夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

たがが『冬のイベント』、されど『冬のイベント』・・。

2009-11-30 16:45:20 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたのであるが、
『家計』面の中のひとつの記事に思わず微笑んで読んだりした。

この記事と同一内容が読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】で掲載されているので、
無断であるが掲載させて頂く。

《 冬のイベント「雪まつり」が人気首位
                    「見所は夜」多く 》

と見出しされた記事であり、

《・・
そろそろウインターシーズンの計画を立てようかなと考える人も多いのでは……。

そんな人の参考に旅行のクチコミサイトを運営するフォートラベル(東京都新宿区)が
実施した「冬に行きたいイベント」アンケートの結果を紹介するとともに、
冬のイベントをお得に楽しむコツを旅行ジャーナリストの村田和子さんに聞いた。(経済部 山岸肇)

本命・さっぽろ雪まつりは、やはり首位。
1950年に市内の中高生が制作した雪像6基を展示した時は、
来場者も5万人だったが今は200万人以上に増えた。

2位は神戸ルミナリエで、約20万個の電球による約270メートルの光の回廊は
混雑時は抜けるのに2時間かかることもある。

知床ファンタジアは半世紀ほど前に北海道斜里町で観測されたというオーロラを再現しようと開催。
煙にレーザー光線を当て、色鮮やかな光のカーテンを夜空に浮かび上がらせる。


ところで、冬のイベントは夜が見所のものが多い。
村田さんは「宿泊先は寝るのが主なので価格抑えめのビジネスホテルがお勧め」と言う。
夜の写真撮影は「手ぶれをすることが多いので2秒のセルフタイマーを使うといい」と助言する。

開催場所が分散していたり、日によって時間が異なるイベントもあり、
事前の情報収集も重要だ。
村田さんは「観光協会や主催者に問い合わせると、
観光パンフレットや周辺地図、割引券なども無料で送ってくれる所が多い」という。

さらに「交通機関や宿泊先予約サイトの会員向け割引サービスは、
一般向けよりも割引率が高いので利用してみては」
と勧めている。

(2009年11月30日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/tabi/news/20091130-OYT8T00300.htm

私達夫婦の共通趣味は国内旅行であり、子供も恵まれなかったせいもあり、
若き頃より日本の各地に旅行に行ったりしてきた。

この中で採り上げられている『さっぽろ雪まつり』に関しては、
2001(平成13)年の2月に、前年に勤続30年の特別休暇が残っていたので、
私はオーホックの流氷、家内は札幌の雪祭りを目的として、
私達夫婦は4泊5日で周遊したのである。

私達は厚手のフィールド・コートと軽登山靴で、
私の軽登山靴はマイナス15度、家内のマイナス30度に耐えられる靴で、
そして私の帽子は山岳用を愛用し、家内はマフラーを被れば大丈夫という容姿で、出かけたのである。


網走の郊外の能取岬の途中にある海岸に接したホテルに2泊し、
流氷の接岸を待ちわびたが、残念ながら遠のき、やむえず知床のウトロまで流氷を求めて行ったりした。
念願叶(かな)ってウトロの直前で、流氷の荘厳な光景が観られたのである。
そして、網走から札幌まで日中、特急で移動した後、小樽に宿泊した。

この後は札幌に一泊だけであったが、
網走の外れ、網走駅、斜里駅、小樽駅などの情景を観てきたせいか、
札幌駅、周辺の広大さには驚いたのである。
そして、雪祭りの前日に小樽を昼過ぎに別れを告げた後、
札幌の街並みを歩き、前夜祭を観たのであった。

この時、どんよりとした曇り空で根雪もあり、家内は寒いというので、
ロシア物産の即売店で、ロシア婦人がかぶる様な形の帽子を買い求め愛用した。

そして翌日は快晴の中、雪祭りの初日の情景を観たりした後、
郊外の自衛隊の基地にイベントを観たり、市内を散策したのであった。


『知床ファンタジア』に関しては、無念ながら観ていないが、
ささやかな思いでがある。

前記の『網走から札幌』に周遊した時、網走の海岸で流氷が観られなく、
知床のウトロまで求めて行った時であった。
ウトロの数キロ前の峠道で、流氷の荘厳な光景が観られ、
ウトロのバス停で下車した後、海岸付近は積雪50センチ前後の中を歩き、
海上の流氷を眺めたりしたのであった。
そして突然に一角が平地となっていたのが、『知床ファンタジア』の会場であり、昼の一時過ぎは閑散としていた。

私の悪い癖のひとつであるが、会場の外れで記念として、
流氷を眺めながら、おしっこをしたのである。

その後、海岸付近と思われる雪の中を一時間ばかり歩き回り、一般道に出た時、
道路の補修をされている6人の方たちから、
なんて物好きの夫婦もいるなぁ、
という視線を私達夫婦は受けたのである。

私達夫婦は厚手の冬ズボンはもとより厚手のフィールド・コートまで雪をかぶり、
マイナス10度前後の中、更に微風の吹く中、熊のように歩き廻っていたのだから、
地元の方たちから苦笑されるのも致しがたいと私は納得したのである。


『蔵王樹氷まつり』に関しては、私たちは宮城からの樹氷を観たことがある。
2005(平成17)年の1月30日より3泊4日で、
遠刈田温泉の観光ホテルに滞在し、蔵王の樹氷を雪上車で観る、というツアーがあった。

この時、ホテルからスキー場まで四駆のマイクロバスで送迎して頂き、
スキー場から雪上車に乗車し蔵王の山頂まで目指したことがあった。
結果としては九合目ぐらいで下車し、烈風の中で樹氷を誉めたりした後、
ゆっくりと樹氷を眺めながら雪上車は下り、ときおり私達は下車し、周囲を散策したりした。

その翌日には、遠刈田温泉の街中、周辺を雪舞い降る中を日中歩き周ったりし、
それなりに深い思いでをあった。


私は思いだすまま、綴っているが、
私達夫婦は日中のひととき雪の中を散策したりし、全てが浄化されるような光景が好きである。、
そして温泉地の観光ホテルに滞在し、雪景色を観ながら大浴場、
その上に露天風呂があれば、この世の最上の喜びと感じている。

このような旅行を長野県、東北地方、北海道地方を中心に、ここ二十年ぐらい続けている。

しかし、人の集う冬のイベントも好きであり、
昨年の12月下旬には『さっぽろホワイトイルミネーション』も観たりした。
のことについては、最近の11月19日のこのサイトに於いて、
【東京郊外の田舎者、私なりの『札幌クリスマス&イルミネーション』の想いで・・。《上》《下》】
と題して投稿しているので、省略する。

そして、この冬の時節、『横手かまくら』、『層雲峡 氷瀑まつり』、『はこだて冬フェスティバル』などは、
未知の情景であり、いずれは訪れたいと思ったりしているのである。


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今年、最後の我が家の樹木の剪定(せんてい)作業・・!?

2009-11-30 08:57:49 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
我家は原則として、庭の手入れは私の責務の範疇であるが、
年に数回ぐらい家内の支援がある。

昨日の日中、今年最後の樹の枝切りをしょう、
と私達夫婦は話し合い、朝の9時半過ぎに私は庭に下り立った。
玄関庭の外れにある花梨(カリン)の大きく黄色に色づき、香りある実を採りはじめた。
今年も70個前後が収穫でき、虫くいのある20個ばかりは私は捨てたのである。
昨年も50個前後を家内は砂糖漬けにしたのであるが、2日間ぐらいかかったわ、嬉しい悲鳴を上げたりし、
家内の母の喉薬の代わりに好評などで、ここ10数年作っているのである。

途中から、家内の支援もあり無事に収穫できた後、
ここ3年は枝を剪定していなかったので、我が家で一番大きくなった樹となり、
短めに大幅に枝を剪定した。
私はいつものように剪定鋏(ハサミ)を腰の周りに備え、
剪定用の鋸(のこぎり)を持ちながら、樹木に登ったり、適度な台に乗り、枝葉を切り落とたりした。

家内は付近の樹木を高枝鋏(たかえだばさみ)で枝葉を切り落としていた・・。

私は樹木の枝葉を切り落としていたが、地上から、
『その枝の下の方から、切り落として・・』
と家内の指示の声がするのである・・。

その後、主庭のモミジ、白梅を中心に剪定し、昼食抜き互いに奮闘し、
枝葉を整理した後、落ち葉を掃き清めたら、午後4時過ぎであった。

そして風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は庭の片隅で簡易椅子に座り、久々に缶ビールを呑み、煙草を喫ったりした。
落葉樹を中核としたささやかな庭であるが、
季節ごとに情景の移ろい、30数年眺めてきたのであるが、
それなりにその年ごとの思いでも重なり、昨今は愛惜を深めている。

このようにぼんやりと眺めて、大幅に短めになったそれぞれの樹に、微笑を浮かべたりした、

私は風呂から上がったのは5時過ぎで、夕食を食べ終えたのは6時で、
バソコンに向ったが、疲れ果てていたせいか眠くなり、
やむえず寝室で布団にもぐり、眠り込んだのである。
目覚めたら10時過ぎで、ぼんやりとパソコンで一筆啓上しょうかしらと考えたりし、
玄関庭の軒下で雨が降りだしていた情景を眺めながら、煙草を喫ったりした。
そして11時半過ぎに布団に戻り、本を読んでいたら一時半過ぎであったので、
消灯したのであった。


今朝、目覚めたのは6時過ぎで小雨が降っていたが、午後から晴れになる、
と天気情報は報じていた。

今こうして雨あがりの主庭の朱紅色に染められたモミジを眺めたり、
掃き清められた黒い地表を眺めたりし綴っているが、
あとは中旬、年末近くに落ち葉を掃き清めたら、歳末を迎えられるかしら、
と私は微笑している。



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私なりの歴代の邦画のベストテンは・・。

2009-11-29 00:09:12 | 映画・テレビ
前回の洋画と同様に選定した。

『キネマ旬報』ベストテン《参考》1999年10月下旬特別号

①『七人の侍』

②『浮雲』

③『飢餓海峡』

③『東京物語』

⑤『幕末太陽傳』

⑤『羅生門』

⑦『赤い殺意』

⑧『仁義なき戦い』シリーズ

⑧『二十四の瞳』木下恵介

⑩『雨月物語』

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私の選定は、

①『駅 STATION』

②『用心棒』

③『人間の條件(全六部作)』

④『東京物語』

⑤『七人の侍』

⑥『浮雲』

⑦『雨月物語』

⑧『飢餓海峡』

⑨『切腹』

⑩『砂の器』


洋画と同様に、【時】が人生にもたらす影響をヒントに選定しましたが、
上記のいずれがベストワンになっても良い作品です。

《2003年8月16日、私の日記より》


こうした選定作業の時、その人の人生を歩いてきた思考の全てが反映する、
と改めて感じたのである。



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私なりの歴代の洋画のベストテンは・・。

2009-11-29 00:08:52 | 映画・テレビ
映画専門雑誌の『キネマ旬報』による映画人が選んだ
オールタイム・ベスト100の外国映画編に対応し、選定した。

