夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

川上弘美、小池真理子の対談記事を精読し、随筆の奥深い世界の秘訣を学び・・。

2012-04-30 14:01:55 | 読書、小説・随筆
私は昨夕、日中の小用にかまけて、購読している読売新聞の朝刊を遅ればせながら読んだりした。
そして13面の【文化】の定例週間特集記事の【本よみうり堂】を読んだりしていたが、
この中のひとつの記事に、
《 精選女性随筆集
        選者2人が対談 》
と大きな見出しの下に、作家の川上弘美(かわかみ・ひろみ)、小池真理子(こいけ・まりこ)両氏 の
写真と共に略歴も掲載されていた。

そして川上弘美さんと小池真理子さんが選者を務める『精選女性随筆集』(全12巻、文藝春秋)が刊行されているが、
この選者に、女性作家と随筆について語り合う対談記事、と読みながら解った。

私は遅ればせながら読書に目覚めたのは、高校に入学してまもない時期であり、
1960〈昭和35〉年の春であった。

創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力であった。

これ以来、小説、随筆、ノンフィクション、近代史、歴史書など乱読をしているので、
早や50数年過ぎている読書好きのひとりであるので、
今回、長年に及び第一線で活躍されている作家のおふたりから、随筆の世界を学ぼうと精読したのである。

無断であるが、一部を引用させて頂く(敬称略)

《・・
小池真理子
   ・・(略)・・今、白洲正子を読んでいるですが、
  よく知られている能や骨董品のことより、
  軽井沢の別荘近くでバッタリ会った正宗白鳥が厭世(えんせい)的なことを言っていた、
  とかいう内容の方がすごく面白い。

川上弘美
  やっぱり読んでいて胸を打たれたのは、
  知識的な内容より人との関係や一瞬の出逢いを書いたものでした。

小池真理子
  現代の作家よりも余裕があったんでしょうね。
  人間関係も、人生そのものも。

川上弘美
  誰でも小説は一生に一作は書けるといわれているけれど、
  むしろエッセーこそそうかもと、今回思った。
  小説はからっぽでも書けるけど、
  エッセーはよほど伝えたいことがあるか、
  その人自身が面白いかじゃないと書けない。
  そして文体を持っているか。
  ・・(略)・・
  あと、エッセーには生きていた年月も必要かな。

小池真理子
  どんなにうまく気取って書いてもばれるものね。
  正体が出てしまう。

川上弘美
  逆に正体を出せる人がいいエッセイストなんじゃないかな。

・・(略)・・
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


長く引用させて頂いた理由のひとつとしては、私なりに随筆の世界には、
強く関心を秘めているからでもある。

私は2004〈平成16〉年の秋に民間会社を定年退職するまでは、
何かと屈折と劣等感の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。

あたかも満天の星空の中で、片隅に何とか目を凝(こ)らせば見えるぐらいの星のひとつのように、
と思ったりした・・。

私はこれといって、特技はなく、かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、
といった楽観にもなれず、いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意した・・。

私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をして敗退した時期もあったが、
定年後の感性も体力、何よりの文章の表現力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

そして多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、構成なども配慮したりしている。

私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨長明(かもの・ちょうめい)が遺され随筆の『方丈記』等があるが、
この方の数多くの遺された中のひとつに準じる随筆を綴れれば、本望と思っている。

そして私の死後の数百年を過ぎた頃、文愛人の一部の方から、
あの時代に短かな随筆をたったひとつ遺(のこ)した人もいた、
と思って頂ただければ幸いという思いがある。

このような思いが、私としては拙(つたな)いなりに秘めたりしているので、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露とし、
原則として国内旅行で自宅を留守にしない限り、毎日少なくとも一通は投稿している。

そして、何より肝要なことは、人それぞれ誰しも光と影を持ちあわしているので、
つたない私でも、ささやかな光、そして秘められた影を余すところなく綴るのが命題と思ったりしている。

このような身過ぎ世過ぎの年金生活をしながら、
言葉による表現、読書、そして思索の時間を過ごしたりすると、
私にとっての年金生活は暇、安楽というのは死語である。


私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作を少し体験し、幾たびか校正したりしてきたが、
ブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまうことも多い。

しかしながら、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのが実情でもある・・。

このような時、言霊(ことだま)に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。

こうした私なりに、秘かな野望が挫折した時、
数多くの拙〈つたな〉い投稿文が残して、涙を浮かべて振り返った時、
のちの想いになることだけは確かだ、と思いながらも日々投稿文を認(したた)めている。


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大型連休の初日、読書好きな私は本屋に寄り、買い求めて至福なひとときを過ごし・・。

2012-04-29 15:58:44 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日の朝の9時前に、家内は駅前の病院の皮膚科で治療を受けに出かけた。
片方の眼の周辺に少しかゆみを感じて、ここ2回ばかり治療を受けていたので、
定期健診のような状況であり、まもなく10時半過ぎに帰宅した。

そして帰宅した家内は、直(す)ぐに『駅前に買い物・・行きませんか?』
と家内は私を誘惑したのであった。

外出用に着替えている上、何かしら駅前で見かけた品を買い求めたい意志のようだった。

私は少しためらった後、
『ハイ! 元気よく行きましょう!』
と私は自衛隊の若き諸兄に負けないように明るい声で、家内に応えた。

定年後の私は、年金生活をしているが、もとより年金の収入は減ることもあっても増えることなく、
当然ながら現役のサラリーマン時期より遥かに激減している上、体力の衰えも感じる昨今、
何かしら私は家内に従順となっていると思えて、苦笑したりした。

そして私は家内が外出する時は、殆どボディガード兼お供、そして荷物持ちとなっているのが、
定年後の実情である。

今回、たまたま京王線の『仙川駅』の近くに徒歩で15分ばかり歩き、
ホームセンター、スーパー、ドラッグ・ストアーなど5店を廻り、
その後に食事処で遅い昼食をして、帰宅したのは午後2時半過ぎであった。

この間、家内がスーパーで買い物をしている間、
私は独りで本屋に寄ったりして、喫茶店で待ち合わすることにした。


私は遅ればせながら読書に目覚めたのは、高校に入学してまもない時期であり、
1960〈昭和35〉年の春であった。

創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力であった。

これ以来、小説、随筆、ノンフィクション、近代史、歴史書など乱読をしているので、
早や50数年過ぎたかしら、と何かと読書好きのひとりと思ったりしている。

そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
特に塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、各氏の作品に深く魅了され、
この著作された人たちを主軸に精読している。

ここ数年は、高峰秀子さんの随筆、或いは高峰秀子さんの関する本も加わり、
愚図の私でも、読書にいそがしく、ときおり微苦笑したりしてきた。


私が今回入店した本屋は、都心の大きな本屋を除き、
街の本屋の中で文藝関係に突出していると私が賞賛しているチェーン店『書原』のひとつで、
仙川店に入店した。

そして10分ばかり配列している本を眺めた後、2冊の本は決まった。

ひとつは、高峰秀子・松山善三・共著の『旅は道づれ 雪月花』(ハースト婦人画報社)であった。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4573022031.html
☆【紀伊国屋書店 ホームページ】<==高峰秀子・松山善三・共著の『旅は道づれ 雪月花』☆
  注・ハースト婦人画報社のホームページで紹介しょうとしたら、この紀伊国屋書店 ホームページに転載された。

