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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎ去りし、この6月の私なりの思いは・・。

2009-06-30 09:06:36 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昨夜から降り続いている小雨をぼんやり眺めている・・。
朝6時は21度で迎えたが、昼過ぎは23度前後で雨が止み、
そして厚い雲におおわれた曇り空で夕方の6時過ぎは23度前後と予測され、
梅雨らしい日中となる。

こうして小雨が降る主庭の樹木を眺めて、
六月も最終日になったかと虚(うつ)ろな思いで、見たりした。

この後、このサイトに投稿してきた26編のばかり投稿文を読み返し、
苦笑している。

5月の終りの日には、
【 過ぎ去りし、この五月は私の人生のターニング・ポイントとなり・・。】
と題して、このサイトに投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
相変わらずこのサイトに綴り、この五月は47通ばかり投稿してきた・・。

私はその日の思い、少しばかり思索していることを心の発露として、
綴っている。

私はこの5月は年金生活が実質四年半となっているが、
先ほど投稿した文を読み返して、
私の人生のターニング・ポイントかしら、と微苦笑しながら読んでいたのである。

このことは、5月20日の投稿文のひとつとして、
【 『人生50年・・』と古来には、表現されていたが・・。 《下》】
と題して、投稿したが、
私の思いを余すところなく明確に表示したのは初めてであり、
残された人生の日々の決意表明であるので、
まぎれなく私のつたないなりの人生のターニング・ポイントである。

最近の投稿文で少しばかり躊躇するがあえて、再掲載をする。

【・・
私は定年退職後まもなくして偶然にブログの世界を知り、
私は若き日々より中断したこともあったが日記を書いたりし、
これとは別の状況で色々と綴ったりしてきたが、
改めて何らかの形式で公表したく、これ幸いと幾つかのブログ、
ブログに準じたサイトに加入して綴ってきた。

定年退職後の身過ぎ世過ぎの日常で日々に感じたこと、
或いは思考したことを心の発露とし、明記してきたことはもとより、
幼児からサラリーマンの退職時までの色々な思いを
書き足らないことも多々あるが、余すことなく綴ってきている。

誰しも人それぞれに、苦楽の光と影を秘めて日常を過ごしているのが人生と思っているが、
私なりに時には、ためらいを感じながらも心痛な思いで、
綴ったりしてきたこともあった。


私は昭和19年に農家の三男坊として生を受けたこと、
祖父や父が長兄、次兄と男の子に恵まれたので、
秘かに今度は女の子を期待していたらしく、私は何となく感じて、いじけたこと。
そして、小学生に入学しても、兄ふたりは優等生で、
私は中学生までは劣等性だったこと。

小学二年の時に父が42歳の時に病死され、まもなく祖父も亡くなり、
農家の旧家でも大黒柱のふたりが亡くなることは、没落し、貧乏になること。
そして、幼年期には本といえば、『家の光』しかなく、
都心から引越してきた同級生の家には沢山の本があり、愕然としたこと。


高校時代になって初めて勉学が楽しくなり、
遅ればせながら読書にも目覚めたり、小説らしき習作を始めたこと。

そして大学を中退してまで映画・文学青年の真似事をしたり、
その後は幾度も小説新人の応募で最終候補作に漏れ、落胆したこと。

この後は、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
大手の民間会社に中途会社にできたこと。

そしてまもなくレコード会社に異動して、
六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、時代の最先端にいる、と勘違いしたこと。
この間、幾度も恋をしたが失恋の方が多く困惑したことや、
結婚後の数年後に若気の至りで一軒家に茶室まで付け足して建てて、
住宅ローンの重みに耐えたこと。

そして、定年の五年前に出向となり、都落ちの心情になったこと。


このように私は大手のサラリーマンの一部に見られるエリートでなく、
屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎えたのである。

私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野で専門知識があり優れた人の前では、
卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。


私は定年退職時の五年前頃からは、
漠然と定年後の十年間は五体満足で生かしてくれ、
後の人生は余生だと思ったりしている。

昨今の日本人の平均寿命は男性79歳、女性86歳と何か本で読んだりしているが、
私は体力も優れていないが、
多くのサラリーマンと同様に、ただ気力で多忙な現役時代を過ごしたり、
退職後も煙草も相変わらずの愛煙家の上、お酒も好きなひとりであるので、
平均寿命の前にあの世に行っている、確信に近いほどに思っている。

世間では、よく煙草を喫い続けると五年前後寿命が縮じまるという説があるが、
身勝手な私は5年ぐらいで寿命が左右されるのであるならば、
私なりの愛煙家のひとりとして、
ときおり煙草を喫ったりしながら、思索を深め日々を過ごす人生を選択する。
そして、昨今は嫌煙の社会風潮があるので、
私は場所をわきまえて、煙草を喫ったりしている。


このように身勝手で屈折の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のように、
と思ったりしたのである・・。

私はこれといって、特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意したのである。


私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をした時代もあったが、
定年後の感性も体力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

何よりも多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、苦心惨憺な時も多かったのである。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨 長明が遺され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、本望と思っている。


こうして定年後の年金生活の身過ぎ世過ぎの日常生活で、
家内とふたりだけの生活の折、買物の担当をしたり、
散策をしながら、四季折々のうつろいを享受し、
長年の連れ合いの家内との会話も、こよなく大切にしている。

そして時折、何かと甘い自身の性格と文章修行に未熟な私さえ、
ときには総合雑誌の『サライ』にあった写真家の竹内敏信氏の連載記事に於いては、
風景写真を二葉を明示した上で、文章も兼ね備えて掲載されていたが、
このような形式に誘惑にかられ、悩んだりする時もある。

私が国内旅行をした後、投稿文に写真を数葉添付して、旅行の紀行文の真似事をすれば、
表現上として言葉を脳裏から紡(つむ)ぐことは少なくすむが、
安易に自身は逃げる行為をしていると思い、
自身を制止している。

そして、言葉だけによる表現は、
古来より少なくとも平安時代より続いてきたことであるので、
多くの人の心を響かせるような圧倒的な文章力のない私は、
暗澹たる思いとなりながらも、まだ修行が足りない、と自身を叱咤したりしている。


そして拙(つたな)い才能には、
何よりも言葉による表現、読書、そして思索の時間が不可欠であり、
日常の大半を費(つい)やしているので、年金生活は閑だというのは、
私にとっては別世界の出来事である。

このような思いで今後も過ごす予定であるので、
果たして満天の星のひとつになれるか、
或いは挫折して流れ星となり、銀河の果てに消え去るか、
もとより私自身の心身によって決められることである。


余談であるが、私と同じような年金生活をしている方で、
生きがいを失くし、目に輝きを失くした方を見かけたりすると、
齢ばかり重ね、孫の世代の人々にお恥ずかしくないのですか、
と私は思ったりしている。

・・】


このような深い思いで綴ったのであり、
私は安楽な年金生活を求めるのではなく、苦節の多い日々を迎えるが、
もとより自身の選んだ道のりであり、生きがいを深めた日々でもある。

・・】


このような思いで、6月を迎えたが、
【 我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。】と題して、
第9回~第20回までの11編ばかり投稿し、
私の住む近くに百年前に住まわれ美的百姓をめざした作家・徳冨蘆花の『みみずのたはこと』を読みながら、
明治40年からの千歳村粕谷の情景、そして付近の生活実態などを転載させて頂きながら、
現在、激しく変貌し跡形もなくなったこの地域と私なりに対話できればと思い、
投稿を重ねている。

このことはほぼ予定通りに進んでいたが、
肝要のパソコンが3年ぶりの故障となり、3日から16日までの14日間が投稿できなくなり、
大いに戸惑いながら、過ごしたりした。
この時の日常生活の変貌は、このサイトに、
【 我が友、パソコンは長き不在となり・・。 】
と題して、3篇ばかり投稿しているので、省略する。

そして日常の思いを心の発露として、10数通ばかり投稿している。

このように不甲斐ない6月の日々を過ごしたが、
果たして文月の7月はどのようになるか、とカンレダーを眺めたりしている。
7月のカレンダーには、15日から2泊3日で『祇園祭』と小さく記載されているが、
あとは空白となっている。

私はいつものように買物、散策をしたり、本屋に寄ったりし、
ときおり庭の手入れをした上で、
暑さの苦手な私はクーラーの冷気の中で日中の大半は読書をし、
投稿文を綴ったりしながら過ごす、と確かな予感を感じている。




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天上の気候の神々、急に快晴と采配・・!?

2009-06-29 07:26:49 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
今朝目覚めた時、朝の陽射しを受けていたので、
びっくりして、起きだした・・。

昨日の夕方に、このサイトに於いて、
【・・
地元の天気情報をネットで検索したら、
本降りの雨は、明日の夕方まで降り続け、
明日の朝6時は21度、昼過ぎは22度、夕方の6時は22度と予測され、
横並びの日かょ、と少し驚き、平年の5月の頃の気温かしら、と思ったりした。

そして、明日は雨の降る日中なので、
傘を差して、小雨降る中で散策し、紫陽花(アジサイ)などを誉めるのも最良であるが、
我が家の高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)が数日前から咲きだし、
家内が昨日、玄関内に片隅に数輪を生けたので、これを眺めたりし、
或いは煙草を喫う時、玄関の軒下でこの花を眺めて誉めるのが、
体力の衰え、疲れの残った私の現実かしら、と苦笑をしている。
・・】

このように私は、このサイトに投稿していたのである。


私は眩(まぶ)しい朝の陽射しを受けて、
天上の気候の神々は、明日より梅雨の時節で曇り時々雨の日が続くので、
せめて本日ぐらいは、雨の一日を大幅に変えて快晴に采配してくれた、
と思ったりしたのである。

この後、私はぼんやりと地元の天気情報を視聴した。
明日の朝6時は22度、昼過ぎは30度、夕方の6時は27度と
快晴の一日となります。
梅雨の間の貴重な晴れの一日ですから、洗濯などに有意義に過ごしましょう、
と私には聴こえたのである。

私は昨日の庭の手入れの疲れが残り、心身万全ではなく、
家内は早朝より洗濯の合間、部屋を開け放ち、掃除に孤軍奮闘しているが、
こうしてぼんやりと綴りながら、天上の気候の神々の采配に戸惑いながら、
微苦笑している。




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昼寝から目覚めれば、本降りの雨となり・・。,  

2009-06-28 18:43:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
午後より雨と予測されたので、7時半過ぎに庭に下り立ち、手入れをはじめた・・。

どんよりとした曇り空の中、玄関庭の樹木の剪定、草むしりをしたのである。
気温は25度前後であるが、湿度は高く、汗まみれ、泥まみれになった・・。

家内はいつものように洗濯の合間に掃除、料理などをして折、
黒土の上に樹木、草花があり、草一本も繁えていないのが家内の理想なので、
庭の手入れはもとより私の責務であり、孤軍奮闘したのである。

12時半過ぎにポッリと小雨が降りだしたので、止む得ず中止した。

そして風呂に入った後、昼食をしたが、
疲れを感じたので、寝室の布団で文庫本を読んでいるうちに、寝付いてしまったのである。

目覚めると4時半過ぎで、ぼんやりと玄関庭の軒下で煙草を喫いながら、
本降りの雨を眺めたりしていた。
少しは小奇麗になった樹木や地面を見つめていたが、
昨日の30数度の快晴の暑さから、急激に25度前後の雨降る午後となったので、
心身と共に戸惑ったりした。

暑さに苦手な私は心の中で微笑んだりしたが、
午前中の孤軍奮闘の疲れが残り、体力が衰えを感じたりした。

この後、居間に戻り、ネットで地元の天気情報を検索した。
本降りの雨は、明日の夕方まで降り続け、
明日の朝6時は21度、昼過ぎは22度、夕方の6時は22度と予測され、
横並びの日かょ、と少し驚き、平年の5月の頃の気温かしら、と思ったりした。

そして、明日は雨の降る日中なので、
傘を差して、小雨降る中で散策し、紫陽花(アジサイ)などを誉めるのも最良であるが、
我が家の高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)が数日前から咲きだし、
家内が昨日、玄関内に片隅に数輪を生けたので、これを眺めたりし、
或いは煙草を喫う時、玄関の軒下でこの花を眺めて誉めるのが、
体力の衰え、疲れの残った私の現実かしら、と苦笑をしている。



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雨の降る前に、庭の手入れ・・。

2009-06-28 07:02:47 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
雨戸を開けたら、今朝はどんよりとした曇り空となっている。

ここ数日は梅雨の間の快晴となったが、30度を越えた暑さとなり、
急激にどうしてなの、と戸惑っていた。

昨夜、布団にもぐり前に、
明日の日曜日は曇り空、その後はしばらく雨時々曇りが続くので、
日曜日は庭の手入れに相応しい、
と思いながら寝付いたのである。

今朝、目ざめるとどんよりとした曇り空で、
午後より雨が予測され、少し早いんじゃいの、と心の中で呟(つぶ)き、
せめて雨の降る前に庭の手入れをしょう、と固く決意し、
私は準備している・・。



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改めて、真夏の猛暑の想いで・・。

2009-06-27 18:13:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
梅雨の時節であるが、ときおり梅雨の間に快晴となることがあり、
昨日は30度前後、本日の昼下がりは32度前後で今年一番の暑さとなった。

家内が冷房が苦手であるが、
さすがの暑さで世間より遅ればせながら、
昼過ぎ、家内の指示に基づき、クーラーの清掃をして、
先ほどから冷房の涼しい風を受けている・・。

私は午前中のひととき、庭のテラスに下り立ち、
木陰に身を寄せたりし、煙草を喫っていたら、熱さが身体に感じ、
庭の草も伸びはじめているが、明日になれば梅雨空となるので、明日は草抜きをしょうと思ったりした。

その後、毎年、夏になるとこのような暑さだったかしら、と思いを浮かべたりしていた。

そして、一番熱く感じたのは、若い頃、庭の手入れで草抜きをしていた時だった、
かしらと思ったりした。


確か平成元年の頃だった。
会社の激務の週を終え、快晴で35度近いの日曜日だった。

寝不足であったが、麦わら帽子を被(かぶ)らず庭に飛び出て、伸びた草を抜きはじめた・・。

♪八月の風 両手でだきしめたら
 イマジネーション 飛び立つのサヴァンナへ

【『世界でいちばん熱い夏』 作詞・富田京子、作曲・奥居 香、唄・プリンセス・プリンセス 】

この頃に流行っていたプリンセス・プリンセスの『世界でいちばん熱い夏』や

♪ダイヤモンドだね AH AH
 いくつかの場面
 AH AH 
 うまく言えないけれど
 あの時感じた AH AH

【『Diamonds』 作詞・中山加奈子、作曲・奥居 香、唄・プリンセス・プリンセス 】

或いは『Diamonds』も何度も唄いながら、
45歳前後の中年の私は、汗水を流しながら泥まみれになり、炎天下の中、草抜きをした。

夕方になると声も枯れて、体力も使い果たした。

その晩、軽い日射病で苦しんだりした。

翌朝の月曜日は、週の初めであるので、何時もより早めに自宅を出た。


【『世界でいちばん熱い夏』 作詞・富田京子、作曲・奥居 香、唄・プリンセス・プリンセス 】
http://www.youtube.com/watch?v=ucipcSssQok