『キネマ旬報』のベストテン《参考》1999年10上旬特別号

①『第三の男』

②『2001年宇宙の旅』

③『ローマの休日』

④『アラビアのロレンス』

⑤『風と共に去りぬ』

⑥『市民ケーン』

⑦『駅馬車』

⑦『禁じられた遊び』

⑦『ゴットファーザー(三部作)』

⑦『道』

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私の選定は、

①『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』

②『ディア・ハンター』

③『イングリュシュ・ペイシェント』

④『ピアノ・レッスン』

⑤『かくも長き不在』

⑥『街の灯』

⑦『ゴットファーザー(三部作)』

⑧『自転車泥棒』

⑨『ジョニーは戦場に行った』

⑩『逢びき』D.リーン

数多(あまた)の感動をもたらしてくれた作品の中より選定するのが、
酷な作業でした・・。

【時】が人生にもたらす影響をヒントに選定しましたが、
上記のいずれがベストワンになっても良い作品です。

尚、選定の際に於いて、【第三の男】、【市民ケーン】、【アラビアのロレンス】、
【許されざる者(’92)】、『カサブランカ』等は最後まで検討した作品です。


《1999年9月29日、私の日記より》

小説、映画、音楽などの選定の結果、その人の性格、人格、思想を
表わす、と改めて思った次第です。




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私の好きな映画、1950、1960年代の制作年度別ベストワン(邦・洋合算)は・・。

2009-11-29 00:08:21 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
【OCN Cafe】でめぐり逢えた映画を真摯に愛し、そしてプロのシナリオ・ライターをめざしている大人の人がいる。

http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/mackychan

私は若き頃に映画・文学青年の真似事をした時期もあり、
彼の綴る映画への圧倒的な情熱と持続力、そしてたぐい稀な散文と会話体を読み、
思わず一行ばかりのコメントをときおり書き込んだりしている。


今回、彼が1950、1960年代の制作年度別ベストワン(邦・洋合算)の作品を明示し、
私なりに深く読みながら、思わず喚起されたので、
私のつたない観賞歴から選定しょうと思ったのである。
あくまで、その昔、映画館に通いつめ、今は齢を重ねたひとりの
たわごととご配慮の程を。


1950 『自転車泥棒』(監督・V.シーカ、主演・ランベルト・マジョラーニ)

1951 『イヴの総て』(監督・J.L.マンキヴィっツ、主演・べてぃ・ディヴ

1952 『陽のあたる場所』(監督・J.スティーヴンス、主演・モンゴメリー・クリフト)

1953 『雨月物語』(監督・溝口健二、主演・京マチ子)

1954 『七人の侍』(監督・黒澤 明、主演・三船敏郎)

1955 『浮雲』(監督・成瀬巳喜男、主演・高峰秀子)

1956 『真昼の暗黒』(監督・今井 正、主演・草薙幸二郎)

1957 『道』(監督・F.フェリーニ、主演・ジュリエッタ・マシーナ)

1958 『楢山節考』(監督・木下恵介、主演・田中絹代)

1959 『十二人の怒れる男』(監督・S.ルメット、主演・ヘンリー・フォンダ)


1960 『誓いの休暇』(監督・G.チュフライ、主演・ウラジミール・イワショフ)

1961 『用心棒』(監督・黒澤 明、主演・三船敏郎)

1962 『切腹』(監督・小林正樹、主演・仲代達矢)

1963 『アラビアのロレンス』(監督・D.リーン、主演・ピーター・オトゥール)

1964 『かくも長き不在』(監督・あんり・コルピ、主演・アリダ・ヴァリ)

1965 『赤ひげ』(監督・黒澤 明、主演・三船敏郎)

1966 『ドクトル・ジバコ』(監督・D.リーン、主演・オマー・シャリフ)

1967 『アルジェの戦い』(監督・ジロ・ポンテコルヴォ、主演・ジャン・マルタン)

1968 『2001宇宙の旅』(監督・S.キューブリック、主演・キア・デュリア)

1969 『真夜中のカーボーイ』(監督・J.シュレシンジャー、主演・ダフティン・ホフマン)



満天の星空のような名画の前で、邦画と洋画を合流した上で、
制作年度別に選定したのは、私としては初めてであった。

1時間ばかりで選定したが、結果を見て私らしいと微苦笑している。


尚、かって私は、洋画、邦画別の歴代のベストテンを選定したことがあったので、
今回、この後に再掲載となるが投稿する。


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過ぎ去りし、定年後の私の11月28日の思いは・・♪  【下】

2009-11-28 16:56:49 | 定年後の思い
2006年11月28日の朝の8時過ぎ、
【 さだまなぬ天気・・♪ 】
と題して、短めに投稿していた。

【・・
東京の郊外は深夜から雨が降りだして、先程から霧雨となっている。

昨夜の天気予報に於いて、午前中は晴れ間となるが午後は曇り、と報じていたが、
今朝の予測は雨時々曇りと変った。

気流の流れにも天気は左右されるのば頭でわかっていても、
気持ちが付いてゆけなくて、少し戸惑っている。

うつろな気流、果たして日中は・・と空を見つめている。
・・】


この後、午前中のひととき、
【 私がサイモン&ガーファンクルを聴いた頃・・♪ 】
と題し、三回に分けて投稿していたが、集約して掲載する。

【・・
昭和43年、私は大学を中退して3年が過ぎようとした頃であった。
映画青年、文学青年のまねごとをし、先行きの見えない日々を過ごしていた。

学生時代の友人達は社会の一線で出て、社会に対しまぶしくもあったが、
根拠のない自信ばかり強くて、屈折した日々を送っていた。

大学を中退した後、シナリオ・ライターの養成所に入り、
養成所、講師からアルバイトを紹介してもらった。
アメリカのテレビドラマの下請けで、出演者として脇役で数本出たりした。

或いは、ある月刊誌の記事の与えられた課題を取材し、下書きまでして、
講師が筆を入れて、講師の名で発表されたが、
ある程度の収入となった。

このようなことを何時まで行っても文章修行の時間がなくなり、
警備員などのアルバイトをしながら自由な時間を確保したりした。

あるお彼岸の時、親戚の叔父さんから、
『若い時・・なんとでも成るが・・30からどうするの・・』
と怒られたりした。

学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら取り残されたようになってきた。

やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、ある大手の家電会社の営業職を受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。
この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。


家電の営業職の中途採用は、その後は面接を二回ばかりして、幸いに採用通知を頂いた。

このような時、近所の家電販売店の店主が実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
『三週間でわかるコンピューター』の付録があった。

購入して読んだが、理工関係に弱い私は理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸張する、
と理解していた程度であった。

私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に強い若い男女が多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだ。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。

この後、ある企業に入社したが、企業は甘くなく徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。


昭和45年4月、私はある大手の音響・映像の会社に中途入社が出来た。

この頃は、サイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。

そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、
レコードが擦り切れるくらい好く聴いた・・。

♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine

【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】

私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむ・・。

私の彷徨した時代に終わり、遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、
この曲を聴いたりしていた。

私の勤める会社は、レコード専門会社として独立し、
私は企業の一年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社であるが『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には三島由紀夫が自裁され、
私の青年期は確実に終わりを告げた。
・・】


この日の午後に、
【 私の魂(たましい)まで響いたテレビ番組・・♪ 】
と題して、2回に及び投稿していたが、集約して掲載する。

【・・
私は昨夜、NHKで10時より【プレミア10】の定期番組に於いて、
《世紀を刻んだ歌》と題した『明日に架ける橋・賛美歌になった愛の歌』を観た・・。

私の若い頃、サイモン&ガーファンクルに魅せられた一時期があり、
特に『明日に架ける橋』が心の歌のひとつして残って折、
懐かしげに観た次第であった。

私の知らない若い女優・緒川たまきが取材をしながら、カメラで撮るという進行で、
『明日に架ける橋』を丹念に思索する番組であった。

アメリカ9.11の同時多発テロ後、
この歌を含めて6曲前後、放送が自粛され、
こうした中でもポール・サイモン自身が犠牲者追悼の為に唄っている情景が映し出された・・。

その後、『明日に架ける橋』でピアノ伴奏をしたラリー・ネクテルとのインタビューの折り、
『・・偶然に意図したものより、良くなる事がある・・
イントロを考えたのは自分で・・
思わずそのまま存在しなかった3番まで弾(ひ)いてしまった』
と発言していた。

そのそばで聴いていたガーファンクルはハミングをして、
サイモンは帰宅後、3番目の歌詞の・・銀の少女・・を書き上げた、
と証言されていた。

サイモン自身、古きゴスペルのひとつを聴き、『明日に架ける橋』のアイディアが沸き、創作できたらしい。

その後、番組では南アフリカで1970年代の半ばに、アパルトヘイトの問題が世界を騒がせた折、
アレサ・フランクリンの唄う『明日に架ける橋』が南アフリカの多くのお宅の家で流れた・・。


ポール・サイモン自身、南アフリカのアパルトヘイトの喧騒の時代、
南アフリカの入国は認められず、この隣国で多くのアーティスト達とコンサートを6万人前後の中で開いたりした・・。

そして肝心の南アフリカに於いては、
アレサ・フランクリンのゴスペル風のバージョンの唄が愛され、
悲惨で希望のない住民に賛美歌として唄い継がれていく・・。

そして、現代の若い中学生の合唱で、
ゴスペラとしての『明日に架ける橋』が唄われている。

取材者の緒川たまきが番組の終わりとして、
『明日に架ける橋』は、もはやサイモンとガーファンクルの歌にとどまらず、
ひとつの賛美歌として多くの人々に愛される歌になっている、
とこのような意味の言葉を残して、番組は終わっている。

番組終了後、私は少し涙ぐんだ・・。

たった一つの歌は、民族、国家を乗り越えて、
人々に勇気と希望をもたらす力を秘めている・・。
そして歌が生まれ40年前後たった今でも、
世界に数々の動乱ある時代を中、歌は人々の中で伝承されている。


テレビ番組のドキュメンタリーのひとつであるが、
ときとして私の魂(たましい)まで響く番組がある。

私は今日の午前中、
この随筆欄て『私がサイモン&ガーファンクルを聴いた頃・・♪』を三回にわたり綴ったが、
この番組を観て、誘発され、そして余情して綴ったりしていた・・。
・・】


