夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

伊予地方産の柚子(ゆず)の樹、東京郊外でも季節の移ろいと共に過ごし、愛(いと)おしく・・・。

2012-10-08 18:16:24 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
『体育の日』を迎えて、働いて下さる現役の諸兄諸姉の多くは、三連休の最終日かしらと思い、
せめて休日の時ぐらいの時は、ご家族でゆっくりと過ごして下さい、とぼんやりと思ったりした。
そして行楽地に行かれたり、ハイキングを楽しまれたり、或いは公園で安息過ごしているかしら、
と私は微笑んだりした。

高齢者の私は『体育の日』は運動ぐらいと思っても、
平素はときにはウォーキングをするが、大半はひたすら自宅周辺を数キロ周辺を歩き散策する程度となっている。
せめて『体育の日』に対応して体力テストの代わり、庭の手入れをしょうと決意した。

朝の10時過ぎに爽やかな秋晴れの22度前後の中、樹木の剪定をしたり草むしりを孤軍奮闘していると、
やはり少し汗まみれ、やがて泥まみれとなったりした。
そして一時間毎に、庭のテラスに簡易椅子を置いてに腰かけ、10分ばかり休憩したりした。

ときおり微風が吹き、身をゆだねると、秋めいた風は心地よく、微笑んだりした。
そして、冷茶を飲み、煙草を喫ったりし、今しなくてはいつするのよ、
と心の中で気合いを入れて、昼食抜きで奮戦し、午後4時過ぎに体力の限界を感じて、
少しばかり清々(すがすが)しくなったで、庭の手入れは終了、と心の中で言ったりした。

この間、簡易椅子を置いてに腰かけ休憩している時、
庭の片隅に飢えているたった1本の柚子の樹を眺めたりし、微苦笑をしたりした。
この柚子の樹は、小ぶりの実が成る伊予地方(現在・愛媛県にあたる)産の樹である。


35年前、私の生家の近くに家を建てた後、
徒歩45分ばかり歩いた先に都立神代植物園に家内と共に行き、
帰路、深大寺の近い花木が多い苗木屋さんに立ち寄り、買い求めた品であった。

私の幼年期は農家の児として生を受け、宅地の外れに大きな柚子の樹があり、
晩秋になると、祖父が長い竹竿(たけざお)で捥(も)いだりし、
黄色い色艶した大きな実が数多く収穫できた・・。
そして、 お正月の御雑煮などに、幼児の私でも一切れ入れてもらったり、
祖父や父の晩酌の友としたり、春先までの大人楽しみの食べ物のひとつだった。

このような幼年期のささやかな体験があったので、
苗木屋さんで、柚子の樹に買い求めようかなぁ、と思っていたのである・・。
そして私は柚子の苗木を見たりしていた時、
『旦那さん、この柚子の樹・・お買い得よ・・』
と店の奥さんから声を掛けられた。

私は見ると、鉢に入った根元2センチぐらい、樹高は80センチぐらいで、
一人前に接木したあった。

『おねえさんさぁ・・その柚子の樹、少し小さ過ぎない?』
と私は言った。

『あらぁ、旦那さん・・伊予(いよ)地方の柚子なの、
この辺に成る大きめの実と違うけれど・・小振りな実で評判良いわょ・・』
と店の奥さんは微笑みながら、私に言った。