昨年の晩秋の頃から、《 高峰秀子没後一年 おしどり夫婦の名シリーズ 》として中公文庫より、
逐次、三部作が復刊された。
始めは高峰秀子・松山善三 共著『旅は道づれ アロハ・ハワイ』、
その後に高峰秀子・松山善三 共著『旅は道づれ ガンダーラ』、
最終として高峰秀子・松山善三 共著『旅は道づれ ツタンカーメン』を購読してきた。

今回の『旅は道づれ 雪月花』は、数か月前に店頭でパラパラと立ち読みしたが、
ご夫妻が日本の各地の旅先で、訪れた地、一流の食事処、そして宿泊される旅館、ホテルに、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
たじろいでしまった・・。
そして、やむなく見送ってきたが、私は高峰秀子さんの愛読者のひとりとして30数冊を読んできたが、
最後の一冊と思い決めて、購入したのであった。


もうひとつの本は、曽野綾子・著作の『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場』(新潮社)である。
http://www.shinchosha.co.jp/book/311420/
☆【新潮社ホームページ】<== 曽野綾子・著作の『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場』☆

私が初めて作家・曽野綾子さんの作品を読んだのは、
講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集からであった。

この文学全集は、確か1965(昭和40)年の頃から毎月一巻発刊され、全22巻であり、
大江健三郎(おおえ・けんさぶろう、江藤 淳(えとう・じゅん)の両氏による責任編集の基で刊行され、
この当時の老成家した作家を除外した斬新で新鮮なな全集であった。

私はこの以前には、中央公論社から、
確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであったと思われる文学全集を読んでいたが、
この『われらの文学』は、この当時に最も勢いのある大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集に寄り、
選定された28名の作家の作品を私なりに精読していた。

そして、この全集の中で、第16巻として『曽野綾子、北 杜夫』が、
1966(昭和41)年5月に発刊されて、
私は初めて曽野綾子さんの『たまゆら』、『遠来の客たち』を含む8作品を初めて精読した。

これ以来、ときおり読んできたが、私はサラリーマンの多忙時期に重なったりし、
ここ5年は見逃してきた曽野綾子さんの作品を購読してきたので、
今回の『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場』は、私にとっては必読書のような心情となる。


そして3冊目となるはずの川本三郎・著作の『郊外の文学誌』(岩波現代文庫)は、
無念ながら店内の在庫になく、やむなく取り寄せの依頼をした。

私がこの本を遅ればせながら知ったのは、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
読書の専門サイトとして名高い【本よみうり堂】で、書評コーナーであった。
http://www.yomiuri.co.jp/book/bunko/20120402-OYT8T00703.htm
☆【YOMIURI ONLINE】<==【本よりうり堂】<== 文庫本・書評 書評家・青木千恵《 川本三郎・著作の『郊外の文学誌』》☆

書評家・青木千恵さんの簡潔した書評文を借りれば、
《・・
関東大震災発生後、人々は郊外へ移り住み、電車で通勤する中産階級の暮らしが生まれた。

郊外は、時代の激変に耐える個の生き方がくっきり見える場所だったが、
中産階級を描いた文学は「普通」と思われ、多くは語られなかった。
国木田独歩が発見した風景、家庭の幸福を描き続けた庄野潤三作品の凄(すご)み。
郊外の発展と文芸作品との関わりを論じた評論集。
・・》

この書評文に瞬時に魅了され、いずれ読んでみたい本のひとつとなった。

私は私は東京郊外の世田谷区に隣接した北多摩郡神代町(現・調布市)で、
1944〈昭和19)年の秋に農家の子として生を受けた。

その後もこの当時の生家の地域に於いては、田畑、竹林、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であり、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人の好意を借りて、耕していた状況など、
幼年ながら私は鮮明に覚えていることが多い・・。

こうした幼年期の記憶があるが、その後1950〈昭和30〉年の前後、
急激に住宅地と変わり戸惑いながら、時代の変貌に多感な少年時代の私は、
心の奥底の自己形成まで影響を受けたのである。

そして明治時代の頃から、武蔵野、多摩丘陵など、時代の変貌を学びたく、
国木田独歩の『武蔵野』、徳冨蘆花の『みみずのたはこと』、そして庄野潤三の『夕べの雲』などで、
多々教示されてきたので、
川本三郎さんがどのような切り口で郊外を描くか、読みたい本となっている。

直ぐに読みたい本といっても、本屋で品切れの場合、
もとよりネットでアマゾンなどに注文し、入手するのは簡単であるが、
これでは益々街から本屋が消えてしまうと思い、
齢ばかり重ねた私でも、本屋は街の文化のひとつである、と確信しているので待ちわびるのである。


私は家内と共に初夏の陽気の中、帰宅した後、
定年後から平素の買い物担当となった私は、最寄りのスーパーで野菜ものなどを買い求めたり、
その後に我が家の一面が隣接した歩道が、古き緑葉が散乱していたので、
私は竹の立ち箒(タチボウキ)で30分ばかりで掃き清めたりした。

この間、私は買い求めた『旅は道づれ 雪月花』に於いて、
日本の各地の旅先で、訪れた地、一流の食事処、そして宿泊される旅館、ホテルに、
高峰秀子さんがどのように発露されるか、
或いは松山善三さんが確固たる綴りで、どのように表現されるか、
このように思いながら、至福なひとときを過ごした。

この夜、深夜の1時過ぎまで、高峰秀子・松山善三・共著の『旅は道づれ 雪月花』を読み、
そのように感じられましたか、と昭和60年前後に旅をされたご夫妻に敬愛を重ねながら読んだりした・・。


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大型連休を迎え、皐月晴れの日々が予測され、齢ばかり重ねた私でも微笑んで・・。

2012-04-28 08:43:50 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜から小雨となっていたが、早朝に雨は止み、曇り空の朝を迎えている。

そして。いつものように素足で下駄を履いて、庭のテラスに下り立った。
曇り空の中、樹木の枝葉は雨粒をたたえて、清々しい潤(うるお)いのある情景となっているが、
ときおり眩(まばゆ)い陽射しを受けて、数多くの新緑の葉はキラキラと光り帯びたりしているので、
私は微笑んだりしていた。

この後、ぼんやりとNHKのニュースを視聴していたら、
本日より大型連休のはじまります、と報じていた。

そして私は地元の天気情報を見たりすると、
朝の6時は15度、昼下りは24度前後、夕方の6時は21度前後、
晴れマークとなっていたので、急速にお天気は回復して、爽快な皐月晴れになり、
その後も一週間は晴れマークもあり大型連休にふさわしい、と微笑んだりした。

私は働いて下さる現役の諸兄諸姉は、何かと多忙な勤務をされているのだから、
せめて大型連休の時ぐらいは、ゆったりと休息されたり、
ご家族で皐月晴れの中、ご自由に行楽地などに行かれ、旅行をされますように、
天上の気候の神々は采配されたのかしら、と思ったりしたのである。


