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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

老ボーイの71歳の私、この11月に於いて、生まれて初めて体験したことは・・。

2015-11-30 15:56:28 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
白内障に伴い最寄駅に近い眼科医院で、手術して下さる医院長から指示で、
過ぎし17日に左眼の手術を受けて、そして24日は右眼の手術を受けたりした・・。

これに伴い、一か月前には白内障の手術に適応できるか検査を受診した後、
『単焦点』と『多焦点』のレンズの相違の説明を受けて、
酷い近眼で裸眼0・03、メガネを掛けても0・7弱であった私は、
長年苦渋してきたメガネから解放されたい思惑もあり『多焦点』のレンズを選定した。

やがて手術の一週間前の精密検診を受けて、今回の手術を受けて、
昨今は居間にあるテレビも鮮明に視(み)えたり、スーパーなどに買物に行ったり、通院の往復路に、
こんなに鮮やかな状景だったんだ、と戸惑いながら微笑んだりしている。

こうした中で、この11月に於いて、白内障の手術に伴い、生まれて初めて体験したことがあった・・。
          

もとより白内障の手術は初めてであり、やはり眼の手術は小心者の私は怖く、
緊張感で最初の左眼の手術を受けたが、痛みもなく15分ばかりで終えて、
一週間後の右眼の手術は、気楽に受けることができたりした・・。

最初の左眼の手術を受けた後、ガーゼ生地を主体とした大きな眼帯で覆(おお)われ、
メガネを掛けることができなくなり、右眼の裸眼0・03弱を頼りに、
家内と共にタクシーで帰宅した・・。

そしておぼろげな視界で室内を歩き廻ったりし、
翌日、通院する為に路線バスに乗車して向かったが、定年後の年金生活の中で、散策道として馴染んだ情景であった為か、
おぼろげな視界であったりしたが、私の古惚けた脳でも、記憶装置が働いてくれて、
思っていたよりも確かな足取りであった。
          

そして手術した翌日には、早くも大きな眼帯で取れて、予期した以上の鮮やかな視界となったりした。
やがて医院長より、丁重な説明を私たち夫婦は聞いたりした。
     
☆本日より、眼帯は不要。ただし就眠時は眼をこすったり場合が怖いで、保護メガネをされた方が万全。

☆指定した3種類の『点眼薬』を必ず実施すること。
      ☆抗菌薬『クラビット点眼薬』・・・・一日4回「赤色キャップ」   
      ☆消炎薬『サンベタゾン点眼薬』・・・一日4回「黄緑色キャップ」 
      ☆鎮痛消炎薬『ブロナック点眼薬』・・一日2回「水色キャップ」

☆洗顔
  濡らしたタオルをしぼって丁重に清拭する。ただし術眼のまわりは避ける。

☆入浴
  本日より首から下は、入浴してもよいが、眼の中に水を入れないように入浴する。

☆洗髪
  本日より美容室、理容室で、頭を上仰向けで行うことはできますが、自分でしないこと。

◎日常生活
  本日より新聞、パソコンも良いが、外出も近くであればよいが、埃っぽい処は避けること。

こうしたことで、私が念願し予約購入していた保護メガネを掛けることができた・・。
          

これ以降、洗面所で歯を磨いたり、入浴の時は首から下を洗い清めたり、温かい浴槽に身をゆだねたりしてきた。
或いは平素の買物、通院する時、少し黄色く視(み)えるいサングラスのような保護メガネを愛用している。

そして就眠時は眼をこすったり場合が怖いで、この保護メガネのテンプルを外して、
ヘッドバンドにして、私は布団の中にもぐりこんでいる。
          


洗顔に関しては、タオルを取り出して瞬間湯沸かし器の湯で、特選おしぼりとし、
顔、首、耳の周辺を丁寧に、起床後、昼、夕方、就眠の前に行っている。


洗髪に関して、手術後の翌日に医院長から、
本日より美容室、理容室で、頭を上仰向けで行うことはできますが、自分でしないこと、
と言われたので、家内が駅近くにある美容院を選定して、私は生れて初めて美容院で洗髪した。

私は平素は夕方5時半過ぎに入浴する時は、必ず洗髪してきたので、
左眼を17日に手術して以来、一番気にかけていたひとつであった。

しかしながらは、散髪屋(理容店)は小学校入学してから、月に一度ぐらいペースで、
65年ばかり愛用してきたが、もとより日本男児の私は美容院は未知の世界であった。

家内のアドバイスで、生まれて初めて美容院に入店した。
そして家内は、美男子の美容師さんに、私の洗髪を依頼していた。

まもなく私は、おしゃれな室内を通されて、散髪屋(理容店)の座席とも違い、
戸惑いながら美容院専用の座席に腰を下ろして、上半身、下半身を延ばし、
左眼は白内障の手術後の為、水分は掛からないように・・、と依頼したりした。

まもなく美男子の美容師さんは、私の左眼に眼帯を付けて下さり、
二度洗いをお願いしたりした・・。

シャンプー、そして程ほど湯温度で洗い流し、やがてマッサージ、最後に熱風で濡れ髪を乾かすなど、
今まで散髪屋(理容店)で洗髪の行程を長年体験したきたが、
女性用の今回の洗髪の行程は、しなやかでまろやかさを感じたりした。

まもなく私は、思っていたより遥かに快適でしたょ、と美男子の美容師さんに礼を言ったりした。
この後、幾たびか美容院に通っている。

或いはパソコンの画面に関して、手術の一週間前の私は画面倍率を150%にしていたが、
画面が鮮明に視(み)えた上、100%充分、と微笑んだりした。

このようなこと、私は11月に於いて、生まれて初めて体験し、微苦笑を重ねたりしている。
          

或いはブログに関しても、私は原則として毎日投稿してきたが、
17日に左眼、24日には右眼の手術を受け、本日は食事、トイレ以外は安静して下さい、と医院長から私は言われたりし、
この日はさすがに自制し、珍しく欠場となった。

私は年金生活を丸11年過し、早や12年生となっているが、午後から夜の大半は、
読書が最優先として、パソコンでブログの投稿文を綴ったり、私が愛読している御方の投稿文を読ませて頂いたり、
ときには映画を室内鑑賞をし、殆ど毎日9時間ぐらい読んだり、書いたり、視(み)たりしてきた・・。

しかしながら手術の翌日以降は、当面として視(み)ようとする神経制御が働きを自制して、
新聞、本、パソコンは一日3時間以内として自制している。

そして今は、今回の多焦点眼内レンズの効力で、左眼は1・0、右眼は0・6前後であり、
メガネが不必要となっている。

やがて時が過ぎれば、眼を制御する幾重かの神経が安定すれば、
少しは均等の視力になると思われ、私の生家は曹洞宗なので、仏様に感謝し、
神棚もあるので、神様にも感謝したりしている。

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白内障の手術、左眼は17日、そして右眼は24日に受けて、やがて鮮明な視界に微笑みながら・・。

2015-11-29 14:34:49 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活12年生の71歳の身であるが、
白内障に伴い最寄駅に近い眼科医院で、手術して下さる医院長から指示で、
過ぎし17日に左眼の手術を受けて、そして24日は右眼の手術を受けたりした・・。

私は、長年酷い近眼で裸眼0・03、メガネを掛けても0・7であったが、
数年前の頃から視力は衰えてきたのが実感してきた・・。
そして半年前の頃から、ときおり擦(かすれ)れた視界を感じて、
やむなく眼科医院で、眼に関する7ぐらいの検査を受診後、まぎれなく白内障です、と診断された。

私は17日に白内障の左眼の手術を受けたが、
白内障の水晶体の濁った皮質を細かく粉砕すると同時に眼外へ吸引された後、
広く手元から遠くまで見える多焦点眼内レンズを挿入して頂ただいた・・。
http://www.cataract-iol.jp/lens/index.html
☆公式サイト【白内障情報室】==>『眼内レンズによる見え方の違い』、『単焦点』と『多焦点』の相違☆

そして手術中は苦痛を感じることなく、ただ初めての体験で、緊張感を秘めながらも15分ぐらいで終わった。

まもなく手術後、ガーゼ生地を主体とした大きな眼帯をして下さった。

私は当初予約していた保護眼鏡は、大きな眼帯でメガネを掛けることができなくなり、
当面は、右眼の裸眼0.03弱を頼りに、おぼろげな視界を過ごすこととなった・・。
          

そして左眼は、翌日の18日には幾つかの検診を受け、早くも眼帯がとれ、
何かしら鮮明で視界が開け、前方が明確に視(み)えたりした。

しかしながら、右眼の裸眼0・03弱の酷い近眼の視力であり、左眼は手術後には0・5以上が視(み)えたが、
余りにも右眼と左眼とに差異があり、私の小さな脳でも、視(み)ようとする神経制御が働き、右眼の裸眼0・03弱も補助動作が働き、
前景は0・5ぐらいで鮮明に視(み)えるが情景となった。

そして余り長時間を視(み)ようとする神経制御は、混乱を起こすかも知れないと、私は感じたりして、
手術の翌日以降は、当面として視(み)ようとする神経制御が働きを自制して、新聞、本、パソコンは一日3時間以内として
歯を磨いたり、布団の中では、予約購入した保護眼鏡を付けたりしてきた。
          

この間、手術日の2日前より細菌の感染を抑える薬の『点眼薬(ベガモックス)』を、
朝、昼、夜と日に3回を左眼に、目薬のようにしてきた。

やがて手術後は、毎食後に抗生物質のフロモックス錠剤を飲み、
そして抗菌薬『クラビット点眼薬』、消炎薬『サンベタゾン点眼薬』は、朝、昼、夕、夜と日に4回、
鎮痛消炎薬『ブロナック点眼薬』は朝、夜と日に2回を付けたりしてきた。

通院に関しては、手術後の翌日、そして手術後の3日目に検診を受けて、
医院長より、特に異常なし、と診断されたりしてきた。

洗髪は手術後の翌日に医院長から、
本日より美容室、理容室で、頭を上仰向けで行うことはできますが、自分でしないこと、
と言われたりしたが、安全性から手術後の3日目に、家内の指示に基づいて、私は生れて初めて美容院で洗髪し、
この後も幾たびか美容院で洗髪し、やがて順応し、微苦笑したりしてきた。
          

そして24日には右眼の手術を受けたりしたが、過ぎし17日に左眼に手術を受けた体験があったので、
緊張感もなくリラックスした心情で、手術を終えた・・。

しかしながら手術後、ガーゼ生地を主体とした大きな眼帯となり、
一週間前に手術した左眼を頼りに視界を見れば、今回手術した右眼は眼帯の下でも眼球が動くので、
本日は食事、トイレ以外は安静して下さい、と医院長から私は言われたりした。

やがて私は家内と共に帰宅した後、昼食をした後、新聞、本、パソコン上のブログも自制して、
布団にもぐりながら、ラジカセCDで音楽棚から8枚ばかりCDを抜き取り、深夜まで聴いたりした・・。

この間、ときおり寝付いたり、夕食を頂いたりしたが、ぐうだらな安静日となったりした。

そして25日、家内と共に眼科医院に行き、手術日の翌日の診察を受けた・・。
手術した右眼の大きな眼帯を看護師さんから取って頂いた後、視界が鮮明に視(み)えた。

まもなく幾つか検査を受けた後、一週間前に手術した左眼は1・0と診断されて、
確か手術後3日目は0・6前後であったので、視力向上に驚いたりした。

そして前日手術した右眼は、眼帯から解放されて5分過ぎてまもない為か、0・5前後であり、
私は両眼が想定以上で、悦んだりした・・。
          

私は今回の白内障の手術に伴い、左眼、右眼を広く手元から遠くまで見える多焦点眼内レンズを挿入した手術を終えた今、
今後の注意事項を守れば、次第に視力の向上もある、と医院長から私は言われたりした。

今回の多焦点眼内レンズに関しての特長、多焦点眼内レンズに向いている方、手術の費用については、
ネット上で解りやすかったサイトを参照として、明示する。
          http://mieru.jpn.com/archives/1591
          ☆参照・・・公式サイト【柏瀬眼科】==>『多焦点眼内レンズについて』☆