『小振りは、解ったけれど、実は成るかなぁ・・』
と私は言った。

『心配なしょ・・数年したら、食べきれなく程、成ります』
と店の奥さんは私に力強く言った。

『そうですか。実が成ったら、家から出荷するか』
とB型のお調子者の私は、明るく言ったりした。


こうして私は買い求めて、主庭の一箇所に植え、水をたっぷり上げた。
その後、肥料を施(ほどこ)し、数年過ぎた。

しかし花が咲かず、実も成らなかった。

『XXちゃん、地植えが駄目なのかなぁ』
と私は家内に言ったりした。

『貴方、柚子は実が成るまで時間が掛かると言うじゃ、ありませんの・・
柚の馬鹿・・何とか・・』
と家内は笑いながら、私に言った。

『苗木屋さんの奥さん・・調子良すぎだったなぁ・・』
と私は苗木屋さんの奥さんの顔としぐさを思い馳せながら、家内に言ったりした。

『・・』
家内は笑ってばかりだった。

『だまされたかなぁ・・』
と私は呟(つぶや)くように、未練たらしく言った。

この後、私は伊予地方と東京の郊外では、土壌が違うのか、
或いは主(あるじ)の私に反抗して、のろまな態度なのか、私は心配したりした。

こうして7年が過ぎた後、5月になると、突然に純白の花が咲いた。
そして秋になると、ゴルフホールぐらいの実が三つばかり収穫ができて、
これが小ぶりの実のなる伊予産地の柚子かょ、と私は微苦笑を重ねたりした。

翌年の5月になると、若芽が伸びたので、刈り込んだ。
栄養分を主木から枝に行き渡らす為に、程ほどに刈り込んだのである。
しかし私の期待に反して、この秋、収穫ゼロとなった。

それから数年、刈り込まず、肥料も与えず、草むしりだけは丁重にするだけで、
自力で成長しなさい、とあえて放置した。

そして秋になると、実に10数個ばかり収穫があった。


私が定年退職する10年前の頃からは、百個は超える実が成った。
この秋の時は、たわわな緑色の実を眺め、
『XXちゃんさぁ、やっと念願どおりになったょ・・』
と私は家内に高揚しながら言ったりした。

そして晩秋になると、緑色の実は淡い黄色に染められ、
やがて黄色になる頃は12月を迎えたりした。

このように我が家の伊予柚子は、苦節10数年の歳月を要したりである。


その後、5月初旬の頃になれば、
伊予柚子の枝からは、たわわに白い花を咲かせ、
私は微笑みながら、この樹木の下とその周辺を草むしりをしたりする時、

♪白い花が 咲いていた
 ふるさとの 遠い夢の日
【『白い花の咲く頃』 作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎 】

と思わずかぼそい声で鼻歌を唄ったりしている。

秋になると、週に一回、柚子を7つぐらい捥(も)ぎ、冷蔵庫の野菜コーナーに保管する。
そして夕食の前に、私はこの日に気に入った弐合徳利に辛口の純米酒を入れ、
人肌ほどに温めながら、ぐい呑みも選定した上、
家内に柚子のひとつを渡して、輪切りにして貰ったりする。

私は酒を一口呑み、柚子を口に含み、そして香りと共に味わう・・。

この後、家内と夕食を頂きながら、
私のかみ締めている柚子の一切れは、それなりの風味がある。

このように伊予柚子を晩酌の友としていたが、一昨年の秋から私は自発的に休肝日が多くなり、
こうした時は夕食の一品となったりしている。

このような私は、私の住む武蔵野地方から遥か遠方の四国の伊予地方の柚子は、
初めの10年ぐらいは敬遠されたが、やがて何とか我が家の土壌に馴染んでくれて、
愛(いと)おしさを増している・・。

こうした私なりのささやかな思いがあるので、庭の手入れの合間、微苦笑したのである。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葡萄(ブドウ)、そしてワイン、つたない私のささやかな想い・・。

2012-09-07 15:46:35 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

平素の買い物を自主的に専任担当となった私は、いつものように本日もスーパーに行き、
果物コーナーで、葡萄(ブドウ)の3種類を見て、『巨峰』を買い求めたりした。

過ぎし一週間前に、たまたま葡萄(ブドウ)を眺めて購入し、
家内が悦んで食べたりしていたので、その後、買い物に行くたびに、確か『甲斐路』、『ロザリオ』、
『ピオーネ』、『シャインマスカット』だったと思われるが、買い求めてきた。
年金生活の身なので、あくまで野口英世のお札一枚の範囲で購入している。