私の現役サラリーマン時代の時は、民間会社の中小企業であったので、
通常は5月1日から5月5日の5連休が固定で、後は日曜と祭日が加味されていた。

そして私はこの当時は、1週間以上連休が採用されるのは、
大手の企業の開発と製造部門だろうと思ったりしていた。

私の30代の後半の頃は、住宅ローンなどで返済に重荷となり、
家内と45分ぐらい歩いた所にある神代植物公園に行ったり、
高尾山のハイキングをしたりしていた。
そして、庭の手入れなどをして過ごしたりした。

40代には、格安の団体観光周遊ツアーなどの国内旅行をしていた時もあったが、
旅行先の渋滞に困惑して、その後は庭の手入れをすることが多くなった。

最も現役時代の固定とされていた5月1日から5日までの5日間に於いても、
5日間連続して休めたのは数えるばかりであった。
私は情報畑が長く勤めていた関係で、システムの開発、運用などで出勤したり、
50代の後半は出向となり、物流倉庫の再編成の最適な日々となったりし、
大型連休は遠い世界の出来事となり、奮闘していた。


年金生活の昨今は、若葉の色合いに見惚れ、
萌黄色からこの二週間ばかりで黄緑色から新緑色に染められ、
私はさりげない日ごとに移つろう枝葉を眺めたりしてきた。

空は青さ一色で、ときおり微風が吹くと薫風かしらと感じたり、
風光る情景に身も心も寄せたりしてきた。
ときには陽射しは初夏のような感じで、この時節にしては強いかしら、と思いながら、
少しばかり大きなモミジの幼い葉を拡げた下で緑陰で、身を寄せたりした。
そして、ここ一週間ぐらい前の頃から彩(いろど)ってくれている躑躅(ツツジ)の紅色の花に
見惚(みと)れたりしていた。


ここ10数年、過酷な成果主義が加速される中、
政治は益々混迷を増し、経済は低迷し、社会は益々劣化している中、
無力ながら憂(うれ)いているひとりである。

いずれにしても大型連休に恵まれた現役の諸兄諸姉、
日常は何かと業務に追わる多忙の身の方が多いと思われるので、
せめてこの大型連休のひとときは、ご家族との心身のふれあいを大切にして頂きたい、
と私はぼんやりと思ったりしている。

定年退職後の私は、この大型連休でもいつものように買物、散策などして、
季節のうつろいの情景を享受したり、
その時に思ったこと、思索したことなどを心の発露として、
このサイトに綴り投稿したりしている。

そして日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたり、或いは庭を手入れを少しする予定である。

そして、大型連休の終りの頃に、現役の諸兄諸姉に邪魔にならないように、
家内との共通趣味の国内旅行を予定している。


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『ひらがら』入力の私は、殆ど一本指で早や29年が過ぎ、微苦笑を重ね・・。

2012-04-27 00:29:02 | 定年後の思い
私が初めてコンピュータのキー・ボードに触り、ディスク・トップの画面を見たのは、
1969(昭和44)年の4月であった。
東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしていたが、あえなく敗退し、
やむなく何とかして民間会社に中途入社したい為に、
コンピュータの専門学校のソフト科に1年間ばかり学び始めた時であった。

この当時は、パソコンはなく、ノート型の端末機もなく、
汎用のコンピュータに結びんだディスク・トップを端末機として使用していた。

私たち生徒は、概要の処理過程の流れ図(フロー・チャート)を作成した後、
詳細のプログラムを専用シートに書き、
ディスク・トップに向かい、不慣れな現在使用されているJIS規格のキー・ボートに打ち込んでいた・・。
この当時は、漢字、ひらがなの表示はない時代であり、
もっぱら英数字の時代であったので、覚束ない手で殆ど一本指で入力していた。


その後、1970(昭和45)年4月に、この当時は大手の映像・音響メーカーの民間会社に中途入社した後、
まもなくこの会社の中で、音楽事業本部の中の一部の大きなレーベルがレコード会社として独立し、
私も新たなるレコード会社に転属させられた。

半年が過ぎた頃、本社のコンピュータ専任者として配属され、
システムの開発、運営などを元所属していた音楽事業本部のシステムを活用させて頂きながら管理していた。

そして処理を委託していたIBMのデータセンターで、
月次作業の時に出向き、端末機のディスク・トップに向かい修正データなどを打ち込んだりしていた。
この後、元所属していた大手の映像・音響メーカーの情報センターに、処理を委託したりした、

この間に、パソコンが世の中に出始めて、確か1982(昭和57)年の頃であったと思われるが、
私もNECのPC8801を購入し、フロッピー・ディスク装置、プリンター、
そして漢字対応させる為に漢字ロムを付加させたりしたが、
この当時の私の年収の15%ぐらいで、住宅ローンの返済もあったので、
私としては高価なパソコン・セットであった。
そしてベーシック言語でプロクラムを書いたりして、新古今和歌集を入力したりしていた。

この後、1983(昭和58)年からは、すべて自社処理となり、
この当時に流行ったオフィス・コンピュータを導入して、
コンピュータ・ルームの端に端末機のディスク・トップ型、ノート型を配置し、
開発、部分改定のプログラムを思考しながら入力したりしていた。
この時、右手にポール・ペンを握り、いつでもメモ書きができるように、
キー・インは殆ど右手の中指を使っていたのである。
そして運営の処理の指示、データ入力をしていた・・。

このオフィス・コンピュータは、この当時の頃から漢字、ひらがなを表示でき、
もとより漢字対応のプリンターの時代となっていた。

そして住所マスターの追加・訂正などの入力方法は、『ひらがな』で、単漢字の方式であった。
たとえば・・・盛岡市の場合、
『さかり』とかで入力して、幾つかの漢字が表示されて、この中から選ぶ。
そして次の『おか』とかで入力して・・
いずれにしても昨今のように、『もりおかし』と一度で表示ができなかった時代であった。

私は、この時の『ひらがな』固定方式を習得してしまい、
この後に『ローマ字』方式も可能となったが、単細胞の私は転進できず、今日に至っている。

この間、世の中はワープロが普及していたので、
私も購入し、会社で文書を作成したり、自宅で年賀状などに利用し、
やはり入力方法は『ひらがな』であった。

そして20年ばかり情報畑から管理畑に異動させられた私は、
机上に配置されたノート型の端末機に、適時に入力したり、検索したりしていた。
或いは私が新たに買い求めたノート・パソコンを開き、表計算を活用して
資料を作成したりしていた。

そして2004(平成16)年の秋に定年退職となり、
まもなくブログの世界を知り、殆ど毎日ブログの投稿文を綴っている。

そして恥ずかしながら、相変わらず『ひらがな』入力で、
殆ど右手の中指で投稿文を入力しているが、キー・ボードに触れて43年が過ぎ、
『ひらがな』入力で、29年が過ぎているので、程ほどに早いかしら、と微苦笑したりしている。

このようなことを綴っていたら、亡き歌手の岸 洋子さんが、
『一本指のシンフォニー』の歌があったなぁ、と思い馳せてしまった。
確か私も所有しているレコードの一枚に、『ラ​ス​ト​・​ラ​イ​ブ​!​ 岸​洋​子​リ​サ​イ ​タ​ル​'​9​1』
で幾たびか愛聴していたことも思い重ねてしまった。

ピアノを両手の指で上手に弾けないけれど、たった一本の指で奏でる・・
このような主旨であったことを私は記憶している。

私も準拠して、殆ど一本の指で、『ひらがな』入力ながら、
確かなエッセイを綴りたくて、毎日ように投稿文を重ねているが、
いつになったら、確固たる随筆が綴れるの・・と溜息しながら入力している。