【『Diamonds』 作詞・中山加奈子、作曲・奥居 香、唄・プリンセス・プリンセス 】
http://www.youtube.com/watch?v=Q_Svj407toA


その後、定年退職の四年前、
出向となった物流情報会社の新設された倉庫の一部のフロアーが、
冷暖房装置が遅れて、日に一時間程度であったが汗まみれになったりし、
外仕事をされている人たちの労苦を思い浮かべたり、
或いは冬の寒さを思い浮かべたりして、その年の熱い夏を乗り切ったりした。


定年退職後に於いては、一昨年の夏、
群馬県の最南東の館林市に3泊4日で蓮の花を誉めに滞在し、
この地の蓮の花は確かに気品を秘め美麗であったが、
連日35度前後の猛暑で私は早朝、そして夕暮れの時に蓮の花を誉めたりした。


このようなことをとりとめなく、暑さに苦手な私は思い出したりしている。



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改めて、季節で変わる、映画鑑賞・・。  

2009-06-27 07:53:47 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
若き時期のひととき映画青年の真似事をしたこともあったので、
昨今は居間で映画を観たりするのは好きである。

そして私なりのつたない鑑賞歴でも、魅了された作品は、何回でも観るタイプである。

例えば邦画の場合は、『二十四の瞳』、『東京物語』、『浮雲』、『雨月物語』等である。

洋画に関しては、『街の灯』、『市民ケーン』、『第三の男』、『逢びき』、『ライムライト』、
『ジョニーは戦場に行った』等は、10年ごとに観たりしている。

或いは最初の一ヶ月に於いて、少なくとも10回以上熱中して観る映画もある。
邦画の『七人の侍』、『用心棒』、『駅~STATION~』、
洋画の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』、『ディア・ハンター』、
『ゴットファーザ Ⅱ』などが鮮明に記憶に残っている。


私は定年退職の5年前頃に、退職後にその時に観たい映画として、
100作品前後の名作があればよいと考えていたが、
瞬(またた)く間に増えだした・・。
やむえず、250本収納できるビデオ・ラックを2本買い求め万全とした。

しかし、時代はビデオ・テープからDVDに移行期の上、
私のソフト販売店からの購入、或いはWOWOW、BS2からのコピーが増えて、
天上までとどく、幅広い大きなラックを買い増ましたのである。

そして今日は、邦画、洋画、映画以外のドキュメンタリー、音楽の四つの区分で、
ビデオ・テープ、DVDが並んでいる。


私はその時に観たい映画作品をラックの前で選定したりするが、
何故かしら、やはり季節に応じて観てしまうのである。

冬の季節の時などは、『アラビアのロレンス』、『プラトーン』、
『イングリッシュ・ペイシェント』等の砂漠、荒野、ジャングルの背景が多くなるのである。

そして夏の時節は、『ドクトル・ジバコ』、『カサブランカ』、『かくも長き不在』等の
寒冷地、静寂な戦争を背景にした選定が多くなるのである。

不思議なことであるが、猛暑の夏の時、『アラビアのロレンス』の砂漠、
『戦場にかける橋』の熱帯林の背景は、
暑くて落ち着かないのである。

かといって、居間を寒いぐらいに冷房を冷やして、
鑑賞するのは映画の内容からして、おかしな事と思ったりしている。

このようにして私は鑑賞しているが、
1950年代、1960年代の公開された作品が圧倒的に多く、
ときおり私は、どうしてかしらと微苦笑したりしている。
そしてここ数年、ハイビジョン映像をHD画質のままで記録できるBlu-rayに戸惑い、
身過ぎ世過ぎの年金生活なので、困ったなぁ、と苦笑している。


尚、私のつたないなりの観賞歴であるが、私はベストテンを勝手に選定している。
このサイトで2005年7月30日に於いて投稿しているが、
あえて再掲載をする。


【私の洋画のベストテン・・♪】

映画専門雑誌の『キネマ旬報』による映画人が選んだ
オールタイム・ベスト100の外国映画編に対応し、選定した。

『キネマ旬報』のベストテン《参考》1999年10上旬特別号

①『第三の男』

②『2001年宇宙の旅』

③『ローマの休日』

④『アラビアのロレンス』

⑤『風と共に去りぬ』

⑥『市民ケーン』

⑦『駅馬車』

⑦『禁じられた遊び』

⑦『ゴットファーザー(三部作)』

⑦『道』

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私の選定は、

①『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』

②『ディア・ハンター』

③『イングリュシュ・ペイシェント』

④『ピアノ・レッスン』

⑤『かくも長き不在』

⑥『街の灯』

⑦『ゴットファーザー(三部作)』

⑧『自転車泥棒』

⑨『ジョニーは戦場に行った』

⑩『逢びき』D.リーン

数多(あまた)の感動をもたらしてくれた作品の中より選定するのが、
酷な作業でした・・。

【時】が人生にもたらす影響をヒントに選定しましたが、
上記のいずれがベストワンになっても良い作品です。

尚、選定の際に於いて、【第三の男】、【市民ケーン】、【アラビアのロレンス】、
【許されざる者(’92)】、『カサブランカ』等は最後まで検討した作品です。


《1999年9月29日、私の日記より》

小説、映画、音楽などの選定の結果、その人の性格、人格、思想を
表わす、と改めて思った次第です。



【私の邦画のベストテン・・♪ 】

前回の洋画と同様に選定した。

『キネマ旬報』ベストテン《参考》1999年10月下旬特別号

①『七人の侍』

②『浮雲』

③『飢餓海峡』

③『東京物語』

⑤『幕末太陽傳』

⑤『羅生門』

⑦『赤い殺意』

⑧『仁義なき戦い』シリーズ

⑧『二十四の瞳』木下恵介

⑩『雨月物語』

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私の選定は、

①『駅 STATION』

②『用心棒』

③『人間の條件(全六部作)』

④『東京物語』

⑤『七人の侍』

⑥『浮雲』

⑦『雨月物語』

⑧『飢餓海峡』

⑨『切腹』

⑩『砂の器』


洋画と同様に、【時】が人生にもたらす影響をヒントに選定しましたが、
上記のいずれがベストワンになっても良い作品です。

《2003年8月16日、私の日記より》


こうした選定作業の時、その人の人生を歩いてきた思考の全てが反映する、
と改めて感じました。



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梅雨の間の暑さの中、亡き作家・徳冨蘆花氏に思いを馳(は)せれば・・。

2009-06-26 16:23:27 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
いつものように日の出の4時半過ぎに起床し、
煎茶を冷やしていた冷茶を飲んだ後、新聞を読んだり、NHKのニュースを視聴し、
この間にも、主庭のテラスに下り立ち、樹木、草花を眺めながら、
煙草を喫ったりするのが、ほぼ定例のようになっている。

梅雨の時節であるが、ときおり梅雨の間に快晴となることがあり、
昨日と同様に、朝の6時過ぎ22度で迎え、昼下がりは30度前後の暑さと
なり、
夕方の6時過ぎでも26度前後と予測されている。

私は梅雨のしっと小雨が降る25度前後の日中に心身馴染んでいたので、
梅雨の間の急激な暑さに戸惑っている。

いつものように買物、散策は暑さの中しているが、
散策も近回りとなり、汗をふきふき、苦笑している。

そして、ここ5月の下旬より亡き作家・徳冨蘆花氏に物狂いのように、
熱中している。

このことはこのサイトに5月25日に於いて、
【 我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。】と題して、
投稿を初めてから、最近まで19回ばかり連載しているが、
初回にこの思いを綴っているので、あえて再掲載をする。

【・・
     第1章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昭和19年9月に今住んでいる近くの実家で、
農家の三男坊として生を受けた。

私はこのサイトに於いては、私の幼年期から昨今まで、数多く綴ったりしているが
ここ数年、私の生まれる以前の昭和時代はもとより、
大正、明治時代の我が故郷の実態である情景、生活など知りたくなったりしている・・。


父は昭和28年に病死され、そして祖父も後を追うように昭和29年に死去し、
私としては小学生であったので、
この頃の情景はある程度は鮮明に残っている。

母は無念ながら10年前に他界したが、
私は敗戦前の昭和時代の頃の我が家の出来事はもとより、
周辺の移ろう情景なども聞いたり、教えられたりした。

この間も、親戚の叔父、叔母、近所の小父、小母さんなどに訊(たず)ねたり、
教示されたりしてきた。

そして、図書館などに行き、『郷土史』などを読んだりしてきたが、
つたない私は、この時代を鮮明に整理を出来なかったのである。


こうした思いでいると、私は数キロ近くに『蘆花公園』があることにに気づき、
思わず微笑んだのである。

http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index007.html

正式名所は『蘆花恒春園』であるが、このサイトの公園概要に明記されている通り、

【・・
「不如帰」「自然と人生」「みみずのたはこと」などの名作で知られる明治・大正期の文豪、徳富蘆花(健次郎)と愛子夫人が、
後半生を過ごした住まいと庭、それに蘆花夫妻の墓地を中心とした旧邸地部分と
その周辺を買収してつくられました。

蘆花は明治40年2月まで、東京の青山高樹町に借家住まいをしていましたが、
土に親しむ生活を営むため、当時まだ草深かった千歳村粕谷の地に土地と家屋を求め、「恒春園」と称し、
昭和2年9月18日に逝去するまでの約20年間、晴耕雨読の生活を送りました。
・・】
と解説される。

そして作家の徳冨蘆花氏は数多くの随筆を遺されているが、
千歳村の粕谷(現在:世田谷区粕谷)の地に約20年間生活されていたので、
遅ればせながら、何かこの地域に関する随筆はと探した結果、
『みみずのたはこと』の作品を知ったのである。

私はこの後、数店の本屋で徳冨蘆花の『みみずのたはこと』を探し求めたのであるが、
無念ながらなく、気落ちして帰宅したのである。

そして、ネツトで色々と検索した結果、
著作権の消滅した小説、詩、評論等を収録された無料公開の電子図書館で知られている【青空文庫】で
この作品にめぐり逢えたのである。


http://www.aozora.gr.jp/cards/000279/files/1704_6917.html

そして私は、この三日間ほど、本名の徳冨健次郎で発表された『みみずのたはこと』を読みはじめ、
あの頃の時代は、私の住む近く地域に於いては、このようなことがあった、
と深くうなずいたりし、多々教示を受けている。
・・】

このように投稿した後、
本題の『みみずのたはこと』に描かれた明治40年からの千歳村粕谷の情景、
そして付近の生活実態を転載させて頂きながら、
現在、激しく変貌し跡形もなくなったこの地域と対話ができればと思い、
最新では私なりに19回ばかり連載している。

昨夜もこの『みみずのたはこと』の中の一編である『ヤスナヤ、ポリヤナの未亡人へ』を三度ばかり読み、
深く考え、迷ったりしたのである。

徳冨蘆花氏は若い頃から『アンナ・カレーニナ』、『戦争と平和』などで名高いロシアの作家のトルストイを読み、
徳冨蘆花氏も作家となった後でも更にトルストイを精読された後、
トルストイの家に訪問している。
そして、本編はトルストイの突然の死を知り、未亡人となった奥方に手紙形式で綴られている。

私は『みみずのたはこと』に於いて、千歳村・粕谷に住み、
徳冨蘆花自身の思いや周囲の情景を学ぶのであれば、このトルストイの未亡人宛は対象外として、
私は飛ばして私なりの連載を続けようと思ったりした。

或いは、徳冨蘆花自身の千歳村・粕谷に住まわれた中での出来事であり、
氏の心情を深く洞察すれば、軽い気持ちで対象外にもできない、
と思ったりしたのである。
そして、私なりにトルストイの遺(のこ)された作品、トルストイの軌跡を思考したのである。

このような思いで、私なりに大いに躊躇し、
どのようにするか、暑さの中、ぼんやりと考えている。


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我が故郷、亡き徳冨蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《19》

2009-06-25 13:28:49 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
千歳村・粕谷で田園生活の『美的百姓』をめざし過ごされている時、
日常のさりげない色彩について綴られている。

詩のそれぞれの色合いを綴られ、
かって敬愛するトルストイを訪ねた時、ロシアの大地、
或いは復路のシベリア鉄道の車窓の情景、
そして結びとして、深い思いを重ねながら千歳村・粕谷で観られた情景を綴られている。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。

【・・

       碧色の花

色彩の中で何色(なにいろ)を好むか、と人に問われ、
色彩について極めて多情な彼(かれ)は答に迷うた。


吾墓の色にす可き鼠色(ねずみいろ)、
外套に欲しい冬の杉の色、
十四五の少年を思わす落葉松の若緑(わかみどり)、
春雨を十分に吸うた紫(むらさき)がかった土の黒、
乙女の頬(ほお)に匂(にお)う桜色、
枇杷バナナの暖かい黄、
檸檬(れもん)月見草(つきみそう)の冷たい黄、
銀色の翅(つばさ)を閃かして飛魚の飛ぶ熱帯(ねったい)の海のサッファイヤ、
ある時は其面に紅葉を泛(うか)べ
或時は底深く日影金糸を垂(た)るゝ山川の明るい淵(ふち)の練(ね)った様な緑玉(エメラルド)、
盛り上り揺(ゆ)り下ぐる岩蔭の波の下(した)に咲く海アネモネの褪紅(たいこう)、
緋天鵞絨(ひびろうど)を欺く緋薔薇(ひばら)緋芥子(ひげし)の緋紅、
北風吹きまくる霜枯の野の狐色(きつねいろ)、
春の伶人(れいじん)の鶯が着る鶯茶、
平和な家庭の鳥に属する鳩羽鼠(はとはねずみ)、
高山の夕にも亦やんごとない僧(そう)の衣にもある水晶にも宿(やど)る紫、
波の花にも初秋の空の雲にも山の雪野の霜にも
大理石にも樺(かば)の膚(はだ)にも極北の熊の衣にもなるさま/″\の白(しろ)、
数え立つれば際限(きり)は無い。

色と云う色、皆(みな)好きである。


然しながら必其一を択(えら)まねばならぬとなれば、
彼は種として碧色を、度(ど)として濃碧(のうへき)を択ぼうと思う。

碧色――三尺の春の野川の面(おも)に宿るあるか無きかの浅碧(あさみどり)から、
深山の谿(たに)に黙(もだ)す日蔭の淵の紺碧(こんぺき)に到るまで、
あらゆる階級の碧色――其碧色の中でも殊(こと)に鮮(あざ)やかに煮え返える様な濃碧は、
彼を震いつかす程の力を有(も)って居る。


高山植物の花については、彼は呶々(どど)する資格が無い。
園の花、野の花、普通の山の花の中で、碧色のものは可なりある。
西洋草花にはロベリヤ、チヨノドクサの美しい碧色がある。