私たちは6月の頃から、西瓜(スイカ)を食べたりしてきたが、
私は葡萄(ブドウ)には興味がなく、家内の喜びのしぐさを眺めてきただけである。
そして家内に勧められて、一粒だけ頂いた・・。
やはり葡萄(ブドウ)より、ワインの方が美味しいょ、と私は家内に言ったりした。

しかしながら私は、恥ずかしながらワインも詳しくなく、雰囲気で吞む程度の低い男である。


若き20代の後半の独身期、私はシャンソンに熱中して、レコードを買い求めたり、
シャンソン歌手のライブが観られる『銀巴里』に通ったりしていた。

この当時は、バーボン・ウィスキーに氷を入れただけのオンザ・ロックで吞むことが多かったが、
ときたま住んでいた近くの酒屋さんで、白、赤ワインを買い求めたりした。
そして甘いワインは苦手で、一本2000円以下で渋みの奥深い味のワインを探し、
確か当時の西ドイツの南部地方のワインだったと記憶しているが、心身波長に逢い、購入していた。
そしてシャンソンのレコードを聴きながら、このワインを吞んだりしていた。

家内と交際を始めた頃は、私はイタリヤ料理に誘い、
ワインのボトルを選定して、料理を頂きながらワインを吞み、談笑したりしていた。
その後、婚約期間、新婚まもない時などは、何かとワインを吞むことが多かったが、
やがて一軒家の新居を構えた後は、借り入れのローンに苦闘して、優雅と錯覚されるワインから遠ざかった。

35歳を過ぎた頃から、日本酒の純米酒の辛口に目覚めて、
弐合徳利、ぐい吞むを買い求めたり、ときおりビールを吞んだりしていた。

確か45歳の頃、山梨県にある西沢渓谷のハイキングを日帰り観光バスツアーに私たち夫婦は参加して、
ハイキングを終えた後、勝沼の葡萄(ブドウ)園に立ち寄った・・。
私たちは葡萄(ブドウ)を捥(も)ぐことは初めてであったが、私はひと房を捥いだ後、
園内の一角にテープルと椅子の場所に移動した。
そして椅子に座り、ひと房の葡萄(ブドウ)を食べ始めていると、即売コーナーにワインが視(み)えて、
私は近寄り、この場で吞めるの、と確認した後、一本のワインを選定して買い求めたりした。

そして、即売の担当者から冷えたワインをテープルに置かれ、
私は吞みながら、園内で家内が葡萄(ブドウ)を捥ぎ、食べたりしいるのに、微笑んだりした。

私たち夫婦は共通趣味のひとつとして、国内旅行であるが、
ときおり旅先の食事処で、その地のワインを吞んだりしたり、
地元のイタリヤ料理でワインを吞んだりしているが、
なぜかしら私は訪ねたこともないイタリアの風土に思いを馳せたり、
或いはイタリア人を背景とした映画の数多くのシーンを思い浮かべたりして、家内と談笑したりしている。

ともすれば私はフランス料理の格式あるフルコースは苦手で、
なにかしら気軽で素朴で濃厚の多いイタリア料理に、和食に続いて魅了されているのは、
料理の味覚は幼年期で殆ど決定される、と古人から伝えられているので、
私の幼年期は農家の児として育てられた影響かしら、と微苦笑している。

そして呑兵衛の私は、グラスワイン、ミニボトルのワインは不満足であり、
ワインを吞むならば、殆ど720ml(4合瓶)が多いボトルしか眼中にないので、
人さわがせな男でもある。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『土用の丑』の日が過ぎても、年金生活の我が家は『うなぎ』に縁遠くなり・・。

2012-07-28 12:12:40 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日の朝、ぼんやりとカレンターを見たら、
『土用の丑』と明記されていたので、私は思わず苦笑させられたりした。

ここ数週間、テレビのニュースなどで、ウナギの稚魚の不漁で価格が上昇している、
と私は学んできた。

私は定年後の年金生活を始めて、日常の買物に関して自主的に専任者となり、
殆ど毎日のようにスーパー、専門店に行ったりしている。

昨日の朝も朝食を頂いた後、まもなく家内はスーパーのチラシに赤のサインペンで○印を付けて、
私に手渡した。
赤の○印は買い物の必須品であり、後は店内の品を見て、私が気に入った品を購入するのが、
我が家のいつもの習慣となっている。