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若葉の色合いは、萌黄色、黄緑色から新緑色に染められる中、私は微笑みながら・・。

2012-04-26 13:08:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜から小雨となり、先ほど雨上がりとなったので、
いつものように素足で下駄を履いて、庭のテラスに下り立った。
曇り空の中、樹木の枝葉は雨粒をたたえて、清々しい潤(うるお)いのある情景となっている。

若葉の色合いは、萌黄色からこの二週間ばかりで黄緑色から新緑色に染められ、
私はさりげない日ごとに移つろう枝葉を眺めたりしてきた。


我が家の垣根の一面は、紅(あか)めモチ、金木犀などの常緑樹が、
新芽から新たな朱色、新緑の葉を伸ばしているが、
四季折々に彩(いろど)ってくれた古き緑葉は、少し疲れたせいか選手交代よ、
といいいたげに地表に落下していた。

そして歩道が一面が隣接した所に古き緑葉が散乱していたので、
私は竹の立ち箒(タチボウキ)で30分ばかりで掃き清めたりした。

そして門扉から玄関までの石段も掃き清めた後、
煙草を喫いながら、玄関庭の長らく朱紅色の花が咲いている藪椿(ヤブツバキ)、
日増しに枝葉を伸ばしているモミジの三本を眺めたりした。

こうした中で、黄緑色の葉の中で、ピンクのたわわな小花を咲いている花梨(カリン)、
芽吹きを始めている紫式部(ムラサキシキブ)や高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)の幼い葉を見たり、
群生させた可憐な純白した花びらの鈴蘭水仙(ススラン・スイセン)が咲いているのに、
見惚れたりした。


私は日中のひととき、買い物を終えた後、近くの野川の遊歩道を歩いたり、
小公園を歩き廻ることが多い。
この時節を迎えると、野川の遊歩道の下方の川沿いには、
黄色い帯のように長く続いている菜の花、
そして並ぶように白と薄紫の大根の花のような白と薄紫色の花色が帯状になっているのを
菜の花のかぐわしい香りに心を寄せたりしてきた。

或いは小公園を歩いたりすると、
新緑となった欅(ケヤキ)、コナラ、クヌギなどの大きな雑木を見つめたり、
ときおり微風が吹き、小枝の若葉も揺れ、私は微笑んだりしたりした。

そして道路際にある朱紅色や紅色の躑躅(ツツジ)、皐月(サツキ)は早くも咲き始めたり、
純白の耳飾りのような可愛らしい花のドウタン・ツツジも咲き始め、
その付近には菖蒲(あやめ)の群生は新芽が赤味を帯びている中、
華麗な白い花が咲いているのを眺めたりすると、
まもなく大型連休の時節になる、と教示されたりした。

そして萌木色した葉の中で純白の花水木(ハナミズキ)の樹に、
私は足を止めて、長らく見つめたりした・・。


帰宅すれば、煎茶を飲んだりした後、ぼんやりと主庭を眺めれば、
大きな莟〈つぼみ〉の紫木蓮(し・モクレン)は満開となり、
陽当たりの少ない所にある藪椿(ヤブ・ツバキ)の朱紅色、紅色、濃い紅色の花びらが、
彩(いろど)っている。

そして少しばかり大きなモミジは、日増しごとに枝葉を伸ばす中、
無花果(イチジク)は芽吹きを迎え、幼き葉から葉を広げ、新た若葉となっている。
この間、常緑樹の金木犀(キンモクセイ)の新芽も伸びだし、
垣根がわりの紅(あか)めモチは、朱紅色の新芽が勢いよく伸び、
その後は眩(まぱゆ)く朱紅色の若葉に変貌し、彩(いろど)りとなっている。

こうした中、群生させた黄色と純白のラッパ水仙、鈴蘭水仙(ススラン・スイセン)が咲き、
唐糸草(カライトソウ)、稲穂のような小判草(コバンソウ)が地表から芽をだいして、
日増し毎に成長し、今や20センチばかりとなっている。

このような情景を眺めたりしていると、
私は定年退職後、その直後から年金生活をして8年目を迎えているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだった為か、
今年も雑木は芽吹いてくれて、幼い葉を広げ、
やがて萌黄色、黄緑色から新緑色に染められる時節に、
限りなく、心の濾過を託すように魅せられている。

そして数多くの稲穂のような小判草(コバンソウ)の草花が、
微風を受けると揺れているのを微苦笑しながら、見惚れたりしている。


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遠い昔の小学生の頃、あだ名は『三原山』と命名された頃のささやかな想いで・・。

2012-04-25 13:54:35 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活67歳の身であるが、
昨日、いつものように自宅の近くの野川の遊歩道を歩いた。

平年より熱いくらいの5月下旬のような陽気になり、スポーツシャツの長袖を腕まくりし、
川風が薫風のように感じられ、身も心も爽快であった。

このような時に、
《 学童が下校の時となりました・・みんなで~学童を・・護(まも)りましょう・・》
と私の住む街の調布警察署から、小学校の下校時に、街中に聞こえるように広報されているのが、
聴こえてきた・・。

まもなく学童が数人グループ、或いは10人ぐらい群れて歩いてくるのが見えて、
それぞれ談笑を重ねながら、ときおり歓声もまじえて、歩いてきた。

私はすれ違った後、10メートルぐらい遅れて、たったひとりの学童の男の子が、トボトボと歩いてきて、
やがて私はすれ違った・・。

この後、私は小公園のベンチに座り、数多くの学童の後ろ姿を見たりした後、
たったひとりの男の子の後ろ姿がなぜか気になったりした。


私は東京郊外の世田谷区に隣接した北多摩郡神代町(現・調布市)で、
1944〈昭和19)年の秋に農家の子として生を受けた。
この当時の生家の地域に於いては、田畑、竹林、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であり、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人の手を借りて、耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊となったが、
この当時は戦時中で、食糧、医療条件が乏しく、やむなく病死することもあったが、
跡継ぎは長兄であるが、万一の場合は次兄がいたので万全となり、
このような中で、祖父と父は三番目の児として女の子を期待していた思いがあった。

やがて、私の下に1947(昭和22)年1月に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は、女の子を待ち焦がれたように溺愛し、
私は幼児なりに疎外されたように感じで過ごしていたが、
いじけた可愛げのない子の上、無口で屈折した幼年期を過ごした。

私は1951〈昭和26〉年の4月、地元の小学校に入学した。
そして1953(昭和28)年の3月になると、
前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、42歳の若さで亡くなった。

祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
翌年の1954(昭和29)年の5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚の叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落したような状況となり、生活は困窮となった。


祖父が生前だった時、村役場の要職を兼ねて農業をしていたが、
祖父も父も大学で学ぶことが出来なかったので、
跡取りの長兄に期待をかけ、小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。

長兄は当時通っていた村立小学校の創設60年の卒業生の中で、
祖父が亡くなる直前、初めて国立の中学校に入学できて、周囲の期待に応(こた)えた。
そして長兄は旧家の跡取りであったので、たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。

次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。

このした中で、私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
そして私は、学校に行くのが苦手な児となった・・。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生がため息まじりに言われたりしていた。