定年退職後の一年を過ぎた2005年11月28日の朝の8時過ぎ、
【 我が家も冬の陣・・♪ 】
と題して、短めに投稿していた。

【・・
東京の郊外も晩秋も深まっているが、ここ数日に家内は室内を冬に備えている・・。

冬用の毛布、布団、炬燵を準備している。

そして私の冬用のセーター、スポーツ・シャツ、ズボン、肌着、綿入りの半纏を、
スリー・シーズンから入れ替えていた。

主婦の方は、何かしら忙しい時期となっている。

私の方も朝六時の定刻に起床し、
まだ薄暗い朝の中で煎茶を淹れて、
家内の枕元に牛乳とコーヒーのそれぞれのマグ・カップを置いたりしている。

その後、新聞を読みながら、NHKのニュースを観たりしている・・。

七時になると家内は起きて来て、洗濯機をセットし、
私は戸を開け始める・・。

こうして我が家の冬の季節は、昨年と同様に始まっている・・。

朝の陽射しを受け、ぼんやりとパソコンに向かい、
何時ものように『地元の天気予報』、『NIKKEI NET』等を検索している。
・・】


この日の午後3時半過ぎには、
【 住みかの理想を求めて・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
私は東京の郊外で、調布市に住んでいる。

世田谷区と狛江市に隣接した場所である。
従って、電話地区は都内となっていて、不動産の売却依頼のチラシが、
毎日、数社から郵便ポストに入ってくる。

近くに流れる野川沿いに、住宅地に整備されたのは、バブル時期であった。
50坪程度に区画された土地が一億円以上で、売地と表示されていたので、
家内と驚いたりしていた。

私はこの近くで一戸建ての程々の広さの庭で生活して、
多額な住宅ローンを返済していた。

定年前にやっと返済が終ったので、
定年後の今は、土地と家屋に伴う固定資産税と都市計画税を支払っている。

家を建てる時、気負って茶室まで造ったので、
造園にかける資金がなくなり、雑木を植え込んで対処した。

植え込んだ雑木は、か細い頼りない樹木であったが、3年、7年と過ぎれば、
それなりの樹形になってきた。

こんなふうに28年を過ぎれば、
淘汰した雑木もあり、新たに植え込んだ樹木もある。

こうして季節に応じて、雑木はそれなりの色合いを楽しませてくれる。

数年前、新聞の広告で高層マンションの案内が載っていたのがあった。

『こういうマンション、庭の手入れも必要なく、
住み易(やす)そうね・・都内の展望も観えるし・・
港の情景も観えるわ・・都内のホテルも近いし・・』
と家内は言った。

『だけど、季節感がないよ・・』
と私は言った。

『そうかしら・・』
と家内は言った。

『そうした情景は飽きるよ・・
そうした情景に近いホテルに3泊4日で泊まったら、
解ると思うよ・・』
と私は言った。

私の定年後の理想は、
旅行先で観かける里山を切り拓いたホテルの付近の分譲住宅であった。
里山の樹木に囲まれた一軒屋に住み、
ときたまホテルのレストランで食事をする。

こうした事を10数年前に家内に話した所、
『利便性がないわ・・買い物も大変よ・・お友達も遠くなるし・・
風邪を退いても、ケガをしても、その上よ、身体を壊しても近くに病院がないわ・・』
と言われ、反対された。

我が家の結論として、このまま今の家に住み、
片方が身体が弱った時、看護用の老人マンションに移る、
と話し合ったしたのである。

それまで我が家の周辺と違った国内旅行先でその地なりの情景を受容し、
思い出を創っていく、こととなった。

それぞれの理想の家は、まぼろしとなった次第となったりした。
・・】


私の定年退職日の少し前に、家内の父が病死し、葬儀が終えた後、
私自身の定年退職に伴う書類などを提出したり、慌ただしい日々が続いた。
そして、まもなくブログの世界を知り、二つばかりのサイトに加入したりし、
この中の一部に、【 上総亀山滞在記 【2004.11.29. ~ 12.1.】 】
と題して投稿文が残っていたので掲載する。

【・・
家内の父の四十九日だった。
家内の母が、千葉県木更津のはずれに墓地を求めていたので、納骨に訪れた。

死去後、何かと慌ただしい日々が過ぎていた。

JRの支線で久留里線の終点に亀山温泉があったので、この地でゆっくりと休養を取る事とした。
亀山は房総半島のほぼ中心部に位置し、人造湖があり、
湖畔の周囲に宿泊場所が点在し、晩秋が終わりかけている所と想像していた。

ホテルに夕暮れまじかに着いた。
部屋のベランダ沿いに小さな石庭があり、すぐ目の前の湖畔の周囲は桜の樹が群生し、
朱色した葉があたりを染めていた。
この桜の樹に寄り添うようにイチョウの大きな三本の樹木が
黄色した葉がふんだんに彩っていた・・。

夕食後、ホテルのパンフレットを見ていたら、
日本で一番遅いと言われる紅葉・・と書かれていた。
この周囲が紅葉の真っ盛りが、理解できた。


早朝の湖面は、朝霧につつまれてあたり一面、乳白色だった。

家内と家内の母と三人で、湖岸に沿った遊歩道を歩く。
湖岸には公園が多く、ベンチが湖面に向かい、
芝生を張りつめた上に桜、ミズナラの朱色の葉が、湖上からの微風で揺らいでいた・・。

切り通しの小道を歩いていたら、路上の落ち葉は朝霧で濡れて、
陽射しを受けていた・・。
あまり手を加えていない雑木の中で、大きな紫式部の群生が、たわわに実を付けていた。
うっかりすると、見過ごしてしまいそうだった。
今年も確かに、秋が受容できた・・。

紅葉クルーズと称した、湖上の遊覧船に乗る。
この湖は幾つかの蛇行した川の集まりだったので、
渓谷がそれぞれに変化し、渓谷の樹木も移ろった景観を見せている。

錦繍の名所の光景は、全国に数多くあるが、余りにも形作られた面が多く、一面不満が残る。
この湖、湖畔、渓谷沿いの樹木は、どこか懐かしい風景だった。
日本のふるさとの原点である風景に思え、胸に沁みた・・。

ホテルに戻る途中に、手打ち蕎麦の看板が見えたので、蕎麦屋に入る。
手打ち蕎麦、看板に書かれている場合にしろ、
或いはお品書きに書かれていても、大方満足することは少ない。

『手打ちそば 上総屋京兵衛』は、蕎麦はやや硬めで、
手打ち特有の口の中で不均一の程度が良く、そばつゆは濃くて、深い。
葱(ネギ)にしろ山葵(ワサビ)にしても完成をしている。

『今日みたいな日は出来すぎだ・・』
と私は家内に言ったら、笑っていた。

旅先でこうしためぐり合わせが、生きているうち、あと何回巡ってくるか、
と考えながらホテルに戻った。


家内と家内の母が、釣りをすると、昨夜に約束していたので、
私は付近を散策することとした。

昨日、遊覧船で廻った反対の方面を歩き出した。
この湖は幾つかの川が集約して出来ていたので、数多くの橋が架かっている。
昨日とは別の遊覧船で、湖畔コースめぐりをするため、
目的とした遊覧船に行ったが、
休日のため、別の遊覧船乗り場を探した。

あちらこちらと探した結果、
『F.コテージつばきも』と、と書かれた看板があったので、
湖畔に向かって坂道を下った。
大きなケヤキの枝から、数多くの葉が空中に漂い、パラパラと頭上に舞い降りてきた・・。

湖畔沿いにペンション風のコテージが見えてきた。

コテージの庭は広く、枯れた芝生の上に、
10数本の桜、ミズナラが朱色したふんだんの葉、そしてイチョウ手の黄葉した葉が陽射しを受けていた。
湖畔の遠くの対岸の渓谷は深緑の常緑樹の中に、
黄色と朱色の落葉樹が複雑なパッチワークのように彩っていた・・。

テラスでビールを呑みながら、この庭園と湖上を見ていたら、

  このテラスにいると
     すべての人が
        詩人になる

と思えた。

ホテルの帰路、昨日の蕎麦屋に入り、遅い昼食とした。
そばつゆは昨日より幾分甘くは感じられたが、都会の蕎麦屋より遥かに高密度が保たれていた。

ホテルの大浴場の窓越しに、
部屋から見えた桜の樹は、葉は全て散り落とし、ここ数日の時が過ぎたことを教えてくれた。

明日は帰宅するが、三泊四日であったのか、
親子三人がのんびりと過ごせた、と心身とも感じた・・。
・・】



このように定年退職後の本日の11月28日を基軸とした投稿文を読み返したのであるが、
その年のこの頃の思いが発露されている。
過ぎ去った日々は少しはかなくも感じるが、
やはり私の心には微苦笑を重ねながらも、愛惜があるのは本音である。




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過ぎ去りし、定年後の私の11月28日の思いは・・♪  【上】

2009-11-28 13:48:15 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
ここ数日は晩秋の陽射しが暖かく、昼下がりは18度前後となり11月の上旬の頃かしら、と思ったりした。

私は昼前後に付近の遊歩道、小公園の散策し、
紅色、朱紅色、淡い黄色、黄色に彩られた数多くの落葉樹の錦繍(きんしゅう)の華やかな情景に見惚(みと)れたり、
早くも落葉し、路脇に吹き寄せのように幾重にも重ねはじめた彩りを観たりし、
この後、帰宅後に買物に行くのであるが、
少し遠回りして、あすこの丘の落葉樹も色合いも深く染められている、
と心を躍らせて眺めたりしている。

このようなことに心を充たされた後は、読書の秋と称して本を読むことが多い。


先程、午前中のひととき、家内は年末までの予定を考え、いろいろと私に話しかけてきたので、
ゆっくとと話し合ったりした。

この後、私は主庭のテラスに下り立ち、
定年後の今頃はどのように過ごしていたのかしら、と煙草を喫ったり、
朱紅色に染められたモミジを眺めたりして振り返ったりした・・。


昨年の本日の朝の9時半過ぎには、
【 東京都・三鷹市の『家庭ごみ有料化』に反対する人々・・!!】
と題して、このサイトに投稿していた。

【・・
(略)
今朝もいつものように読売新聞の朝刊の中で、
『武蔵野版』を読んでいたのであるが、この中の記事のひとつに驚き、
そしてため息をしたのである・・。

読売新聞社に寄る【YOMIURI ONLINE】にも同一の記事が掲載されているので、
無断であるが転載させて頂く。


     【 三鷹市、家庭ごみ有料化
          来年10月 「負担増」に反発の声も 】

【・・
三鷹市の清原慶子市長は27日の定例記者会見で、来年10月から家庭ごみを有料化すると発表した。
12月2日開会の市議会に関連条例案を提出する予定。
同市は武蔵野地区の6市で唯一、ごみの有料化を見送っていたため、
一部の市議からは「導入の理由が不明確。景気が悪化する中、市民の負担になる」
と反発の声が上がっている。

有料化は、市指定のごみ袋を購入する方式で実施する。
袋は4種類で、Lサイズ(40リットル)が75円、Mサイズ(20リットル)が37円を予定。
高齢者や身体障害者の世帯には、袋の引換券を配る減免措置も設ける。

これにより、市では2007年度のごみ収集量(2万8722トン)から9・9%の削減を見込んでいる。
袋の販売収入の約2億円は、13年度の稼働を目指す新ごみ処理施設の整備費などに活用する。