そして家内は、
『あらぁ・・今日、『土用の丑』の日だわ・・
あなた・・久しぶりに『うな重』でも・・買われたら・・』
と私に微笑みながら言ったりした。

まもなく私は、家内から手渡しされた最寄りのスーパーのチラシを見たら、
《 栄養満点の鰻を食べて暑い夏をのりきろう! 》
と大きく題された文字があり、この下段には、
『鹿児島産 霧島湧水うなぎ長焼 一尾』1,580円
『鹿児島産 うなぎ霧島湧水の恵み 大サイズ一尾』1,980円
と具体的に解説されて掲載されていた。

そして横には、さんしょうの粉 298円、
霧島湧水うなぎ用 うなぎたれ(ボトル)168円、と可愛らしく掲載されていた。

或いは『特製うな重 1パック』980円、
『愛知三河産深蒸し うな重1パック』1,380円
と掲載されていた。


その後、私は11時過ぎに、真夏の陽射しの中、
いつものように夏の帽子を深くかぶり、サングラス、半袖のスポーツシャツ、長ズボン、ウォーキング・シューズの容姿で、
29度ぐらいかしら、と感じたりして、
大通りの幅広い歩道を扇子(せんす)を扇(あお)ぎながら、歩いたりしていた。

スーパーの店内の特別コーナーは、
チラシに明記された『霧島湧水うなぎ』などが専任の方が奮闘されながら焼いたりし、
特有の香ばしい匂いの前を、私は通り過ぎたりした。

そして私は野菜コーナーで、キャベツ、キュウリ、ピーマン、ニンジン、ブロッコリーなどを買い求め、
牛肉のコーナーで゛、オーストラリア産の焼肉用 1パック サービス価格1,000円
と明記されたのに、魅了されて購入することにした。

そして帰路、確か昨年はお惣菜コーナーの売り場で、『愛知三河産深蒸し うな重』を買い求めたりしたが、
私たち夫婦は、ここ何年かは『うなぎ』を食べていない、と思ったりした。


過ぎ去った2006〈平成18〉年の2月下旬の頃、私たち夫婦は家内の母を誘い、
浜名湖の湖畔にある三ヶ日温泉の観光ホテルに5泊6日で温泉滞在した時、
この間のある一日、家内たちは動物園に行き、私は植物園に行ったりした。

霧雨が降る中、冬枯れの樹木、草花の情景に私は魅せられた後、
家内たちと観光船の乗り場に待ち合わせをしていたが、
一時間半ばかり時間があり、
私は近くの『うなぎ』の小旗がたなびく食事処が3軒ばかり見えたので、
この中の一店に入った。

ご主人と奥方だけのこじんまりとした店内で、客は私だけだった・・。
私は程ほどの『うな重』を注文して、地酒を一合も注文した後、
ゆっくりと地酒を呑みだした。
もとより『うなぎ』は、時間を要するが、30数分過ぎても、
『うな重』はこなく、やむなく地酒を追加した。

結果としては、45分過ぎに『うな重』は、テーブルに置かれて、
私は頂いたが、一流店並みに時間を要したが、美味しくなく、街の『うなぎ料理店』以下であった。
そして樋口一葉のお札で支払い、100円ばかりのおつりを頂きながら落胆し、
確かこれ以来、私は『うな重』は食べてる機会が激少している。


昨今の私は、うなぎより江戸前寿司の方が食欲を増すので、
ときおり駅近くの江戸前寿司の回転寿司店を私たち夫婦は利用したり、
或いは近所の寿司屋さんから配達してもらったりしている。