春竜胆(はるりんどう)、勿忘草(わすれなぐさ)の瑠璃草も可憐な花である。
紫陽花(あじさい)、ある種の渓(あやめ)、花菖蒲にも、不純ながら碧色を見れば見られる。
秋には竜胆(りんどう)がある。
牧師の着物を被た或詩人は、嘗(かつ)て彼の村に遊びに来て、
路に竜胆の花を摘(つ)み、熟々(つくづく)見て、青空の一片が落っこちたのだなあ、と趣味ある言を吐いた。

露の乾(ひ)ぬ間(ま)の朝顔は、云う迄もなく碧色を要素とする。
それから夏の草花には矢車草がある。
舶来種のまだ我(わが)邦土には何処やら居馴染(いなじ)まぬ花だが、
はらりとした形も、深い空色も、涼しげな夏の花である。

これは園内に見るよりも Corn flower と名にもある通り外国の小麦畑の黄(き)ばんだ小麦まじりに咲いたのが好い。

七年前の六月三十日、朝早く露西亜の中部スチエキノ停車場から百姓の馬車に乗って
トルストイ翁(おう)のヤスナヤ、ポリヤナに赴(おもむ)く時、
朝露にぬれそぼった小麦畑を通ると、
苅入近い麦まじりに空色の此花が此処にも其処にも咲いて居る。
睡眠不足の旅の疲れと、トルストイ翁に今会いに行く昂奮とで熱病患者の様であった彼の眼にも、
花の空色は不思議に深い安息(いこい)を与えた。


夏には更に千鳥草(ちどりそう)の花がある。
千鳥草、又の名は飛燕草。
葉は人参の葉の其れに似て、花は千鳥か燕か鳥の飛ぶ様な状(さま)をして居る。
園養(えんよう)のものには、白、桃色、また桃色に紫の縞(しま)のもあるが、
野生の其(そ)れは濃碧色(のうへきしょく)に限られて居る様だ。
濃碧が褪(うつろ)えば、菫色(すみれいろ)になり、紫になる。
千鳥草と云えば、直ぐチタの高原が眼に浮ぶ。

其れは明治三十九年露西亜の帰途(かえり)だった。
七月下旬、莫斯科(もすくわ)を立って、イルクツクで東清鉄道の客車に乗換え、
莫斯科を立って十日目にチタを過ぎた。
故国を去って唯四ヶ月、然しウラルを東に越すと急に汽車がまどろかしくなる。

イルクツクで乗換えた汽車の中に支那人のボオイが居たのが嬉しかった。
イルクツクから一駅毎に支那人を多く見た。
チタでは殊(こと)に支那人が多く、満洲近い気もち十分(じゅうぶん)であった。
バイカル湖から一路上って来た汽車は、チタから少し下りになった。
下り坂の速力早く、好い気もちになって窓から覗(のぞ)いて居ると、
空にはあらぬ地の上の濃い碧色(へきしょく)がさっと眼に映(うつ)った。
野生千鳥草の花である。

彼は頭を突出して見まわした。
鉄路の左右、人気も無い荒寥(こうりょう)を極めた山坡に、見る眼も染むばかり濃碧(のうへき)の其花が、
今を盛りに咲き誇ったり、やゝ老いて紫(むらさき)がかったり、まだ蕾(つぼ)んだり、
何万何千数え切れぬ其花が汽車を迎えては送り、送りては迎えした。
窓に凭(もた)れた彼は、気も遠くなる程其色に酔うたのであった。


然しながら碧色の草花の中で、彼はつゆ草の其れに優(ま)した美しい碧色を知らぬ。
つゆ草、又の名はつき草、螢草(ほたるぐさ)、鴨跖草(おうせきそう)なぞ云って、草姿(そうし)は見るに足らず、
唯二弁より成る花は、全き花と云うよりも、
いたずら子に(むし)られたあまりの花の断片か、
小さな小さな碧色の蝶(ちょう)の唯(ただ)かりそめに草にとまったかとも思われる。
寿命も短くて、本当に露の間である。
然も金粉を浮べた花蕊(かずい)の黄(き)に映発(えいはつ)して
惜気もなく咲き出でた花の透(す)き徹(とお)る様な鮮(あざ)やかな純碧色は、
何ものも比(くら)ぶべきものがないかと思うまでに美しい。

つゆ草を花と思うは誤りである。
花では無い、あれは色に出た露の精(せい)である。
姿脆(もろ)く命短く色美しい其面影は、人の地に見る刹那(せつな)の天の消息でなければならぬ。
里のはずれ、耳無地蔵の足下などに、
さま/″\の他の無名草(ななしぐさ)醜草(しこぐさ)まじり朝露を浴びて眼がさむる様(よう)に咲いたつゆ草の花を見れば、
竜胆(りんどう)を讃(ほ)めた詩人の言を此にも仮(か)りて、
青空の気(こうき)滴(したた)り落ちて露となり露色に出てこゝに青空を地に甦(よみがえ)らせるつゆ草よ、
地に咲く天の花よと讃(たた)えずには居られぬ。

「ガリラヤ人よ、何ぞ天を仰いで立つや。」
吾等は兎角青空ばかり眺めて、足もとに咲くつゆ草をつい知らぬ間(ま)に蹂(ふ)みにじる。

碧色の草花として、つゆ草は粋(すい)である。

・・】

こうように徳冨蘆花氏は、深い思いで日常生活を深めている。


日本の大地は、春夏秋冬と四季折々に移ろう情景は、
それぞれの人が幼児期、未成年、そして成人、やがて老年となるまでの生活を過ごされる中、
幾重かのさりげない情景に思いでも重ねて、
誰しもその人なりの色合いを心のなかで秘めている。


私も四季折々うつろう情景に限りなく心を寄せて過ごしたりしているので、
このサイトでも数多くを綴ったりしている。

こうした中で、明確な色彩について投稿したひとつで、
【 確かな伝統美を感じる『色の歳時記 ~目で遊ぶ日本の色~』・・。 】と題し、
本年の4月9日に投稿しているが、今回、あえて再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
古惚けた一軒屋に家内と2人だけで日々を過ごしている。

陽春に恵まれた日中、主庭のテラスに下り立ち,
常緑樹の新芽、落葉樹の芽吹き、幼葉などを眺めながら、
煙草を喫ったりし、季節のうつろいに深く心をよせたりしている。

私は読書も好きであるので、居間のソファに座りながら、
その日の心情に応じた本を開いたりしている・・。

昨日、昼下がりのひととき、一冊の本を本棚から抜き取った。

『色の歳時記 ~目で遊ぶ日本の色~』(朝日新聞社)という本であるが、
私が本屋で昭和62(1987)年晩秋の頃、
偶然に目にとまり、数ページ捲(めく)ったりして、瞬時に魅了され本であった。


巻頭詩として、『色の息遣い』と題されて、
詩人の谷川俊太郎氏が、『色』、『白』、『黒』、『赤』、『青』、『黄』、
『緑』、『茶』と詩を寄せられ、
写真家の山崎博氏がこの詩に託(たく)した思いの写真が掲載されている。

そして、詩人の大岡信氏が、『詩歌にみる日本の色』と題されて、
古来からの昨今までの歌人、俳人の詠まれた句に心を託して、
綴られている。

本題の『色の歳時記』としては、
春には抽象水墨画家・篠田桃紅、随筆家・岡部伊都子、造形作家・多田美波、
夏には英文学者・外山滋比古、随筆家・白州正子、女優・村松英子、
秋には俳人・金子兜太、歌人・前 登志夫、歌人・馬場あき子、
冬には詩人・吉原幸子、作家・高橋 治、作家・丸山健二、
各氏が『私の好きな色』の命題のもとで、随筆が投稿されている。
そして、これらの随筆の横には、季節感あふれる美麗な情景の写真が
幾重にも掲載されている。


或いは『日本の伝統色』と題し
伝統色名解説として福田邦夫、素材にあらわれた日本の色の解説される岡村吉右衛門、
この両氏に寄る日本古来からの色合い、色彩の詳細な区分けはもとより、
江戸時代の染見本帳、狂言の衣装、江戸末期の朱塗りの薬箪笥、
縄文時代の壺、黒塗りに朱色の蒔絵をほどこした室町期の酒器、
江戸時代のいなせな火消しの装束など、ほぼ余すことなく百点前後に及び、
紹介されているのである。

『色の文化史』に於いては、
京都国立博物館・切畑 健氏が、歴史を彩る色として、
奈良時代以降から江戸時代を正倉院御物の三彩磁鉢、
西本願寺の雁の間の襖絵として名高い金碧障壁画など十二点を掲載しながら、
具現的に解説されている。

この後は、『色彩の百科』と題され、暮らしに役立てたい色彩の知識、としたの中で、
女子美術大学助教授・近江源太郎氏が『色のイメージと意味』として、
『赤』、『ピンク』、『オレンジ』、『茶』、『黄』、『緑』、『青』、『紫』などを、
現代の人々の心情に重ねながら、さりげなく特色を綴られている。


『配色の基礎知識』としては、日本色彩研究所・企画管理室部長の福田邦夫氏により、
《配色の形式は文化によってきまる》、
《情に棹(さお)させば流される》
などと明示しながら綴られれば、私は思わず微笑みながら読んでしまう。


最後の特集として、『和菓子』、『和紙』、『組紐』、『染』、『織』が提示されて、
掲載された写真を見ながら、解説文を読んだりすると、
それぞれのほのかな匂いも感じられるようである。


そして最後のページに『誕生色』と題されたページが、
さりげなく掲載されて折、私は読みながら、思わず襟を正してしまう。

北越の染めと織物の街・十日町の織物工業共同組合が、
情緒豊かな日本の伝統色を参考にとして、十二ヶ月の色を選定していたのである。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

【・・
『誕生色』と命名して現代の暮らしに相応しい《きもの》づくりを行っている。
『誕生石』にもあやかって興味深い試みである。


1月
おもいくれない『想紅』

初春の寒椿の深い紅。
雪の中で強く咲き誇っている姿に華やぎ。


2月
こいまちつぼみ『恋待蕾』

浅い春に土を割る蕗のとう。
若芽のソフトな黄緑が春を告げる。


3月
ゆめよいざくら『夢宵桜』

春のおぼろ、山桜の可憐な色。
桜、それは心躍る春の盛りを彩る。


4月
はなまいこえだ『花舞小枝』

春風に揺れる花を支える小枝。
土筆(つくし)もまた息吹いている。


5月
はつこいあざみ『初恋薊』

風薫る季節の薊の深い紫。
5月の野には菖蒲も咲き、目をなごます。


六月
あこがれかずら『憧葛』

さみだれが葛を濡らして輝く緑。
蓬、青梅・・緑たちの競演がいま。


7月
さきそめこふじ『咲初小藤』

夏近し、紫露草のうすい紫。
きらきらと夏の光の中で、緑の中で。


8月
ゆめみひるがお『夢見昼顔』

夏の涼しさに朝顔、昼顔。
庭に野に夏には欠かせない風物の彩り。


9月
こいじいざよい『恋路十六夜』

月冴えるころ朝露に身を洗う山葡萄の深い紺。
十六夜の色にも似て。


10月
おもわれしおん『想紫苑』

風立ちて、目もあやに秋の七草。
野に咲き乱れる桔梗と紫苑の色。


11月
こいそめもみじ『恋染紅葉』

秋の野の残り陽に照る紅葉の赤。
心にしみ入るぬくもりのかたち。


12月
わすれなすみれ『勿忘菫』

淡雪のほのかな思い。
菫が咲き、小雪が舞う季(とき)の色。やすらぎの感覚。

・・】
注)記事の原文より、あえて改行を多くした。


私はこうした美しい言葉、綴りに接すると、
その季節に思いを馳せながら、その地の風土を想い、
心にひびき、香り、そして匂いまで伝わったくる。

日本風土の古来からの人々の営みの積み重ねの日常生活から、
さりげなくただよってくる色あいの結晶は、
まぎれない日本文化のそれぞれの伝統美でもある。


この本は、昭和58(1983)年に発刊されているので、
稀なほど優れた執筆陣でありながら、
現在は無念ながら故人となられた人が多いのである。

こうした遺(のこ)された随筆などを、改めて読んだりすると、
日本風土と文化に限りなく愛惜されているので、
日本文化を愛する人たちへの遺書のひとつかしら、
とも思ったりしている。

・・】

このように私なりに綴っている。



                           《つづく》


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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《18》

2009-06-25 10:56:10 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に越した翌年の晩秋、
新嘗祭の祝日の時、二子多摩川に行楽をして帰宅後、
突然に見知らぬ若い夫婦の来訪し、戸惑いながら宿泊させたりするが、
この若き夫婦の物語である。

徳冨蘆花氏は随筆形態で綴っているが、まぎれない珠玉のような短編小説となっている。
題して『ほうずき)』と名付けて、哀切ある物語である。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。

【・・

             ほおずき

       一

其頃は女中も居ず、門にしまりもなかった。
一家(いっか)総出の時は、大戸を鎖(さ)して、ぬれ縁の柱に郵便箱をぶら下げ、

○○行
夕方(若くは明午○)帰る
御用の御方は北隣(きたどなり)△△氏へ御申残しあれ
小包も同断
  月日  氏名


斯く張札(はりふだ)して置いた。
稀には飼犬を縁先(えんさ)きの樫の木に繋(つな)いで置くこともあったが、
多くは郵便箱に留守をさした。

帰って見ると、郵便箱には郵便物の外、色々な名刺や鉛筆書きが入れてあったり、
主人が穿(は)きふるした薩摩下駄を物数寄(ものずき)にまだ真新しいのに穿きかえて行く人なぞもあった。
ノートを引きちぎって、斯様なものを書いたのもあった。

君を尋ねて草鞋(わらぢ)で来れば
君は在(いま)さず唯犬ばかり
縁に腰かけ大きなあくび
中で時計が五時をうつ


明治四十一年の新嘗祭の日であった。
東京から親類の子供が遊びに来たので、例の通り戸をしめ、郵便箱をぶら下げ、
玉川に遊びに往った。

子供等は玉川から電車で帰り、主人夫妻は連れて往った隣家の女児(むすめ)と共に、
つい其前々月もらって来た三歳の女児をのせた小児車(しょうにぐるま)を押して、
星光を踏みつゝ野路を二里くたびれ果てゝ帰宅した。


隣家の女児と門口で別れて、まだ大戸も開けぬ内、
二三人の足音と車の響が門口に止まった。
車夫が提灯の光に、丈高い男がぬっと入って来た。
つゞいて女が入って来た。
「僕が滝沢です、手紙を上げて置きましたが……」


其様(そん)な手紙は未だ見なかったのである。
来意を聞けば、信州の者で、一晩(ひとばん)御厄介になりたいと云うのだ。
主人は疲れて大にいやであったが、遠方から来たものを、
と勉強して兎に角戸をあけて内に請(しょう)じた。
吉祥寺から来たと云う車夫は、柳行李(やなぎごうり)を置いて帰った。

       二

ランプの明りで見れば、男は五分刈(ごぶがり)頭の二十五六、意地張らしい顔をして居る。
女は少しふけて、おとなしい顔をして、丸髷(まるまげ)に結って居る。

主人が渋い顔をして居るので、丸髷の婦人は急いで風呂敷包の土産物を取出し主人夫妻の前にならべた。
葡萄液一瓶(ひとびん)、
「醗酵(はっこう)しない真の葡萄汁(ぶどうしる)です」
と男が註を入れた。