清原市長は「これまでもごみの削減は一定の成果が出ており、市民に感謝している」としたうえで、
「有料化を機に、さらに意識を持って生活スタイルを変えてもらいたい。
今以上にごみは減らせるはず」と強調した。

一方、有料化に反対する市議会会派「共産党」と「にじ色のつばさ」の市議7人は
同日、記者会見を開き、岩田康男市議は
「お金でごみ減量を意識させるやり方はどうかと思う」と批判した。
29日にJR三鷹駅前で反対の街頭活動を行うという。

(2008年11月28日 読売新聞)
・・】
注)記事の原文より、あえて改行を多くした。


記事の中で、武蔵野地区の6市と明示されたのは、
東京23区に隣接した武蔵野市、三鷹市、調布市等を指定するのであるが、
調布市に住む私は、まだ三鷹市は家庭ごみの有料制度が実施されていなかったことに驚いたのである。

私の住む調布市は、確か2004年4月から実施し、
実施前の半年ぐらいは市民に徹底して、実施の目的、内容を具体的に解かりやすく伝えられたのである。

目的、内容(ごみ区分、収集日、料金)等は上記の三鷹市の案とほぼ同様である。


http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1176118895530/files/16310507022.pdf

http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/genre/0000000000000/1000000010108/index.html

この後は私の住む調布市は、ごみの減量化、リサイクルに寄る再活用で
成果を得ていると『市報』など私は読んだりし、
私は市民のひとりとして、負担も少なく、多大な成果を喜びながら、
この時代に適切な施策だったと感じたのである。

かっては市の財政の伸長した時は、
何かと市民は市の行政に頼る甘えられた時代であったが、
昨今の環境問題もさることながら、
市民のささやかに出来ることは市民で賄(まかな)いことも、
今日の市民としての責務と思ったりしているのである。

このように確信している私は、隣接した三鷹市の市民に失礼と思いながらも、
『家庭ごみ有料化』に反対する人々の心情が理解できないのである。

そして、私は無力な年金生活のひとりであるが、
たとえ市民であっても、権利ばかり主張し、責務を忘れる人は、
この世で一番、心が貧しい卑(いや)しい人と思っている。
・・】


そして、この日の午後5時半過ぎには、
【 年金小父さん、『オトナの常識 ~和語編~』に挑戦・・♪ 】
と題して、このサイトに投稿していた。

【・・
(略)
昨日、三井住友グループのSMBCコンサルティングに寄る毎年恒例の、
『2008年 ヒット商品』番付表』
見たりしたが、恥ずかしながら9割方解からないのである。

http://www.smbc-consulting.co.jp/company/mcs/BizWatch/Hit/

そして、大いに落胆し、悔(くやし)し紛(まぎ)れに、
この後、『過去のヒット商品 番付』の項目に於いて、私の定年退職前の年代であったならば殆ど知って折、
少し安堵しながら微苦笑したのである。


先ほど、少しボケた年金小父さんの私は、敗者復活戦として、
読売新聞社に寄る【YOMIURI ONLINE】の中の『新・大人たち』のサイトに於いて、
『オトナの常識 ~和語編~』と題されたコーナーを見つけたのである。

解説として、今週は「オトナの常識~和語編~」です。
和語とは、日本固有の言葉のことなんですよ、と優しく明示されていたのである。

私はゆっくりと、これは確かこうだったよねぇ、
と独り言を云いながら、久々のテストをしたのである。

結果として、9割は正解となったので、
昨日の『2008年 ヒット商品』番付表』の9割は解からなく、
世間から遠のいたと、大いに恥じたのであるが、少しは名誉挽回かしら、微笑んだのである。

そして、私は小・中学生の頃は劣等生であり、
齢を重ね64年の拙(つたな)い身をさらしてきたが、やはり生きてきた体験は無駄ではない、
と少しボケた私は、笑っているのである。
・・】


そして一昨年の2007年11月28日は、宮島・萩・津和野の旅行中であり、
私は帰宅後、
【宮島・萩・津和野紀行《上》【2007.11.26. ~ 11.28.】
と題して、投稿していた。

【・・
   第一章  広島・・歴史の事実の前には・・。

『安芸の宮島、萩、津和野』の団体観光ツアーに旅立ったのは、26日の月曜日であった。

東京駅に9時50分に集合であったので、私達夫婦としては国内旅行で遅い時間であり、楽な方である・・。

東京駅の駅弁も魅力を感じないので、おむすび三つ、新潟の地酒のワンカップを購入した。
これが私の新幹線内での昼食であったが、
私はワンカップ一本で押えて、この後はビール一本とした。

到着駅の広島で午後2時19分着であるが、
平和記念公園内の『平和記念資料館』を観るためであった。

私は高校時代で広島、長崎、そして沖縄の敗戦前後を学んで以来、
この地には気軽に観光する心情ができず、
50歳の手前で沖縄、今年の春に長崎、そして今回は広島は初めてとなっている。


『平和祈念資料館』で私は恥ずかしながら、
齢ばかり重ねて知らない事が多過ぎることを告白する。
たとえば、
【なぜ広島に投下したか?】のコーナーに於いて、

アメリカは、投下目標を原爆の効果を正確に測定出来るよう、
直径3マイル(約4.8キロ・メートル)以上の市街地を持つ都市の中から、
投下目標を選び、その都市への空襲を禁止した。
その結果、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下命令を下した。

ここまでは私なりのつたない知識で知っていたが、

広島を第一目標としたのは、
目標都市の中で唯一、連合国軍の捕虜収容所がないと思っていた、と明示されていた・・。


この後、資料館を出た後は、記念公園の樹木を眺めていた。
公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が、風もないのに空を舞い、ハラハラと地上に落下していた。

私は敗戦前の一年前に東京の郊外で生を受けた身であるが、
歴史の事実の前には、ときおり身震いさせられることがある。

先程、拝見した資料館の展示の前、私なりに心の動揺で、かすかに身震いをしたのであった。



   第二章  夜の灯の厳島神社

私達夫婦は、安芸の宮島にいつの日にかと期待し、今回の団体観光ツアーの旅行に申し込み、
初めて訪れた宮島である。

夕食後、遊覧船に乗り、海上から大鳥居、厳島神社がライトアップさせられたのを観るのも、
参加のひとつの理由でもあった。

風もない穏やかな海上で、遊覧船は大鳥居に近づき、
そして大鳥居の中を遊覧船は通り抜けた・・。
前方に厳島神社が観え、後方には五重塔が聳(そび)えている。

幻のような景観であったが、確かに目の前の光景となっていたのである。

下船後、表参道の商店街のある宿泊先の『ひがしや旅館』まで、
遊覧船から眺めた余情、余韻を秘めながら、夜の薄暗い街中を散策した。



   第三章  『大聖院』摩尼殿は、美の結晶なり

宮島弥山の大本山と称されている大聖院に私達夫婦は、朝の8時過ぎに散策した・・。

仁王門から御成門までの石段の階段の中央には、
大般若の経筒があり、触れながら昇ると、無量の福が得られることで知られている。
家内は触りながら、ゆっくりと昇ったりしてきた。

私は昇りきった御成門から境内にたたずむと、
目前の切り立った丘の中腹に弐層の建物に目を奪われた・・。

松の緑の中、朱色、黄色の彩(いろど)りした落葉樹の錦繍の世界に囲まれ、
忽然と佇んだ摩尼殿に心を寄せられた・・。

こうした光景を目の前に展開されると、まぎれない美の世界が素直に理解でき、
私なりの至福な時を過ごせた・・。

境内に並ぶ地蔵堂、釈迦涅槃堂、奥まった高台に大師堂があったが、
この摩尼殿を眺めていれば、充分である。

団体観光ツアーの制約時間の中、
フリータイムを使って、家内と寄ったが、出来れば1日この大聖院で過ごせれば、
これ以上の望みがない、と断言できるくらい魅了された処である。

この後、紅葉谷公園の遊歩道を散策したが、
数多くのモミジの朱色、黄色に染められたイロハモミジ、ヤマモミジ、オオモミジ等を眺め、
既に落ち葉となった道を踏みしめ、ときおり木漏れ日を受けたりすると、
心まで染まるようである。

こうして旅先から戻り、綴っていると、
萩、津和野も周遊したが、のちの想い、としては、摩尼殿、紅葉谷の遊歩道は生涯の心の友となる、
と確信を深めている。



   第四章  『宮島舞楽』の鑑賞後には

今回の団体観光ツアーの特別企画として、
厳島神社で伝統芸能のひとつである『宮島舞楽』が観られることである。

本社祓殿前にある黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄をめぐらして、
前後に階段を付けた舞台で、
大鳥居を背に、本殿に向かい舞い、平 清盛が大阪・四天王寺から移行したと私なりに調べていた・・。

私はこのような高舞台で演じられるので、
舞楽に無知な私は、品格と風雅がある舞と思っていたが、
残念ながら感じ取る素養がなかったのである・・。


私はやむえず、本殿、平舞台、大鳥居などの神社の景観をデジカメで10数枚撮り、
平 清盛の野心を思ったりしていた。

時の頂点に昇りつめる前、安芸守となった清盛は、
この地域の宮島は弥山を抱き神の宿る島として古来より人々から崇拝されて折、
慎(つつ)ましかった神社を抜本的に増改築し、
権力の象徴として、華麗で威容できるよう広大に造りあげた。

中国の王朝との貿易で富を増大させ、都の朝廷まで確固たる権力基盤知らしめた上、
巧みに法華経まで利用し、人心を把握した・・。

私はこのように拙(つたな)いなりに、想像をめぐらしたのである・・。


この後、桟橋の付近で、旅行会社の主催の『牡蠣(カキ)祭り会場』で、
私は焼き牡蠣2つ、そして牡蠣汁を頂いた・・。

正確に表現すれば、私はバックから地酒のワンカップを取り出して、
地酒を呑みながら賞味したのである。

こうした折、ワンカップは便利である。
既に購入済みの四合瓶を取り出し、紙コップで呑むのも悪目立ちであるので、
私の長年の呑兵衛の成功体験が生きているのである。

そして家内から牡蠣をひとつ頂き、地酒を呑めば、
私なりに宮島を離れるのに、心の踏ん切りがついたのである。


第五章  旅先の昼食・・岩国の錦帯橋のときは

私達夫婦は、国内観光ホテルに宿泊することが多いので、
朝食と夕食は宿泊先の観光ホテルを頂く・・。

昼食に関して、団体観光ツアーの場合は、事前に予約を受け付けて、
決められた現地の有名な食べ物を頂く場合が多い。

家内は朝食、夕食の際に食べ物の量が多すぎるので、
昼食時はお腹がすかない、と云い間食ぐらいでよく、私も余り食べない方である。

今回の宮島を後にした後は、岩国の錦帯橋の付近で、
錦帯橋の観光を含めて、12時45分~1時50分の昼食休憩時間となっている。

私達夫婦は事前に自由食と添乗員さんに連絡していたので、
錦帯橋を渡り、川沿いの歩道を歩いたりした。
私達と同様に観光客が多く、やむえず、一軒の食事処に入った。

食事・甘味処『小次郎茶屋』と明示された店であったが、
ビールが呑めることを入店前に確認していた。

家内は甘味の品、私はメニューを見ながら、『がんす』という単品を注文した。

瀬戸内の小魚をすり身にし、フライにした岩国の名物です、
と記載されていた折、
ビールを呑みながら頂いたが、想像以上に美味であった。

私には薩摩揚げ(サツマアゲ)の高級品のようにも感じられ、
この『がんず』の横にレンコンなどの漬物があり、
このさりげない『がんず』と『漬物』が調和されて折、私なりに魅了されたので、追加をした。