江戸時代の頃から、『土用の丑』と称せられ、
栄養価の高い『うなぎ』などを食べて、何とか暑い日々を乗り切ろう、
と心情は痛いほど理解できる。

私の現役時代は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な身であったので、
深夜に帰宅することが多く、入浴した後、
疲れ果てながら、ビールを呑み、『蒲焼き』のうなぎを盛んに頂いたり、
或いは昼食の時は、同僚たちと10日に一度ぐらいは『うなぎ料理店』を利用していた。


このようなことを思い馳せながら、昨夜の我が家のメニューは、
オーストラリア産の牛肉を焼き、一切れの肉の上に、ニンニクの薄切りを軽く焼いたのをのせたり、
或いはニンニクをおろした瓶詰めから、小皿に散り醤油を加え、
薄切りの一切れを頂いたりしている。
ここ10数年、私は疲れを感じた時の基本メニューとなっている。

この発想の根源は、30代の時にガーリック・ステーキに魅了されて。
これをヒントに、家内も気に入った我が家の料理のひとつとなっている。

そしてキャベツ、ピーマンの千切り、ニンジンをスティクなどの野菜の盛り合わせ、
蒸したブロッコリー・・
こうした簡素な料理に、私は冷酒、家内はビールを吞みながら頂き、
夏対策のひとつとなっている。

そして我が家では、同じ『丑(うし)』でも、
オーストラリア、カナダ産の牛肉をこよなく頂いたりしてきてるので、
『うな重』などが縁遠くなったりしている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が家でも、五穀米(ごこくまい)を遅ればせなから、愛食して・・。

2012-07-11 08:35:03 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

過ぎし3か月前の頃から、朝食のご飯に五穀米(ごこくまい)を入れて、頂いている。

昨今、健康食ブームにより五穀米、十穀米が身体に良いとされいる。
もとより五穀米は、古来は稲・麦・粟・稗・豆などであったりしたが、
ここ10年は、稲・畠稲・麦・小麦・蕎麦・粟・黍・蜀黍・稗・大豆・赤小豆・緑豆
蚕豆・豌豆・ささ豆・へん豆・刀豆・胡麻・よくい等から、
適度に選定されている、と『農業全書』で明記されている。

我が家の最寄りのスーパーでも、お米のコーナーに於いて、
五穀米がさまざまな組み合わで10種類ぐらい販売されている。

我が家では朝食用に、1合半の白米を研(と)いだ後、
五穀米の小袋となった一食分を入れている。
こうした小袋が5食分から15食分ぐらいが、ワンセットとなった物を買い求めている。

私たち夫婦は、共通趣味のひとつとして、国内旅行であり、
ときたま旅を重ねているが、数年前の頃に、宿泊した観光ホテル、旅館で、
朝食の時に、五穀米もありますよ、と仲居さんから言われて、頂いたりした。


私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほど広い田畑を小作人だった人のご厚意に助けられながら耕したり、
竹林、雑木林を維持管理していた。

確かこの当時は、殆ど毎日、米の白いご飯、ときには小麦を混ぜて頂いていた。
或いは、ときおり小麦を精米し、粉状にしたのを父が『うどん』にし、母がゆで上げて、
家族そろって頂いていた。

或いは祝い事、年末には、精米した糯米(もちごめ)で餅にして、
食べたりしたのが、私の幼年期の記憶に残っている。


2004〈平成16〉年の秋、中小業の民間会社に35年近く勤めて定年退職後、
我が家の朝食は、白米のご飯、ワカメの味噌汁、
そして季節に寄り、春菊のゴマ和え、カブの醤油漬、コブの佃煮、海苔(ノリ)が五枚・・
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜』が心身の波長に合い頂いている。

このような状況が多いが、夕食は別格として、昼食はその日に応じて食べたりしている。
お蕎麦(そば)、うどん、スパゲティなどを頂いたりしている。

或いは私は食パンにマーガリンを付ただけで、
家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、二枚ばかり食べたりし、
お互いにコーヒーを飲みながら頂いている。