杏(あんず)の缶詰が二個。
「此はお嬢様に」
と婦人が取出したのは、
十七八ずつも実(な)った丹波酸漿(たんばほおずき)が二本。
いずれも紅(あか)いカラのまゝ虫一つ喰って居ない。

「まあ見事(みごと)な」
と主婦が歎美の声を放つ。

「私の乳母が丹精(たんせい)して大事に大事に育てたのです」
と婦人が誇り貌(が)に口を添えた。

二つ三つ語を交(か)わす内に、男は信州、女は甲州の人で、
共に耶蘇信者(やそしんじゃ)、外川先生の門弟、
此度結婚して新生涯の門出に、此家の主人夫妻の生活ぶりを見に寄ったと云うことが分かった。

畑の仕事でも明日は少し御手伝しましょうと男が云えば、
台所の御手伝でもしましょうと女が云うた。


兎に角飯(めし)を食うた。
飯を食うとやがて男が「腹が痛い」と云い出した。
「そう、余程痛みますか」
と女が憂(うれ)わしそうにきく。

「今日汽車の中で柿を食うた。あれが不好(いけな)かった」
と男が云う。

此大きな無遠慮な吾儘坊(わがままぼっ)ちゃんのお客様の為に、
主婦は懐炉(かいろ)を入れてやった。
大分(だいぶ)落(おち)ついたと云う。
晩(おそ)くなって風呂が沸(わ)いた。
まあお客様からと請(しょう)じたら、
「私も一緒に御免蒙りましょう」
と婦人が云って、夫婦一緒にさっさと入って了った。

寝ると云っても六畳二室の家、
唐紙一重に主人組は此方(こち)、客は彼方(あち)と頭(あたま)突(つ)き合わせである。
無い蒲団を都合して二つ敷いてやったら、
御免を蒙ってお先に寝る時、二人は床を一つにして寝てしまった。

       三

明くる日、男は、
「私共は二食で、朝飯を十時にやります。あなた方はお構(かま)いなく」
と何方(どち)が主やら客やら分からぬ事を云う。

其れでは十時に朝飯として、其れ迄ちと散歩でもして来ようと云って、
主人は男を連れて出た。


畠仕事をして居る百姓の働き振を見ては、
まるで遊んでる様ですな、と云う。
彼は生活の闘烈しい雪の山国に生れ、
彼自身も烈しい戦の人であった。
彼は小学教員であった。

耶蘇を信ずる為に、父から勘当同様の身となった。
学校でも迫害を受けた。

ある時、高等小学の修身科で彼は熱心に忍耐を説いて居たら、
生徒の一人がつか/\立って来て、教師用の指杖(さしづえ)を取ると、
突然(いきなり)劇(はげ)しく先生たる彼の背(せなか)を殴った。

彼は徐(しずか)に顧みて何を為(す)ると問うた。
其(その)生徒は杖を捨てゝ涙を流し、
御免下(ごめんくだ)さい、先生があまり熱心に忍耐を御説きなさるから、
先生は実際どれ程忍耐が御出来になるか試したのです、
と跪(ひざまず)いて詫びた。

彼は其生徒を賞(ほ)めて、辞退するのを無理に筆を三本褒美(ほうび)にやった。


斯様な話をして帰ると、朝飯の仕度が出来て居た。
落花生が炙(い)れて居る。
「落花生は大好きですから、私が炙りましょう」
と云うて女が炙ったのそうな。
主婦は朝飯の用意をしながら、細々と女の身上話を聞いた。


女は甲州の釜無川の西に当る、ある村の豪家の女(むすめ)であった。
家では銀行などもやって居た。
親類内に嫁に往ったが、弟が年若(としわか)なので、父は彼女夫妻を呼んで家(うち)の後見をさした。

結婚はあまり彼女の心に染まぬものであったが、
彼女はよく夫婿に仕えて、夫婦仲も好く、他目(よそめ)には模範的夫婦と見られた。

良人(おっと)はやさしい人で、耶蘇(やそ)教信者で、
外川先生の雑誌の読者であった。
彼女はその雑誌に時々所感を寄する信州の一男子の文章を読んで、
其熱烈な意気は彼女の心を撼(うご)かした。

其男子は良人の友達の一人で、稀に信州から良人を訪ねて来ることがあった。
何時(いつ)となく彼女と彼の間に無線電信がかゝった。
手紙の往復がはじまった。

其内良人は病気になって死んだ。
死ぬる前、妻(つま)に向って、自分の死後は信州の友の妻になれ、と懇々遺言して死んだ。
一年程過ぎた。
彼女と彼の間は、熱烈な恋となった。
而して彼女の家では、父死し、弟は年若(としわか)ではあり、母が是非居てくれと引き止むるを聴かず、
彼女は到頭(とうとう)家(うち)を脱け出して信州の彼が許(もと)に奔(はし)ったのである。

           *

朝飯後、客の夫婦は川越の方へ行くと云うので、
近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内(みちしるべ)かた/″\柳行李を負(お)わせてやることにした。


彼は尻をからげて、莫大小(めりやす)の股引(ももひき)白足袋(しろたび)に高足駄をはき、
彼女は洋傘(こうもり)を杖(つえ)について海松色(みるいろ)の絹天(きぬてん)の肩掛(かたかけ)をかけ、主婦に向うて、
「何卒(どうぞ)覚えて居て下さい、覚えて居て下さい」
と幾回も繰り返して出て往った。
主人夫妻は門口に立って、影の消ゆるまで見送った。

       四

一年程過ぎた。

此世から消え失せたかの様に、二人の消息(しょうそく)ははたと絶えた。
「如何(どう)したろう。はがき位はよこしそうなものだな」
主人夫妻は憶(おも)い出す毎(たび)に斯く云い合った。


丁度(ちょうど)満一年の新嘗祭も過ぎた十二月一日の午後、
珍しく滝沢の名を帯びたはがきが主人の手に落ちた。
其は彼の妻の死を報ずるはがきであった。

消息こそせね、夫婦は一日も粕谷の一日一夜(いちや)を忘れなかった、と書いてある。


吁(ああ)彼女は死んだのか。
友の妻になれと遺言して死んだ先夫の一言を言葉通り実行して
恋に於ての勝利者たる彼等夫妻の前途は、
決して百花園中(ひゃっかえんちゅう)のそゞろあるきではあるまい、
とは期(ご)して居たが、彼女は早くも死んだの乎。


聞(き)きたいのは、沈黙の其一年の消息である。
知りたいのは、其(その)死(し)の状(さま)である。

           *

あくる年の正月、主人夫妻は彼女の友達の一人なる甲州の某氏から
彼女に関する消息の一端を知ることを得た。


彼等夫妻は千曲川の滸(ほとり)に家をもち、養鶏(ようけい)などやって居た。
而して去年の秋の暮、胃病とやらで服薬して居たが、
ある日医師が誤った投薬の為に、彼女は非常の苦痛をして死んだ。
彼女の事を知る信者仲間には、天罰だと云う者もある、と某氏は附加(つけくわ)えた。

           *

某氏はまた斯様(こん)な話をした。
亡くなった彼女は、思い切った女であった。
人の為に金でも出す時は己が着類(きるい)を質入れしたり売り払ったりしても出す女であった。

彼女の前夫(ぜんふ)は親類仲で、慶応義塾出の男であった。
最初は貨殖を努めたが、耶蘇(やそ)を信じて外川先生の門人となるに及んで、
聖書の教を文句通(もんくどお)り実行して、決して貸した金の催促をしなかった。

其れをつけ込んで、近郷近在の破落戸(ならずもの)等が借金に押しかけ、
数千円は斯くして還らぬ金となった。
彼の家には精神病の血があった。
彼も到頭遺伝病に犯された。
其為彼の妻は彼と別居した。

彼は其妻を恋いて、妻の実家の向う隣の耶蘇教信者の家(うち)に時々来ては、
妻を呼び出してもろうて逢うた。
彼の臨終の場にも、妻は居なかった。
此時彼女の魂はとく信州にあったのである。

彼女の前夫が死んで、彼女が信州に奔る時、彼女の懐には少からぬ金があった。
実家の母が瞋(いか)ったので、彼女は甲府まで帰って来て、其金を還した。
然し其前彼女は実家に居る時から追々(おいおい)に金を信州へ送り、
千曲川の辺の家(うち)も其れで建てたと云うことであった。

           *

彼夜彼女が持て来てくれたほおずきは、
あまり見事(みごと)なので、子供にもやらず、小箪笥(こだんす)の抽斗(ひきだし)に大切にしまって置いたら、
鼠が何時の間にか其(その)小箪笥を背(うしろ)から噛破って喰ったと見え、
年の暮(くれ)に抽斗をあけて見たら、中実(なかみ)無しのカラばかりであった。


年々(ねんねん)酸漿(ほおずき)が紅くなる頃になると、
主婦はしみ/″\彼女を憶(おも)い出すと云うて居る。

・・】

突然に見知らぬ若き夫婦の来訪を徳冨蘆花夫妻は受け、
その晩、戸惑いながらやむえず宿泊させたのであるが、
蘆花氏の知人の耶蘇信者の外川先生の門弟のひとりであり、
男は信州、女は甲州の人で、このたび結婚して新生涯の門出に、
徳冨蘆花夫妻の生活ぶりを見に寄ったというのである。


そして女は甲州のある村の豪家の娘で、親類内に嫁いだが、
弟が若かったので、実父は彼女夫妻を実家の後見をさせ、住まわせた。

そして主人はやさしい人で、耶蘇教信者で、外川先生の雑誌の読者であり、
女はその雑誌に時々所感を寄する一男子の文章を読んで、
その熱烈な意気は彼女の心をうごかした。

この信州の男子は主人の友達のひとりで、
ときおり信州から主人を訪ねて来ることがあった。
そして、いつとなく彼女と彼の間に無線電信をまじえて、手紙の往復がはじまった。

まもなくして、主人は病死するが、
死ぬる前、妻に向って、自分の死後は信州の友の妻になれ、と懇々遺言して死んだ。
そして、一年程過ぎ、彼女と彼の間は、熱烈な恋となった。

この後、彼女の家では、父死し、弟は年若ではあり、母が是非居てくれと引き止むるを聴かず、
彼女は家を脱け出して、信州の彼の家に奔(はし)った。

こうしたことを若き女は蘆花氏の奥様に話し、
蘆花宅を辞するとき、
「何卒(どうぞ)覚えて居て下さい、覚えて居て下さい」
と幾回も繰り返して出て往った。


この後、二人の消息が絶え、一年の新嘗祭も過ぎた頃、
彼の妻の死を報ずるはがきであった。

・・

蘆花氏はまぎれなく作家であると感じるのは、この後の綴りである。

【・・
聞(き)きたいのは、沈黙の其一年の消息である。
知りたいのは、其(その)死(し)の状(さま)である
・・】

この後、この女の死ぬまでの軌跡を知り、綴られる。


私はこの若き夫婦の話しとは別で、
この前章に綴られている徳冨蘆花夫妻の日常生活を思いを寄せられたのである。

千歳村・粕谷に越した翌年の晩秋の新嘗祭の祝日の時、
都心から親類の子供が遊びに来たので、
隣家の女の子と共に、前々月もらって来た三歳の女児をのせた小児車を押して、
二子多摩川の8キロの野路を往復されたことである。

そして、三歳の女児は、蘆花自身がたえまない確執ある実兄・蘇峰であるが、
蘆花夫妻は子供に恵まれず、蘇峰の末女である鶴子を養女に迎えたりしたのである。

或いは、この物語の若き夫妻が一夜宿泊させた翌朝も
川越の方へ行くと云うので、
近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内(みちしるべ)かた/″\柳行李を負(お)わせてやることにした、
と綴られている。

千歳村・粕谷から荻窪までは、北に少なからず3キロはあるので、
この当時の人は、よく歩かれた。

もとより蘆花ご夫妻は、新宿、渋谷までの道よりは、
たびたび歩かれている、と幾度も綴られているので、
あの当時は利便性がなかったとしても、私は感心を重ねるばかりである。


                           《つづく》


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我が故郷、亡き徳冨蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《17》

2009-06-24 15:34:05 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に越した年の春過ぎに、
近所のお方から方からポインタァ種の小犬を一疋を貰い、
愚な鈍な上、気弱な白い犬を『白(しろ)』と名付けて、
この後、一年半近く徳冨蘆花夫妻が飼われた・・。

今回は、この犬を巡って、蘆花氏は『白』と題して綴られている。


毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。

【・・

   白

       一

彼の前生は多分(たぶん)犬(いぬ)であった。
人間の皮をかぶった今生にも、彼は犬程可愛(かあい)いものを知らぬ。
子供の頃は犬とばかり遊んで、着物は泥まみれになり、
裾は喰いさかれ、其様(そん)なに着物を汚すならわたしは知らぬと母に叱られても、
また走り出ては犬と狂うた。

犬の為には好きな甘(うま)い物も分けてやり、
小犬の鳴き声を聞けばねむたい眼を摩って夜半にも起きて見た。

明治十年の西郷戦争に、彼の郷里の熊本は兵戈(へいか)の中心となったので、
家を挙げて田舎に避難したが、
オブチと云う飼犬のみは如何しても家を守って去らないので、
近所の百姓に頼んで時々食物を与えてもらうことにして本意ない別を告げた。

三月程して熊本城の包囲が解け、
薩軍は山深く退いたので、欣々と帰って見ると、
オブチは彼の家に陣(じん)どった薩摩健男(さつまたけお)に喰われてしまって、
頭だけ出入の百姓によって埋葬されて居た。

彼の絶望と落胆は際限が無かった。
久しぶりに家に還って、何の愉快もなく、飯も喰わずに唯哭(なげ)いた。
南洲の死も八千の子弟の運命も彼には何(なん)の交渉もなく、
西南役は何よりも彼の大切なオブチをとり去ったものとして彼に記憶されるのであった。


村入して間もなく、ある夜先家主(せんやぬし)の大工がポインタァ種の小犬を一疋抱いて来た。
二子の渡(わたし)の近所から貰って来たと云う。
鼻尖(はなさき)から右の眼にかけ茶褐色の斑(ぶち)がある外は真白で、
四肢は将来の発育を思わせて伸び/\と、気前(きまえ)鷹揚(おうよう)に、
坊ちゃんと云った様な小犬である。

既に近所からもらった黒い小犬もあるので、
二の足踏んだが、折角貰って来てくれたのを還えすも惜しいので、
到頭貰うことにした。

今まで畳の上に居たそうな。
早速(さっそく)畳に放尿(いばり)して、
其晩は大きな塊(かたまり)の糞を板の間にした。


新来の白(しろ)に見かえられて、間もなく黒(くろ)は死に、
白の独天下となった。
畳から地へ下ろされ、麦飯味噌汁で大きくなり、
美しい、而して弱い、而して情愛の深い犬になった。
雄(おす)であったが、雌(めす)の様な雄であった。