そして手術の費用については、《・・多焦点眼内レンズを用いた手術は保険適応外、つまり自費となります。
料金は、片眼で420,000円(手術および手術前後の検査や薬代を含む)です。
ただし、民間保険会社の先進医療特約での保証制度があります。・・》記載されているが、私の場合は少し差異があった。

自由診察価格として片眼で400,000円(税込)と明記されていたが、
実質は先進医療価格とし片眼で342,000円(税込)+保険診察自己負担分(手術前後の検査や薬代)であった。


私は左眼、そして右眼の手術を終えた昨今、居間にあるテレビも鮮明に視えたり、
スーパーなどに買物に行ったり、通院の往復路に、こんなに鮮やかな状景だったんだ、
と戸惑いながら微笑んだりしている。
          
そして時が過ぎれば、眼を制御する幾重かの神経が安定すれば、
左眼は1・0、右眼は1・0となるか、
左眼は0・7、右眼は0・7となるか解らないが、
私が念願していた0・7前後となり、メガネが不必要となる。

私は高校生より酷い近眼で、劣等感のひとつであった。
そしてメガネだけは、やむえず少し背延びした高価なレンズ、フレームを選定してきた。

ここ55年の間に、やむなく幾たびもメガネを新調してきたので、
メガネが不要となっている今、たとえ今回の多焦点眼内レンズの効力に縋(すが)っても、
長年に於いて何かとメガネに苦渋してきた私は、メガネから解放されて悦んだりしている。


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齢を重ねるたびに、感銘を深めている邦画のふたつの作品は、『東京物語』、『楢山節考』・・。

2015-11-28 14:31:29 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
若き時期のひととき映画青年の真似事をしたこともあったので、
読書が最優先であるが、ときおり居間で映画を観たりしている。

そして私なりのつたない鑑賞歴でも、魅了された作品は、何回でも観るタイプである。

例えば邦画の場合は、『二十四の瞳』、『東京物語』、『浮雲』、『雨月物語』等である。

洋画に関しては、『街の灯』、『市民ケーン』、『第三の男』、『逢びき』、『ライムライト』、
『ジョニーは戦場に行った』等は、10年ごとに観たりしている。

或いは最初の一ヶ月に於いて、少なくとも10回以上熱中して観る映画もある。
邦画の『七人の侍』、『用心棒』、『駅~STATION~』、 『切腹』、
洋画の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』、『ディア・ハンター』、
『ゴットファーザ Ⅱ』などが鮮明に記憶に残っている。
               

私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けて、
小学4年の頃から独りで映画館に行き、邦画に魅せられて、中学からは洋画にも魅了され、
これ以降は映画の愛好者のひとりなった・・。
やがて映画専門誌の『キネマ旬報』なども愛読し、シナリオにも関心をもち始めて、
シナリオライターになりたくて、大学を中退したのが、1964(昭和39)年の秋であった・・。

まもなく養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。

そして、習作に励んだりし、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。

この後、1970(昭和45)年にある民間会社に何とか中途入社し、レコード会社に35年ばかり奮戦して、
2004年(平成16年)の秋に定年を迎え、多々の理由で年金生活を始めて、早や12年生の身である。
          

このように若き時代の一時には、映画館に通ったりして、程ほどに映画作品を鑑賞してきたので、
1966年(昭和41年)の頃までに上映された作品は知っているつもりであるが、
その後は数多くのサラリーマンと同様に、多忙な時代を過ごしたので、余り鑑賞する機会がなくなった。

定年後は年金生活をして、ときおり居間の映画棚に保管してあるビデオテープ、DVDの1000作品ぐらいを
居間のテレビを通して鑑賞したりしている。

しかしながら、2000年(平成12年)の頃までに制作された作品が圧倒的に多いので、
古き良き時代の映画の愛好者のひとりかしら、と微苦笑する時もある。


私は定年退職の5年前頃の2000年(平成12年)の当時は、
退職後にその時に観たい映画として、100作品前後の名作があればよいと考えていたが、
瞬(またた)く間に増えだした・・。
やむえず、250本収納できるビデオ・ラックを2本買い求め万全とした。

しかし、時代はビデオ・テープからDVDに移行期の上、
私のソフト販売店からの購入、或いはWOWOW、BS2からのコピーが増えて、
天上までとどく、幅広い大きなラックを買い増ましたりした。

そして今日は、邦画、洋画、映画以外のドキュメンタリー、音楽の四つの区分で、
ビデオ・テープ、DVDが並んでいる。

やがて2011年(平成23年)3月11日の東大日本震災後、老後の整理に喚起させられて、
小説・随筆などがある本棚の本、映画作品などがある棚にある作品を、やむなく7割ぐらい破棄した・・。
          

こうした中で、居間にあるテレビの50型、そしてブルーレイディスク・DVDレコーダーを連動させて、
或いは長年愛用してきたビデオテープも再生専用として、接続しさせ、
このような状況で、私が感銘させられた名画をテレビを通して鑑賞したりしている。


過ぎし6年前に高齢者入門が許された65歳の頃から、
齢を重ねるたびに、感銘を深めている邦画のふたつの作品がある。
          

ひとつは小津安二郎・監督の『東京物語』小津安二郎・監督(1953年)である。

映画の解説に寄ると、《・・上京した年老いた両親とその家族たちの姿を通して、
家族の絆、夫婦と子供、老いと死、人間の一生、それらを冷徹な視線で描いた作品である。
家族という共同体が年を経るとともにバラバラになっていく現実を、独特の落ち着いた雰囲気でつづっている・・》

私は、やがて到来する家族の崩壊を基調に秘め、恐れ入りました、と深く感じさせられた作品である。

1953年(昭和28年)に公開された作品であるが、脚本は名コンビと名高い野田高梧、小津安二郎の両氏であるが、
もとよりこれ以前に共同執筆され、この当時に於いて、
やがて日本が高度成長をする中で、社会はそれぞれの家族の共同体が崩壊し、やがて核家族化ていくありさまを、
的確で小津安二郎さんらしい繊細に提示した稀な作品、と深め重ねている。
          

もうひとつ作品は、木下恵介・監督の『楢山節考(ならやまぶしこう)』(1958年)である。
初めて鑑賞したのは、私が中学2年生の時に、独りで映画館で観たが、
山深い貧しいの因習に従い、年老いた母を背板に乗せて真冬の楢山へ捨てにゆく物語、と理解した程度であったが、

後年、映画青年の真似事をしていた時の私は、
自ら進んで「楢山まいり」の日を早める母(田中絹代)と、優しい孝行息子(高橋貞二)との間の無言の情愛が、
厳しく悲惨な行為と相まって描かれた作品に、感銘させられた。

そして遅ればせながら、田中絹代さんの演技に対する情念の怖さと凄さに敬服させられたり、
高橋貞二さんも好演させられたりした。


もとより『楢山節考(ならやまぶしこう)』は、作家・深沢七郎さんが創作され、
1956年(昭和31年)に総合雑誌『中央公論』11月号に掲載され、第1回中央公論新人賞を受賞した作品である。
そして単行本は翌年1957年(昭和32年)2月に中央公論社より刊行され、ベストセラーとなったりした。

私は高校時代に、古本屋で単行本を買い求めて、震撼させられながら感銘した作品である。

やがて戦後の満天の星のような日本の小説の名作の中で、『楢山節考』は燦然と輝く突出した作品と、
今でも評価している。
          

ここ30数年、親の介護などで社会問題となり、長寿社会の今は老老介護なども山積している。
やがて2025年(平成37年)が到来すれば、団塊世代の人々も、後期高齢者と称せられる75歳となる。

そして高齢者人口は、約3500万人(人口比約30%)に達する中、
年金、介護、医療費などの社会保障費の基盤は、経済復興がなければ衰退する・・。

こうした悲惨となった時、果たして後期高齢者は・・・と私は悪しき妄想をする時がある。
このような時、1956年(昭和31年)の前に、作家・深沢七郎さんが創作され、『楢山節考』に思い馳せることもある。


私は過ぎし6年前の65歳の頃から、齢を重ねるたびに、邦画の世界としては、小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年)、
そして木下恵介・監督の『楢山節考』(1958年)、感銘を深めている作品がある。

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成城石井、なぜ「安くない」のに売れるのか、学びながら私のささやかな想いでは・・。

2015-11-27 16:01:51 | ささやかな古稀からの思い
私は昨日の昼下りのひととき、【 成城石井は、なぜ「安くない」のに売れるのか 】
と愛読しているビジネス総合情報誌として名高い『東洋経済オンライン』の見出しを見たりした。

そして成城石井に関しては、私が若かった時代に、別れた恋人に偶然にめぐり逢えたような複雑な心情で、
やはり読んでしまった・・。

この記事の原文は、上阪徹・著作の『成城石井はなぜ安くないのに選ばれるのか?』(あさ出版)であり、
『東洋経済オンライン』で要約され、『成城石井は、なぜ「安くない」のに売れるのか』と題され、
副題として『こだわっているのは、たった一つの本質だ』で、2015年11月26日で配信された記事である。

無断ながら転載させて頂く。
          

《・・イオン、イトーヨーカドー。食品から衣料品や住居関連用品などを幅広く扱う総合スーパー(GMS)が苦しんでいる。
イオンのGMS事業は赤字が続き、コンビニ最大手「セブン-イレブン」が絶好調なセブン&アイ・ホールディングスですら、
イトーヨーカドーについては今後5年で全体の2割に当たる40店舗を閉鎖する方針を表明している。

ユニーグループ・ホールディングスが、ファミリーマートとの経営統合に踏み出したのも、
GMS「アピタ」「ピアゴ」の不振が背景の一つにある。

昨年の消費増税後、スーパーは二極化の様相を見せた。
特徴を打ち出せないGMSが振るわない中、ライフコーポーレーションやヤオコーなど、
首都圏を中心に展開する主要な食品スーパーは、生鮮食品や惣菜に力を入れた結果、
値上げの反動減をはね飛ばして業績を伸ばしている。
          

■成城石井の利益率はスーパーの中でも突出

そうした堅調な食品スーパーの中でも異色の存在が、「成城石井」だ。

直近本決算(2014年12月期)の売上高は600億円を超えているもようで、3年前から2割以上も増加。
今年度(2015年12月期)も含めて、今後さらなる伸びが見込まれている。
営業利益率は6~8%程度とみられ、通常は2~3%が一般的なスーパーのそれを大きく上回る。

店舗数は都市部を中心として132カ所に上り(11月26日現在)、首都圏だけでなく東海、近畿にも広がっている。
駅ナカの限られたスペースに入る小型店から、郊外の大型店まで、店舗の形態も多様だ。

成城石井をめぐっては昨年春から秋にかけ、ファンドが保有していた成城石井株の売却をめぐって
ローソンや三越伊勢丹ホールディングス、エイチ・ツー・オー リテイリング(H2O)、イオンなどが争奪戦を繰り広げた。
それを射止め、昨年10月末に子会社化を完了したのはローソン。
成城石井はローソンの傘下に入って、ちょうど1年が過ぎたところだ。

成城石井の特徴は、決して安いとはいえない高価格帯の商品を扱う高級スーパーだということ。
アベノミクスによってこの数年は景気回復基調がみられてきたが、それまで長らく続いた不況の中で、
デフレ、節約志向が染み付いた日本人を相手に、なぜそんなビジネスモデルが支持されてきているのか。
その秘密を探ってみよう。


「原材料調達から製造方法まで非常にこだわっている。
粗利率が約40%と高く、一方で生鮮品の構成は20%以下で、都市型生活のニーズを満たすモデル。
高額消費と低価格志向という二極化が進む中でこれは武器になる」

昨年10月、東洋経済の取材に応じたローソンの玉塚元一社長は、買収を決めた成城石井をベタ褒めしていた。
成城石井の強さのひとつが、品そろえの豊富さだ。
輸入商材、隠れた名品、地方の名産品をはじめ、独自商材が極めて多い。
          