このように食事の内容であったが、過ぎし3か月前の頃から、
朝食の白米のご飯の中に、五穀米が入り、彩(いろど)り鮮やかなご飯となっている。

そして幼年期でも黍(きび)、稗(ひえ)などが無知であった私は、
ゆっくりと幾度も噛(かん)だりし、口の中で五穀の風味が相乗効味となり、
美味しく頂いている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たかが『あんぱん』されど『あんぱん』、齢ばかり重ねた私でも、こよなく愛食して・・。

2012-06-04 15:16:27 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、私は年金生活を始めて以来、自主的に平素の買物担当となり、
殆ど毎日、最寄りのスーパーとか駅前のスーパー、専門店に行ったりしている。

本日もいつものように私が買物を行く前に、家内がスーパーのチラシにサインペンで、
必要な品を赤丸の印を付けている。

この赤丸の印が付いた品は必須の購入する品で、これ以外は私が店内で魅せられた品を買い求めてくるのが、
我が家の暗黙のルールとなっている。

私は最寄りのスーパーに行って、チラシの赤丸の印された品を探し求めて、
スーパーの指定籠(かご)に入れた後、なぜかしらパンのコーナーに寄り、菓子パン棚で、
あんぱんの二種類を入れたのである。

帰宅後、私は台所で洗い物をしている家内に、買い物したすべてを手渡したりした。

その後、まもなくして家内は、
『あなた・・こしあん、つぷあんのあんぱん・・好きねぇ』
と微苦笑しながら、私に言ったりした。

本日は早朝から晴れ渡り、快晴の日中を迎えているので、
家内は入梅前に、衣替えの整理に最適だと思いながら、朝の10時過ぎから押し入れにある衣装ケースなどを
孤軍奮闘している。

こうした状況を見て買い物に出かけた私は、
昼食はかまってくれない、と思いながら私はあんぱんのふたつを買い求めたのである。

そして、私は煎茶を淹れた後、このあんぱんを食べたりした。
あるメーカーの品の袋の明記された文面を私は読んだりした・・。

《・・
 こしあんぱん
    絹のような舌触りの
    なめらかなこしあんを
    しっとりして生地で
    やさしく丁寧に包みました。

  つぶあんぱん
    すっきりとした甘さの
    粒あんをしっとりした
    生地でやさしく丁寧に
    包みました。
・・》
このように明記された文面を読みながら、この世で贅沢な食べ物のひとつかしら、
と私は微笑みながら頂いたのである・・。


私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほど広い田畑を小作人だった人のご厚意に助けられながら耕したり、
竹林、雑木林を維持管理していた。

そして、この実家から一キロぐらい歩いた先に駅があり、その付近に小学校がある。
1951〈昭和26〉年の春に私は小学校に入学して、
確か3年生の頃だったと思われる。

小学校の校門の近くに文房具屋さんがあり、
私たち学童は、鉛筆、ノート、ゴム消し、下敷きなどを親から買って貰ったりしていた。
この文房具屋さんが、ある日、店の一角にパンを置きはじめたのである。

『こっぺパン』と命名され、紡錘形で底の平たいパンで、
厚みを半分に切って、バター・ピーナッツ(通称・バターピー)、
或いは(イチゴ・・?)ジャムが塗られていたのである。

この当時の私の実家は、農家だったので、
殆ど毎日、米の白いご飯、ときには小麦を混ぜて頂いていた。
或いは、ときおり小麦を精米し、粉状にしたのを父が『うどん』にし、母がゆで上げて、
家族そろって頂いていた。

父は私が小学2年の3学期に病死され、
祖父もまななく他界されて、成人は女手ばかりとなり、我家は没落しはじめた。

このような時、文房具屋さんで、
『こっぺパン』のバターピー、確か15円だった、とおぼろげに脳裏に残っている。

私としては、初めて見たパンでもあり、
香(かぐわ)しいバターピーに魅了され、
親がサラリーマン、商店の店主している同級生が、頻繁に購入しているのを見かけたりしていた。