主夫妻(あるじふさい)が東京に出ると屹度跟(つ)いて来る。
甲州街道を新宿へ行く間には、
大きな犬、強い犬、暴(あら)い犬、意地悪い犬が沢山居る。
而してそれを嗾(け)しかけて、弱いもの窘(いじ)めを楽む子供もあれば、
馬鹿な成人(おとな)もある。
弱い白は屹度咬(か)まれる。

其れがいやさに隠れて出る様にしても、何処からか嗅ぎ出して屹度跟いて来る。
而して咬まれる。
悲鳴をあげる。
二三疋の聯合軍に囲まれてべそをかいて歯を剥(む)き出す。
己れより小さな犬にすら尾を低(た)れて恐れ入る。
果ては犬の影され見れば、己(われ)ところんで、最初から負けてかゝる。

それでも強者の歯をのがれぬ場合がある。
最早(もう)懲(こ)りたろうと思うて居ると、
今度出る時は、又候(またぞろ)跟いて来る。
而して往復途中の出来事はよく/\頭に残ると見えて、帰ったあとで樫(かし)の木の下にぐったり寝ながら、
夢中で走るかの様に四肢(しし)を動かしたり、夢中で牙をむき出しふアッと云ったりする。


弱くても雄は雄である。
交尾期になると、二日も三日も影を見せぬことがあった。
てっきり殺されたのであろうと思うて居ると、
村内唯一の牝犬の許(もと)に通うて、他の強い大勢の競争者に噛まれ、
床の下に三日潜(もぐ)り込んで居たのであった。

武智十次郎ならねども、美しい白が血だらけになって、蹌踉(よろよろ)と帰って来る姿を見ると、
生殖の苦を負(お)う動物の運命を憐まずには居られなかった。
一日其牝犬がひょっくり遊びに来た。
美しいポインタァ種の黒犬で、
家の人が見廻りして来いと云えば、直ぐ立って家の周囲を巡視し、
夜中警報でもある時は吾体を雨戸にぶちつけて家の人に知らす程怜悧の犬であった。

其犬がぶらりと遊びに来た。
而して主人に愛想をするかの様にずうと白の傍に寄った。
あまりに近く寄られては白は眼を円くし、据頸(すえくび)で、甚(はなはだ)固くなって居た。
牝犬はやがて往きかけた。
白は纏綿(てんめん)として後になり先きになり、
果ては主人の足下に駆けて来て、一方の眼に牝犬を見、一方の眼に主人を見上げ、引きとめて呉れ、
媒妁(なかだち)して下さいと云い貌(がお)にクンクン鳴いたが、
主人はもとより如何ともすることが出来なかった。


其秋白の主人は、死んだ黒のかわりに彼(かの)牝犬の子の一疋をもらって来て矢張(やはり)其(そ)れを黒と名づけた。
白は甚(はなはだ)不平であった。
黒を向うに置いて、走りかゝって撞(どう)と体当りをくれて衝倒(つきたお)したりした。

小さな黒は勝気な犬で、縁代の下なぞ白の自由に動けぬ処にもぐり込んで、
其処(そこ)から白に敵対して吠えた。
然し両雄(りょうゆう)並び立たず、黒は足が悪くなり、久しからずして死んだ。

而(しか)して再(ふたた)び白の独天下になった。
可愛がられて、大食して、弱虫の白はます/\弱く、鈍(どん)の性質はいよ/\鈍になった。
よく寝惚けて主人に吠えた。
主人と知ると、恐れ入って、
膝行頓首(しっこうとんしゅ)、亀の様に平太張りつゝすり寄って詫びた。

わるい事をして追かけられて逃げ廻るが、果ては平身低頭して恐る/\すり寄って来る。
頭を撫でると、其手を軽く啣(くわ)えて、
衷心を傾けると云った様にはアッと長い/\溜息をついた。

       二

死んだ黒(くろ)の兄が矢張黒と云った。
遊びに来ると、白(しろ)が烈しく妬(ねた)んだ。
主人等が黒に愛想をすると、白は思わせぶりに終日(しゅうじつ)影を見せぬことがあった。


甲州街道に獅子毛天狗顔をした意地悪い犬が居た。
坊ちゃんの白を一方(ひとかた)ならず妬み憎んで、顔さえ合わすと直ぐ咬んだ。
ある時、裏の方で烈(はげ)しい犬の噛み合う声がするので、出て見ると、
黒と白とが彼天狗(てんぐ)犬を散々咬んで居た。

元来平和な白は、卿(おまえ)が意地悪だからと云わんばかり恨めしげな情なげな泣き声をあげて、
黒と共に天狗犬に向うて居る。
聯合軍に噛まれて天狗犬は尾を捲き、獅子毛を逆立てゝ、
甲州街道の方に敗走するのを、白の主人は心地よげに見送った。


其後白と黒との間に如何(どん)な黙契が出来たのか、
白はあまり黒の来遊(らいゆう)を拒まなくなった。
白を貰って来てくれた大工が、牛乳車(ぐるま)の空箱を白の寝床に買うて来てくれた。

其白の寝床に黒が寝そべって、尻尾ばた/\箱の側をうって納(おさ)まって居ることもあった。
界隈(かいわい)に野犬が居て、あるいは一疋、ある時は二疋、稲妻(いなずま)強盗の如く横行し、
夜中鶏を喰ったり、豚を殺したりする。

ある夜、白が今死にそうな悲鳴をあげた。
雨戸引きあけると、何ものか影の如く走せ去った。
白は後援を得てやっと威厳を恢復し、二足三足あと追かけて叱る様に吠えた。
野犬が肥え太った白を豚と思って喰いに来たのである。

其様な事が二三度もつゞいた。
其れで自衛の必要上白は黒と同盟を結んだものと見える。
一夜(いちや)庭先で大騒ぎが起った。
飛び起きて見ると、聯合軍は野犬二疋の来襲に遇うて、形勢頗る危殆(きたい)であった。


白と黒は大の仲好になって、始終共に遊んだ。
ある日近所の与右衛門(よえもん)さんが、一盃機嫌で談判に来た。
内の白と彼(かの)黒とがトチ狂うて、与右衛門の妹婿武太郎が畑の大豆を散々踏み荒したと云うのである。
如何して呉(く)れるかと云う。

仕方が無いから損害を二円払うた。
其後黒の姿はこっきり見えなくなった。
通りかゝりの武太(ぶた)さんに問うたら、
与右衛門さんの懸合で、黒の持主の源さん家では余儀なく作男に黒を殺させ、
作男が殺して煮て食うたと答えた。
うまかったそうです、と武太さんは紅い齦(はぐき)を出してニタ/\笑った。


ある日見知らぬかみさんが来て、
此方(こちら)の犬に食われましたと云って、
汚ない風呂敷から血だらけの軍鶏(しゃも)の頭と足を二本出して見せた。

内の犬は弱虫で、軍鶏なぞ捕る器量はないが、と云いつゝ、
確に此方の犬と認めたのかときいたら、
かみさんは白い犬だった、
聞けば粕谷(かすや)に悪イ犬が居るちゅう事だから、其(そ)れで来たと云うのだ。

折よく白が来た。
かみさんは、これですか、と少し案外の顔をした。
然し新参者の弱身で、
感情を傷(そこな)わぬ為兎(と)に角(かく)軍鶏の代壱円何十銭の冤罪費を払った。
彼(かれ)は斯様な出金を東京税と名づけた。
彼等はしば/\東京税を払うた。


白の頭上には何時となく呪咀(のろい)の雲がかゝった。
黒が死んで、意志の弱い白はまた例の性悪の天狗犬と交る様になった。
天狗犬に嗾(そそのか)されて、色々の悪戯も覚えた。
多くの犬と共に、近在の豚小屋を襲うと云う評判も伝えられた。

遅鈍な白(しろ)は、豚小屋襲撃引揚げの際逃げおくれて、
其着物(きもの)の著(いちじる)しい為に認められたのかも知れなかった。

其内村の収入役の家で、係蹄(わな)にかけて豚とりに来た犬を捕ったら、
其れは黒い犬だったそうで、
さし当(あた)り白の冤は霽(は)れた様(よう)なものゝ、
要するに白の上に凶(あし)き運命の臨んで居ることは、彼の主人の心に暗い翳を作った。


到頭白の運命の決する日が来た。
隣家の主人が来て、数日来猫が居なくなった、

不思議に思うて居ると、今しがた桑畑の中から腐りかけた死骸を発見した。
貴家(おうち)の白と天狗犬とで咬み殺したものであろ、
死骸を見せてよく白を教誡していただき度い、と云う意を述べた。
同時に白が度々隣家の鶏卵を盗み食うた罪状も明らかになった。


最早詮方は無い。
此まゝにして置けば、隣家は宥(ゆる)してくれもしようが、
必(かならず)何処(どこ)かで殺さるゝに違いない。
折も好し、甲州の赤沢君が来たので、甲州に連れて往ってもらうことにした。

白の主人は夏の朝早く起きて、
赤沢君を送りかた/″\、白を荻窪の停車場まで牽(ひ)いて往った。
千歳村に越した年の春もろうて来て、
この八月まで、約一年半白は主人夫妻と共に居たのであった。

主婦は八幡下まで送りに来て、涙を流して白に別れた。
田圃を通って、雑木山に入る岐(わか)れ道まで来た時、
主人は白を抱き上げて八幡下に立って遙(はるか)に目送して居る主婦に最後の告別をさせた。

白は屠所の羊の歩みで、牽かれてようやく跟(つ)いて来た。
停車場前の茶屋で、駄菓子を買うてやったが、
白は食おうともしなかった。

貨物車の犬箱の中に入れられて、飯がわりの駄菓子を入れてやったのを見むきもせず、
ベソをかきながら白は甲州へ往ってしもうた。

       三

最初の甲州だよりは、白が赤沢君に牽かれて無事に其家に着いた事を報じた。
第二信は、ある日白が縄をぬけて、赤沢君の家から約四里甲府(こうふ)の停車場まで帰路を探がしたと云う事を報じた。
然(しか)し甲府からは汽車である。
甲府から東へは帰り様がなかった。


赤沢君が白を連れて撮った写真を送ってくれた。
眼尻が少し下って、口をあんとあいたところは、贔屓目(ひいきめ)にも怜悧な犬ではなかった。
然し赤沢君の村は、他(ほか)に犬も居なかったので、皆に可愛がられて居ると云うことであった。

           *

白が甲州に養われて丁度一年目の夏、旧主人夫妻は赤沢君を訪ねた。
其(その)家に着いて挨拶して居ると庭に白の影が見えた。
喫驚(びっくり)する程大きくなり、豚の様にまる/\と太って居る。

「白」と声をかくるより早く、土足で座敷に飛び上り、膝行(しっこう)匍匐(ほふく)して、
忽ち例の放尿をやって、旧主人に恥をかゝした。

其日は始終跟(つ)いてあるき、翌朝山の上の小舎にまだ寝て居ると、
白は戸の開くや否飛び込んで来て、蚊帳越しにずうと頭をさし寄せた。

帰りには、予め白を繋(つな)いであった。
別(わかれ)に菓子なぞやっても、喰おうともしなかった。
而(しか)して旧主人夫妻が帰った後、彼等が馬車に乗った桃林橋(とうりんきょう)の辺まで、
白(しろ)は彼等の足跡を嗅いで廻って、大騒ぎしたと云うことであった。


翌年の春、夫妻は二たび赤沢君を訪うた。
白は喜のあまり浮かれて隣家の鶏を追廻し、
到頭一羽を絶息させ、而(しか)して旧主人にまた損害を払わせた。


其(その)後(のち)白に関する甲州だよりは此様な事を報じた。
笛吹川未曾有(みそう)の出水で桃林橋が落ちた。
防水護岸の為一村(いっそん)の男総出で堤防に群がって居ると、
川向うの堤に白いものゝ影が見えた。

其は隣郡に遊びに往って居た白であった。
白だ、白だ、白も斯水では、と若者等は云い合わした様に如何するぞと見て居ると、
白は向うの堤を川上へ凡(およそ)二丁ばかり上ると、
身を跳(おど)らしてざんぶとばかり濁流、箭の如(ごと)き笛吹川に飛び込んだ。

あれよ/\と罵(ののし)り騒ぐ内に、愚なる白、弱い白は、
斜に洪水の川を游(およ)ぎ越し、陸に飛び上って、ぶる/\ッと水ぶるいした。若者共は一斉(いっせい)に喝采の声をあげた。
弱い彼にも猟犬即(すなわ)ち武士の血が流れて居たのである。


白に関する最近の消息は斯(こ)うであった。
昨春(さくしゅん)当時の皇太子殿下今日の今上陛下が甲州御出の時、
演習御覧の為赤沢君の村に御入の事があった。
其(その)時(とき)吠(ほ)えたりして貴顕に失礼があってはならぬと云う其の筋の遠慮から、白は一日拘束された。
主人が拘束されなかったのはまだしもであった。

       四

白の旧主の隣家では、其家の猫の死の為に白が遠ざけられたことを気の毒に思い、
其息子が甘藷売りに往った帰りに
神田の青物問屋からテリアル種(しゅ)の鼠(ねずみ)程(ほど)な可愛い牝犬をもらって来てくれた。

ピンと名をつけて、五年来(ごねんらい)飼うて居る。
其子孫も大分界隈(かいわい)に蕃殖した。
一昨年から押入婿(おしいりむこ)のデカと云う大きなポインタァ種の犬も居る。
昨秋からは追うても捨てゝも戻って来る、いまだ名無しの風来(ふうらい)の牝犬も居る。
然し愚な鈍な弱い白が、主人夫妻にはいつまでも忘られぬのである。



白は大正七年一月十四日の夜半病死し、赤沢君の山の上の小家の梅の木蔭に葬られました。
甲州に往って十年です。
村の人々が赤沢君に白のクヤミを言うたそうです。
「白は人となり候」と赤沢君のたよりにありました。
「白」は幸福な犬です。

  大正十二年二月九日追記

・・】

このように愚な鈍な上、気弱な白い犬であり、
近くの犬と共に、近在の豚小屋を襲うと云う評判も伝えられたり、
幾度も鶏卵を盗み食うた罪状も明らかになったりしたので、
やむえず遠方の甲州に住む友人に預けたのである。

その後、夫妻が甲州に住む友人を訪れた折、この愛犬は喜びのしぐさを現したり
する。
この間、夫妻は別の犬を飼ったりするが、
然し愚な鈍な弱い白が、主人夫妻にはいつまでも忘られぬのである、
と綴りは結ぶのである。

私の生家は昭和20年代、私の幼年期の頃は犬を飼うことはなく、
父、祖父が死去され、家が没落しはじめた頃、
妹たちが子犬を飼いはじめていたが、
私は申(さる)年の生まれのせいか、古来より犬猿の仲のことわざ通り、
犬には興味はないのである。

                        《つづく》



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私が思わず好感した雑誌は、『プレジデント別冊 50plus』・・。

2009-06-24 11:26:25 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昨日、いつものようにスーパーなどに買物にでかけたのである。
梅雨の合間の快晴となったが、30度近い暑さであったので、
暑さに苦手な私は、扇子を扇(あお)ぎながら歩道を歩いたりしたのである。