この頃、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。

私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正 】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
♪私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

小学校の後年になると、映画の【ビルマの竪琴】で『埴生の宿』、
【二等兵物語】』で『ふるさと』を知り、
これこそ私が望んでいた音楽だ、と感動しなから、深く感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、この当時の私を『三原山』とあだ名を付けていた・・。
普段は無口ながら温和な少年であったが、ときたま怒り出したら、
学友たちは手を付けられず、お手上げ状態となっていたらしい。

伊豆七島の中に大島があるが、この大島に三原山が活火山で、
不定期に爆発し惨事をもたらしていたので、この由来からであった。

この後、私が中学校に入学した1957(昭和32)年の春の頃から、
突然におしゃべりな少年に変貌し、陽気なふるまいとなり、
母や叔母、そして兄妹も驚き、今日に至っている。

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今夏、日本の各地で節電が予測される今、無力な私は『傷だらけの人生』の歌に思いを重ね・・。

2012-04-24 14:14:31 | 時事【社会】
今朝、私はいつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
トップ面の見出しとして、
《 電力3社 供給力不足
          需給見通し 関電は16% 》
と大きく明記され、この記事を私は精読した。

そして政府は23日、電力9社がまとめた今夏の電力需給見通しを公表した結果として、
北海道電力、関西電力、九州電力は、供給力不足と解り、
節電が余儀なくされ、最悪の場合は停電になるのかしら、と私は思ったりした。

この記事とほぼ同一の記事は、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】でも掲載されていたので、
無断ながら転載させて頂く。
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20120423-OYT1T01444.htm
【YOMIURI ONLINE】<==《 今夏の電力、関電など3社不足…東電は余裕あり 》

私は恥ずかしながら政治、経済にも疎(うと)く、
中小業の民間会社に勤めた年金生活の67歳の身であるが、
政治は混迷を増し、経済は衰退し、社会も益々劣化をしている現状ぐらいは、
少し解る程度の無力なひとりである。

今回の電力の問題は、もとより福島原発の多大な根源をなすものであり、
日本列島に点在している原発に対して、直面する問題、中期と長期の課題を
政府をはじめ、与野党の議員諸兄諸姉が、保安院、電力会社などと迅速に協議し、
自治体、そして肝要な住民に対して、具体的な提示が出来なかったことに、更に混迷をしている。

このような状況下、クリーン・エネルギーで賄(まかな)えるなとの諸問題も公言されたり、
原発の周辺の住民の思惑もからみ、益々混迷を深めている。

今回の記事は、日本の経済を程ほど安定した成長をさせる為には、
直面としては、やむなく原発の再稼働の必要性があることが背景として感じられる。

こうしたことは政府として、国民に対して恫喝か、或いは真摯な提示なのか、私は困惑している。
このことは、国民の多くが政府に対して、ここ数年、余りにも不信な出来事が多く感じられ、
このことが最大の問題点であり、
政府も国民も不幸な状況となっている。

このようなことを無力な私は、ぼんやりと考えたりした・・。

そして、不謹慎か、或いは少しボケてきたのか解らないが、ひとつの歌に思いを重ねてしまったのである。

♪古い奴だとお思いでしょうが、
 古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。
 どこに新しいものがございましょう。
 生れた土地は荒れ放題、今の世の中、 右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。

 何から何まで 真っ暗闇よ
 筋の通らぬ ことばかり
 右を向いても 左を見ても
 馬鹿と阿呆(あほう)の 絡み合い
 どこに男の 夢がある

【『傷だらけの人生』 作詞・藤田まさと 作曲・吉田 正 】

長々と無断で引用させて頂ただいたが、私が20代のなかば、俳優の鶴田浩二さんが唄った歌である。

そして1970〈昭和45)年の師走に発売され、翌年の春まで街に流れていた曲であるが、
あの頃は少なくとも、昨今より遙かに明日が観えていた日本、そして欧米であった、
と深く感じたりしている。

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マッチ、高級ライター、そして百円ライター、愛煙家の私は時代と共に変貌して・・。

2012-04-23 13:15:30 | 定年後の思い
私は煙草を喫いだしたのは、確か大学一年の夏の18歳の時、
ワンダーフォーゲル部に所属し、夏期合宿で13泊14日間で山歩きをしていた時、
この中間で一日の休息日で、たわむれで同期の方より、煙草を貰い、喫ったりした。
この当時は、マッチが街中で販売されていたので、
このマッチの小箱から一本取りだ擦って、煙草に火を点(つ)けていた。

合宿から帰宅後、生家の自室の四畳半で、
こっそりと煙草を買った私は、灰皿の代わりにサクマドロップの縦長の缶を利用して、
喫ったりしていたが、
隣室の次兄が、まもなく気づかれたが、サクマドロップの缶では危ないから、
灰皿をひとつ分けてくれた。

これ以来、生家では何となく私が煙草を喫うことも黙認となり、
齢ばかり重ねた67歳の私は、愛煙家のひとりとなっている。

25歳を過ぎた頃は、ある民間会社に中途入社して、
この後、六本木の本社に勤めていて、昼食は付近の食事処で食べたりし、
そして喫茶店で先輩、同僚と共にコーヒーを飲みながら、談笑した。

こえした時は、この当時はそれそれの喫茶店で無料サービスのマッチがあり、
それなりに創意工夫の特色あるマッチがあった。
私は喫茶店を利用するたびに、ひとつマッチを頂き、煙草を喫いながら、談笑を重ねたりしたいた。

もとよりデパート、街中の煙草売り場には、ライターが販売されていた。
しかし私はサラリーマンの内勤の多いコンピュータの専任者であり、
年齢並みの年収であったので、少し背伸び過ぎると思い、高級ライターの購入は断念し、
相変わらず喫茶店のマッチを愛用していた。

30歳を過ぎ、家内と婚約した時、私は家内と共に家内用の結婚指輪を買い求めた後、
私は男性が結婚指輪を指に付けるのに抵抗感があったので、
高級ライター、ワイシャツの袖口に付けるカフスボタン、そしてネクタイ・ピンを所望した。

そして3年過ぎた頃、愛用していた高級ライターは、粉失したしまった。
やむなく3000円ぐらいのライターを購入したりした。
いずれにしても私が使用したライターは、ガスライターであり、
専用のガスで補充したり、点火させる時に火打石のような専用の石が必要な普及された型のライターであった。

1980〈昭和55〉年になると、街中では使い捨ての『百円ライター』が流行し、
私の友人も使用してしたので、見せてもらった。
そして私は、専用のガス、石も買い求める必要もなく、たった百円が購入できる上、
ガスの残量も解り易いので、これ以降『百円ライター』を愛用した。

1992〈平成4〉年の頃になると、
たまたま自宅の付近のコンビニで、煙草を10箱(1カートン)を購入した時、
この『百円ライター』が無料サービスで頂いた。

私は根がケチなせいか、これ以降は煙草は1カートンで買い求めて、
『百円ライター』を頂いたが、一日1箱ぐらいの喫う私は、たちまち百円ライターが多量となり、
知人、友人に差し上げたりしている。

ここ10数年、嫌煙の風潮のある中、
街中で喫煙場所を迷子のように捜したり、我が家では主庭のテラス、
或いは玄関の軒下で蛍(ホタル)族の仲間入りをして、煙草を喫ったりしている。