結果として、私の昼食は『がんず』2食、ビールの中瓶が2本であり、
家内は甘味を1品となったりした。

尚、旅行会社の選定した昼食は、
岩国寿司とうどん、と明示された折、
私の苦手の押し寿司かしら、と微苦笑したりしていた。

私達夫婦は、旅先の昼食に関しては、
このように食事処で自在に選定したりしている。



   第六章  苦手な秋吉台、秋芳洞

岩国の錦帯橋の後は、秋吉台、そして秋芳洞を観たが、
私は昭和の末期の頃に訪れていた為か、何の魅力も感じることが出来ず、
秋吉台で夏ミカンのソフトクリームを食べたりしていた。

秋芳洞は早めに歩き、洞窟を出たお土産屋さんで、
石のかけらを購入したりした。
たった200円の石のかけらであった、文鎮(ぶんちん)か本立てにしょうか、
と思ったのである。

家内は少し高額な紫水晶の石を購入した後、
私は今宵の友し、地酒の四合瓶を選定した。

退屈なひとときであったが、晩秋の暗くなった中、バスは萩を目指した。



   第七章  されど、『萩』の城下町

私達夫婦は、昭和の末期に初めて萩に訪れたが、
この頃の私は焼き物に魅せられていた時でもあった。

家内が茶事をしていた関係で、ときおり茶室などで萩の茶碗で抹茶を頂き、
日常は、ぐい呑み、茶飲み茶碗を愛用していた。

この当時、焼窯元の薄汚れた奥まった売り場で、
私はひとつのぐい呑みに目が止まった・・。
私は一介の中年のサラリーマンの身で、住宅ローンも重責てあったので、
少し高価であり、心の中はたじろいでいた・・。

このような私の心情を家内は見抜いて、
お買い求めになれば、と云う援言で購入した。
この萩のぐい呑みは、釉薬(うさぐすり)の白さの状況の形が良く、
本体がわずかに傾むいていたので、魅了させられたのである。

私は帰宅後、週に一度ぐらい愛用し、月半ばの頃、
雪の朝、と秘かに命名した・・。
この後も、月に数度は晩酌の友し、この20年間愛用し続けている・・。

今回の宿泊先は菊ケ浜に面した『千春楽』であり、
2階の部屋から、樹齢数百年と思われる松が5本越しに、
日本海の波が浜辺に静かに押し寄せていた・・。

陶芸の宿と称している宿であるが、
メイン・ロビーの一角に高価なオーディオがセットされていた。
メイン・アンプ、パワー・アンプ、CDプレイヤー、そしてスピーカ、
どの機器ひとつ取っても数百万の機器と思われ、
この10年間で販売された優れた銘機である。
2階の一角にある壁際には、30数年前の銘機がさりげなく置いて折、
ホテルのオーナーは何歳ぐらいのお方かしら、
と私なりに興味を覚えたりした。

翌朝、焼窯元のお土産屋、蒲鉾(かまぼこ)直売店、城下町の散策、松陰神社などを周遊したが、
蒲鉾に関しては、フグ、イカ等を含め、程々に購入した。
田中かまぼこ製造所、と記憶しているが、良質で美味である。

城下町の屋敷を散策した折、土塀に沿って歩いていたが、
角地から高杉晋作などの幕末の勇姿が見え隠れしても、
おかしくない幻覚を覚えたりした。
土塀越しの夏みかん・・静寂なひととき・・
あたかも時が止まったように思える街である。

このような心のふるさとのような町、されど萩である。

尚、宿泊した観光ホテルのオーディオの持ち主は、
オーナーの二世で40後半の人である。
私は羨望をかすめたが、吾唯足知、と云いきかせて、
萩の町を後にした。



   第八章  ゆきゆきて、つわぶきの里・・津和野

山陰地方の小京都と知られている津和野であるが、
帰宅後の今、津和野に関しては、
正直な所、困惑しているのである・・。


初めて津和野に訪れたのは、萩と同様に昭和末期であったが、
この時も団体観光ツアーで夏季休暇を利用し、
暑さで疲れ気味だった。
自由時間の時は、酒造所の直売店で地酒を買い求めたりした。

その後は敬愛する森 鷗外に関して、
武家屋敷の塀際の小川に鯉が泳いでいたのを見ながら、
この山里の街でどのように幼児体験をし、
都会に出られのか、と思索していたのであった。


今回も団体観光ツアーであり、昼の12時近くに津和野に入り、
昼食兼休憩時間で『津和野寿司弁当』を家内と分け合い、
ビールを呑みながら頂いたが、
正直な所、貧しさを感じ、食べ物としてもつたない味であった。

この後は、小高い山里にある日本五大稲荷神社のひとつと知られている『太鼓谷稲荷神社』を参拝した。
私は稲荷神社には興味がないが、
津和野の街並みが一望できるので、
この地から輩出された人々を思考には、最適な展望かしら、
と微苦笑したりした。

その後、街並みに戻り、散策時間を一時間ばかりした程度である。

私達は殿町に近い静寂な喫茶店でコーヒーを飲んだ後、
役場の前の庭を観て、役場の景観を誉めたりした。

この標題は、役場にあった津和野の観光パンフレットから、
拝借したのである。

このパンフレットの表紙の副題として、

このまちには不思議な時間が、流れているのでした。

と明記されて折、私は適言と思えた。

まとまりのない小時間の滞在であったので、
いつの日にか、『永明寺』を半日ばかり、そして城跡の公園を散策すれば、
何かしら津和野が視(み)えてくる、と思ったりした。

今の私は津和野に関しては、霧の中に佇んでいるようであり、
まぼろしの町である。

尚、森 鷗外に関しては、私は二十歳以来から敬愛し続けているので、
墓石に本名、森 林太郎墓、と明示した当人の遺言の理由は理解しているつもりである。



   最終章  旅の終りは、『おつまみチャーシュ』

『安芸の宮島、萩、津和野』の団体観光ツアー2泊3日の旅の最後は、
新幹線の広島駅で東京駅行きの午後5時40発の『のぞみ74号』を待機していた・・。

45分程の時間があり、駅構内の飲食街でビールを呑める一軒の店に、
私達夫婦は入った。

明るく清潔な居酒屋風の店であり、
メニューを見ていたら、『おつまみチャーシュ』が美味しそうであったので、
中ジョッキーのビールを呑みながら頂いた。

チャーシュの5切れに、焼き鳥の甘いたれに細ネギがかかって簡素な一品であるが、
私は美味と感じたのである。

私は家内に、美味しいよ、と云いながら、ビールと共に追加注文をした。

こうした店であったならば、手軽にビジネスマンの人々も、
出張、打ち合わせ、懇親でも手軽に利用できる店、
と家内の話し合ったりしてした。

私が魅了された一品は500円程であるが、
今回の旅で一番美味しかった部類に入る、と家内に云ったら、
家内は笑い出したりした・・。

この店を出た後、振り返ったら確か『和楽(やわらく)』と読めた。

                              《終り》

・・】

昨年、一昨年の投稿文を読み返した今、このような心情で過ごしていたかと、
私は微苦笑を重ねている。


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齢を重ねた茶坊主の私、6年生になれば・・。

2009-11-27 15:54:36 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけの家庭で古びた一軒屋に住んでいる。

私は2006(平成14)年の秋に民間会社を定年退職し、予定通り直ちに年金生活に入った。

私が最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし方を考えて、
私は独りで外出して、散策をしたりしながら季節のうつろいを受容したり、
本屋、古本屋に寄ったりしていた。

家内は料理、洗濯、掃除などがもとよりあり、
私の現役時代小庭の手入れをするぐらいであったので、
せめて退職後は日常の買物ぐらいと思い立ち、私は買物の担当となったのである。

それでも少し引け目を感じて、家内の茶坊主に専念したりした。

私は定年後は日の出と共に起床するのをモットーとして、
殆ど起きだして、煎茶を飲みながら新聞の朝刊を読んだり、NHKのニュースを視聴したりしている。
そして家内が目覚める頃になれば、
コーヒーをと牛乳をそれぞれの指定されたマグカップを2階の寝室まで運び、
布団の枕元に置いたりし、
『今日は良いお天気になりそう・・』
と私は朝の挨拶代わりに家内に云ったりしている。
そして日中のひととき、コーヒーを5回ぐらい入れたりしている。

私の日常の多くは、買物、散策する以外は、
小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などの読むことが圧倒的に多い。
ときたま本棚の外れにある映画棚のビデオ、DVDを取り出して、居間で観賞したり、
音楽棚からカセット、CD、DVDを取り出して聴くことがある。
テレビに関して、ニュース、天気情報、ときおりドキュメンタリーの番組を視聴する程度であり、
テレビドラマは殆ど見ないのである。

そして、家内との共通趣味の国内旅行は、ときおり出かけたりしている。

このような年金生活を過ごして、今年の秋に早くも丸5年が過ぎて、
6年生に進級したのである。

最初の頃は、コーヒーの入れるたびの分量が一定だと、
あとで『真心(まごころ)がこもっていない・・』と呟(つぶや)くように私に云うまである。
家内の飲むコーヒーといっても、ゴールド・ブレンドのインスタント・コーヒーであり、
ミルクは粉末のブライトを入れるだけである。

私は殆ど煎茶の濃い目を愛飲しているが、ときたまコーヒーを飲むときは、
ゴールド・ブレンドを濃いめにして、少しばかり砂糖を入れるだけで飲んでいる。

こうした結果、家内のコーヒーを入れる時は少しばかり創意工夫し、
午前10時、午後の3時の時間帯は通常量、食後の時間帯は少し濃いめとして、
何とか及第点を貰っているのである。

一昨日の深夜、私は居間で本を読み、12時過ぎなったので、
2階の寝室の布団にもぐり込んだ後、
隣に寝ていた家内が目覚めて、私の方に腕を伸びて、
『コーヒーを飲みたいわ・・』
と家内は私に云うのである。