そして、日常雑貨用品で家内から頼まれた室内用の脱臭剤を見つかった後、
ほっとしながら雑誌コーナーで何気なしに見ていた時、
ひとつの雑誌の表紙に瞬時見惚(みと)れてしまった・・。


http://www.president.co.jp/book/item/50plus/50plus010915/

《 心と頭の
      ハッピー図書館 》

と中段に大きく明示されて、その下には、

《  出会えて良かった!
  賢人30人の太鼓判
       880冊 》
と明記されていた。

そして最上段には、
【 プレジデント フィフティ・プラス 
  50plus 】
と雑誌名が表示されていた。

そして、私はこの雑誌は以前にも購入したことがあったと思いだした。

このことに関しては、このサイトで4月30日に於いて、
【 私がおひとりさまになった、その時は・・。 】と題して、
投稿しているが、一部を再掲載する。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
子供に恵まれことがなく家内と2人だりの家庭であり、
そして築後30数年の古惚けた家に住んでいる・・。

過日、鹿児島・市内と霧島温泉の帰路の際、
羽田空港の売店で何気なし見ていた時、
ひとつの雑誌の表紙の見出しに気になり、購入してしまったのである。

『プレジデント フィフティ・プラス』(プレジデント社)という雑誌であったが、
【 総力特集
     金持ち定年、貧乏定年 】
と大きく明示されていたので、いやらしいタイトルであったが、
小心者の私は読みたいと思ったのである。

http://www.president.co.jp/pre/backnumber/2009/20090629/


私は帰宅後の2日後に、この雑誌を読んだりしたが、
何より深く読んだのは、特集のひとつである『男おひとりさまの晩年』であり、
お金、住まい、相続、遺言、友達、そしてドッキリしたがセックスのことも、
やさしく教示されていたのである。

私は煙草も喫うし、お酒も好きだし、散歩する以外はスポーツはしないぐうだらな身で、
家内より早くあの世に行くと確信はしているが、
世の中は先のことは何が起きるか解からないので、
家内に先立だれた場合のことを一年に数度ぐらいは考えたりしている。


家内とは日頃から、葬儀、お墓のことも何度も話し合い、
葬儀は親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時のきまぐれでお墓参りをすれば、
とお互いに確認し合っている。

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようにこともあるのか、
と呆然としながら四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

そして私は、料理、掃除、洗濯などは初心者の若葉マークのような身であり、
戸惑いながら行うが、
何より長年寝食を共にし、人生の大半の苦楽を分かち合い、
気楽に安心して話す相手がいなくなったことが困るのである。

(略)

・・】


この後、私は雑誌を手に取り、著名人に寄る本の紹介が掲載されていたので、
購入したのである。

帰宅の途中で、季刊雑誌の『文藝春秋 SPECIAL』に於いては、
夏号は《 映画が人生を教えてくれた 》で改めて著名人の熱い思いを教示されたり、
その以前の春号では、《 日本人は本が好き 》と副題され、
改めてそれぞれのお方が読書に対しての深い想いを学んだりしたのである。

そして、『現代 プレミア』に於いては、
《 ノンフィクションと教養 》と大きく題された雑誌も、
有数な10名のお方に寄るノンフィクションの本が紹介されていた。


私はこうした雑誌を読みながら、
余りにも多くの未読の本、映画の作品を見逃したと思ったりし、
残された人生に於いては果たして、と思いながら楽しみは数多くある、
と微苦笑したりしているのである。


私は帰宅後、洗面し、着替えたりしながら、
『XXちゃん・・今年・・一番の暑さみたい・・』
と私は、家内に云ったりしていた。
家内は冷房が苦手な身であるので、我が家はいまだに今年は冷房をしていないので、
私は無言で催促をしたのであるが、家内は微笑んで扇風機を取り出してきたのである。


昼食後、私は網戸越しに微風を受ける奥の和室で、
扇風機の風を受けながら、簡易ベットに横たわり、
JRの夜行寝台特急『北斗星号』のB寝台の個室より遥かに快適と感じながら、
今回の『プレジデント別冊 50plus(フィフティ・プラス)』を読みはじめたのである・・。

《ジャンル別人生がもっと楽しくなる傑作・名著591冊》と題された特集に於いて、
日本を代表する作家、評論家、学者、ジャーナリストたちが、
それぞれの分野で推薦される本の数々がある。

特に私は魅せられ、多々教示を受けたのは、《文豪・古典》であった。
作家・丸谷才一氏が語られた記事である。
【・・
日本の近代文学でだれが偉いかといえば、
夏目漱石と谷崎潤一郎、そして森鴎外の三人だと相場はほぼ決まっています。
戦前の文壇筋では、谷崎はともかく、
漱石や鴎外を褒めるのは素人で、
一番偉いのは志賀直哉だと評価が定まっていましたが、
ここにきてやっと妥当なところに落ちつきました。

一般的に漱石や谷崎の作品はよく読まれているはずなので、
あらためて触れる必要はないでしょう。
問題なのは森鴎外です。

・・(略)

・・】
注)記事の原文より、あえて改行を多くした。

と丸谷才一氏は語られて、森鴎外の作品を深く分析され、評論をしている。

そして、氏が薦める文豪・古典の14作品があるが、
日本文学は3作品であり、森鴎外の作品で占められている。

私は微苦笑しながら、共感したり、教示されながら、
こうした発言は純文学の専門誌はもとより、
文芸出版社の『講談社』、『新潮社』、『文藝春秋』などでは掲載されにくい記事であると思い、
しばらく微苦笑したのである。

そして、夜のひととき寝室の布団の中で、
辛口の文芸評論家と知られている斉藤美奈子氏の『60年間総ざらい! ベストセラー「五つの法則」』を読めば、
『年間ベストセラー』のそれぞれの年の5つの作品を主軸にして、
『日本と世界の出来事』、『当時の流行』を併用した記事を読むと、
あの頃はあのようなこともあった、と深く共感をすれば、
深夜の2時過ぎになってしまい、あわてて消灯をしたりする。


このように偶然にめぐり逢えた雑誌に導かれて、
残された人生において、改めて未読の本が多く、読書に魅了されるひとときが過ごせる、
と感じたりしているのである。




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今朝の私は、沖縄に向かって、黙祷を終えて・・。

2009-06-23 07:12:07 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
今朝、毎年のようなことながら、沖縄の方面に向かって、
手を合わせた後、黙祷をした・・。


こうしたことは、ここ数年綴ったりしているが、
昨年に於いては、【 私は沖縄に向かって、黙祷を終えて・・。】と題し、
このサイトに投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
今朝、私は洗面を終えた後、
沖縄に向かって、黙祷をした・・。

私は齢を重ねた63歳の身であり、
かの大戦の敗戦直後の1年前に東京郊外で生を受けた身であるが、
特に沖縄諸島に対する思いは深いのである。

昨年のこの日には、
『私は沖縄に向かって、黙祷・・。』と題して投稿している。


・・(略)

私は毎年、本日の朝は沖縄に向って、黙祷をしている。

太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、
沖縄戦は事実上集結した日である。
沖縄県は『慰霊の日』として、この日は戦没者追悼式が行われている。

私は昭和19年9月に東京の郊外で生を受けた身で、
沖縄に関して無知な方であるが、
かの戦争で日本の防波堤となり、一般人まで戦禍にまみれ、尊い犠牲の上で、
今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思っているのである。

広島、長崎、そして各地で空襲などで亡くなった方は多いが、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、一般の人々が戦禍の中で虐殺される事実に於いて、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
沖縄に向って、黙祷をしている。

尚、敗戦後の日本の平和は、国際の各国の怜悧な国益に基づいて、
悪夢であるが核抑止を背景とした軍事力を根底とした政治・外交・経済で、
何んとか今日を迎えていると思考している。




私は昨年の『沖縄慰霊の日』の後、
私達夫婦は家内と母と10月下旬より沖縄本島を8泊9日で訪れ、
更に思いは深めている。

・・】

このように投稿しているが、
私の沖縄の思考は、昨年のこの日も綴っているので、省略する。



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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《16》

2009-06-22 17:38:30 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれ6年を迎える頃は、村人の慣習に馴染み、
鎮守八幡の集会、式典などに参加されている。

こうした中、雪の降る日中、ひとりの友人が来宅し、
宿泊した翌朝も雪が降る中、友人を見送る・・。

今回は、『わかれの杉』と題して、秘められた愛惜感ある綴りとなっている。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。

【・・
        わかれの杉

彼の家から裏の方へ百歩往けば、鎮守八幡(ちんじゅはちまん)である。
型の通りの草葺の小宮(こみや)で、田圃(たんぼ)を見下ろして東向きに立って居る。


月の朔(ついたち)には、太鼓が鳴って人を寄せ、
神官が来て祝詞(のりと)を上げ、氏子(うじこ)の神々達が拝殿に寄って、
メチールアルコールの沢山(たくさん)入った神酒を聞召し、
酔って紅くなり給う。

春の雹祭(ひょうまつり)、秋の風祭(かざまつり)は毎年の例である。
彼が村の人になって六年間に、
此八幡で秋祭りに夜芝居が一度、昼神楽(ひるかぐら)が一度あった。

入営除隊の送迎は勿論、何角の寄合事(よりあいごと)があれば、
天候季節の許す限りは此処の拝殿(はいでん)でしたものだ。

乞食が寝泊りして火の用心が悪い処から、
つい昨年になって拝殿に格子戸(こうしど)を立て、締(しま)りをつけた。

内務省のお世話が届き過ぎて、
神社合併が兎(と)の、風致林(ふうちりん)が角(こう)のと、面倒な事だ。

先頃も雑木(ぞうき)を売払って、あとには杉か檜苗(ひのきなえ)を植えることに決し、
雑木を切ったあとを望の者に開墾(かいこん)させ、
一時豌豆や里芋を作らして置いたら、
神社の林地なら早々(そうそう)木を植えろ、
畑にすれば税を取るぞ、税を出さずに畑を作ると法律があると、
其筋から脅(おど)されたので、村は遽(あわ)てゝ総出で其部分に檜苗を植えた。


粕谷八幡はさして古くもないので、大木と云う程の大木は無い。
御神木と云うのは梢(うら)の枯れた杉の木で、
此は社(やしろ)の背(うしろ)で高処だけに諸方から目標(めじるし)になる。
烏がよく其枯れた木末(こずえ)にとまる。


宮から阪の石壇(いしだん)を下りて石鳥居を出た処に、
また一本百年あまりの杉がある。
此杉の下から横長い田圃(たんぼ)がよく見晴される。
田圃を北から南へ田川が二つ流れて居る。
一筋の里道が、八幡横から此大杉の下を通って、
直ぐ北へ折れ、小さな方の田川に沿うて、五六十歩往って小さな石橋(いしばし)を渡り、
東に折れて百歩余往ってまた大きな方の田川に架した欄干(らんかん)無しの石橋を渡り、
やがて二つに分岐(ぶんき)して、直な方は人家の木立の間を村に隠(かく)れ、
一は人家の檜林に傍(そ)うて北に折れ、林にそい、桑畑(くわばたけ)にそい、二丁ばかり往って、
雑木山の端(はし)からまた東に折れ、北に折れて、
六七丁往って終に甲州街道に出る。

此雑木山の曲(まが)り角(かど)に、一本の檜があって、八幡杉の下からよく見える。


村居六年の間、彼は色々の場合に此杉の下(した)に立って色々の人を送った。
彼(かの)田圃を渡(わた)り、彼雑木山の一本檜から横に折れて影の消ゆるまで
目送(もくそう)した人も少くはなかった。
中には生別(せいべつ)即(そく)死別となった人も一二に止まらない。
生きては居ても、再び逢(あ)うや否疑問の人も少くない。

此杉は彼にとりて見送(みおくり)の杉、さては別れの杉である。
就中彼はある風雪の日こゝで生別の死別をした若者を忘るゝことが出来ぬ。


其は小説寄生木(やどりぎ)の原著者篠原良平の小笠原(おがさわら)善平(ぜんぺい)である。
明治四十一年の三月十日は、奉天決勝(ほうてんけっしょう)の三週年。
彼小笠原善平が恩人乃木将軍の部下として奉天戦に負傷したのは、
三年前の前々日(ぜんぜんじつ)であった。

三月十日は朝からちら/\雪が降って、寒い寂(さび)しい日であった。
突然彼小笠原は来訪した。
一年前、此家の主人(あるじ)は彼小笠原に剣を抛(なげう)つ可く熱心(ねっしん)勧告(かんこく)したが、
一年後の今日、彼は陸軍部内の依怙(えこ)情実に愛想(あいそう)をつかし
疳癪(かんしゃく)を起して休職願を出し、
北海道から出て来たので、今後は外国語学校にでも入って露語(ろご)をやろうと云って居た。
陸軍を去る為に恩人の不興を買い、恋人との間も絶望の姿となって居ると云うことであった。

雪は終日降り、夜すがら降った。
主は平和問題、信仰問題等につき、彼小笠原と反覆(はんぷく)討論した。
而して共に六畳に枕(まくら)を並べて寝たのは、夜の十一時過ぎであった。


明くる日、午前十時頃彼は辞し去った。
まだ綿の様(よう)な雪がぼったり/\降って居る。
此辺では珍らしい雪で、一尺の上(うえ)積(つも)った。
彼小笠原は外套の頭巾(ずきん)をすっぽりかぶって、
薩摩下駄をぽっくり/\雪に踏(ふ)み込みながら家(うち)を出(で)て往った。
主は高足駄を穿(は)き、番傘(ばんがさ)をさして、
八幡下別れの杉まで送って往った。
「じゃァ、しっかりやり玉(たま)え」
「色々お世話でした」


傘を傾けて杉の下に立って見て居ると、
また一しきり烈(はげ)しく北から吹きつくる吹雪(ふぶき)の中を、
黒い外套姿が少し前俛(まえこご)みになって、一足ぬきに歩いて行く。

第一の石橋を渡る。やゝあって第二の石橋を渡る。檜林について曲る。
段々小さくなって遠見の姿は、谷一ぱいの吹雪に消えたり見えたりして居たが、
一本檜の処まで来ると、見かえりもせず東へ折(お)れて、
到頭(とうとう)見えなくなってしもうた。


半歳(はんとし)の後、彼は郷里の南部(なんぶ)で死んだ。
 漢人の詩に、

   歩出(ほしていづ)城東門(じやうとうのもん)、
   遙望(はるかにのぞむ)江南路(こうなんのみち)、
   前日(ぜんじつ)風雪中(ふうせつのうち)、     
   故人(こじん)従此去(これよりさる)、


別れの杉の下に立って田圃を見渡す毎に、
吹雪の中の黒い外套姿が今も彼の眼さきにちらつく。

・・】


この当時の神社、鎮守八幡などが国の内務省が管理下され、
その地に住む村人たちの心情が伝わってくる。
私が幼児、子供の昭和20年代の終わりの頃まで、
近くの神社で初詣、秋のお祭りなどで巡業する芝居劇団などの
ありふれた舞台劇を観賞したりしたひとりである。