そして昨今は、子どもでも点火できる使い捨てライター火災が多発している問題に伴い、
経済産業省の指導の下で、
点火レバーの固さなどで安全規制をした「PSCマーク」が付いた使い捨てライターとなったが、
私は相変わらず煙草を1カートン購入するたびに、
「PSCマーク」の付いた使い捨てライターを頂き、愛用している。

最近の私は街中の喫煙場で、若き人がオイルの香りをするジッポーのお洒落なライター、
旅先のホテルで、中高年のスーツを召した男性が、気品あるデュポンのライターなどで、
煙草に火を点(つ)けたりする情景を見たりすると、
いいよなぁ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
過ぎ去った日々に愛惜を重ね、微苦笑をしたりしている。

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『無知蒙昧(むちもうまい)』って、僕のことなの、と齢ばかり重ねた私は、うなだれて・・。

2012-04-22 18:58:51 | 定年後の思い
私は日中、本を読んでいた時、
恥ずかしがら『無知蒙昧(むちもうまい)』という言葉を学んだ。

この後、こっそりとネットの辞書で調べたら、
《・・知識・知恵がなく、物事の道理がわからないこと。 》
と明記されていたので、齢ばかり重ねた私のことなのか、とうなだれた・・。

私は若き頃、大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしたが、
あえなく敗退し、やむなくサラリーマンに転職し、
35年近くあるレコード会社に勤め、定年退職となったのは2004年の晩秋であった。

私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

こうした生活をしているが、これといって社会に事だった業績に無縁で、
今日に至っている。

このような拙(つたな)い私でも、この世に生を受けたひとりとして、
何らかの証(あかし)を遺(のこ)して、土に還りたいのであるが、
果たして・・と思索しているばかりであるので、
我が人生は、『無知蒙昧(むちもうまい)』の人であった、と評価されても、
やむえないなぁ、と苦笑をしたりしている。

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映画好きの方たちは、その作品を観た年代で評価は変貌する、と私は微苦笑し・・。

2012-04-22 00:34:02 | 映画・テレビ
私は齢ばかり重ねた67歳の身ながら、映画を観ることが好きである。
しかしながら感性は衰えた為か、殆ど20世紀に上映された作品を鑑賞することが多い。

私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年で、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりしたが、
脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人のアドバイスで、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。

純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。

そして、やむなくサラリーマンに転職しょうと、軌道修正をした。
コンピュータの専門学校に一年ばかり学び、これを梃子(てこ)にした上、
ある知人のご尽力もあり、この当時は大企業のある音響・映像メーカーに、
中途入社できたのは、1970年の春であった。

この後、まもなくしてこの会社の一部が、外資系のレコード会社として独立し、
私もこの新たに創業された外資系のレコード会社転籍させられて、
本社に30年ばかり私なりに奮闘して務めた後、
音楽業界のリストラ旋風の中、私も出向を5年ばかり体験して、
定年退職となったのは2004年の晩秋であった。


私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、
たまたま作家・小池真理子さん著作の『恋愛映画館』(講談社文庫)、
そして作家の塩野七生さん著作の『人びとのかたち』を再読し、
映画批評を思い浮かべたりした。

私は映画批評の基本として、何年生まれで、何時鑑賞し、
何時に批評を書かれたかは最大の力点に於いている。

それぞれのお方なりに映画館に通って、
当時の映画を観たかは、社会の世相が当然加味されるから重要視している。

さしずめ私は1944年生まれであり、
小池真理子さんは1952年生まれ、
そして塩野七生さんは1937年生まれである。

こうした考えにたつと、例えば私が二十歳で封切館で鑑賞したとすれば、
もとより塩野七生さんは大人の風格があり、
小池真理子さんは少し大人びた中学生となる。

例えば、1964年の時代の名画のひとつの『かくも長き不在は』に関し、
塩野七生さんでしたら、明確な輪郭を持った筆力で表現でき、
私は背伸びしながら拙(つたな)いなりに表現が可能だが、
小池真理子さんの年齢を配慮すれば無理なことがわかる。

そして1966年の時代になれば、
たとえば『ドクトル・ジバコ』の映画となれば、
才気のある小池真理子さんは的確に批評が描き出される,
と思ったりしている。

この前提としては、当然それなりの情熱と知性、そして感性が必要であることは、
いうまでもないことである。

私は単たる映画批評といっても、それぞれの人なりに人生を歩まれてきた中で、
もとより主観も相違があるので、それなりに思想としての人生観の一部を
かいわ見ることが出来る。

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一 青窈(ひとと・よう)さん、《新たな挑戦》をサイト上で、偶然に学び・・。

2012-04-21 19:00:33 | 音 楽
先ほど、ネットでニュースを見ようと、【YAHOO! JAPAN】を開いた後、
下段に美麗な女性が表示され、
《 今週、話題になった あの”ヒト”、あの”コト” 》
と見出しされた中、
この中のひとつとして、《 一 青窈、新たな挑戦 》の見出しを見て、
たまたま私は昼下がりに、
【 一 青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌、麗春のこの時節になると、秘かに私は唄い・・。】
と題して、ブログの投稿文を綴り、投稿した身なので、
偶然とはいえ驚きながら、と思わずクリックした。

http://smash.music.yahoo.co.jp/top/repyjm00990/
☆【YAHOO! JAPAN】
       <==【YAHOO! MUSIC】<== アーティスト紹介
         <《 昭和歌謡のカバーアルバム、岡村靖幸やMummy-Dとのコラボなど多岐に歌に向かう一青窈の思いとは? 》☆

私は記事を精読した後、何よりも驚いたのは、【YAHOO! JAPAN】のトップページに掲載された
美麗な女性が表示されていたのが、
一 青窈(ひとと・よう)さん、だったことであった。

この写真は、《昭和歌謡のカバーアルバム》のイメージ写真と思われるが、
女性は幾たびか変貌するといわれてきているが、
今回の写真に瞬時に魅了されてので、投稿した次第である。

そして私なり女性を67年ばかり見たりしたが、
女の人って・・解らないなぁ、と微笑みながらも苦笑している。

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一 青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌、麗春のこの時節になると、秘かに私は唄い・・。

2012-04-21 15:02:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の67歳の身であり、
子供に恵まれなかったので、家内と2人だけの家庭となり、古惚けた一軒家に住んでいる。

花曇りのような朝を迎え、やはり日中は曇り空になるのかしら、
と主庭の樹木の幼葉を広げ始めた後の萌木色に染められ、
或いは早くもみずみずしい新緑の情景を眺めたり、そして空を見上げたりした。

その後、10時過ぎに最寄のスーパーに買物に向ったのであるが、
少し遠回りして近くの野川の遊歩道を歩いていた。
遊歩道の下方の川沿いに黄色い帯のように長く続いている菜の花、
そして並ぶように白と薄紫の大根の花のような白と薄紫色の花色が帯状になっているのを
ここ5日ぐらい単細胞の私は歩き、菜の花の香りに心を寄せたりしてきた。