深夜のコーヒーの依頼は初めてあり、私は暖かな布団を抜け出して、
一階の寒い台所でコーヒーを入れて、茶坊主の深夜便となったのである。

昨夜は家内がいつものように寝ていたが、
私は布団もぐり寝ようとしたら、
『少し風邪気味みたい・・』
と家内は目覚めながら云ったのである。
そして私は起き上がり、
『いつもの風邪薬とお水でいい・・?』
と私は家内に訊(たず)ねた後、寒い居間と台所に寄った後、深夜の宅配便となったりしたのである。

このようなどこにでも見られる家庭生活を私達夫婦も過ごしている。



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国鉄が8日間全面ストップした時、私なりの想いで・・。

2009-11-26 23:24:40 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
夕方のひととき、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】でニュースを見ていた時、
この中で【新おとな総研】と称されたコーナーがあり、
そして、ひとつとして『あの日あの時』と題された定例記事がある。
この日を基軸に過去の出来事を回想する内容であり、
本日のこの日の11月26日に於いては、

《 11月26日 スト権ストで国鉄が8日間全面ストップした。
      1975年(昭和50年)》

と題された記事であった。

私はこの記事を読みながら、あの当時の私を思いだされた。

無断であるが転載させて頂く。


34年前のこの日早朝、首都圏のターミナル駅、バス乗り場や、私鉄、地下鉄の改札・ホームは人の波であふれていた。

新宿駅の小田急線、京王線から約3分おきに吐き出された通勤客は、
一直線に地下鉄の丸ノ内線へ吸い込まれ、電車に乗り込むまでに30分待ちの状態。

横浜駅では電車にたどり着くまで1時間も待たされたあげく、
都心に向かう京浜急行の乗車率は250%にも達した。

幹線道路もマイカー通勤の車で大渋滞となった。


旧総評系の「公共企業体等労働組合協議会(公労協)」に加盟していた国鉄(現在のJR)、
郵便、電電公社(同NTT)などの労働組合が、
公務員に認められていないストライキ権付与を要求して突入した「スト権スト」初日の様子である。

スト突入後、三木内閣はスト権を認めないと表明、12月3日に中止の指令が出された。

国鉄は8日間にわたりほぼ全線が運休、利用客延べ1億5090万人に影響した。
郵便物の遅配は1億7000万通に達した。
労働者の正当な権利を求めた実力行使は、
サラリーマンら同じ労働者に苦しみを強いる結果となった。

違法ストの代償は軽くはなかった。
振り上げた拳は己の身へ向かってきた。
国鉄は運休で約202億5000万円の損害を被ったとして、
国鉄職員の労働組合、国労と動労に損害賠償の訴えを起こしたのだ。
この訴訟は、1987年の国鉄の分割・民営化後まで長引く。

94年12月に旧国鉄側が訴えを取り下げるのと引き換えに、
東京駅八重洲口にある国労会館の敷地を明け渡すことでようやく決着した。
(治)

注)この記事の原文にあえて改行を多くした。

http://otona.yomiuri.co.jp/history/091126.htm?from=yoltop


この当時、1975(昭和50)年の時は、母が小田急線と国鉄の南武線の交差する『登戸駅』の近くで、
アパート経営をして住んでいて、私は数年前に同居の身となった。

私はあるレコード会社に勤め、この当時は六本木・本社が勤務先であり、
自宅からは小田急線の『登戸駅』から『下北沢駅』で乗り換えて、
京王の井の頭腺の『下北沢駅』から『渋谷駅』に乗り、
国鉄の山手線の『渋谷駅』から『恵比寿駅』まで乗車し、
そして地下鉄の日比谷腺の『恵比寿駅』から『六本木駅』まで通勤していた。
母の処で同居した所から、おそよ会社まで一時間ほどであった。

こうした時、国鉄がストを実施する、と伝えら前日の頃から、ほぼ一週間、
ストが解消されるまで、
NHKテレビの朝七時過ぎのニュースで、
三木総理の官房長官・海部俊樹、国鉄代表の国労書記長・富塚三夫の両氏が対談し、
公労協統一ストをめぐり討議していた。

私はこのニュースを見終わった7時半過ぎに、会社の始業9時半を気にしながら通勤に向ったのである。
国鉄がスト決行と知り、小田急線の『登戸駅』から『代々木八幡駅』で下車し、
この当時は地下鉄の千代田線が小田急線の『代々木上原駅』まで未通であったので、
ひとつ手前の千代田線の『代々木公園前』まで徒歩5分ぐらいを歩いたのである。

そして千代田線の『代々木公園前』で乗車し、『乃木坂駅』で下車して、
六本木の4丁目付近にある会社まで10分ばかり歩いたのである。
私が通いなれた通勤コースと違い、少し戸惑いながら10分ぐらい加味すれば到着した。

しかし、私達の社員の中に於いては、国鉄の中央線、山手線、横須賀線などを利用している方たちは、
会社の近くの安価なビジネス・ホテルに宿泊する方、或いは自動車で途中で同僚、後輩を乗せて出勤したり、
開通しいる私鉄の駅まで歩かれる方、バスを乗り継いで出勤するなどで、
9時半の始業時に間に合ったのは七割方であった。

このような出勤体制が3日続くと、お互いに疲れの表情となったが、
国鉄のスト継続にあきらめ顔となった。

私は同じ小田急線を利用して通勤する方たちと共に、
6時の終業時になり、1時間ばかり残務整理した後、
帰路、千代田線の『代々木公園前』で下車し、小田急線の『代々木八幡駅』までの5分ばかりの道のりの途中で、
この後は小田急線に乗れば帰宅コースと安堵しながら、
居酒屋、屋台などに寄り、ビールなどを呑みながら、
いつまで国鉄の組合の連中はストを続けるば気が済むの、とぼやいたりしたのであった。
周囲も私達と同じような数多くのサラリーマンも疲れた表情となっていた。

私は出勤前、NHKテレビの朝七時過ぎのニュースで、
官房長官・海部俊樹、国鉄代表の国労書記長・富塚三夫の両氏の対決を相変わらず視聴していたが、
早稲田の雄弁会時代に総長まで記憶とどめた海部俊樹氏の論理の前では、
巧者の富塚三夫氏を追い詰める話術に感心しながら、視聴したりしていた。
その上、何より私たちのようなサラリーマンの苦痛を味わせながら、
公労協スト権を勝ち取ることは、おこがましいと思ったりしたのである。

多くの国民の気持ちを理解していない公労の諸兄姉は、
結果として国民から遊離して、さすがの国鉄の国労といえども、
この後は国鉄7日ストなどはなくなったのである。

このようなことを少しボケた私は、思い返したりしていたのである。


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改めて、齢を重ねても、寝る子は育つ・・!?

2009-11-26 15:53:17 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
平素の朝は日の出と共に起床し、夜の10時過ぎに布団にもぐり本を読みながら寝付くのであるが、
ここ一週間ばかり昼寝をすることが多いのである。

午前中に付近の遊歩道、小公園の散策し、
紅色、朱紅色、淡い黄色、黄色に彩られた数多くの落葉樹の錦繍(きんしゅう)の華やかな情景に見惚(みと)れたり、
早くも落葉し、路脇に吹き寄せのように幾重にも重ねはじめた彩りを観たりし、
この後に買物に行ったりしている。

そして昼下がりのひととき本を読んだりすると眠くなり、
2階の寝室に行き、電気毛布で暖かくなった布団にもぐり、
本を読んでいるうちに眠ることがある。

昨日は、集中して本を読みたくなり、昼過ぎから布団にもぐり読んでいたのであるが、
2時間ばかり寝てしまい、この後ふたたび本を開き、薄暗くなった5時過ぎに起きだし、
深夜の一時半に寝付く、ふしだらな日を過ごしたりしている。

たまたま昨年のこのサイトを開き、私は苦笑したのである。
【 齢を重ねても、寝る子は育つ・・!? 】
と題して、投稿していた。

【・・
私は年金生活の64歳の身であるので、ここ1週間は睡眠時間が増えたのである。

夜は6時間ばかり睡眠時間となり、
午後のひととき本を読みながら、昼寝を1時間前後してしまう悪い癖となっている。
昼寝から目覚めても、あと1時間ぐら眠れそうで、困り果てて、
けじめとして起き上がっているのが実情である。

私の現役時代は、多くの人と同様に多忙な身であったので、
平日は5時間眠れば良い方で、やむえず休日の時は昼寝を2時間前後して、補(おぎな)っていた。

私は苦手な夏の暑い季節が終わり、安堵してか、
晩秋のこの時節、布団の暖かなぬくもりでぼんやりと考えたりすることが、
何よりも好きなひとりである。

そして、こうしたぐうだらな生活をしていると、
緊張感をなくしたせいか、体重が一キロばかり増えたので、困っているのが実情である。

古来より、寝る子は育つ、という格言があるが、
齢を重ね、体力の衰え、少しばかりボケた私さえ、
この格言に適用されるのかしら、と微苦笑しているのである。

或いは、亡き作家・井上 靖の小説のひとつの中で、
東京オリンピック開催前後に発表された作品に於いて、
自身の母の高齢の状況、ふるまいを表現されて折、赤ちゃんのように還(かえ)ってよく眠る、
と私はこの一節を思い出したりしている。

そして私も、早くも赤ちゃん還りの始まりかしら、と苦笑している。
・・】

このように綴っていたのであり、私はあわてて本日のタイトルを上記のように、
改定したのである。
春眠暁を覚えず・・と古来からの伝えがあるが、
私の場合は、晩秋の昼下がりのひととき昼寝か、と体力を衰えた理由に甘え、
読書の秋ね、と照れ笑いしながら、家内に言い訳をしたりしている。




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舟木一夫の『高校三年生』の歌が、街に流れていた頃の私の想いで・・。

2009-11-25 23:29:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、NHKテレビのニュースで、
『高校三年生』、『高原列車は行く』として名高い作詞家の丘灯至夫(おか・としお)氏が亡くなわれたことを知った。

今朝、いつものように読売新聞の『編集手帳』を読み、
良き時代の毎日新聞に勤められながら、心に残る名曲の数々を作詞された人にご冥福を祈ったりした。

この記事と同一が、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を掲載されていたので、
無断であるが転載させて頂く。


新聞記者はときに、押しが強くないとやっていけない。
取材で気後れしないよう、無理してデカイ顔をする時もある。
押しと顔(オシトカオ)を逆さまにして丘灯至夫(オカトシオ)、筆名の由来という。

作詞家の丘さん、本名・西山安吉さんが毎日新聞に入ったのは戦時下、
世相が暗く険しいころである。

その人が戦後に書いた詞は「高校三年生」「高原列車は行く」「東京のバスガール」…どの歌も弾むように明るい。

無粋な「押しと顔」を、丘に立つ洋館の窓に灯がともるような美しい筆名に変えた人は、
暗い記憶から光まばゆい風景を紡ぐ手品師でもあったろう。
丘さんが92歳で死去した。