氏はひとりの友人が来宅し、
歓待しながら平和問題、信仰問題等を討論し、
翌朝、雪が舞い降る中、友人を見送る愛惜感のある情景を描いている。


                           《つづく》




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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《15》

2009-06-22 16:01:14 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、
村人の状況がわかるにつれて、今回は『腫物』と題して、
村人の一部の方に恥部のような実態を克明に綴られている・・。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。


【・・
     腫物

       一

人声が賑(にぎ)やかなので、往って見ると、
久(ひさ)さんの家は何時(いつ)の間にか解き崩されて、
煤(すす)けた梁や虫喰った柱、黒光りする大黒柱、
屋根裏の煤竹(すすたけ)、それ/″\類(るい)を分って積まれてある。

近所近在の人々が大勢寄ってたかって居る。
件(くだん)の古家を買った人が、崩す其まゝ古材木を競売するので、
其(そ)れを買いがてら見がてら寄り集うて居るのである。

一方では、まだ崩し残りの壁など崩して居る。
時々壁土が撞(どう)と落ちて、ぱっと汚ない煙をあげる。
汚ないながらも可なり大きかった家が取り崩され、
庭木や境の樫木は売られて切られたり掘られたりして、
其処らじゅう明るくガランとして居る。


家族はと見れば、三坪程の木小屋に古畳を敷いて、
眼の少し下って肥え脂ぎったおかみは、例の如くだらしなく胸を開けはだけ、
おはぐろの剥(は)げた歯を桃色の齦(はぐき)まで見せて、
買主に出すとてせっせと茶を沸かして居る。

頬冠りした主人の久さんは、例の厚い下唇を突出したまゝ、吾不関焉と云う顔をして、
コト/\藁(わら)を打って居る。
婆さんや唖の巳代吉(みよきち)は本家へ帰ったとか。
末の子の久三は学校へでも往ったのであろ、姿は見えぬ。


一切の人と物との上に泣く様な糠雨(ぬかあめ)が落ちて居る。

あゝ此(この)家も到頭潰れるのだ。


       二


今は二十何年の昔、村の口きゝ石山某に、女一人子一人あった。
弟は一人前なかったので婿養子をしたが、
婿と舅の折合が悪い為に、老夫婦は息子を連れて新家に出た。

今解き崩されて片々(ばらばら)に売られつゝある家が即ち其れなのである。
己が娘に己が貰った婿ながら、気が合わぬとなれば仇敵より憎く、
老夫婦は家財道具万端好いものは皆(みな)引たくる様にして持って出た。
よく実る柿の木まで掘って持って往った。


痴(おろか)な息子も年頃になったので、
調布在から出もどりの女を嫁にもろうてやった。
名をお広(ひろ)と云って某の宮様にお乳をあげたこともある女であった。

婿入の時、肝腎の婿さんが厚い下唇を突出したまま戸口もとにポカンと立って居るので、
皆ドッと笑い出した。
久太郎が彼の名であった。


久さんに一人の義弟があった。
久さんが生れて間もなく、村の櫟林(くぬぎばやし)に棄児があった。
農村には人手が宝である。

石山の爺さんが右の棄児を引受けて育てた。
棄児は大きくなって、名を稲次郎(いねじろう)と云った。
彼の養父、久さんの実父は、一人前に足りぬ可愛の息子が行(ゆ)く/\の力にもなれと、
稲次郎の為に新家の近くに小さな家を建て彼にも妻をもたした。


ある年の正月、石山の爺さんは年始に行くと家を出たきり行方不明になった。
探がし探がした結果、彼は吉祥寺、境間の鉄道線路の土をとった穴の中に真裸になって死んで居た。
彼は酒が好きだった。
年始の酒に酔って穴の中に倒れ凍死んだのを物取りが来て剥いだか、
それとも追剥(おいはぎ)が殺して着物を剥いだか、
死骸は何も告げなかった。
彼は新家の直ぐ西隣にある墓地に葬られた。


主翁(おやじ)が死んで、石山の新家は(よめ)の天下になった。
誰も久(ひさ)さんの家とは云わず、宮前のお広さんの家と云った。
宮前は八幡前を謂うたのである。
外交も内政も彼女の手と口とでやってのけた。
彼女は相応に久さんを可愛がって面倒を見てやったが、無論亭主とは思わなかった。
一人前に足らぬ久さんを亭主にもったおかみは、
義弟(ぎてい)稲次郎の子を二人まで生んだ。
其子は兄が唖で弟が盲であった。

罪の結果は恐ろしいものです、と久さんの義兄はある人に語った。
其内、稲次郎は此辺で所謂即座師(そくざし)、繭買をして失敗し、
田舎の失敗者が皆する様に東京に流れて往って、王子(おうじ)で首を縊(くく)って死んだ。

其妻は子供を連れて再縁し、其住んだ家は隣字(となりあざ)の大工が妾の住家となった。
私も棺桶をかつぎに往きましたでサ、王子まで、と久さん自身稲次郎の事を問うたある人に語った。

       三

背後は雑木林、前は田圃、西隣は墓地、東隣は若い頃彼自身遊んだ好人の辰(たつ)爺さんの家、
それから少し離れて居るので、云わば一つ家の石山の新家は内証事には誂向(あつらえむ)きの場所だった。
石山の爺さんが死に、稲次郎も死んだあと、久さんのおかみは更に女一人子一人生んだ。

唖と盲は稲次郎の胤(たね)と分ったが、彼(あの)二人は久さんのであろ、
とある人が云うたら、否、否、あれは何某(なにがし)の子でさ、
とある村人は久さんで無い外の男の名を云って苦笑した。
Husband-in-Law の子で無い子は、次第に殖えた。

殖えるものは、父を異にした子ばかりであった。
新家に出た時石山の老夫婦が持て出た田畑財産は、段々に減って往った。

本家から持ち出したものは、少しずつ本家へ還って往った。
新家は博徒破落戸(ならずもの)の遊び所になった。
博徒の親分は、人目を忍ぶに倔強な此家を己(わ)が不断の住家にした。

眼のぎろりとした、胡麻塩髯の短い、二度も監獄の飯を食った、
丈の高い六十爺の彼は、
村内に己が家はありながら婿夫婦を其家に住まして、
自身は久さんの家を隠れ家にした。
昼は炉辺(ろべた)の主の座にすわり、夜は久さんのおかみと奥の間に枕を並べた。

久さんのおかみは亭主の久さんに沢庵で早飯食わして、
僕(ぼく)かなんぞの様に仕事に追い立て、
あとでゆる/\鰹節かいて甘(うま)い汁をこさえて、
九時頃に起き出て来る親分に吸わせた。
親分はまだ其上に養生の為と云って牛乳なぞ飲んだ。

「俺(おら)ァ嬶(かか)とられちゃった」
と久さんは人にこぼしながら、無抵抗主義を執って僕の如く追い使われた。
戸籍面の彼の子供は皆彼を馬鹿にした。

久さんのおかみは「良人(やど)が正直だから、良人が正直だから」
と流石に馬鹿と云いかねて正直と云った。
東隣のおとなしい媼(ばあ)さんも
「久さん、お広さんは今何してるだンべ?」
などからかった。

久さんは怪訝(けげん)な眼を上げて、
「え?」
と頓狂(とんきょう)な声を出す。
「何さ、今しがたお広さんがね、甜瓜(まくわ)を食ってたて事よ、ふ」
と媼さんは笑った。

久さんの家には、久さんの老母があった。
然し婆さんはの乱行家の乱脈に対して手も口も出すことが出来なかった。
若い時大勢の奉公人を使っておかみさんと立てられた彼女は、
八十近くなって眼液(めしる)たらして竈(へっつい)の下を焚(た)いたり、
海老の様な腰をしてホウ/\云いながら庭を掃いたり、
杖にすがって(よめ)の命のまに/\使(つか)いあるきをしたり、
其(そ)れでも其(その)無能の子を見すてゝ本家に帰ることを得(え)為(せ)なかった。

それに婆さんは亡くなった爺さん同様酒を好んだ。
本家の婿は耶蘇教信者で、一切酒を入れなかった。
久さんのおかみは時々姑に酒を飲ました。
白髪頭の婆さんは、顔を真赤にして居ることがあった。

彼女は時々吾儘を云う四十男の久さんを、
七つ八つの坊ちゃんかなんどの様に叱った。
尻切草履突かけて竹杖にすがって行く婆さんの背(うしろ)から、
鍬(くわ)をかついだ四十男の久さんが、
婆さんの白髪を引張ったりイタズラをして甘えた。

酒でも飲んだ時は、に負け通しの婆さんも昔の権式を出して、
人が久さんを雇いに往ったりするのが気にくわぬとなると、
「お広(ひろ)、断わるがいゝ」
と啖呵を切った。

       四

死んだ棄児の稲次郎が古巣に、
大工の妾と入れ代りに東京から書(ほん)を読む夫婦の者が越して来た。

地面は久さんの義兄のであったが、久さんの家で小作をやって居た。
東京から買主が越して来ぬ内に、久さんのおかみは大急ぎで裏の杉林の下枝を落したり、
櫟林の落葉を掃いて持って行ったりした。
買主が入り込んでのちも、其栗の木は自分が植えたの、其韮(にら)や野菜菊は内で作ったの、
其炉縁(ろぶち)は自分のだの、と物毎に争うた。

稲次郎の記憶が残って居る此屋敷を人手に渡すを彼女は惜んだのであった。
地面は買主のでも、作ってある麦はまだおかみの麦であった。
地面の主は、麦の一部を買い取るべく余儀なくされた。
おかみは義兄と其値(ね)を争うた。
買主は戯談に
「無代(ただ)でもいゝさ」
と云うた。

おかみはムキになって
「あなたも耶蘇教信者じゃありませんか。
信者が其様(そん)な事を云うてようござンすか」
とやり込めた。
彼女に恐ろしいものは無かった。

ある時義兄が其素行(そこう)について少し云々したら、
泥足でぬれ縁に腰かけて居た彼女は屹(きっ)と向き直り、
あべこべに義兄に喰ってかゝり、
老人と正直者を任せて置きながら、病人があっても本家として見もかえらぬの、
慾張ってばかり居るのと、いきり立った。

彼女は人毎に本家の悪口を云って同情を獲ようとした。
「本家の兄が、本家の兄が」
が彼女の口癖であった。
彼女は本家の兄を其魔力の下に致し得ぬを残念に思うた。
相手かまわず問わず語(がた)りの勢込んでまくしかけ、
「如何(いか)に兄が本が読めるからって、
村会議員だからって、信者だって、理(り)に二つは無いからね、
わたしは云ってやりましたのサ」
と口癖の様に云うた。

人が話をすれば、
「(うん)、(うん)、ふん、ふん」
と鼻を鳴らして聞いた。
彼女の義兄も村に人望ある方ではなかったが、
彼女も村では正札附の莫連者(ばくれんもの)で、堅い婦人達は相手にしなかった。

村に武太(ぶた)さんと云う終始ニヤ/\笑って居る男がある。
かみさんは藪睨(やぶにらみ)で、気が少し変である。
ピイ/\声(ごえ)で言う事が、余程馴れた者でなければ聞きとれぬ。
彼女は誰に向うても亡くした幼女の事ばかり云う。
「子供ははァ背に負(おぶ)っとる事ですよ。
背からおろしといたばかしで、女(むすめ)もなくなっただァ」
と云いかけて、斜視(やぶ)の眼から涙をこぼして、さめ/″\泣き入るが癖である。

また誰に向っても、
「萩原(はぎわら)の武太郎は、五宿へ往って女郎買ばかしするやくざ者で」
と其亭主の事を訴える。
武太さんは村で折紙つきのヤクザ者である。
武太さんに同情する者は、久(ひさ)さんのおかみばかりである。
「彼様な女房持ってるンだもの」
と、武太さんを人が悪く言う毎(ごと)に武太さんを弁護する。

然し武太さんの同情者が乏しい様に、
久さんのおかみもあまり同情者を有たなかった。

唯村の天理教信者のおかず媼(ばあ)さんばかりは、
久さんのおかみを済度(さいど)す可く彼女に近しくした。


稲次郎のふる巣に入り込んだ新村入は、
隣だけに此莫連女の世話になることが多かった。
彼女も、久さんも、唖の子も、最初はよく小使銭取りに農事の手伝に来た。
此方からも麦扱(むぎこ)きを借りたり、饂飩粉を挽いてもらったり、豌豆(えんどう)や里芋を売ってもらったりした。

おかみも小金(こがね)を借りに来たり張板を借りに来たりした。
其子供もよく遊びに来た。
蔭でおかみも機嫌次第でさま/″\悪口を云うたが、
顔を合わすと如才なく親切な口をきいた。

彼女の家に集う博徒の若者が、
夏の夜帰りによく新村入の畑に踏み込んで水瓜を打割って食ったりした。

新村入は用があって久さんの家に往く毎に胸を悪くして帰った。
障子は破れたきり張ろうとはせず、畳は腸(はらわた)が出たまゝ、壁は崩れたまゝ、
煤(すす)と埃(ほこり)とあらゆる不潔に盈(みた)された家の内は、
言語道断の汚なさであった。

おかみはよく此(この)中で蚕に桑をくれたり、
大肌(おおはだ)ぬぎになって蕎麦粉を挽いたり、
破れ障子の内でギッチョンと響(おと)をさせて木綿機を織ったり、
大きな眼鏡をかけて縁先で襤褸(ぼろ)を繕(つくろ)ったりして居た。

       五

新村入が村に入ると直ぐ眼についた家が二つあった。
一は久さんの家で、今一つは品川堀の側にある店であった。

其店には賭博をうつと云う恐い眼をした大酒呑の五十余のおかみさんと、
白粉を塗った若い女が居て、若い者がよく酒を飲んで居た。
其後大酒呑のおかみさんは頓死して店は潰れ、
目ざす家は久さんの家だけになった。

己(わ)が住む家の歴史を知るにつけ、
新村入は彼の前に問題として置かれた久さんの家を如何にす可きかと思い煩(わずろ)うた。
色々の「我」が寄って形成して居る彼家は、云わば大きな腫物(はれもの)である。

彼は眼の前に臭い膿(うみ)のだら/\流れ出る大きな腫物を見た。
然し彼は刀を下す力が無い。彼は久しく機会を待った。


ある夏の夕、彼は南向きの縁に座って居た。
彼の眼の前には蝙蝠色(こうもりいろ)の夕闇が広がって居た。
其闇を見るともなく見て居ると、闇の中から湧(わ)いた様に黒い影がすうと寄って来た。
ランプの光の射す処まで来ると、其れは久さんのおかみであった。
彼は畳の上に退(しざ)り、おかみは縁に腰かけた。
「旦那様、新聞に出て居りましてすか」
と息をはずませて彼女は云った。

それは新宿で、床屋の亭主が、弟と密通した妻と弟とを剃刀で殺害した事を、
彼女は何処(どこ)からか聞いたのである。
「余りだと思います」
と彼女は剃刀の刃を己(わ)が肉にうけたかの様に切ない声で云った。