やむなく私は誘惑に負けて、
母親に懇願して、お金を貰い、文房具屋さんに行ったが、
売り切れで失望し、とぼとぼと自宅に向かい歩いたりした。

翌日、早めに文房具屋に行き、待望の『こっぺパン』のバターピーが買えて、
私は食べながら、この世にこのような美味しい食べ物があったか、
とほうばりながら、実感したりした。

その後、色々な菓子パンが店内の一角に置かれ、
私が小学校を1957〈昭和32〉年3月に卒業した頃は、
『こっぺパン』は消え、多彩な菓子パンで占領されていた・・。
この中の多彩な菓子パンのひとつに、私は手軽に甘味が味わえる『あんぱん』に圧倒的に魅せられ、
『こっぺパン』にさよならして、『あんぱん』を食べたりした。

その後の青年時期、社会人のサラリーマンの多忙時期、
私は冷酷にも『あんぱん』に見向きもしなかった・・。


2004〈平成16〉年の秋、中小業の民間会社に35年近く勤めて定年退職となり、
この直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと決意したりした。

我が家の朝食は、白米のご飯、ワカメの味噌汁、
そして季節に寄り、春菊のゴマ和え、カブの醤油漬、コブの佃煮、海苔(ノリ)が五枚・・
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜』が心身の波長に合い頂いている。

このような状況が多いが、夕食は別格として、昼食はその日に応じて食べたりしている。
お蕎麦(そば)、うどん、スパゲティなどを頂いたりしている。

或いは私は食パンにマーガリンを付ただけで、
家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、二枚ばかり食べたりし、
お互いにコーヒーを飲みながら頂いている。

こうした中で、ときおり家内は少し高価なお好みの菓子パンを食べたりしているが、
私は『あんぱん』を頂き、遠い幼年期、少年期の思いも重ねて、
遥かな美味しさを増した『あんぱん』を、この世で贅沢な食べ物のひとつだ、と確信を深めながら頂いている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

だががタケノコ、されど筍(たけのこ)、ささやかな私の筍(たけのこ)の思いは・・。

2012-04-11 14:42:54 | 食べ物、お酒
昨日の朝、NHK総合テレビの『あさイチ』で筍の特集を家内が視聴していて、
たまたま私も少し見たりしました、
私は幼年期は農家の児として育ち、ささやかな筍に関しては思いもあり、
これまで家内には幾たびか筍の話題を話し合ったりしてきた・・。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の67歳の身であるが、
日常の私は、殆ど毎日、付近の遊歩道を歩いたりし、周辺の情景を眺め、
季節のうつろいを享受している。

ときおり遠方に散策したりする時、偶然に孟宗竹の竹林に出会った時は、
思わず足を止めて、しばらく眺めたりしている・・。

或いは国内旅行の旅先で、孟宗竹の竹林を観た時も、
私は時間が許す限り、眺めたりしている・・。


私が小学校に入学した1951〈昭和26〉年の春の当時は、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。
そして母屋の周囲には竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、物置小屋と称した納戸などがある農家であった。

そして竹林は、孟宗竹だけでも2反(600坪)程あり、
4月の終わりの頃になると、筍を殆ど毎日のように、数週間ぐらい青果市場に出荷していた。

秋になると、祖父と父は地表に根が出そうになったのを最低50センチぐらい堀起こし、、
枯れた竹の葉、肥料を施して、地中に埋めた。
次兄と私は、穴が掘られた後に子供心にいたずらをし、父によく怒られた。

春先になると、この竹林に子供が入るのを禁じられた。
地割れと土壌が固くなるので、私たち子供は近寄れなかったのである。

4月の下旬から5月の初め、
柔らかな地表が微(わず)かな地割れを見つけて、筍を掘り出すためであった。
この微かな地割れを専用のスコップで60センチぐらい堀り、やがて大きな筍を掘り出した。
すべて地中で育ち、根元は最低10センチ以上あり、
少しでも地上に芽が出たものは身が固くなるので、商品価値が激減するのである。

地上から5センチ以上芽がだした筍は、皮は黒ずみ、身が固くなるので
子供心でも、カラス、と呼んでいた・・。
このカラスは、値が下がるので、家の人々の食卓にのせられた。
地中にあった良質の筍は、市場に出荷していた。