「高校三年生」は二番の歌詞

 ♪ぼくら/フォークダンスの手をとれば
  甘く匂(におうよ黒髪が

のくだりが最初に浮かんだという。

ある高校の学園祭で目にしたフォークダンスに、
男女が手をつなぐことなど夢にもあり得なかった自分の青春を顧みてショックを受け、歌になったとか。

戦後の昭和にキラキラと、光の粉をまいた人である。
訃報(ふほう)が流れたきのう、懐かしいメロディーに乗せ、何人があの詞を口ずさんだだろう。

(2009年11月25日01時09分 読売新聞)

注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column1/news/20091124-OYT1T01445.htm


この記事を2度ばかり読んだ後、ぼんやりとあの頃の私を思いだしたりしたのである。

1963(昭和38)年の3月、私は都内にある私立高校を卒業し、
二流の私立大学に4月から入学となった。

この間の春休みの時、友人の親戚の高校3年となる女の子と交遊していたが、
内面は大学受験校のことで、わだかまりと後悔を心の片隅にあった。

この前年の進学相談の時、
この当時の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。

担任の先生に、進学の個人面接で話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は云われたのである。

結果として、浪人して大学進学の勉学の生活に自信なく、
安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、1963(昭和38)年4月であった。
入学してまもなく私はクラブとして、体育系のワンダー・フォーゲル部に入部し、
先輩の指導の下で、毎月のように群馬、山梨、長野県の山歩きをしたりした。
もとより山小屋に宿泊することなく、原則としてテントを張り、眠り、
ある時は駅の待合室のはずれで仮眠をしたりした。

そして夏季合宿は、本州としては縦長で一番長いとされる
名古屋港から能登半島の千里浜まで縦断する企画が立案され、
北方面は白山のふもとから千里浜まで北上し、
一方は名古屋港から北の白山のふもとまで、お互いに徒歩で歩き切ることとなった。
私たちのグループは名古屋港から歩きはじめ、
四年、三年生は五名、二年生と私達の一年生は11名の男性ばかりのパーティとなり、
12泊13日で出来る限る直線をたどり歩いたのである。

この間は、国道もあれば、村道もあり、里山の路もあり、
そして峠道は明治の頃は道であった処は藪が背丈ほどの中を、
トップの方が鉈(ナタ)で切り開く急勾配の通ったりしたのである。
この間、川沿い川原で一日休暇をし、洗濯をしたりし、
のんびり川の流れに身をまかせ身体を洗ったりしたのである。

その後、白山のふもとに到着した後は、公共の交通機関で千里浜に行き、
北グループと合流した後、交流のあった石川県の各大学同じクラブの方たちの歓迎を受けて、
盛大なキャンプ・ファイヤーの一夜を過ごしたのである。

この後、解散となったので、私はザックを背負いながら、登山靴、短パン、Tシャツ、麦藁帽子で、
団体生活から開放されたような面持ちで、京都から山陰地方を独り旅としたのである。
京都で観光めぐりをした後、天橋立の日本旅館に宿泊し、15日ぶりの風呂につかり、布団に寝られたのである。

その後、鳥取砂丘により駅の待合室で一夜を過ごしたり、
宍道湖の湖畔の公共の『青年の家』に2泊した後、
海が観たくて偶然に下り立ったのは、江津という浜辺の街であった。

私は海水浴場の賑わう浜辺で、海を眺めたりして、腰を下ろしたのである。
まもなく風変わりな私の容姿に興味をもったのか、
小学五年生ぐらいの少年が近づいてきて、何気なし話し合ったりした。
一時間ぐらい過ぎると、この少年の姉が私達の処にきて、
お父さんたち、その海の家をしてるの、だから私はお手伝い、
このようなことを中学三年生ぐらい姉が私に云ったりした。

こうした時、海の家のラジオから、

♪赤い夕陽が 校舎をそめて
 ニレの木陰に 弾む声
 ああ 高校三年生 ぼくら

【『高校三年生』 歌詞・丘 灯至夫、作曲・遠藤 実、唄・舟木一夫 】

私は知らない曲だね、と何気なしに云ったら、
『お兄さん・・本当に知らないの・・最近、盛んにながれている舟木一夫の『高校三年生』だょ』
と少年は私に教えてくれ、姉は微笑んでいた。

そして夕暮れ、この姉から誘われ、浜辺で私たちは、
漠然としたこれからの進路のことを、お互いに話し合ったりした。

そして、この夜、この両親の経営している海の家の板張りと茣蓙敷きで、
よろしかったら、と母親から誘われて、宿泊したのであった。

そして、翌日、私は駅に向かうと、姉が駅まで送ると云いながら、
私と共に歩いたのである。

そして私は京都駅に向かう列車を待っていると、小さな商店街から、
『高校三年生』の歌が微風にのり、聴こえてきたのである。

♪道はそれぞれ 別れても
 越えて歌おう この歌を

【『高校三年生』 歌詞・丘 灯至夫、作曲・遠藤 実、唄・舟木一夫 】


私は舟木一夫の『高校三年生』の歌は、このようなささやかな思いでがあり、
この後の一年を過ぎた東京オリンピックが開催される直前、
大学を中退し、映画青年の真似事をはじめたのである。

http://www.youtube.com/watch?v=DA_W24hIRb0
☆【『高校三年生』 歌詞・丘 灯至夫、作曲・遠藤 実、唄・舟木一夫 】☆

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『小雪(しょうせつ』の時節が過ぎれば、私は足袋(たび)を穿(は)き・・。

2009-11-25 08:52:17 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日の朝、素足で下駄を履きながら、庭に下り立ち、
花梨(カリン)、柚子(ユズ)の実は、黄色に色合いを深め、
紫式部(ムラサキシキブ)のたわわな実は紫色に濃く深めていたのである。

そして、ときおり微風が吹くと、樹木の枝葉が微(かす)かに揺れ、
陽射しも揺らいでいる・・。
素足の足元に風が通り過ぎると、足袋を穿く頃だなぁ、と感じたりしたのである。

古人の言葉を借りれば、11月22日前後に『小雪』の時節と命名され、
雪が降りはじめる頃で、冬将軍が到来する時期である、と伝えられているが、
旧暦であり、私の住む地域は錦繍(きんしゅう)の情景となっている。

毎年、『勤労感謝の日』を迎える頃になれば、、
自宅の小庭、付近の遊歩道、小公園の落葉樹が、
紅色、朱紅色、淡い黄色、黄色に彩られる錦繍の華やかな情景のピークとなり、
この日を境に落葉が吹き寄せのように幾重にも重ねはじめ、
そしてイチョウのたわわな葉が黄色の色合いを深めて、
12月の初旬に落葉して晩秋から初冬に移り変わるのである。


私は居間に戻ると、
『XXちゃん・・今日から足袋を穿くょ・・』
と私は家内に云って、足袋を出してもらい、素足に足袋を穿いたのである。
そして、足が暖かくなり、思わず微笑んだりした。

私は自宅に居(い)る時は、殆ど下駄(げた)を履(は)いている。
主庭のテラスに下り立つ時、玄関庭の軒下、郵便受け入箱、
ときには駅前までの遊歩道を散策する時も履いたりしている。

私が現役時代の30代のなかば頃、
数多くのサラリーマンと同様な多忙な期間が続いた折、
休日の時、気分転換として、下駄を買い求めたのであった。

平素はビジネス・シューズで長い勤務時間を過ごし、
自宅ではサンダルを履いていたが、
何かしら下駄は心身の波長に心地よく、この時以来愛用している。

晩秋の時節から桃の咲く頃までは、黒の足袋(たび)を穿(は)いて、
この季節以外は、素足で下駄を履いているのである。

私の履いている下駄は、会津の高級な特選の桐下駄でなく、
程々の価格の下駄であり、三品を適度に履き分けている。

尚、私は買物、散策をする時の多くは、ウォーキング・シューズを履き、
歩き廻っている。




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『定年退職すると健康状態が改善し、8歳ぐらいは若返る』・・!?

2009-11-24 14:56:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、日本経済新聞社の基幹ネットの【NIKKEI NET】をみていたのであるが、
たまたま『生活トピックス』のひとつの記事を読み、
年金生活の我が身の私は思わず微笑んだのである。

私と同じような多くの方にとっては、何よりの朗報と思い、
あえて転載させて頂く。

《 定年退職すると健康状態が改善し、若返る 》

と題された記事である。

《・・
定年退職すると、自己申告による健康状態が著しく改善し、
多くの人は8歳ほど若返ったように感じることがヨーロッパの研究で示された。

もともと「理想的な」条件下で働いていたごく少数の人(2%)を除き、
この結果はほとんどの人に当てまるものであったという。
この知見は、英医学誌「Lancet」オンライン版に11月9日掲載された。

筆頭著者であるスウェーデン、ストックホルム大学ストレス研究所のHugo Westerlung氏は
「この結果から、高齢者にとって仕事が余分な負担となっていること、
その影響の大部分が退職によって緩和されること、
悪条件で働く人ほど負担とその緩和が大きいことの3点が示される」
と述べている。

同じ研究グループにより、労働者は退職すると以前よりもよく眠れるようになることも報告されており、
仕事と健康問題との間に睡眠が関与している可能性もあると同氏はいう。


今回の研究では、フランスの労働者1万5,000人(大部分が男性)を対象に、
退職前後の最長7年間の健康状態について申告を求めた。
その結果、退職年齢が近づくほど健康状態は低下し、退職後1年で再度向上がみられた。
健康状態がよくないと回答した人は、
退職1年前の19.2%から、退職1年後には8年前に匹敵する14.3%まで減少。

この変化は職業に関わらず男女ともにみられ、退職後7年間継続して認められた。
退職前の健康状態や労働条件が悪かった人ほど、
退職後すぐに大幅な向上がみられたという。

米モンテフィオーリMontefioreメディカルセンター(ニューヨーク)のGary Kennedy博士は
「健康状態の悪さを訴えるのは仕事の満足度が低い人である。
職権のある立場の人、高学歴の人、仕事内容を自分でコントロールしている感覚があり、
要求の少ない人は、健康悪化を訴えることが少ない」
と述べている。

英国の公務員を対象とした過去の研究では、
責任は大きいが職場に対してコントロールができないと感じる人は
心疾患を発症しやすいことが示されている。

別の専門家によると、今回の研究ではうつ病の人で退職後に劇的な変化がみられ、
医療だけでなく精神的ケアのサービスも必要であるが、
システム面だけでなく、労働者の健康維持には個人の責任も関与するという。

また、「米国では退職による金銭面のストレス増大によって効果が打ち消される可能性があるほか、
退職後によりストレスの多い別の職に就く人も多く、健康効果は期待できない」
とWesterlung氏は指摘している。
・・》
注)記事の原文にあえて改行をした。

http://health.nikkei.co.jp/hsn/news.cfm?i=20091119hj001hj
☆『定年退職すると健康状態が改善し、若返る』☆


私は東京オリンピックが開催された時に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、先行きの見えないような彷徨(ほうこう)した5年を過ごした後、
ある民間の大手企業に何とか中途入社した後、まもなくレコード会社に転籍させられた。