この後、新緑となった欅(ケヤキ)、コナラ、クヌギなどの大きな雑木がある小公園を歩いたりすると、
ときおり微風が吹き、小枝の若葉も揺れ、私は微笑んだのである。

買物を終えた帰路、道路際にある朱紅色や紅色の躑躅(ツツジ)、皐月(サツキ)は早くも咲き始め、
そして純白の耳飾りのような可愛らしい花のドウタン・ツツジも咲き始めたり、
その付近には菖蒲(あやめ)の群生は新芽が赤味を帯びている中、華麗な白い花が咲いているのを眺めたりし、
まもなく下旬から5月の初旬の大型連休の時節になる、と思ったりした。

そしてトボトボと歩いていると、
萌木色した葉の中で純白の花水木(ハナミズキ)の樹が2本咲いているのに気づき、
私は足を止めて、長らく見つめたりした・・。

私は定年退職後、その直後から年金生活をして8年目を迎えているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだった為か、
この花水木(ハナミズキ)の樹の純白の花に、心の濾過を託すように圧倒的に魅せられてきたのである。
そしてこの時節を迎えると、今年も咲いてくれたのねぇ、と思ったりしてきた。

この後、私は自宅に向いながら、
突然にひとつの歌が脳裏に浮かび、心の中で静かに唄いだしたのである。

♪空を押し上げて
 手を伸ばす君 五月のこと
 どうか来てほしい
 水際(みずぎわ)まで来てほしい
 つぼみをあげよう
 庭のハナミズキ

【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ 】

私は遅ればせながら、退職後にこの一 青窈ちゃんの『ハナミズキ』に魅了されて、
確か6年前だったと思われるが、NHKの音楽番組の中で、
一 青窈(ひとと・よう)さんと徳永英明(とくなが・ひであき)さんが、デュエットでこの歌を唄っていた。

一 青窈ちゃんは美麗ながら、心の深淵まで託したご自身の思いを唄い、
徳永英明さんは、透明感あるシルキー・ヴォイスで、圧倒的な歌唱力の声量で唄い、
この歌をお二人が唄うのを視聴したのであるが、
胸が熱くなり、やがて涙を浮かべそうなくらい圧倒的に感銘を受けたのである。

この後、歩道で人影が少ないのを確かめて、かぼそい声で唄いだした・・。

♪薄紅色の可愛い君のね
 果てしない夢がちゃんと 終りますように
 君と好きな人が 百年続きますように

【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ 】

私は、残された歳月で私自身の夢を実現をさせる命題もあり、
そして私たち夫婦は、この先いつまでも慎(つつ)ましながらも
年金生活の楽しい生活が続くわけでなく、いずれ片割れになる・・。

このような思いをいつも重ねてしまう。

私は小声で唄っているうちに、胸が熱くなり、
そして瞼(まぶた)も熱くなり、齢を重ねると涙もろくなる、と実感しながら家路に向ったのである。


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穀雨(こくう)の時節を迎え、年金生活の買い物担当の私は、微笑んで・・。

2012-04-20 14:03:42 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが.
今朝、居間にあるカレンダーをぼんやりと見たら、『穀雨(こくう)』と明記されていたので、
主庭の落葉樹の幼葉を広げはじめ後の萌木色、或いは早くもみずみずしい新緑の情景を眺めたり、
空を見上げたりした。

曇り空の中で雨の匂いのような空気につつまれたを感じたりした後、
地元の天気情報をネットで検索した・・。
朝の6時は11度、昼下がりは15度前後、夕方の6時は14度前後で、
曇りの一日となりますが、ひととき雨も降ることも予測されますので、ご注意下さい、
明示されていた。

そして明日の21日の土曜日は、曇り空の一日で、
朝の6時は10度前後、昼下がりは14度前後、夕方の6時は13度前後、
と表示されていた。

そして私は週間天気を見たりすると、
22日の日曜日は、最低気温は8度、最高気温は16度、曇後雨
23日の月曜日は、最低気温は11度、最高気温は16度、曇時々雨
24日の火曜日は、最低気温は15度、最高気温は24度、曇時々晴
25日の水曜日は、最低気温は15度、最高気温は23度、晴時々曇
26日の木曜日は、最低気温は14度、最高気温は21度、曇時々雨
27日の金曜日は、最低気温は14度、最高気温は20度、曇時々雨
と明示されて、
陽春のまばゆい陽射しに、さよならかしら、と苦笑したりした。


もとより穀雨の時節は、暖雨にうるおい百穀生じ育つ、と古人からの伝えられているので、
私は幼年期に農家の児として育った体験からして、
農作物は陽射しと雨と土で育つと固く信じているひとりである。

今年の冬は、平年より寒く、私は野菜の高騰のニュースを見たり、
昨今でも、買い物先のスーパーなどのコーナーで、平年より高い上、新鮮さ欠けるので落胆し、
天上の気候の神々の余りにも酷いたわむれで、どうしてなの、と思ったりしてきた。

そして農作物に従事される農家の方たちの労苦は増し、
何かと大変だったろう、と思いを重ねてきた。

我が家の家内は、幼年期よりサラリーマン育ちだったせいか、
単純に野菜は高いわねぇ、と溜息まじりに時折言ったりしている。

私は小学4年生まで農家の児として育ち、農業の労苦を少し知っているので、
薬などのビタミン剤を飲むより、野菜の方が遥かに廉(やす)いし、
美味しい上、何よりも身も心も健全である、と年金生活をしている私でも、私は明言したりしている。

そして私は穀雨の時節が過ぎ、農作物は育ち、やがては数々の野菜も収穫となり、
買物担当の私はスーパーの野菜売り場で、程ほどの価格で新鮮な品にめぐり逢える。
こうしたことをぼんやりと曇り空を見つめながら、思い馳せたりしている。

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『ゴールデン・イヤーズ』の私たち夫婦、たとえ年金生活の身であるが、日々享受し・・。

2012-04-19 16:23:08 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は東京オリンピツクが開催された1964年に大学を中退し、
アルバイト、或いは契約社員をしたりして映画・文学青年の真似事をした。

ある年、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。

そして、やむなくサラリーマンに転職しょうと、軌道修正をした。
コンピュータの専門学校に一年ばかり学び、これを梃子(てこ)にした上、
ある知人のご尽力もあり、この当時は大企業のある音響・映像メーカーに、
中途入社できたのは、1970年の春であった。

この後、まもなくしてこの会社の一部が、外資系のレコード会社として独立し、
私もこの新たに創業された外資系のレコード会社転籍させられて、
本社に30年ばかり私なりに奮闘して務めた後、
音楽業界のリストラ旋風の中、私も出向を5年ばかり体験して、
定年退職となったのは2004年の晩秋であった。

このように私は、大学を卒業して、大企業で邁進されたサラリーマンのエリートの方たち、
或いは官公庁で栄達された方たちとは、
遥かに遠い拙(つたな)い身なので、もとより年収も退職金も程ほどに少なく、
せめてその時代に流行(はや)った名曲と共に、時代を深く共有できたのが、
心の宝物のひとつかしら、と微苦笑している。

私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。


日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。


昨年の3月の東日本大震災後、これからの老後を配慮し、
本に関しては、5000冊前後あった本を大半処分した結果、
居間と書庫だけ本棚となった今、2000冊ぐらいかしら、と思ったりしている。