■「成城石井にしかない」商品が多い

ワイン、チーズ、生ハム、紅茶、コーヒー、オリーブオイル、ジャム、味噌、牛乳、豆腐、納豆、昆布、鰹節、ダシ、チーズケーキなどなど、
有名なメーカーのものも置いてあるが、成城石井でしかお目にかかれない商品も多い。
買うときの選択肢が幅広い、ということだ。

人気の高い成城石井オリジナルのコーヒーは、
オールアラビカ種。クオリティに対するコストパフォーマンスの良さが支持を得ている。
プロのコーヒーショップのマスターが買いに来ることもあるという。

チョコレートは本場ベルギーやフランスからの直輸入品も多い。
また、ただ輸入したものを店頭に並べるだけではない。
輸入品はワンパックの量が多く、また包装は日本のクオリティのほうが高いため、小分けして自社で包装し直しているものもある。


成城石井のこだわりが詰まっているのが、「オリジナル商品」と呼ばれるプライベートブランド(PB)商品だ。
成城石井は満足する商品が市場になかった場合、自分たちで満足できるものをつくってしまう。

中でも目を引くオリジナル商品がプレミアムチーズケーキ。
多いときには1日に5000本以上売れるというこの商品は、ほとんど機械を使わず、一つ一つ手作りしている。
常温で保存できる点も人気の秘密だ。

自家製ソーセージは国産のフレッシュな豚肉を使用。
ドイツ岩塩で味付けし、ポークウインナーは天然の羊腸に詰めて作る。
燻製用木材は本場ドイツからブナの木を取り寄せている。
世界最高峰の食肉加工コンテストで数々のメダルを獲得するなど、その技術と品質は本場ドイツでも認められているレベルだ。
オリジナル商品の数は2000点以上に及ぶ。

スーパーでは食品工場などへの外注で、総菜を品揃えしているのが一般的ながら、
成城石井は自社で工場を持ち、200種類以上の総菜や加工食品を製造し、全国の店舗へ配送している。

総菜はすべて一流のホテルやレストラン、和食店などで働いていたプロの料理人が作る。
こだわりの食材を使用し、機械は使わず基本的に手作業で作っていく。
          

■美味しさへの徹底的なこだわり

なぜ手作業にこだわるか。それがいちばん美味しいとわかっているからだ。
人気商品のポテトサラダは、ジャガイモの皮を手でむいていく。
1日に500㎏~600㎏、2500個ものジャガイモが手むきされている。

多くの食品工場ではジャガイモの皮を一瞬でむいてくれる機械が使われているにもかかわらず。
「ジャガイモは皮の真下が一番おいしいので、その部分を残してむくためには手作業しかない」のだという。

味付けも、化学調味料はできるだけ使用しない。
合成甘味料、保存料、合成着色料は一切使わない。当然、賞味期限は短くなる。
保存料を使えば長持ちし、売る側は圧倒的に楽だ。

だが成城石井はそれをしない。
「家庭で作られている料理に、保存料や着色料は入っているか?」が考えの原点だ。

これほどまでのこだわりを聞くと、「それでも高い」か、「ここまでしているならこの価格は安い」か。
後者が少なくないのである。なぜ成城石井はここまでこだわるのか。そのルーツは、1980年代にある。


成城石井は今から30年以上前、まだ成城にしか店舗がなかった頃、ワインの直輸入を開始した。
きっかけは、顧客の声だったという。

成城には、ヨーロッパに居住経験のある人や、感度の高い文化人と言われる人たちがたくさん住んでいた。
その人たちから言われたのだという。「本場ヨーロッパのワインはもっとおいしい」と。

ワインの輸送は今も主に船で行われているが、船便は輸送中の品質管理が難しく、
温度管理をしていない鉄のコンテナで赤道直下を通ると、高温にさらされることが原因でワインの味を落とすことがよくあったそうだ。

成城石井は、輸送中の温度がワインに影響を与えないよう、
常に温度を一定に保つ「定温輸送」でワインを輸入することにした。
だが当時は定温輸送などよほどの高級品でなければ行われておらず、商社の取り扱い金額も高かった。
そこで自社の貿易会社を作り、直輸入を始めた。輸送後の保管状態にもこだわり、
定温管理の倉庫を建造し、24時間、温度や湿度を管理し、記録している。

ワインをいい状態で販売できるようになった後に求められたのが、「ワインに合わせるもの」だ。
チーズ、オリーブ、生ハム、チョコレートなど、成城石井は独自の商品を仕入れ、品揃えを増やしていった。
          

■お客に会社の都合は関係ない

筆者が成城石井の何人もの社員を取材して感じたのが、経営者からお店の販売員まで、どの人も言うことが同じということだ。

口をそろえるのは「お客様のため」というキーワードだ。
「お客さまにご満足いただく、お客さまに喜んでいただく。それだけを目指し、動いている」

特に創業の地、成城(東京都世田谷区)は都内でも屈指の高級住宅街であり、
そこに住む人たちの食に対する興味や関心は高いものがあった。

先ほどのワインの話もそうだが、本物志向で、妥協はしない。
「高くて良いもの」というだけでは不十分で、「いいものを適正価格で」が求められた。

成城の人たちをいかに満足させるか、それが成城石井のルーツと言っていい。
店舗数が増えても、駅ナカのような新たな形態の店舗ができても、今もその姿勢はまったく変わっていない。
求められていることに、とにかく1つひとつ応えていく。
やらなければいけないこと、基本を徹底する。そしてそれをひたすら継続する。
          

その姿勢をまさに地で行く話を耳にした。
たとえば首都圏で大雪が降ると、一般的な小売りの物流は麻痺してしまう。

雪でトラックが動けなくなってしまうという物理的な理由だけではない。
通常の動きに乱れが生じると伝票の処理が一気に複雑になるため、配送センターが配送を止めてしまうことはよくある。
それはいわば店や会社の都合だ。

成城石井はそれをよしとしない。
商品を欲しがっているお客に対し、処理が複雑になっても、まずは商品を届けるのを優先し、伝票処理などは後回しにする。
用意さえ整えば出荷する。
ある店に商品が足りない。しかし近くの別の店には余っている、というようなときは、店員がその商品を運ぶこともあるという。

店同士もライバルではないのか、店ごとの売り上げなども関係してこないのかと思ってしまううが、
お客には関係のない会社や店の都合など気にしないのが成城石井の考え方だ。


店員が商品を他の店に運ぶなど、手間もかかり、移動には費用も発生する。
儲けを考えると、とても非効率的な行為だが、あくまでお客が求めていることを成城石井は大事にしている。

ある商品が欠品しても売り上げは下がらないかもしれないが、
「あの店に行けばいつも買える」という安心感や信頼関係をお客との間で築くことのほうが、
儲けよりも重要という視点である。


そこまでの徹底した顧客優先の姿勢が、やはり顧客には伝わっている。
昨今の成城石井の快進撃が、それを裏付けている。
そもそも成城石井が貿易会社を設立してワインやチーズの直輸入を始めたのも、儲けようと思ったからではない。

顧客の求めるものを手頃な価格で提供したい、本当においしいもの、こだわったものをとことん突き詰めよう、
というところからスタートした。

最初から品揃えを多くしようとしたのではない。
結果として、他社が真似できない仕組みや品揃えにつながった。
          

成城石井の原昭彦社長は「消費の2極化が起きている」と語っている。
とにかく安い、を求める消費と、価格は安くなくともこだわった商品、安全・安心な商品、ちょっといい商品が欲しい、という消費だ。

成城石井は、日本全国のスーパーマーケットと提携し、
成城石井のオリジナル商品や直輸入している輸入商材などの商品を
各地方スーパー内で販売する「成城石井専門コーナー」を展開している。

価格はそのスーパーで売られている商品価格の2~3割程度高いが、多くのスーパーで人気を博しており、
商品価値やこだわりが評価を集め、売り上げが当初予測の1.5倍、リピート率が40%近くに及んでいる店もある。
          

■「高いから売れない」は思い込みにすぎない

「高いから売れない」は勝手な思い込みにすぎない。
また、高いものを買うのは収入の多い人たちかというと、決してそのようなこともない。

成城石井は「ターゲットゾーン」を明確に定めてはいない。
そもそも、おいしいものを食べたいという気持ちは男性にも女性にもある。そこには年齢も収入も関係ない。

実際、決してそこまで年収が多いとは思えない若い女性も、
成城石井で自分へのご褒美として、少々高額なシャンパンやワイン、チーズや生ハムを買っていくことは珍しくないという。

成城石井は「マーケティング」という言葉を好まない。
もしマーケティング、ターゲットゾーンといったことを考えていたら、若い女性のシャンパン需要を逃してしまっていただろう。
成城石井がこだわっているのは、たった一つ。
それは「お客の期待にどう応えていくか」。「ビジネス」「商売」における本質である。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          
          
私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。
私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉4月の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑を耕していた。
そして小さな川が所有している田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

母屋の宅地のはずれに土蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

そして小田急線と京王線の間にサンドイッチのような辺鄙な処で、
京王線の最寄駅は『つつじヶ丘駅(当時は、金子駅)』か『仙川駅』であり、
児童の私としては、15分ばかりを歩いて『つつじヶ丘駅』に近い小学校に通ったりしていた。

或いは小田急線の最寄駅は『成城学園前駅』か『喜多見駅』、そして『狛江駅』であり、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に生家があった。
          

こうした中で、確か小学1年生だったと記憶しているが、父の妹が未婚だったの頃、
この叔母に連れられて、30分ぐらい歩いて『成城学園前駅』の近くにある『石井食料品店』に行った。
          
          ☆これ以降の写真は、たまたま私が昨年の12月初旬、成城学園駅の周辺を散策していた時、撮った情景である☆

祖父、母、叔母たちから『石井食料品店』の実家とは、何かしら曽祖父の時代に血縁していていたらしく、
遠い親戚の人、と私は幼年なりに教えられていた。

そして叔母は高校を卒業してまもなく、『石井食料品店』で従業員のひとりとして働いていた。
こうした縁で、私は叔母に引率されて、生まれて初めて成城学園の住宅街を歩いた。

数百坪の敷地が整然と並び、お屋敷町みたい、と私は幼年心なりに、叔母に言ったりしていた。
そして『石井食料品店』に到着したが、見た事のない高価な果物がたくさん店内に並べられていた、
こうしたことが鮮明に今でも、心の片隅に残っている。

この後、水道の水を生まれて初めて飲んだ・・。
この当時の生家は、つるべの時代を終えて、母家の裏にある井戸のポンプを手でこぎながら、
飲んでいたので、私は井戸水しか知らず、水道の水は不可解な味であった。
          

そして私が小学2年の三学期の1953年(昭和28年)の3月に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、生家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
          

やがて私が34歳になった時、生家の近い処に一軒家を構え、
私は当時は中小業の会社に勤めて、本社は六本木に所在していたので、
我が家から通勤コースとして、利便性のある路線バスで『成城学園前駅』経由で六本木に通ったりしていた。

そして私も家内も成城学園前の商店街で買物もするようになった。
こうした中で、『石井食料品店』は高級なスーパーマーケット『成城石井』と変貌しており、
多彩な食材とか食品も高品質で、ときおり買い求めたりしていた。
          

私が40代の半(なか)ばの時、不覚にもギックリ腰が悪化して、
28泊29日で入院した時、会社関係の人にお見舞いを数多く頂だき、
この後、御礼としてデパートとか成城石井から送付したりした。

この中のひとりが東急の田園都市線の青葉台駅の近くの住宅街にお住まいで、
成城石井の支店、青葉台もあるよ、
と私は言われて、成城石井も支店を出店するようになったか、と驚いたりした。

この間の私は、働き始めた25歳からの習性として、
母にはお中元、お歳暮の時に、いくばくかお金を包んて渡したりしていた。

そして私が40歳を過ぎた頃から、成城石井のお惣菜売り場で買い求めた3品前後も、
手渡した時、母は私が予測した以上に悦こび、私は母が亡くなる15年近くまで続けたりした。
          