私は現場を学べ、と入社直後に辞令を受けて、商品管理の現場の業務をした後、
本社のコンピュータの専任者となった。
幸いに資本関係の兄弟会社のシステムを利用して開発・運用に従事したが、
この当時は私は会社として専任者でたった一人であったので、
プレッシャーとストレスを感じて、胸の鼓動がひどく、心臓の検査をしたことがあった。
医師は私の心電図などの検査表を見ながら、
心臓が少し小さめ目・・自動車で云ったら2000CCの車が普通の人としたら、
私のは1600CCぐらいであるので、同じ労働環境だったら、疲れを早く感じるはずだ、
と明言されたのである。

私は原因さえ解かれば心身了解できたので、その後も私なりに気力と若さで孤軍奮闘した。

40代の少し前、コンピュータの委託処理から、システムを全面的に改定し、自社処理の開発の時、
重責だったせいか、鼻の横に1㎝ぐらい腫瘍のような突起物ができて、
悪性の腫瘍物かガンか私の住む周辺の医師は不明であったので、
この当時、癌の診断として名高い都心の築地にある癌センターの医師の診察を受けたが、
明解な回答が得られず、やむえず切除の手術を依頼したのである。
結果として、悪性の腫瘍物だったのであるが原因は不明で、
今の私は0.5センチぐらいの傷跡がうっすらと残っている。

その後は、ぎっくり腰で1泊2日、そして3泊4日の入院を体験し、
入院直後の診断は、一週間ぐらい入院と、医師から云われたが、
会社の業務に支障ができる、と私は医師に懇願して、退院をした。
その後の二年後、以前よりぎっくり腰が酷く、観念し28泊29日の長い入院生活を過ごしたりした。
この間の私の40代はシステムに伴う開発・運用で、少なくとも百回ぐらいは徹夜業務となったりし、
私たちの情報メンバーはそれなりに奮闘していたのである。

その後、経理の責任者のひとりが突然に辞任し、
私は経理畑に廻り、20年間の情報畑に別れのである。
経理畑、その後は営業畑と廻ったが、数多くのサラリーマンと同様に、
ときおり多忙な時を過ごしたりしてた。

そして、レコード業界は売上げピークは1998(平成10)年となり、
この前後に於いて、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。

私は出向となり、取引会社のひとつに勤めはじめた。
出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外として感じたので、
屈辱と無念さが入り混じ、失墜感があったのである。

そして出向先の勤務地、業務にまつわる時間も多く、
朝の4時45分に起床して、帰宅は早くても夜の9時過ぎであった。
ときおり、夜が遅くなった業務もあり、出向先のタクシー負担で深夜に帰宅したこと幾度もあり、
これじゃ自宅に着くのは一時半かょ、2時間しか眠むれない、と車内で呟(つぶや)いたりしたのである。

私は五年ばかり出向を体験して、定年退職を迎えたのである。

この間、勤めていたレコード会社、知り合った他のレコード会社の知人たちも数多くの方が退社し、
同じ時代に苦楽を共にした長年に及ぶ先輩、同僚が去ったりした上、
そして何よりも定年退職後はせめて自身の好きなことで過ごそうと思い、
退職後は直(ただ)ちに年金生活としたのである。

年金生活を過ごしはじめた頃は、このように自由に日中の時間が過ごせるのか、
と戸惑いを覚えたりした。

この後の5年間の日常生活は、このサイトに余すところなく綴っているので、
省略する。

私は日常の買物の担当をしているので、土曜、日曜日にご近所の奥様とスーパーで逢うことがあり、
たまたま立ち話をした。
『主人は55歳なんですが・・あなた様の方がお若く見えますわ・・』
と奥様は私に云われた。

私はお世辞半分であったとしても、嬉しかったのである。

近くの住宅街の奥様方と平日、立ち話をすることが多く、
最初の定年直後にお逢いし話していた頃、60歳ですょ、と私は云ったら、
ご冗談を、と云われたりした。

定年生活をすれば、業務で感じたようなプレッシャー、或いはストレスも感じる必要もなく、
睡眠不足で眠たいと思えば、昼寝もできる身分となっている。

昨今の私は、自身の齢をひとまわり若い53歳が理想であるが、
せめて7歳ぐらい若い58歳ぐらいを目標としている。
そして、顔立ちの生き生きとした目も重要であるが、若い感覚、感性だけは失いたくない、
と思っているからである。



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『ワクチン接種』の「優先」順位は、若い人から・・。

2009-11-24 08:16:23 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
厚生労働省の諸兄姉たちは、おかしなことを決定された、と思ったのである。

これと同じ記事が読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を掲載されていたので、
転載させて頂く。

《 ワクチン接種「優先」外、浪人生から不満 》

《・・
新型インフルエンザのワクチン接種で、
厚生労働省が決めた接種順位では高校生は優先されるが、浪人生に配慮はない。
このため、浪人生からは「同じ受験生なのに」と不満も漏れる。

新型の接種は、医療従事者、妊婦や持病のある人、小児を対象に始まっており、
今後、1歳未満の幼児の保護者、小学校高学年~高校生、65歳以上と続き、
浪人生を含む「一般」への接種はそれ以降となる。

埼玉県所沢市の男子予備校生(19)は「接種が遅くなれば危機だ」と話し、
東京都北区の女子予備校生(18)も「区切りを20歳以下とすればよかったのに」と訴える。

ただ、厚労省によると、高校生以下の優先は、
学校で集団感染が発生しやすく、その分、重症者が出るリスクも高いため。
同省は「接種目的は重症化を防ぎ、死者発生を抑えること。
(受験などでの)社会的混乱を防ぐためではない」とし、
接種順を変える考えはないという。

これに対し、全国予備学校協議会は「受験を目指す高卒生も優先対象に」とする要望書を同省に提出。
大手予備校職員は「予備校には授業や模試で現役高校生も集まる。
集団感染で重症者が出る恐れは浪人生も同じでは」と語る。

鳥取県の平井伸治知事は、浪人生を含めた優先枠を設けられないか検討すべきだという考えを表明。
一方、宮城県は受験を控えた中3、高3の希望者の接種を前倒しする方針だが、
浪人生は対象外の方向。
仙台市の男子予備校生(19)は「予備校仲間は不満を漏らしているが、
今となっては、健康に気をつけて頑張るしかない」と語る。

大学側は受験生の救済措置を検討中。
文部科学省は1月16、17日のセンター試験について、
例年は追試験は1週間後だが、今回は回復期間を考慮し、2週間後に設定。
国公立大や私大も流行に応じて措置を講じる方針で、立教大や明治大などは追試実施を決めている。

(2009年11月24日03時06分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091123-OYT1T01017.htm?from=main5
☆ 読売新聞 『ワクチン接種「優先」外、浪人生から不満』 ☆


私は少しボケた年金生活の65歳の身であるので、2度ばかり記事を読んだのであるが、
何故、若い浪人生が対象外になるのか理解できなかったのである。

もとより新型の接種は、
医療従事者、妊婦や持病のある人、小児を対象に始まっており、
今後、1歳未満の幼児の保護者、小学校高学年~高校生となり、
65歳以上と規定されたようである。

私のような65歳以上の高齢者は、
医療従事者、妊婦や持病のある人、小児、1歳未満の幼児の保護者、小学校高学年~高校生、浪人生、大学生など、
そして肝要な働いて下さる世代が完了して後、
一番最後に接種を受けるのが、本来の接種の順位と思っていたのである。

私は若い世代の人たちは、次期の日本を託される人たちであり、
私は浪人生の体験はないが、真摯に学業に励む方の浪人生は高校生の接種が終った後、
優先的に接種される形態が平常心と思い、固く信じていたのである。

こうした心情になれば、
ボケるな厚生労働省の諸兄姉たち、と明言する。




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改めて、『勤労感謝の日』を迎えて・・。

2009-11-23 11:44:44 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、9時過ぎに居間で月刊雑誌『フォーサイト』(新潮社)の12月号を読んでいたのであるが、
くしゃみを八回ばかりしたので、風邪薬を飲み、
2階の寝室の布団にもぐり、この雑誌を深夜2時過ぎ頃まで読んだりしていた。
日本の問題はもとより世界各国の問題の寄稿文を読むと、時が過ぎるのは忘れてしまうのである。
この間、ジャーナリスト・小田博利(おだ・ひろとし)氏の『民主党経済政策「無為の蓄積」が招くもの』を読んだ後、
やはり鳩山首相の言動は高校の生徒会の会長ていど、と思い憂いたりした。

今朝、5時過ぎに目覚めたのであるが、自身に甘え二度寝してしまい、
目覚めたのは7時半過ぎであった。

そして、カレンダーに『勤労感謝の日』と朱記されて折、
思わず恥ずかしくなり、苦笑した。

定年退職した後、私は年金生活で過ごしているので、
この『勤労感謝の日』は、自宅の小庭、付近の遊歩道、小公園の落葉樹が、
紅色、朱紅色、淡い黄色、黄色に彩られる錦繍(きんしゅう)の華やかな情景のピーク、
と思いながら毎年待ち焦(こが)がれているひとりである。

東京郊外に住む私は、この日を境に落葉が吹き寄せのように幾重にも重ねはじめ、
そしてイチョウのたわわな葉が黄色の色合いを深めて、
12月の初旬に落葉して晩秋から初冬に移り変わるのである。

このような思いであるが、私のサラリーマンの現役時代には、
『勤労感謝の日』に際しては、それなりに想いである。


このサイトの一昨年の2007年のこの日には、
【 『勤労感謝の日』の想いで・・♪ 】
と題して投稿していたので、あえて再掲載をする。

【・・
私は民間会社を定年退職した4年生の身であるが、
年金生活をして折、ともすれば曜日の感覚が薄らいでいる・・。

カレンダーを眺めて、『勤労感謝の日』の祭日であったか、と朝に気付いたりしている。


私の30代は、会社の販売締切日がたまたま20日であり、
コンピュータの専任者であったので、『勤労感謝の日』は電算処理の月次作業で追われていた。
経理の決算の担当者と休日出勤務し、
『働けるうちに・・こうしていられるのも・・幸せかも知れない・・』
と私は云いながら、疲れ切っていたが、元気良く社内で働いていた。

40代になると、システムの開発と運営を交差し、
たえず身体も張り、ときには週一回休めれば良い方で、
土日、祭日の休日もなくなって時期が多かった。

50代は他部門に異動したり、後半時期は出向となったりしたが、
相変わらず心身ギリギリまで業務に専念したりし、
サラリーマンを卒業したのである。


昨今、過重労働などと新聞、テレビで視聴すると、私達の時代も同じであった、
と思ったりしている。

ただ、私達の勤めていた40代までは、
日本の経済は躍進していたので、明日に希望が持てる幸運な時代に恵まれていた、
と微苦笑しているのは事実でもある。
・・】

このように投稿したのを読み返して、年金生活の6年生となった今、
微苦笑しているのである。



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