そして映画作品の場合は、処分後は専用棚にはVCT、DVDを専用棚に於いて1000本前後あり、
或いは音楽については、レコード、カセット、CD、DVDが、過日に処分もしたが、
やはり専用棚として1000枚ぐらい残し、
ステレオセットを定年7年前の頃に処分し、やむなくCDラジカセで聴いたりしている。

過ぎし日々に幾たびか友人、知人などに上げたりしてきたが、
若き青年時代に映画、文学青年の真似事をした時代もあり、
倹約したり、一食を抜いて購入した本、レコード、そして映画を観たりしたので、
中々捨てきれなかったが、断腸の思いで処分した。

我が家は年金生活なので、原則として年金支給額で平素の生活を過ごし、
国内旅行、冠婚葬祭、そして耐久品などの購入は、
程ほどの貯金を取り崩して過ごしているので、ごくありふれた年金の家庭であると思ったりしている。


私たち夫婦は若き新婚の頃から幾たびか国内旅行をしてきたが、
年金生活を始めた翌年の5月下旬に、
知床半島のウトロから出港してオホーツク海を北上して、半島の先端の知床岬で日の出を洋上から観る
早朝クルーズに惹かれて、3泊4日で道東をめぐる観光団体観光ツアーに参加した。

この後、3日目の昼下り、阿寒湖の湖畔で1時間ばかり休憩した時であった。

私たち夫婦は団体周遊旅行で、私たちと同様にご夫婦の方も多くいるので、
私たち夫婦は40代の頃から、好感したご夫婦と旅行中で話し合ったりするタイプである。

この時も年配のご主人と湖畔の喫煙場で、私は話し合ったりした・・。

『僕は70を過ぎているが・・あなたは60過ぎた頃でしょう?
僕も60代の頃は、家内と海外旅行など・・盛んに行ってたの・・
自分達が好きなことが一番できる時期なの・・
あなたたちのご夫婦を見ていたら・・思い出されたのよ・・』
と年配のご主人は私に微笑みながら私に言った。

『あの頃は、体力は少しは衰えは感じていたが・・何より気力はあった・・
あなた・・知っているでしょう・・
ゴールデン・イヤーズということ・・この人生で一番充実していた時・・』
と年配のご主人は言葉を重ねられた・・。

私は改めて、このご主人から、60代は人生の黄金期と学んだのである。


このようなことを私は思い馳せながら、
私たち夫婦は、お互いに歯の治療ぐらいで、入院する程の大病にすることなく、
8年目の年金生活を過ごしている。

ときおり家内は、
『働くなくても・・こうして生活を過ごせるのだから・・』
と微笑みながら、私に言ったりしている。


昨日、私は我が家の小庭は、雑木の多い常緑樹は新芽を伸ばし、
落葉樹は芽吹きが終わり、幼葉を広げはじめ、みずみずしい新緑の情景の中、
今年初めての草むしりを孤軍奮闘していた。

我が家の敷地は変形で、家屋の関係により玄関庭と主庭に分離された上、
隣接にマンションなどが建っているので、冬の時節は一部が陽陰となったりしている。
無念ながら私の実力不足で、わずか100坪ばかりの敷地なので、
大きく伸長する欅(ケヤキ)、山桜(ヤマザクラ)などが植えられず、
何かと拙(つたな)い人生を過ごしてきた我が身に相応しい、と苦笑をしたりした。

そして樹木の下に這(は)いつくばったりして草むしりして、
何とか小奇麗になった小庭を眺めたりしていると、
いずれは私たち夫婦は片割れとなり、こうした古ぼけた家でも維持管理するのは、
苦楽が伴なうので住めないだろう、と私は改めて感じたりした。

そして現在の古ぼけた一軒家の生活は、
あと10年ぐらい私たちは五体満足で生かしてもらいたい、と思ったりした。
この時は私は77歳となり、家内は70歳となる。

その後は身体も衰え、やむなくスーパー、病院、公園の利便性のあるマンションに転居し、
互いに思いやりを増して、どちらかが終末となり、残された人は『おひとりさま』の生活となる。

このようなことをぼんやりと思ったりしたが、
果たしていつの日か解らないが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。

いずれにしても、心身元気だと自身を励むことが出来るゴールデン・イヤーズと称せられる60代、
私が何かで日常生活で失敗した時、『ボケチィンねぇ・・』と家内は笑われたりする時もある。
或いは『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』と家内は苦笑されたりしているが、
私は長き37年の人生の苦楽を共にした良き叱咤激励と思いながら、
何よりも気楽に寝食を共にでき、談笑できる相手がいれば良いと思ったりしている。

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『朧(おぼろ)月夜』 、かぼそい声で高齢者の私が唄えば、学童に微笑まれ・・。

2012-04-18 18:03:55 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝、我が家の小庭の草むしりを10時過ぎに始め、
玄関庭の花壇の付近、塀際の樹木の下にもぐり、草をむしり、
少し泥だらけになったりしたが、ときおり玄関の軒下に置いた簡易椅子で休息をしたりした。

雑木の多い小庭の常緑樹は新芽を伸ばし、落葉樹は芽吹きが終わり、幼葉を広げはじめ、
みずみずしい新緑の情景となっている。
陽春の陽射しを受けても、初夏のように汗を流すこともなく、
ときおり、微風が吹くと、新緑の葉は揺らいで、心身心地よく、一年で一番快適な時節かしら、
と私は微笑んだりした。

その後、主庭の草むしりに専念したりすると、昼下がりの時間となったが、
昼食も無視し専念した。
少し疲れを感じたりしたが、歩道に面した側の樹木の下の草むしりをしていた時、、、
昨日、自宅の近くの野川の遊歩道から観えた川沿いに菜の花が、
黄色い帯のように長く続いていた情景を思いだし、ひとつの歌を私は唄いながら草むしりをした。

♪菜の花畠(ばたけ)に、入り日薄れ
 見わたす山の端(は)、霞(かすみ)ふかし
 春風そよふく、空を見れば
 夕月(ゆうづき)かかりて、におい淡(あわ)し
【『朧(おぼろ)月夜』 作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一/文部省唱歌 】

そして、二番はなんだっけ、と思っていた時、
歩道に小学生の三年生ぐらい女の子が二人並んで、私を眺めていたことに気付いた。

そして私は、近所の女の子と解った後、かぼそい声で唄っていたので、
恥ずかしさを秘めながら、
『学校の帰りなの?』
と私は照れながら大きな声で言った。

『はい。学校の帰りです・・
小父さんが唄っていた歌・・うちのお兄ちゃんが家で唄っているわょ』
とひとりの女の子は微笑みながら私に言った。

『そぉ・・小父さんは昔・・小学6年生頃に学校で習ったの・・
今でも学校で教えるのかしら?』
と私はひとりの女の子に言った。

『解らないわ・・あたしたち・・小学4年生だもん』
とひとりの女の子は困ったように私に言った。

『気を付けて帰ったねぇ』
と私は二人の女の子を眺めながら言った。

『寄り道しないで帰ります。小父さん、さようなら』
と二人の女の子は唱和するように私に言った。

私は女の子を後ろ姿を視(み)ながら、
この中のひとりのご両親は知っているが、
ここ数10年、子供たちも言葉が乱れているが、親御さんの情操教育は確かだ、
と私は心の中で呟きながら、嬉しげに微笑んだりした。


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