こうした中、私と母は毎週土曜日に電話連絡をして、
週刊ニュースのように母の一週間の出来事を聞いたりしていた。

たまたま母が成城に行き、歯科医院で治療した後、成城石井に寄って買物をしている時、
御曹司の方が店長として店内にいた時、XXちゃん・・と話しかけ、
5分ぐらい立ち話しをしてしまったわ、と母は私に言ったりした。

『お母さん・・昔のゆったりとしたおおらかな食料品店の時代と違い、
お客さんで混雑している中、店長は奮闘しているのだから、ご迷惑だょ・・』
と私は母に言いながら苦笑したりしていた。

こうしたこともあったりしたが、私、家内、そして母は生前していた時は、
何かと成城石井で買物をしたりしていた。

私は2004年に定年退職をした後、多々の理由で年金生活を始めた頃、
風の噂として、成城石井はある大手の会社に株式の大半を譲渡した、と聞いたりし、
私と亡き母が親しみを感じてきた亡くなった先代の御方、そして後を継がれて高級スーパーに変貌させた御曹司の御方、
無縁となってしまい複雑な思いで、ときおり私は買い求めたりしている。
          

やがて2014年5月、テレビ東京の『ガイアの夜明け』という番組で、
成城石井の躍進を、《 どんな場所にも出店 成城石井・・驚きの戦略 》と、
タイトルが付加されて放送されていた。

何かしから地方まで多店舗する中で、昨今の都心で出店も急増する実態、
こうした中で、自社で手作りしているお惣菜の製造センター、
各店からの細かな発注に対応出来る物流センター、
そして独自の目利きで輸入している種類豊富な高級な生ハムやチーズ等が映しだされた。

或いは麻布十番の店では、2階をワインバーとして、
1階で販売している食材・商品のを使ったメニューを開発しながら提供し、好評されている実態が放映されていた。

私は視聴しながら、成城石井もあの当時からして大きく変貌したなぁ、
と少し溜息を重ねながら、過ぎ去った日々に思い馳せたりした・・。
          

そして作夜も、テレビ東京の『カンブリア宮殿』という番組で、
加速されている成城石井の多彩な各店の状景が放送されたりし、
私は25年前の前後、成城学園前の近くにある成城石井で、
私たち夫婦、母が何かと買物していた情景が、走馬灯のような思い馳せられたりした。

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何かと読書好きな私、財界で活躍されている方の読書家の思いを学び、微苦笑しながら同意を深めて・・。

2015-11-26 16:22:59 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
昼下りのひととき、週に2回ぐらい愛読しているビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』の基幹サイトで、
【 上田準二流「100冊の読書」で100通りの人生を経験 】と見出しされた記事を偶然に見たりした。

私は何かと読書好きのひとりであるので、どのような思いで本を読んでいるか、と好奇心が増して、
クリックして、記事を読んでしまった・・。

この記事の原文は、『PRESIDENT 』の2014年9月1日号に掲載された記事のひとつで、
『PRESIDENT 』の基幹サイトに2015年11月26日に配信され、
ジャーナリストの吉田茂人さんの寄稿文であるが、無断てあるが転載させて頂く。
 
前提として、この記事は『働く人』のコーナーで、「集中、思考、計画、実行」100点満点テクニックと特集連載された中で、
読書と題された副題である。

《・・違いはポテンシャルではなく、心構えと日々の習慣にある。
熾烈なグローバル競争が激化する中、成果を出す人の特徴とは?
アンケート調査が示す、歴然たる結果に激震が走る!
          

多くの企業トップが「勉強法」に挙げるのは、当然と言うべきか「読書」である。

学生時代に作家を志したこともあるファミリーマート会長の上田準二氏は読書家で知られる。
伊藤忠商事に勤めていたときの驚いた体験を
「業務に追われるなかで、『あれ、こういう局面は、前にも経験してるな』と感じることが、しばしばあった。
採るべき方策が次々と湧いてくるのです。

そうした直観に沿って行動すると、実際、事態は予想通りに進み、幸いにも難を逃れられる。
『俺には予知能力があるのか』と訝しんだほどです」(プレジデント誌10/4.12)と言い、
その能力が何によってもたらされたのかをこう説く。


「あるときに気づきました。
おそらく過去に読んだ大量の物語が、データベースとして私の頭の中に収まっている。
それが場面や局面に応じて、自然と湧き出てくる。
どれだけ時代が進み、技術が進歩しても、文学作品で描かれてきた人間の特質は、依然として我々のテーマであり続けています。

1人の人間が経験できる人生は1つだけです。
しかし100冊の心に残るような本を読めば、100通りの人生にも勝る経験を積むことができる。
ビジネスの現場で、経験は強力な武器となります」
          

多忙を極めた社長時代でも年間60冊を読破した前中国大使で伊藤忠会長も務めた丹羽宇一郎氏も、
本を読むことは時空間を超えて、自分では体験できない経験をすることだと言う。

「自身が経験した漠とした不思議さが、先人たちの経験と結びつき、普遍化される。
私の場合、2500年前の『論語』と出会い、経営の根幹にすべき倫理を学んだ。
人間には本来、私利私欲や自己保身に走る『動物の血』が流れている。

今回の金融危機はその歯止めが利かずに生じた資本主義の暴走以外の何ものでもない。
その過程では自分たちの能力を過信した数々の強欲や傲慢が跋扈したことだろう。

一方、『論語』が説く『仁・義・礼・智・信』の五常や
『温・良・恭・倹・譲・寛・信・敏・恵』の九つの徳目を心がければ、
自らの驕りを抑え、謙虚であり続けることができる。
この自律自省の精神を実践していくと長期的には必ず成果に結びつく」(2009/4.13)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

今回、大企業で栄達されたファミリーマート会長の上田準二氏、そして前中国大使で伊藤忠会長も務めた丹羽宇一郎氏には、
恥ずかしながら敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした私は、
言葉を失いがちであるが、私も何かと読書好きな私で、文愛人(ふみあいびと)のひとりである。


私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅で、雑木の多い小庭に古惚けた戸建に住み、
近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していた。

こうした中、私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
          
そして私が地元の小学校に入学したのは、1951年〈昭和26年〉の春である。
私は小学校の学業は、兄ふたりは優等生であったが、
なぜかしら私は通信簿『3』と『2』ばかりの劣等生であった。

そして、この頃に生家にある本と云えば、
農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶にない。

やがて小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、
私は少年心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。

その後、私が都心にある高校に入学してから、
遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。
                     

この間、小学4年生の頃から独りで、たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
高校3年を卒業するころから、映画専門誌の『キネマ旬報』に添付してあるシナリオなどを精読し、
古本屋まで行って買い求めたりし、 脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんを神様のように信愛した。

やがて東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の直前に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。
                    
そしてアルバイトをしながら、映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。

この間、専門養成所に入り、やがて講師の知人の新劇の長老から、
映画は衰退するばかりで、同じ創作分野だったら小説を書けば、と強く勧められたりした。
          

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。
                 
       
そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりし、
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられ心酔させられたのは、井上靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。

そして確固たる根拠もなかったが、独創性はあると思いながら小説の習作したりし、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
こうしたことを三回ばかり繰り返し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした中、生家でお彼岸の懇親している時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。

そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが卒業した。
                                

やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
      
                                         
その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、あるレコード会社の情報畑、管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、浅田次郎の
各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004年(平成16年)秋に35年近く勤務し定年退職したが、
この最後の5年半は、リストラ烈風の中、はかなくも出向となったりした。

出向先は、各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社で、
不馴れな職場で、自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励したりした。

こうした中で、先輩、同僚、後輩の一部は、やむなく退職を余儀なくされ、
私は何とか2004年(平成16年)秋に定年退職を迎えることができたので、敗残者のようなサラリーマン航路を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、
一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などで、38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、
私は遥かに遠い存在である。

私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、定年退職後に年金生活を始めた・・。
          

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後37年ばかりの一軒屋に住んでいる。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、程ほど貯金を取り崩しながら、ささやかに過ごしている。

そして私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や65年が過ぎている。
       
こうした中、 日常の殆どは私が年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物メール老ボーイとなっている。

そして最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。
          
この後は、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
自宅付近から3キロ範囲にある遊歩道、小公園などをひたすら歩くことが多くなっている。

私は歩きながら、うつろう情景に心を寄せ、
過ぎ去った日々に愛惜を深めたり、本日もこうした風景にめぐり逢えたことに感謝をしたり、
季節の移ろいを享受している。
                                

そして午後から夜にかけての大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読したりしている。

こうした中で、ときには居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。        

そして年金生活は何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、 日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

このような年金生活を丸11年間を過ごし、時折、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったりし、
或いは私たち夫婦は、国内旅行を幾たびか5泊6日前後の旅路を重ねてきた。

改めて年金生活を振り返れば、読書が最優先として、
そしてパソコンでブログの投稿文を綴ったり、私が愛読している御方の投稿文を読ませて頂いたり、
映画を室内鑑賞をし、殆ど毎日9時間ぐらい読んだり、視(み)たりしてしている・・。

こうした生活をしてきた私は、今回の記事を読みながら、この御人の前では、定年退職するまでの半生は劣等生の私でも、
読書の底知れぬ魅力は、同じですよねぇ、と同意しを深めたりしている。


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白内障の手術、過ぎし17日に左眼、そして昨日は右眼を受けて、やがて時が過ぎれば・・。

2015-11-25 13:10:10 | 白内障
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活12年生の71歳の身であるが、
白内障に伴い最寄駅に近い眼科医院で、過ぎし17日に左眼の手術を受けて、
手術して下さる医院長から指示で、予定通り昨日の24日は右眼の手術を受けたりした・・。

私は17日に白内障の左眼の手術を受けたが、
白内障の水晶体の濁った皮質を細かく粉砕すると同時に眼外へ吸引した後、
広く手元から遠くまで見える多焦点眼内レンズを挿入して頂ただいた・・。
http://www.cataract-iol.jp/lens/index.html
☆公式サイト【白内障情報室】==>『眼内レンズによる見え方の違い』、『単焦点』と『多焦点』の相違☆

そして手術中は苦痛を感じることなく、ただ初めての体験で、緊張感を秘めながらも15分ぐらいで終わった。

まもなく手術後、ガーゼ生地を主体とした大きな眼帯をして下さった。

私は当初予約していた保護眼鏡は、大きな眼帯でメガネを掛けることができなくなり、
当面は、右眼の裸眼0.03を頼りに、おぼろげな視界を過ごすこととなった・・。
          

そして左眼は、翌日の18日には幾つかの検診を受け、早くも眼帯がとれ、
何かしら鮮明で視界が開け、前方が明確に視(み)えたりした。

しかしながら、右眼の裸眼0・03の酷い近眼の視力であり、左眼は手術後には0・5以上が視(み)えたが、
余りにも右眼と左眼とに差異があり、私の小さな脳でも、視(み)ようとする神経制御が働き、右眼の裸眼0・03も補助動作が働き、
前景は鮮明に視(み)えるが情景となっている、と思われる。

そして余り長時間を視(み)ようとする神経制御は、混乱を起こすかも知れないと、私は感じたりして、
手術の翌日以降は、当面として視(み)ようとする神経制御が働きを自制して、新聞、本、パソコンは一日3時間以内として
歯を磨いたり、布団の中では、予約購入した保護眼鏡を付けたりしてきた。
          

この間、手術日の2日前より細菌の感染を抑える薬の『点眼薬(ベガモックス)』を、
朝、昼、夜と日に3回を左眼に、目薬のようにしてきた。

やがて手術後は、毎食後に抗生物質のフロモックス錠剤を飲み、
そして抗菌薬『クラビット点眼薬』、消炎薬『サンベタゾン点眼薬』は、朝、昼、夕、夜と日に4回、
鎮痛消炎薬『ブロナック点眼薬』は朝、夜と日に2回を付けたりしてきた。

