私たちの多くは通夜の時に哀悼をしながらも、動顛してしまった・・。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、
60代で妻が夫より先に亡くなることは、 考えたこともなく、
こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。                                                                      

ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、
この世を去ったり、 ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、

数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、 
私は震撼させられたりしてきた・・。


過ぎし日に、厚生労働省の公表によると、2016年(平成28年)の時点で、
日本人の健康寿命は、男性が72.14歳、女性が74.79歳と推計され、
平均寿命と健康寿命の差は、男性約9年、女性約12年と報じられている。

もとより「健康寿命」は、日常的に介護を必要としないで、
自立した生活ができる期間であり、何んとか男性の健康寿命の延長戦の最中かしら、
と思ったりする時もある。


しかしながら私の友人、知人の7人は、すでにあの世に旅立っているし、
或いは私より8歳ご年配の知人は、心身溌剌とされている御方もいて、
あくまで健康寿命も男性の平均であるよなぁ・・と思ったりしている。




こうした中で、

そして好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。



しかしながら自己節制が乏しく、恥ずかしながら多事多難に遭遇してきた・・。

過ぎし2010年(平成22年)の秋、
私は66歳の健康診断の時の結果、
『糖尿病の疑いがありますので、内科に受診して下さい』

と明記されてしまった。 

私は青ざめ、翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・
何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医院長に懇願した。
 
そして高橋真梨子さんが唄われた『桃色吐息』は妖艶であるが、
体力の衰えた66歳の私は、蒼色吐息のような表情で、
内科の医院長のアドバイスを聴いたりした・・。
 
私は家内との共通趣味は国内旅行であり、糖尿病の場合は、もとより食事制約がある。
このような時、家内と共に旅行の宿泊先で美味しい夕食を頂けそうな時、
私は食べてはいけない料理だったら、余りにも惨(みじ)めである、と思ったりした。
 
やがて医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、
 軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。
 
この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら、
野菜を多くした料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いたりした。
 
そして私は、ウォーキングをしたり、或いは早足で遊歩道を歩いたりし、
お酒はしばらく・・さよならねぇ、と夕食の時も煎茶を飲んだりしていた。
 
          
 
こうした中、私は最寄の内科に、
8週間毎に定期検査日、そしてこの間に検査結果日と健診を受けて、
糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外は、ほぼ優等生となって、改善努力の成果となっている。

この時、医院長より指針とされたことは、
糖尿病の指標となる血液検査項目の
HbA1cに於いて、
糖尿病の境界値である6.5%を切れば、糖尿病予備群となります、
このようなことを言われたりした。

そしてこうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
 
しかしながら家内は、糖尿病の予備群ですから、程々に注意して下さい、
と言われる時もある。


このように私は、私は最寄の内科に8週間毎に定期検査日、
そしてこの間に検査結果日と健診を受けて、早や13年目となっている。



過ぎし2019年の新年そうそうの1月3日の夜10時過ぎ、
私は心臓の左胸が圧迫され、強く痛みを感じて、
やむなく救急車で循環器専門の『榊原記念病院』に搬送されたりした。

そして『榊原記念病院』に到着後、10数名の医療スタッフの中で、
私は中央診察台で心電図、造影剤を入れてカテーテル、そしてCTスキャンなどの精密検査、
或いはレントゲン終えたのは、早朝3時半過ぎであった・・。

やがて『胸膜炎』(追記・急性冠症候群)と病状とされ、しばらく経過観察したく・・
と入院が余儀なくされて、結果的に8泊9日の入院となったりした。

こうした中、退院の一日前、40代の男性の担当医師より、
『私もタバコを喫っていましたが、やはり身体によくないと思い、
3年前にやめまして・・貴方もタバコやめることはできませんか・・』、
と私に言ったりした。



過ぎ去り遠い年、若き大学一年のワンダーフォーゲル部に加入して、
10泊11日間の夏季合宿に於いて、中日(なかび)が休息日であったりした。

こうした中で、先輩がタバコを喫っていて、
私も真似事のようにタバコを喫ったりした。

これ以前に中学3年の時、いたずらでタバコを喫ったりしたが、
担当の先生より、これから志望した高校は、退学になるから・・、
と私は忠告を受けたりしたので、
これ以降は、もとよりタバコは無縁となったりした。

この夏季合宿した後、タバコを喫い始めて、
まもなく映画、文学青年の真似事をしている時、
やがて敗退した後の長きサラリーマン時代の34年間に於いて、
タバコを喫いながら、物事を思案したり、思考したりしてきた・・。

こうした習性が長年続き、タバコを禁煙したならば、
言葉とか文章が、脳裏より舞い降りて、こなくなるかもしれない、
と危惧したりした。




或いは定年退職後、多々の理由で年金生活を始めた後、
中学時代の同級生の有志により、私の退職祝いを開催してくれたりした。

この時、同級生の好感している女性のひとりから、
XXくん・・タバコをまだ喫っているの・・、
と言われたりした。

或いは男性の同級生より、
俺は・・孫が出来た時、3年前にやめたょ・・、
と私は言われたりした。

やがて65歳の頃、健康診断の時、女性スタッフより、
XXさん・・タバコをおやめできませんか・・、
と私は言われたりした。

こうした時、タバコは・・一生のお友達ですから・・、
と御苦笑しながら、抗弁したりしてきた。



こうした経過もあり、4年前の入院先で、ベットに腰掛けていた私は、
担当医師より、『私もタバコを喫っていましたが、やはり身体によくないと思い、
3年前にやめまして・・
貴方もタバコやめることはできませんか・・』、
と私に言ったりした。


私は、困ったなぁ・・と溜息をしたりした後、
『これを機会に、タバコやめます』
と私は担当医師に向かって言ったりした。

そして自身を鼓舞するように、人生は気合だ、と心の中で叫んだりし、
これを機会にタバコにお別れとなったりした。

こうした根底には、やはりタバコは身体に良くないと、担当の医師から進められて、
何かを断念しなければ、この先はないと思い、断腸の思いで禁煙したのは本音であった。



断念しなければ、この先はないと思ったからである。

そして

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