聞く彼の胸はドキリとした。
今だ、とある声が囁(ささや)いた。
彼はおかみに向うて、巳代公は如何して唖になったか、と訊いた。

おかみは、巳代が三歳(みっつ)までよく口をきいて居たら、
ある日「おっかあ、お湯が飲みてえ」
と云うたを最後の一言(いちごん)にして、
医者にかけても薬を飲ましても甲斐が無く唖になって了うた、と言った。

何の故か知って居るか、と畳みかけて訊くと、
其頃飼った牛を不親切からつい殺してしまいました、
其牛の祟(たた)りだと人が申すので、
色々信心もして見ましたが、甲斐がありませんでした、と云う。

巳代公ばかりじゃ無い、亥之公(いのこう)が盲になったのは如何したものだ、
と彼は肉迫した。
而して彼はさし俯(うつむ)くおかみに向うて、
此(この)家の最初の主の稲次郎と密通以来今日に到るまで彼女の不届の数々を烈しく責めた。
彼女は終まで俯いて居た。


それから二三日経(た)つと、彼は屋敷下を通る頬冠の丈高い姿を認めた。
其れが博徒の親分であることを知った彼は、
声をかけて無理に縁側に引張(ひっぱ)った。

満地の日光を樫の影が黒く染めぬいて、あたりには人の影もなかった。
彼は親分に向って、彼の体力、智慧、才覚、根気、度胸、其様なものを従来私慾の為にのみ使う不埒(ふらち)を責め
最早(もう)六十にもなって余生幾何もない其身、改心して死花を咲かせろと勧めた。
親分は其稼業の苦しい事を話し、ぎろりとした眼から涙の様なものを落して居た。

       六

然しながら彼(かの)癌腫(がんしゅ)の様な家の運命は、
往く所まで往かねばならなかった。


己が生んだ子は己が処置しなければならぬので、
おかみは盲の亥之吉を東京に連れて往って按摩(あんま)の弟子にした。
家に居る頃から、盲目ながら他の子供と足場の悪い田舎道を下駄ばきでかけ廻(まわ)った勝気の亥之吉は、
按摩の弟子になってめき/\上達し、追々一人前の稼ぎをする様になった。
おかみは行々(ゆくゆく)彼をかゝり子にする心算(つもり)であった。
それから自身によく肖(に)た太々(ふてぶて)しい容子をした小娘のお銀を、
おかみは実家近くの機屋(はたや)に年季奉公に入れた。


二人の兄の唖の巳代吉(みよきち)は最早若者の数に入った。
彼は其父方の血を示して、口こそ利けね怜悧な器用な華美(はで)な職人風のイナセな若者であった。
彼は吾家に入り浸(びた)る博徒の親分を睨(にら)んだ。
両手を組んでぴたりと云わして、親分とおっかあが斯様(こんな)だと眼色を変えて人に訴えた。
親分とおかみは巳代吉を邪魔にし出した。

ある時巳代公は親分の財布を盗んで銀時計を買った。
母を窃(ぬす)む者の財布を盗むは何でもないと思ったのであろう。
親分は是れ幸と巡査を頼んで巳代公を告訴し、巳代公を監獄に入れようとした。

巳代公を入れるより彼(あの)二人を入れろ、と村の者は罵った。
巳代吉は本家から願下げて、
監獄に入れる親分とおかみの計画は徒労になった。

然し親分は中々其居馴れた久さんの家の炉の座を動こうともしなかった。
親分と唖の巳代吉の間はいよ/\睨合(にらみあい)の姿となった。
或日巳代吉は手頃の棒を押取って親分に打ってかゝった。
親分も麺棒をもって渡り合った。
然し血気の怒に任(まか)する巳代吉の勢鋭く、
親分は右の手首を打折(うちお)られ、加之(しかも)棒に出て居た釘で右手の肉をかき裂(さ)かれ、
大分の痛手を負うた。

隣家の婆さんが駈(か)けつけて巳代吉を宥(なだ)めなかったら、
親分は手疵に止まらなかったかも知れぬ。
繃帯(ほうたい)して右手を頸(くび)から釣って、
左の手で不精鎌を持って麦畑の草など親分が掻いて居るのを見たのは二月も後(あと)の事だった。

喧嘩の仲入に駈けつけた隣の婆さんは、
側杖(そばづえ)喰(く)って右の手を痛めた。
久さんのおかみは、詫び心に婆さん宅の竈(へっつい)の下など焚(た)きながら、
喧嘩の折節近くに居合わせながら看過した隣村の甲乙を思うさま罵って居た。

       七

田畑は勿論(もちろん)宅地もとくに抵当に入り、
一家中日傭(ひやとい)に出たり、おかみ自身手織の木綿物を負って売りあるいたこともあったが、
要するに石山新家の没落は眼の前に見えて来た。
「お広さん、大層(たいそう)精(せい)が出ますね」
久さんが挽く肥車の後押して行くおかみを目がけて人が声をかけると、
「天狗様(てんごうさま)の様に働くのさ」
とおかみが答えたりしたのは、昔の事になった。

おかみは一切稼ぎを廃(よ)した。
而して時々丸髷に結って小ざっぱりとした服装(なり)をして親分と東京に往った。
家には肴屋が出入したり、乞食物貰いが来れば気前を見せて素手では帰さなかった。
彼女は癌腫の様な石山新家を内から吹き飛ばすべき使命を帯びて居るかの様に不敵(ふてき)であった。

           *

到頭腫物(しゅもつ)が潰れる時が来た。

おかみは独で肝煎(きもい)って、家を近在の人に、
立木を隣字の大工に売り、抵当に入れた宅地を取戻して隣の辰爺さんに売り、
大酒呑のおかみのあとに品川堀の店を出して居る天理教信者の彼おかず媼さん処へ引揚げた後、
一人残った腫れぼったい瞼(まぶた)をした末の息子を近村の人に頼み、
唯一つ残った木小屋を売り飛ばし、
而して最早師匠の手を離れて独立して居る按摩の亥之吉(いのきち)と間借りして住む可く東京へ往って了うた。


酒好きの老母と唖の巳代吉は、家が売れる頃は最早本家へ帰って居た。

嬶(かか)に置去られ、家になくなられ、地面に逃げられ、置いてきぼりを喰って一人木小屋に踏み留まった久さんも、
是非なく其姉と義兄の世話になるべく、
頬冠の頭をうな垂れて草履ぼと/\懐手して本家に帰った。

屋敷のあとは鋤(す)きかえされて、今は陸稲(おかぼ)が緑々(あおあお)と茂って居る。
・・】



千歳村は引越しされた明治40年に於いては、
粕谷はもとより下祖師ヶ谷、上祖師ヶ谷と三の字(あざ)の外、
船橋、廻沢、八幡山、烏山、給田の五字を有ち、
1番戸数の多いが烏山2百余戸、一番少ないのが八幡山19軒、次は粕谷の16軒・・
と記載されていた。

このようなそれぞれ集落の於いては、何軒かは外部の方に知られたくない
村民がいると思われる。
氏は新参者として、乱行家の乱脈、不衛生きわまりない状況などを克明に描いて折、
地元の住民にとっては余り公(おおやけ)にして欲しくない面もあるので、
百年後の今日でも、蘆花は偏屈な男で好ましくない、
と風の噂で私も聞いたりすることもある。

あの当時は、漁村、山村、この地の里村に於いても、
都心のように隠し通せる場所でなく、ともすれば赤裸々になることが多い。

私の幼児だった昭和20年代の前半さえ、
神代村を含めた集落に於いては、ある地主は妾とその子供も宅地にある物置小屋を改造した処に住居させたり、
乳児が病死し、座布団をふたつ折にして背中にしょつて、
毎夕さまよい歩く若い婦人を見かけていたりしていた・・。

そして都心の有数な財力のある跡取りの若い男は、
大正時代の半ば、結婚前に芸者遊びをして、子供が出来き、結果として里子に出したのである。
私の祖父が引き取り、父の妹たちと共に育てられ、
やがて父と結婚したのが私の母であった。

この人生、生き様を裁断するのは、どの時代でも安易であるが、
ひとり人が懸命に生きている状況には、ただ私は頭(こうべ)をたれる・・。


                            《つづく》

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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《14》

2009-06-22 10:59:03 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況を、
『憶出のかず/\』と題し、氏自身の思いが克明に綴られている・・。

前回は、《草葉のささやき》と副題が付けられ、
『百草園』と題し、都心より友人が訪ねて来て、氏と友人が遠方の『百草園』に行き、
この後、氏自身が独りで帰路した時、激しい雷雨に遭われながらも帰宅するまでを描いている。

今回は『月見草』と題して、多摩川から採ってきた月見草が氏の自宅の庭で、
増えた情景を観ながら、
氏は幼年期の故郷での出来事を回想する。


毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。


【・・
     月見草

村の人になった年(とし)、玉川の磧(かわら)からぬいて来た一本の月見草が、
今はぬいて捨てる程に殖(ふ)えた。
此頃は十数株、少(すくな)くも七八十輪宵毎(よいごと)に咲いて、
黄昏(たそがれ)の庭に月が落ちたかと疑われる。


月見草は人好きのする花では無い。
殊(こと)に日間(ひるま)は昨夜の花が赭(あか)く凋萎(しお)たれて、
如何にも思切りわるくだらりと幹(みき)に付いた態(ざま)は、見られたものではない。
然し墨染(すみぞめ)の夕に咲いて、尼(あま)の様に冷たく澄んだ色の黄、其(その)香(か)も幽に冷たくて、
夏の夕にふさわしい。
花弁(はなびら)の一つずつほぐれてぱっと開く音も聴くに面白い。
独物思うそゞろあるきの黄昏に、唯一つ黙って咲いて居る此花と、
はからず眼を見合わす時、誰か心跳(こころおど)らずに居られようぞ。
月見草も亦心浅からぬ花である。


八九歳の弱い男の子が、ある城下の郊外の家(うち)から、
川添いの砂道を小一里もある小学校に通う。
途中、一方が古来(こらい)の死刑場(しおきば)、一方が墓地の其中間(ちゅうかん)を通らねばならぬ処があった。

死刑場には、不用になった黒く塗った絞台や、今も乞食が住む小屋があって、
夕方は覚束ない火が小屋にともれ、一方の古墳(こふん)新墳(しんふん)累々(るいるい)と立並ぶ墓場の砂地には、
初夏の頃から沢山月見草が咲いた。

日間(ひるま)通る時、彼は毎(つね)に赭くうな垂(だ)れた昨宵(ゆうべ)の花の死骸を見た。
学校の帰りが晩くなると、彼は薄暗い墓場の石塔や土饅頭の蔭から黄色い眼をあいて彼を覗(のぞ)く花を見た。
斯(か)くて月見草は、彼にとって早く死の花であった。


其墓場の一端には、彼が甥(おい)の墓もあった。
甥と云っても一つ違い、五つ六つの叔父(おじ)甥は常に共に遊んだ。
ある時叔父は筆の軸(じく)を甥に与えて、犬の如く啣(くわ)えて振れと命じた。
従順な子は二度三度云わるゝまゝに振った。
叔父はまた振れと迫った。
甥はもういやだと頭を掉(ふ)った。
憎さげに甥を睨(にら)んだ叔父は、其筆の軸で甥の頬(ほお)をぐっと突いた。

甥は声を立てゝ泣いた。
其甥は腹膜炎にかゝって、明(あ)くる年の正月元日病院で死んだ。
屠蘇(とそ)を祝うて居る席に死のたよりが届(とど)いた。
叔父の彼は異な気もちになった。
彼ははじめてかすかな Remorse を感じた。


墓地は一方大川に面(めん)し、一方は其大川の分流に接して居た。
甥は其分流近く葬(ほうむ)られた。
甥が死んで二三年、小学校に通う様になった叔父は、
ある夏の日ざかりに、二三の友達と其小川に泳いだ。

自分の甥の墓があると誇り貌(が)に告げて、
彼は友達を引張って、甥の墓に詣(まい)った。
而して其小さな墓石の前に、真裸の友達とかわる/″\跪(ひざまず)いて、
凋(しお)れた月見草の花を折って、墓前の砂に插(さ)した。


彼は今月見草の花に幼き昔を夢の様に見て居る。

・・】


徳冨蘆花が千歳村・粕谷に住みはじめた初めての年、
多摩川の川べりからたった一本の月見草を抜いて持ち帰り、
自宅の庭に植えたならば、たちまち増え続けて、
宵には少なくとも70輪以上は黄色い花が咲いている、と綴られている。


そして月見草は日中に於いては、
昨夜の花が赭(あか)く凋萎(しお)たれ、だらりと幹に付いた態(ざま)は、見られたものではない、
と断言したりしている。

しかし、墨染(すみぞめ)の夕に咲いて、
尼の様に冷たく澄んだ色の黄、その香(か)も幽に冷たくて、
夏の夕にふさわしい。
そして花弁(はなびら)の一つずつほぐれてぱっと開く音も聴くに面白い。
独物思うそゞろあるきの黄昏に、唯一つ黙って咲いて居る此花と、
はからず眼を見合わす時、誰か心跳(こころおど)らずに居られようぞ、
と愛(いと)おしい心情で褒めたたえている・・。

氏の幼年期の故郷と想像するが、
城下の郊外の家から、川添いの砂道を小一里もある小学校に通う途中、
一方が古来の死刑場、一方が墓地の中を通らねばならぬ処があり、
死刑場には、不用になった黒く塗った絞台や、
今も乞食が住む小屋があって、夕方は覚束ない火が小屋にともれ、
一方の古墳、新墳が数多くある墓場の砂地には、
初夏の頃からたわわに月見草が咲いた、
と氏は思い出されている。


そして昼間通り過ぎる時、
いつも赭くうな垂(だ)れた昨宵(ゆうべ)の花の死骸を見たり、
下校が遅い時は、薄暗い墓場の石塔や土饅頭の蔭から黄色い眼をあいて彼を覗(のぞ)く花を見たりしたので、
月見草は、彼にとって早く死の花であった、
と心情されている。

氏の心情の奥底には、甥(おい)の墓もあり、
ひとつ齢下の甥っ子とは遊んだり、ときにはいたずらで泣かせたりしたが、
腹膜炎にかゝって、明(あ)くる年の正月元日病院で死んで、
屠蘇(とそ)を祝うて居る席に死のたよりが届(とど)き、
氏自身は、初めてかすかな悔恨を感じたりするのである。

その後、数年後の夏の日、友人と小川で泳ぎ終わった時、
甥の小さな墓石の前に、真裸の友達とかわる/″\跪(ひざまず)いて、
凋(しお)れた月見草の花を折って、墓前の砂に插(さ)した、
と綴られている。

氏の現在は、見草の花に幼き昔を夢の様に見て居る、
と綴りを終えている。


私の幼年期、父の妹である叔母たちは、草花が好きで、
宅地の外れに育て、少なくとも仏花はまかなえていた。
無念ながら、私は月見草には記憶がなく、見果てぬ草花のひとつとなっている。

次兄が小学二年生の時、学校の学芸会の児童劇に於いて、
月見草のある劇で、主役に選ばれたよ、
と母に自慢げに話していたのが、私はかすかに記憶がある程度である。

したがって、私にとっては月見草は幻の草花である。


                            《つづく》


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