通院に関しては、手術後の翌日、そして手術後の3日目に検診を受けて、
医院長より、特に異常なし、と診断されたりしてきた。

洗髪は手術後の翌日に医院長から、
本日より美容室、理容室で、頭を上仰向けで行うことはできますが、自分でしないこと、
と言われたりしたが、安全性から手術後の3日目に、家内の指示に基づいて、私は生れて初めて美容院で洗髪した。

そして一昨日の23日は、右眼の手術日の前日であったので、美容院に行き洗髪して、手術日に備えてきた。
          

昨日の24日は右眼の手術を受けたりしたが、過ぎし17日に左眼に手術を受けた体験があったので、
緊張感もなくリラックスした心情で、手術を終えた・・。

しかしながら手術後、ガーゼ生地を主体とした大きな眼帯となり、
一週間前に手術した左眼を頼りに視界を見れば、今回手術した右眼は眼帯の下でも眼球が動くので、
本日は食事、トイレ以外は安静して下さい、と医院長から私は言われたりした。

やがて私は家内と共に帰宅した後、昼食をした後、新聞、本、パソコン上のブログも自制して、
布団にもぐりながら、ラジカセCDで音楽棚から8枚ばかりCDを抜き取り、深夜まで聴いたりした・・。

この間、ときおり寝付いたり、夕食を頂いたりしたが、ぐうだらな安静日となったりした。

そして本日、家内と共に眼科医院に行き、手術日の翌日の診察を受けた・・。
手術した右眼の大きな眼帯を看護師さんから取って頂いた後、視界が鮮明に視(み)えた。

まもなく幾つか検査を受けた後、一週間前に手術した左眼は1・0と診断されて、
確か手術後3日目は0・6前後であったので、視力向上に驚いたりした。

そして前日手術した右眼は、眼帯から解放されて5分過ぎた為か、0・5前後であり、
私は両眼が想定以上で、悦んだりした・・。
          

以前の手術前の私は、裸眼0・03は酷い近眼で、メガネを掛けても0・7弱くらいであったが、
更に白内障で状景が、一時的にかすんだ時もあったりしたが、
今回の白内障の手術に伴い、左眼、右眼を広く手元から遠くまで見える多焦点眼内レンズを挿入した手術を終えた今、
今後の注意事項を守れば、次第に視力の向上もある、と医院長から私は言われたりした。

やがて時が過ぎれば、眼を制御する幾重かの神経が安定すれば、
左眼は1・0、右眼は1・0となるか、
左眼は0・7、右眼は0・7となるか解らないが、
私が念願していた0・7前後となり、メガネが不必要となることが考えられる。

私は高校生より何かと酷い近眼で、劣等感のひとつであった。
そして近眼のメガネが不要となり、たとえ今回の多焦点眼内レンズの効力であっても、
これ以上の吉報はないかしら、と悦んだりしている。

尚、白内障の手術後の大切な治療保護に伴い、やむなくコメント欄は11月30日まで閉鎖していますので、
ご了承をお願い致します。

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勤労感謝の日、働いて下さる諸兄諸姉に感謝をし、年金感謝の日、と幾たびか思い深めて・・。

2015-11-23 14:06:08 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、『勤労感謝の日』と朱記されて、
勤労感謝の日で祭日なのか、と昨今は恥ずかしながらも曜日の感覚が衰えている我が身に、苦笑したりした。

そして小庭にあるテラスに下り立ち、どんよりとした曇り空の中、
落葉樹は紅色、朱紅色、淡い黄色、黄色に彩られる錦繍(きんしゅう)の情景となり、
ぼんやりと私は眺めながら、勤労感謝の日か・・と心の中で呟(つぶや)いたりした。

やがて私は、現役サラリーマンだった時の『勤労感謝の日』の時は・・と思い馳せたりした。
                    

私は民間会社の中小業のある会社に勤め、30代の頃は情報畑のコンピュータの専任者であった。
会社の販売締切日は20日であり、この後の4日前後は特に多忙な日々であった・・。

この当時は本社でオンラインの前の時代で、本社で一括処理をしていたので、
私は月次処理、月次更新作業などで、こうした中で『勤労感謝の日』の祭日の日も休日出勤務をしていた。

そして経理の決算の担当メンバーも出勤されていたので、
私は同僚の人たちに、
『こうして頑張っては働けるのも・・幸せかも知れないょ・・』
と私は言いながら、疲れ切っていたが、溌剌と社内で奮戦したりした。

40代になると、システムの開発と運営の併行業務となり、
たえず身体も張り、ときには週一回休めれば良い方で、一時時期は土日、祭日の休日もなくなった時期が多かった。
そして、ときおり徹夜となり、早朝を迎えると、
『今・・働らなくて・・いつ働くのよ・・』
と心の中で呟(つぶや)きながら、自身を叱咤激励して奮闘していた。

そして50代は情報畑から他部門に異動した後、カレンダー通り休日は休めることが多くなったりした。

やがて50代の後半は、リストラ烈風の中で出向となり、遠い勤務地となり、
身も心も業務に奮戦して、『この齢で体力勝負は・・勘弁してほしい・・』と心の中で呟(つぶや)きながらも、
自分の敵は自分だ、と叱咤激励をしたりした。

やがて定年退職を2004〈平成16〉年の秋に向え、サラリーマン生活を卒業した。
          
そして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。
          

年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。

こうしたささやかな生活をしているが、もとより社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用を、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実となっている。

こうしたことを思い浮かべれば、私は現役世代の働いて下さる諸兄諸姉に感謝をしながら、
11月23日の『勤労感謝の日』は、年金生活を享受している私にとっては、
年金生活を始めて『勤労感謝の日』を初めて迎えた時、『年金感謝の日』と実感を深めながら命名したりした。
          

そして年金生活は丸11年が過ぎ、早くも12年生になっている私は、
少子高齢化の中、働いて下さるサラリーマンの諸兄諸姉は、たえず短期に成果を問われる過酷な時代となっている。

こうした中、『勤労感謝の日』と連休の方は多いと思われるので、
せめて愛(いと)しき妻と可愛い子供と共に、ご家族でのんびりと過ごされれば・・と無力の私は願ったりしている。

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へそくり、夫・58万円、妻・126万円と学び、老ボーイの私は戸惑いながら微苦笑して・・。

2015-11-22 12:02:14 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
今朝、配達された読売新聞の朝刊を読んだりしていた中、やがて9ページの【経済】面に小さな記事で、
【 夫↑58万円、妻↓126万円
          へそくり格差縮まる 】と見出しされ、
私はどのようなことなのょ、と思いながら読んだりした。

やがて読み終わった後、寝食を共にする夫婦間でも、へそくりをするんだ、、
と私は心の中で呟(つぶや)き、戸惑いながら微苦笑した・・。
   
無断であるが、老ボーイの私が戸惑った、この記事を転記させて頂く。

《・・妻のへそくりは大幅減でも、夫の2倍以上――。
明治安田生命保険が「いい夫婦の日」(11月22日)を前に行ったアンケートによると、
妻の平均額は前年より約39万円少ない126万8446円、夫は約2万円多い58万9058円だった。

夫婦間格差は前年の約2・9倍から約2・2倍に縮まった。
同社は「デフレが解消に向かう中で、日用品の価格上昇がじわりと効いてきたのではないか」と分析している。

夫婦の小遣いの月平均額は前年より810円少ない2万6486円となり、5年続けて減った。
夫は3万1687円、妻は2万1314円だった。

アンケートは10月にインターネットを通じて行い、全国の20~79歳の既婚男女1600人から回答を得た。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
古惚けた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

世の中の一部の方に、愛(いと)しき夫とか妻たちの間で、
内緒で預金などお金を貯める『へそくり』をしていることを10年前頃に知り、
どうしてなの、と私は不思議に感じたりしている。

確か4年前頃、家内がテレビを視聴していて、たまたま『へそくり』のことがテレビのニュースで報じられていた。

その後、私は煎茶を飲み、コーヒーを飲んでいる家内に話しかけたりした。
『XXちゃんさぁ・・テレビのニュースのひとつに・・へそくりをしている方がいて、
60歳以上の妻だと平均240万円みたい・・驚いたょ』
と私は家内に言ったりした。

『・・』
家内は少し苦笑していた。

『だけど・・どうして《へそくり》をするなんで・・夫婦なのに』
と私は家内に言ったりした。

『あらぁ・・私のお友達だって・・「自分のために」だって、へそくりしている方はいますわ』
と家内は私に言った。

『そぉ・・』
と私は家内に言ったりしたが、この地球の広い空の下で、たまたまめぐり逢い、
そして寝食を共にされる夫婦なのに、「自分のために」か、
おかしいよ、と私は心の中で呟(つぶや)いたりした・・。
          

私は家内と婚約した1975年(昭和50〉年12月の少し前の交際期間で、
デートとした最中に、
『お互いに・・隠しだて・・やめましょうねぇ』
と私は何かの話しの続きに、言ったりした。

こうした思いがあったので、婚約する直前から、年収より少ない私の貯金の実態を話したりした。

翌年の3月に私たちは結婚して、賃貸マンションで生活を始めた・・。
私は中小業の民間会社に勤めていたサラリーマンの身であり、
家内は専業主婦となり、茶事だけ中学生以来から週1回は習っていたので、継続していた。

この当時は、私の給料は銀行振り込み制度であり、家内が銀行関係も管理してもらったので、
私は出勤の直前に、家内は私の財布に補充していた。

こうして2年過ぎ、私は生家の近くに一軒家を新築したが、
どうせ住宅ローンで借金するなら、この際は家屋の一部に茶室を設けよう、と変更したりした。
この私の若気の至りで、予想した以上の費用が掛かり、庭の作庭する予算も少なくなり、
結果として雑木の多い庭の樹木となったりした。

何よりも困苦したのは、住宅ローンなどを返済し始めたが、赤字続きとなり、
家内は突然に、契約社員でデパートなどに3年ばかり働き、我が家の強力な援軍となったりした。

こうした時、我が家は結婚以来から家計簿を月次決算のようにしてきたので、
今月も赤字・・ボーナスで穴埋めで、何とか黒字かょ、
或いは一年通しても赤字の年もあったりしたので、私はぼやく時もあったりした。
          

そして赤字が2年続いた中の苦節3年後、私の年収で何とか生活ができるようになり、
家内は昭和妻と称される専業主婦に復帰した。

もとより、一家の主(あるじ)の私は収入の責務があり、
家内は後方支援の重責がこの当時の風潮でもあったので、
私は家内のことを、これ以来《専守防衛長官》、と秘かに思い続けている。

この間の私の財布は、福沢諭吉のお札が2枚であり、
何か会社の懇親会がある時は、事前に家内は増やして入れてくれた。

そして私が40代を過ぎた頃は、私の財布は福沢諭吉のお札が3枚に昇格となった上、
10万円まで下せる銀行カードも財布に入れたりした。
家内は私が外出先で緊急に必要となった場合、大の大人としてみっともないわ、
と言われて、私は所有を始めたのである。

こうした時でも、私は血気盛んな男性のひとりであったので、
今晩、会社の懇親会がある、と出勤前に家内に言い、福沢諭吉のお札が5枚になったのを確認し、
ときには二次会の代わりに、悪友と私はこっそりと風俗店に行ったりしたこともあった。

もとより帰宅後、私は家内には、二次会それなりに楽しかったよ、と言ったりしていた。
これだけは我が生涯、家内に隠し事をした秘密であった。
          

私は民間会社の中小業のある会社を35年ばかり勤め、
2004年(平成16年)の秋に定年退職時を迎えた後、多々の理由で年金生活を始めた。

こうした中で、程ほどのお金を幾つかの銀行と郵便局に分散した貯金に基づいで、
2ヵ月毎に厚生年金を頂き、わずかな厚生基金で生活費の基盤としている。
そして、私たち夫婦の共通趣味の国内旅行、或いは冠婚葬祭、そして思いがけない出費の時は、
貯金から取り崩して過ごしているのが実態である。

私は年金生活の当初から、平素の買物メール老ボーイを自主宣言して、
家内から依頼された買物の時は、福沢諭吉のお札が3枚、そして5千円札と千円札を幾枚か財布に入れていることが多い。

そして家内も福沢諭吉のお札が5枚ぐらい保有し、
現金が手薄になった時は、やむなく銀行から取り崩している。
そして我が家の緊急時の予備金として、福沢諭吉のお札を常時10枚を保有している。

やがて家内は60歳を迎え、家内も年金を頂き、
我が家は夫婦ともに、名実ともに年金夫婦となった。

家内は短大を卒業した後、私と婚約するまでの4年の期間、
そして我が家の一軒家を建てた後、3年ばかり勤めたりしたので、
ささやかながら厚生年金、厚生基金を頂く身分となった。

この分を家内名義の総合口座として、原則として下さない方針で来ているので、
少しつづ増えてきている、と私たち夫婦はお互いに微笑んだりしている・・。
こうした額が、あえて言えば家内のささやかな《へそくり》貯金になれば良い、と私は思ったりしている。


このような状況なので、我家は寝食を共にした結婚して以来、
お互いに隠し立ての貯金の方針がなく、毎月、家計簿を2人で締めたりしているので、
もとより《へそくり》は無縁となり、明朗会計となっている。

このような状況なので、我家では『へそくり』も『タンス預金』も無縁である、
と綴ってきたが、思いあたるところが一箇所あった・・。


確か20年前の頃、家内が郵便局で頂いた郵便ポストの形をした赤いプラステックの貯金箱がある。
               
                ☆平素は居間の片隅みあるが、今回はテーブルに特別移動させ、記念撮影とした。

私は年金生活の中、日常の買物を殆ど毎日のようにスーパー、専門店などで買物をした後、
私の財布から、1円玉、5円玉、そして10円玉が多かった場合、この貯金箱に入れたりしている。

そして、毎年12月の初旬に、この郵便ポストをひっくり返して、
私は銀行に持ち込んだりしている。

こうした時、5000円を少し超える年が多く、私は思いがけない現金を頂いたような気持ちになり、
嬉しげにプリンターの用紙、インクの購入費にしたりしている。

今回、全国の20~79歳の既婚男女1600人からの『へそくり』の平均額として、
夫・58万円、妻・126万円と学び、私は驚き戸惑いながら、
我が家と余りにも差異があるなぁ、と微苦笑している。

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視(み)ること、読むことが激減し、聴くことが増えて、とりとめなく老ボーイの私は微苦笑して・・。

2015-11-21 16:07:54 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活12年生の71歳の身であるが、
過ぎし17日に最寄駅に近い眼科医院で、白内障の左眼の手術を受け、
右眼の手術は来週の火曜日の24日に手術を受けることとなっている。

左眼の手術は翌日には幾つかの検診を受け、早くも眼帯がとれ、
何かしら鮮明で視界が開け、前方が明確に視(み)えたりした。

しかしながら、右眼の裸眼0・03の酷い近眼の視力であり、左眼は手術後には0・5以上が視(み)え、
余りにも差異があり、私の小さな脳でも、視(み)ようとする神経制御が働き、右眼の裸眼0・03も補助動作が働き、
前景として何とか鮮明に視(み)えるが情景となっている、と思われる。

そして余り長時間を視(み)ようとする神経制御は、混乱を起こすかも知れないと、私は感じたりして、
当面として視(み)ようとする神経制御が働きを自制して新聞、本、パソコンは一日3時間以内として
歯を磨いたり、布団の中では、予約購入した保護眼鏡を付けたりしてきた。

このような生活を17日よりしてきたが、年金生活を丸11年間過ごして12年生目になっている私としては、
余りにも日常生活の内容が激しく変貌しているので、戸惑いを重ねたりしてきた・・。
          

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦して2004年(平成16年)秋に定年退職し、
多々の理由で、年金生活を始めた・・。

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後37年ばかりの一軒屋に住んでいる。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、程ほど貯金を取り崩しながら、ささやかに過ごしている。

そして私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や65年が過ぎている。
       
こうした中、 日常の殆どは私が年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物メール老ボーイとなっている。

そして最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。
          
この後は、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
自宅付近から3キロ範囲にある遊歩道、小公園などをひたすら歩くことが多くなっている。

私は歩きながら、うつろう情景に心を寄せ、
過ぎ去った日々に愛惜を深めたり、本日もこうした風景にめぐり逢えたことに感謝をしたり、
季節の移ろいを享受している。
          

そして午後から夜にかけての大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。        

或いは何かと身過ぎ世過ぎの年金生活の日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

このような年金生活を丸11年間を過ごし、時折、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったりし、
或いは私たち夫婦は、国内旅行を幾たびか5泊6日前後の旅路を重ねてきた。

こうした年金生活を過ごせば、読書が最優先として、
パソコンでブログの投稿文を綴ったり、私が愛読している御方の投稿文を読ませて頂いたり、
映画を室内鑑賞をし、殆ど毎日9時間ぐらい読んだり、視(み)たりしてきた・・。
          

17日に白内障の左眼の手術を受け、白内障の水晶体の濁った皮質を細かく粉砕すると同時に眼外へ吸引した後、
広く手元から遠くまで見える多焦点眼内レンズを挿入し、、
まもなく手術後、ガーゼ生地を主体とした大きな眼帯をして下さった。

私は当初予約していた保護眼鏡は、大きな眼帯でメガネを掛けることができなくり、
当面は、右眼の裸眼0.03を頼りに、おぼろげな視界を過ごすこととなった・・。

やがて我が家に帰還した後、私は平素2階の寝室で寝ているが、家内のアドバイスにより、
階段を踏み外したら危ないわ、と言われたりして、
家内が先導して、1階の和室に布団を敷き、前日より臨時の私専用の寝室とした。

そして枕元には、左眼は眼帯した身であるので、しばらくは読書は断念して、
CDラジカセを置くこととした。

そして音楽棚から、CDを30枚ぐらい置き、やがて音楽を聴いたり、
或いはラジオを聴いたりして、通院日以外は、このような生活を過ごす予定としていたが、
手術後の当日は疲れを感じた為か、このラジオを聴いたりしている中、眠ったりすることが多くなった。

こうした中で、ラジオはNHK第一放送を聴いたりしていた中、『ラジオ深夜便』の番組を初めて聴いたが、
良質な番組と感じて、深夜一時過ぎより朝の5時まで聴いたりし、
白内障の手術がなかったならば、こうした良きラジオ番組には、めぐり逢えなかっただろう、と微笑んだりした。


手術後の翌日、検診を受けた中で、早くも眼帯が不要となり、視界が明確に視(み)え、
待望の保護眼鏡をかけることが出来た、・・。

こうした保護眼鏡であったなら、就眠時は眼をこすったり、触れたりすることは防止でき、
洗面所で歯を磨いたり、首から下を洗い清める入浴時などで、左眼は水分から防ぐことができたり、
外出も保護に万全かしら、と微笑んだりした。
          

そして毎食後には抗生物質のフロモックス錠剤を飲んだり、
或いは指定された抗菌薬『クラビット点眼薬』、消炎薬『サンベタゾン点眼薬』、鎮痛消炎薬『ブロナック点眼薬』を付けて、
感染症などは天敵の身となっている。

更に私の場合は、右眼の裸眼0・03の酷い近眼の視力であり、左眼は手術後には0・5以上が視(み)え、
余りにも差異があり、私の小さな脳でも、視(み)ようとする神経制御が働き、右眼の裸眼0・03も補助動作が働き、
前景として何とか鮮明に視(み)えるが情景となっている、と思われる。

しかしながら余り長時間を視(み)ようとする神経制御は、混乱を起こすかも知れないと、私は感じたりして、
当面として視(み)ようとする神経制御が働きを自制して、新聞、本、パソコンは一日3時間以内とした。

そして夜のには早めに布団にもぐり、保護眼鏡を掛けて、文庫本などを開いたりしたが。
保護眼鏡を気温の差異の為か、くもり、やがて読書も断念した・・。

テレビ、映画も自制して視(み)ることは激少し、
最も好きな本を読むことが激減し、せめてと思いながらラジオ番組を聴いたり、
選定したCDを聴くことに、老ボーイの私は微苦笑したりしてきた・・。

たまたまチャイコフスキー交響曲第6番『悲愴』を聴いたりしていた時、
若き二十歳の時、長兄の友人からプレゼントされたエフゲニ・ムランヴィンスキー指揮で
レニングラード・フィルハーモニーが演奏されたLPレコードを想いだしたりした・・。
          

そしてチャイコフスキーはロシアからの視線で、ヨーロッパの伝統に羨望し、たじろいながら、
祖国ロシアの心情を的確に表現された、とこの当時の私は、感じ涙を浮かべたりしていた。


或いはベートーヴェン:交響曲第9番『合唱』<合唱>を聴いたりしていた時、
たまたま小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが指揮で、サイトウ・キネン・オーケストラ であった。

そして聴いている中で,小澤征爾さんが若き日にヨーロッパでクラシックが確立した世界に、
苦悶している時、たまたまパリに訪れた作家・井上靖(いのうえ・やすし)さんから、
日本語は欧米人には理解してくれることは困難であるが、楽曲は国境を超越して伝わるから・・、
とこのような意味合いの言葉で大いに励まされた、
と小澤征爾さんが後年にインタビューで、語っていたことを私は思い浮かべたりした・・。

このようことなどを読書から遠ざかった昨今、とりとめなく思い、過ごしている。

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白内障の手術に伴い、老ボーイの私は、生まれて初めて美容院で洗髪を体験して・・。

2015-11-20 15:50:30 | 白内障
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活12年生の71歳の身であるが、
過ぎし17日に最寄駅に近い眼科医院で、白内障の左眼の手術を受けた。

そしての翌日は指定通り通院して、幾つかの検診を受け、
早くも左眼は眼帯がとれ、何かしら鮮明で視界が開け、前方が明確に視(み)えたりした。

しかしながら右眼の裸眼0・03のおぼろげな視力であり、余りにも差異があるが、
私の小さな脳でも、視(み)ようとする神経制御が働き、右眼の裸眼0・03も補助動作が働き、
前景として何とか鮮明に視(み)えるが情景となっている、と思われる。

そして余り長時間を視(み)ようとする神経制御は、混乱を起こすかも知れないと、私は感じたりして、
当面として視(み)ようとする神経制御が働きを自制して、新聞、本、パソコンは一日3時間以内として
歯を磨いたり、布団の中では、予約購入した保護眼鏡を付けたりしてきた。


今朝、 朝食後、抗生物質のフロモックス錠剤を飲んだりした後、
指定された抗菌薬『クラビット点眼薬』、消炎薬『サンベタゾン点眼薬』、鎮痛消炎薬『ブロナック点眼薬』を付けて、
やがて手術後の3日目の本日、私は保護眼鏡を掛けて、家内と共に眼科医院に通院した。

やがて幾つかの検診を若き看護師より受けた後、
手術して下さった医院長から、私たち夫婦は検診結果を聞いたりした。

そして経過状況は問題なく順調・・と診断され、
そして右眼の手術は予定通り24日朝8時45分より行いますので、
手術日の2日前のより日曜日から、細菌の感染を抑える薬の『点眼薬(ベガモックス)』を、
朝、昼、夜と一日三回を右眼にして下さい、と私たちは言われたりした。

そして左眼は、抗菌薬『クラビット点眼薬』、消炎薬『サンベタゾン点眼薬』、鎮痛消炎薬『ブロナック点眼薬』を、
しばらく付けて下さい、と付記さけたりした。

私たち夫婦は、医院長が何よりも危惧された感染症も本日までなく、安堵しながら医院を辞した。
          

そして家内は、近くにある美容院が2店あり、大きめで明るい美容院で立ち止まり、
『ここが良さそうだわ・・』
と家内が私に言ったりした。

洗髪に関して、手術後の翌日に医院長から、
本日より美容室、理容室で、頭を上仰向けで行うことはできますが、自分でしないこと、
と言われたりしたが、安全性から、本日通院した後に、美容院で洗髪しましょう、と家内は私は言ったりしてきた。

私は平素は夕方5時半過ぎに入浴する時は、必ず洗髪してきたので、
左眼を17日に手術して以来、一番気にかけていたひとつであった。

しかしながらは、散髪屋(理容店)は小学校入学してから、月に一度ぐらいペースで、
65年ばかり愛用してきたが、もとより日本男児の私は美容院は未知の世界であった。

家内のアドバイスで、生まれて初めて美容院に入店した。
そして家内は、美男子の美容師さんに、私の洗髪を依頼していた。

まもなく私は、おしゃれな室内を通されて、散髪屋(理容店)の座席とも違い、
戸惑いながら美容院専用の座席に腰を下ろして、上半身、下半身を延ばし、
左眼は白内障の手術後の為、水分は掛からないように・・、と依頼したりした。

まもなく美男子の美容師さんは、私の左眼に眼帯を付けて下さり、
二度洗いをお願いしたりした・・。

シャンプー、そして程ほど湯温度で洗い流し、やがてマッサージ、最後に熱風で濡れ髪を乾かすなど、
今まで散髪屋(理容店)で洗髪の行程を長年体験したきたが、
女性用の今回の洗髪の行程は、しなやかでまろやかさを感じたりした。

まもなく私は、思っていたより遥かに快適でしたょ、と美男子の美容師さんに礼を言ったりした。
          

やがて私たち夫婦は、美容院を辞した後、買物でスーパーに向かう途中、
『今の美容院・・いくら支払ったの?』
と美容院の費用に何かと無知な私は、家内に尋ねたりした。

『2500円少しだったわ』
と家内は微笑みながら私に言ったりした。

『そう・・でも今後、少なくとも4回ぐらい洗髪をすることもあるし・・』
と私はためらいながら家内に言ったりした。

『私が月に一度ぐらい行っている美容院・・13000円少しだわ。
こうしたことを思えば、今回の洗髪・・妥当と思えるわ・・
それより自宅で貴方が自分で洗髪して・・眼を汚して・・感染症などで悪化する方が大変ょ』
と家内は私に言ったりした。

このようなことを話し合いながら、私たち夫婦はスーパーに入ったりした。

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白内障の左眼の手術の翌日、早くも眼帯が不要となり、視界が明確に・・。

2015-11-19 13:12:29 | 白内障
白内障の左眼の手術した翌日の18日、予定通り術後の診察を受診する日であった。
朝食後、抗生物質のフロモックス錠剤を飲んだりした。

こうした中、左眼の手術を終えた後の包帯のような大きな眼帯、メガネを掛けることができないので、
右眼の裸眼0・03を頼りに、おぼろげな視界で室内を歩き廻ったりした・・。

やがて昨日乗車したタクシーの領収書に明記されていた電話番号を家内が連絡すると、
不通で、やむなく路線バスで駅前に向かった・・。

私は定年後の年金生活の中で、散策道として馴染んだ情景であった為か、
おぼろげな視界であったりしたが、私の古惚けた脳でも、記憶装置が働いてくれて、
思っていたよりも確かな足取りであった。
          

やがて眼科医院に到着後、待合室で10分過ぎた頃、
2階の診察室で若き看護師さんが、私の左眼の包帯のような大きな眼帯を剥がし、
少し術後の眼を見た後、細菌の感染を抑える薬の『点眼薬(ベガモックス)』を付けてくれた。

この後、『眼を開けて下さい』と若き看護師さんから私は言われて、
恐る恐る術後の眼を開けた・・。

何かしら鮮明で視界が開け、前方が明確に視(み)えた・・。

まもなく視力検査となり、製本された本の中には、
それぞれ一節の文章の大きさが異なり、その文の下には、0・8、0・7、0・5などと記載されていた。
そして私は0・5前後の文章を読み上げたりした。

この後、網膜の状態を調べる眼底検査、水晶体の濁りの状態を調べる検査、
角膜の内皮細胞が減っていないかを調べる検査などをした後、
まもなく昨日手術をして下さる医院長に検診となった。

そして家内も同席して、先ほどの術後の検査状態を大きなディスプレィー画面に表示され、
医院長より丁重な説明を私たち夫婦は聞いたりした。
          

☆本日より、眼帯は不要。ただし就眠時は眼をこすったり場合が怖いで、保護眼鏡をされた方が万全。

☆指定した3種類の『点眼薬』を必ず実施すること。
      ☆抗菌薬『クラビット点眼薬』・・・・一日4回「赤色キャップ」   
      ☆消炎薬『サンベタゾン点眼薬』・・・一日4回「黄緑色キャップ」 
      ☆鎮痛消炎薬『ブロナック点眼薬』・・一日2回「水色キャップ」

☆洗顔
  濡らしたタオルをしぼって丁重に清拭する。ただし術眼のまわりは避ける。

☆入浴
  本日より首から下は、入浴してもよいが、眼の中に水を入れないように入浴する。

☆洗髪
  本日より美容室、理容室で、頭を上仰向けで行うことはできますが、自分でしないこと。

◎日常生活
  本日より新聞、パソコンも良いが、外出も近くであればよいが、埃っぽい処は避けること。

このようなことを私たち夫婦は、医院長より丁重な説明を受けた。

そして術後の3日目の20日に診察に来て下さい、と私たちは言われて、
やがて眼科医院を辞した。

しかしながら私の眼の実態は、左眼は眼帯がとれ、何かしら鮮明で視界が開け、前方が明確に視(み)えるが、
右眼の裸眼0・03(24日に白内障手術を確約)のおぼろげな視力であり、余りにも差異がある。

こうして眼科医院から駅まで向かう道の情景は、鮮明に視(み)えるが、
私の小さな脳でも、視(み)ようとする神経制御が働き、右眼の裸眼0・03も補助動作が働き、
前景として何とか鮮明に視(み)えるが情景となっている、と思われる。

そして余り長時間を視(み)ようとする神経制御は、混乱を起こすかも知れないと、私は感じたりした。

こうした対処としては、左眼は眼帯がとれ何かしら鮮明に視(み)えた時、
左眼は一時的に現在愛用してきたメガネのレンズを取り、右眼は0・7弱になるレンズのメガネをかけて、
と思ったりしたが、駅前にあるメガネ店さんは本日休業と知り、はかなくも私は断念した。
          

やがて私たち夫婦は帰宅後、まもなく昼食後を頂いたりした。
この後、私は、抗生物質のフロモックス錠剤を飲み、
指定された『点眼薬』を付けたりした。

そして私は、当面として視(み)ようとする神経制御が働きを自制して、新聞、本、パソコンは一日3時間以内として
歯を磨いたり、布団の中では、購入した保護眼鏡を付けたり、
洗髪は明日術後の3日目の診察後に、家内に美容院を見つけてもらい、
私は生れて初めて美容院で洗髪しょう、と私は家内と話し合ったりした。

やがて夜の6時過ぎにパソコンを開いたが、画面が鮮明に視(み)え、
画面倍率を150%にしていたが、125%か100%充分、と微笑んだりした。
そして久々に一日欠場したブログの投稿文を綴り、送信したは7時少し前であった。

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白内障の左眼の手術、何かと気弱な私でも、当日は・・。

2015-11-18 18:53:29 | 白内障
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活12年生の71歳の身であるが、
予定通り17日に白内障の左眼の手術を受けた。

そして私は過ぎし11日に於いて、手術をして下さる医院長の丁重な説明を私は受け、
手術日の2日前より細菌の感染を抑える薬の『点眼薬(ベガモックス)』を、
朝、昼、夜と一日三回を左眼に、目薬のようにしてきた。

そして17日の朝は緊張感の為か5時に起床して、
やがて家内と共に朝食をした後、家を出たのは7時40分過ぎで、
最寄バス停より駅前まで路線バスに乗車し7時50分過ぎに駅前に到着した。

そして手術日の当日の受付は8時15分と指定されていたが、
数分歩いた先に眼科医院があり、私たち夫婦は喫茶店で談笑した。

やがて受付をした後、家内を一階の待合室に残して、
私は2階の診察室で、いつもような視力検査、眼底検査などを受けた後、
手術をされる眼を『点眼薬』を15分ごとに若き看護師さんより、
4回を約一時間位かけて、散瞳を受けたりした。

その後、3階手術フロアーで、作務衣のような手術着に着替えた後、
手術台の上で、手術中で手を動かさないように固定されたり、
術眼の消毒、目と目の周りを消毒を丁重にされた・・。

やがて眼の部分以外は布で覆われて、点眼麻酔を受けたりした・・。
          

手術に関しては、手術して下さる医院長から、私たち夫婦は過ぎし11日に具体的に説明を受けたりしていた・・。

◎点眼麻酔薬を使うことにより、注射せずに痛みの少なく、リラックスした状態で手術を行える。

◎現在、 主流になっている水晶体超音波乳化吸引術に於いて、
小切開創(2.8~5.5ミリ)で白内障超音波乳化吸引装置のハンドピースの先端を挿入し、
水晶体の濁った皮質を細かく粉砕すると同時に眼外へ吸引する術式。

◎水晶体嚢を残し中身のみを除去した後、 人工水晶体(眼内レンズ)を水晶体嚢に挿入し、
切開創を縫合せずに短時間内に手術を終わらせることが可能。

◎水晶体の嚢内をきれいにした後、 同じところにレンズを入れるのが最も理想的であるため、
いろいろな材質の人工水晶体(眼内レンズ)が開発されてきたので、
小切開手術が可能となり、レンズもアクリル眼内レンズを使い、
専用のインジェクターにレンズを小さく丸めて眼内へ挿入することができる。

◎そして最新のレンズとして調節レンズ(眼内でレンズの位置が移動して、
眼鏡なしで遠近を見る)が開発されてきた。

◎角膜形状解析装置により、更に正確に術眼の形状を把握できる。
          

このように手振り身振りで、やさしく説明を受けてきたので、
手術を受ける中で、医院長から手術過程の言葉、『水をかけます・・』などを聴いたり、
ときおり医院長と助手の指示の話し声が聴こえたりした。

やがて手術の最後に、黴菌(ばいきん)と炎症を抑える注射をする際に、
『少しチクッとした痛み・・感じますょ』
と私は言われたりしたが、痛みを感じることはなかった。

そして手術した左眼を丁重に包帯のような大きな眼帯をされ、15分ぐらいで手術は完了した。

やがて2階の診察室で、手術した当日は、
帰宅後、当日はなるべく安静し、食事とトイレ時は普通に動いても構いませんが、
テレビ、パソコンなどは避けて、あっちこっち動くことは避けて下さい、と私は言われたりした。

そして抗生物質のフロモックス錠剤を必ず毎食後3日は飲んで下さい、と厳命されたりした。

このように想像したより手術は楽であったが、私の難題は、
私は現在メガネを掛けても0.7弱と衰え、裸眼は0.03となっている。

そして左眼の手術を終えた後は眼帯となり、メガネを掛けることができなくり、
当面は、裸眼は0.03おぼろげな視界を過ごすこととなる・・。
          

やがて受付で家内は手術代を含めた35万円弱を支払い、私たち夫婦は病院を辞した。

そして私はおぼろげな視界だったので、駅前より我が家に帰還した11時過ぎであった。

私は平素2階の寝室で寝ているが、家内のアドバイスにより、
階段を踏み外したら危ないわ、と言われたりして、
家内が先導して、1階の和室に布団を敷き、昨日より臨時の私専用の寝室とした。

そして枕元には、左眼は眼帯した身であるので、読書は断念して、
CDラジカセを置くこととした。

そして音楽棚から、CDを30枚ぐらい置き、やがて音楽を聴いたり、
或いはラジオを聴いたりして、通院日以外は、このような生活を過ごす予定としていたが、
手術後の本日は疲れを感じた為か、このラジオを聴いたりしている中、眠ったりすることが多くなった。

そしてラジオはNHK第一放送を聴いたりしていた中、『ラジオ深夜便』の番組を初めて聴いたが、
良質な番組と感じて、深夜一時過ぎより朝の5時まで聴いたりし、
白内障の手術がなかったならば、こうした良きラジオ番組には、めぐり逢えなかっただろう、と微笑んだりした。

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白内障の左眼の手術の前日、何かと愚図の私でも、慌ただしく・・。

2015-11-16 14:34:53 | 白内障
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活11年生の71歳の身であるが、
白内障の左眼の手術を明日の午前中に受ける。

こうしたことは、このブログに於いて、過ぎし11日に於いて、
【白内障の手術の一週間前、診察を受診し、何かと小心者の私は緊張して・・。】
と題して、投稿している。

そしてコメント上で、暖かな励ましと貴重なアドバイスを頂いた男性の2名の御方に
ひたすら感謝をしている。
http://nonn634.blog.jp/【無無無庵】
http://i-romancegray.at.webry.info/【ロマンスグレー】

昨日から、手術をして下さる男性の医院長の指示に基づいて、
手術日の2日前より細菌の感染を抑える薬の『点眼薬(ベガモックス)』を、
朝、昼、夜と一日三回を左眼に、目薬のようにしてきた。

そして明日は、手術日であり、8時15分に受付をした後、8時30分から、
◎来院されてから手術をされる眼を『点眼薬』で、約一時間位かけて、散瞳する。
◎その後、手術着に着替えて、手術台の上で術眼の消毒。
◎点眼麻酔をした後に、手術を開始。
◎手術時間は約15分以内に終了。

こうした中で、手術そのものは、多少の違和感はありますが、激痛はまずありません。
手術では、水を使用する為に、下着(シャツ)の予備を一枚持参して下さい。

手術した当日は、
◎帰宅後、当日はなるべく安静し、食事とトイレ時は普通に動いても構いません。
長くテレビを見るとか、あっちこっち動くことは避けて下さい。
          
このような注意事項も含めて、前回に優しくい医院長からアドバイスを受けたりしていたので、
手術前日の本日の朝ひととき、戸惑わないように3回ばかり読み返したりした。
          

この後、明日は手術後、帰宅した時に備えて、部屋を準備したりした。

私は現在メガネを掛けても0.7弱と衰え、裸眼は0.03となっているので、
左眼の手術を終えた後は眼帯となり、メガネを掛けることができなり、
当面は、おぼろげな視界を過ごすこととなる・・。

私は平素2階の寝室で寝ているが、家内のアドバイスにより、
階段を踏み外したら危ないわ、と言われたりして、
家内が先導して、1階の和室に布団を敷き、臨時の私専用の寝室とした。

そして枕元には、左眼は眼帯した身であるで、読書は断念して、
CDラジカセを置くこととした。

そして音楽棚から、CDを30枚ぐらい置き、やがて音楽を聴いたり、
或いはラジオを聴いたりして、通院日以外は、このような生活を過ごす予定としている。

左眼が順調に終えた後は、右眼は11月24日に手術が決定しているので、
従来のような日常生活は月末頃から実行したい、と念願したりしている。


そして本日の午前中、平素の我が家の買物メール老ボーイの私は、
しばらく買物もできないので、家内に賞味期限が長い品は本日に買い求めよう、
と家内に提案して、最寄のスーパー、そして駅前のスーパーを行ったりして、責務を果たしている。

この間、郵便局、銀行に行ったり、何かと愚図の私でも、慌ただしく過ごしている・・。
          

明日は手術、そして手術後は、当面おぼろげな視界を過ごしたりする中、
やむなくブログの投稿も、ままならないと思われ、
コメント欄はしばらくの間、閉鎖させて頂く。

果たして、どのようになるか、気弱な私は思案しているが、
プラス思考に転じて、明るい12月が待っているよねぇ、
と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

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老ボーイの私の昼食、定年後の年金生活の中、恥ずかしながら昼食の実態は・・。

2015-11-15 13:14:09 | ささやかな古稀からの思い
私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、この間に幾たびのリストラの中、
何とか障害レースを乗り越えて、定年を迎えることができたので、
敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

そして何かと悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、
定年退職後から年金生活を始めたのは、2004年(平成16年)秋、60歳であった・・。
          
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後37年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

定年後の年金生活を始めた私としては、当初にふたつだけ決意したことがあったりした・・。
          

定年前の私は、現役時代のサラリーマン時代は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。

こうした日常生活を長年過ごしてきたので、この趣味などのささやかな時間を崩すことは、
天敵と確信を深めて、平素の買物専任者を自主宣言したのであった。

そして買物を終えた後は、やはり独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを
ひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。

或いは昼食に関しては、お互いに自由にしょう、と私は家内に提案して、
早や年金生活丸11年が過ぎて、12年目となっているが、お互いに実行してきた。

もとより定年前は、お互いに昼食をしてきたが、
年金生活となれば、朝食、夕食の上、更に昼食を家内に用意させるのは、
過重な負担と私は感じたのであった。
          

我が家の食事に関して、恥ずかしながら記載すれば、下記のようなことが多い。

私の朝食の原則として、前菜を必ず頂いている。
キャベツを千切って電子レンジで少し温めて、もずく三杯酢をかけて盛大に頂くこともあるが、
或いはタマネギをスライスし、生ワカメとあえて、
そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、大きな皿に盛大に食べたりしている。

やがて十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、カブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、焼きノリ、
そしてシャケの瓶づめ、或いはサバ缶のミソ煮で頂くことが多い。

こうした根底には、私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』の真似事をし、
これが飽(あ)きたら日本人はやめるょ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。


家内は時折つきあうが、大半は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、ホット・コーヒーを飲みながら頂くことが多い。

そして夕食は、私の場合は、朝食と同様な前菜を盛大に食べた後、
牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉などのいずれかを野菜を加えて、多めに頂いたりし、
ときにはシイタケ、シメジ、マイタケなどの茸(きのこ)も好きで、食べたりしている。

家内は肉と野菜を食べたりした後、プリンかショートケーキを食べたりしている。

こうした朝食、夕食を頂いている中でも、
私は平素は亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、男の癖におしゃべりで、
家内と談笑をしたりしている。
          

昼食はお互いに、自由食、自由時間としてきた・・。
私の年金生活の当初は、冷凍食品のチャーハンを電子レンジで温めて、
独りで愛食してきた。

私は根が単細胞の為か、あるメーカーの冷凍食品のチャーハンが美味しいと感じたら、
熱烈に愛食するタイプなので、一年半ぐらい続いたが、やはり飽きてしまった。

この後、ある大手パンのメーカーの菓子パンに近いアップルパイが偶然に魅了され、
これを二つを頂き、確か2年ぐらい愛食した。

その後、ある大手パンのメーカーのアンパン、つぶあん、こしあんを頂き、
このふたつのアンパン、この世で一番おいしい、と2年ぐらい続いた。

こうして気ままな昼食としたが、少し肥満体となったので、
リンゴ、柿、或いはバナナを食べたりしていた時もあった。

やがて3年前の頃、駅前にあるパン専門店にあるフランスパンに魅了されて、
三分の一ぐらいを昼食として、やはり2年ぐらい愛食としてきた。

ここ昨今は、その日に応じて、アンパン、バームクーヘン、フランスパンを食べたりし、
このように私は、年金生活の身勝手な昼食をしてきた・・。


家内はケーキのような菓子パンの日、イチゴの日、バナナの日、プリンの日などを食べたりし、
ときにはスーパーのお弁当・・小さめのお弁当を買物メール老ボーイの私は、
依頼される時もある。

こうした中で、週に一度ぐらい蕎麦(そば)、うどん、或いは素麺(そうめん)を
家内と共に昼食として、頂く時もある。
          

このような平素の食事が多いが、デパート、駅前に家内のボディガード兼お供、荷物持ちで、
私たち夫婦が買物で出かけた時は、食事処、ファレスなどで、家内が食べたい料理に合わせて、
私たちは頂いてきた。

或いは私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであり、
食事の選定は、八割がた家内の好(こ)の味の食事処を探して、頂くことが多い。

こうした外食の時は、平素はつつましい食事内容の為か、
料理に興味のあることは、人生に意欲があることだ、と私は思いながら、
少し高価な食事処も、私たち夫婦は利用してきた。
          

そして家内は、私のサラリーマン時代と従来通り朝夕の料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめてと私は感じ、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしているが実態となっている。


追記【11月16日午前7時】
白内障の手術の前日の本日より、当面コメント欄は閉鎖させて頂きます。

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喪中のお便(たよ)りを頂く昨今、公平な視線を保った人に思いを馳せて・・。

2015-11-14 12:32:13 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
昨日も門扉に近い郵便受取箱に、一通の喪中のお便(たよ)りの葉書が入っていた。

会社時代に同僚だった人からであり、親御さんが96歳のご高齢で死去されたと知ったりした。

本日の午前中のひととき、小雨が降っていたので、葉書の整理をした。

私は年賀状、喪中、退職挨拶、移転通知などを分けて保管しているが、
喪中の葉書の束(たば)に、昨日頂いた葉書を入れようと思ったりした。

数多くの喪中の葉書の中では、親戚、知人、友人、会社時代の人たちからあるが、
この中で、気にしていた御方の喪中のお便(たよ)りの読み返したりした。

過ぎし2011年(平成23年)11月下旬に頂いた一通で、
私の現役サラリーマンの時代に、ひととき上司だった当人の死去を知ったりした、
お便(たよ)りだった・・。

《・・喪中のため新年のご挨拶は失礼させていただきます

夫 XXが XX月XX日に73歳で永眠いたしました
生前に賜りましたご厚情を深謝いたしますとともに
ご報告をさせていただきます
故人の遺志もありまして葬儀は身内で執り行いましたので
ご香典、ご供物等は固く辞退申し上げます
皆様には良い年が訪れますようお祈りいたします・・》

このような文面を私は深く精読したのである・・。
          

私は中小業のある民間会社に勤め、30代の後半の一時時期、
組織変更と人事異動で、新たに上司となった方の下で、職務に従事していた。

管理畑であるが、この上司は営業畑で活躍されて栄進された方で、
親分肌で部下の多くから好かれていた。
そして休日の合間に、私は参加したことはなかったが、
後輩たちを海釣り、スキーなどに引率したりし、人望も有していた。

ある時、私は同僚のひとりと、何か業務効率の事で論争になってしまった時、
この上司がそばにいて聞いていた。

私としては、同僚が海釣りも好きで、この上司に懐(なつ)いていて、
何かと海釣りに幾たびか同行していたことも知っていたので、
不利な論争の結果になると、少し危惧したのは事実であった。

結果として、この上司は私の論に軍配を上げて、
公平な視線がある稀(まれ)な人、と私は強く感じたりした。

まもなくして、組織変更などで私の上司は変わったりしたが、
この上司は幾たびの会議で公平な判断をされている、と同僚、後輩たちからも聞いたりし、
私は社内、懇親会などでお逢いするたびに、良き人、と思いを深めたりした。

やがて私は、定年退職後も相変わらず年賀状だけは送信し、
この上司からも暖かな年賀状を頂いていた。

退職後の5年も過ぎると、会社時代に知りえた人と交際は、現役時代と大きく変貌し、
たとえ葬儀であっても、お通夜、告別式の参列は、義理のように風化してしまうのが、
実態となってきた・・。

こうした心情も察して、この上司は葬儀は身内だけで、と判断された、
と私は解釈したのである。
          

私も退職後の年金生活を始めた頃に、葬儀は家族葬で、と家内に幾たびか言っているので、
この上司の思いが深く共感できるのである。

このお便(たよ)りを頂いた後、私はこの方のお住まいだった方に、手を合わせて、
公平な視線を保った稀(まれ)な人だった、と心の中で呟(つぶや)きながら、ご冥福を祈ったりした。

このようなことを小雨舞い降る小庭を眺めながら、この御方のしぐさ、言葉を思い重ねて、
私は思い馳せたした。

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