それから残した筍は、日増しに大きくなり、若い竹となり、
子供心でも著しい成長を眺め、感嘆した心を躍らせていた・・。


夏になると、ひんやりした竹林に入るのが、私は好きだった。
田畑の暑い中、この竹林は涼しく、ときたま風が吹くと、
さわさわとした葉ずれの音を聴き、心地よいひと時を感じたりした。

秋のある日、竹細工の方が買い付けにきたりした。
この当時は、孟宗竹で籠(かご)、笊(ざる)、作物入れ用とかで何処の家も使われていた。
その後、1953〈昭和28)年の春に父は病死し、翌年に祖父も他界した。

私の生家、周辺の農家も、この後に急速に変わり、竹林も無くなった。


この間、私が小学生の頃、付近の崖に面した傾斜地に著名な小説家の邸宅があった。
傾斜には竹林が手入れされていなく密集ばかりし、下方に池があった。

私は小学4年ぐらいの時、級友たちの間で小説家が引っ越してきた、と噂が広がり、
私は独りで下校の時に遠廻りし、この脇道を通った時に、
この小説家が難しい顔して池を見詰めていた。

『あれが小説家かょ・・何か難しい顔しているが・・
竹は生え放題・・孟宗竹のこと・・ぜんぜん解っていないなぁ』
と私は子供心に内心呟(つぶや)いた・・。

後年、高校生になった私は駅前の本屋に行った時、
店内の壁面に色紙と写真が掲げられていた。
そして、さりげなく《武者小路実篤》と明示されていたので、
私はあのお爺さんが・・武者小路実篤かょ、と気づかされたのである。

私が大学入学後、ある体育系の部に所属した時、
同期の方が福井県、福岡県の友がいた。
地上から5cm以上、芽を出し伸びたものは筍じゃない、と言ったりした時、
半信半疑の目付きをされたので、困ったりした。

私の新婚旅行の時、京都市内の外れで、筍の売り場を観た時、
15センチの高さ、根回りが5センチが3月末に売られていた。

私の生家では、少なくとも30センチ、根回りが10センチ以上が基準値であったので、
これが筍かょ、と感じた。

このような思いがあり、地方のお方は理解してくれるかしら、と思い続けていた。

幸いにして、確か2006〈平成16〉年の五月に、
読売新聞に於いて、【彩事記】が随時掲載をされている記事であり、
私の思いに近い記事で、榊原智子・記者が綴られた記事を無断ながら引用させて頂く。

《・・
今春は寒い日が多かったため、タケノコが生えてくるのが、
例年より遅くなった。
一番手の孟宗竹は、関東では4月下旬から頭を出し始め、
首都圏のタケノコ園ではこの連休に、タケノコ狩りのピークを迎えているという。

タケノコの産地といえば鹿児島、京都、静岡などの暖かい地方が知られている。
中でも京都産は軟らかく味のよさで有名だが、
実は東京も、戦前まで京都と並ぶタケノコの産地だった。

とりわけ『目黒のタケノコ』は、知る人ぞ知る名産だった。
目黒区守屋教育会館・郷土資料室によると、
京都では土や肥料をふわりとかけて、軟らかいタケノコを育てるのに対し、
目黒では根っこのあたりまで深く掘り、肥料を加えては固く戻したという。
この作業を数回繰り返す独自の栽培法で、
身が締まり、味のいいタケノコを作っていた。

これが《初物好き》の江戸っ子の間で人気となり、
値段が高騰したため、質素倹約を求めた天保の改革(1841~43年)では、
『早い時期の掘り出しはダメ』と禁制まで敷かれたという。

それほど盛んに栽培されたタケノコだが、
関東大震災の後に郊外に広がった宅地開発や、
高度経済成長期の都市の拡大で、タケノコ畑はじりじりと減少。
(略)
・・》
このように時代の趨勢を綴られていた。


その後、私は2009〈平成21〉年の4月、私たち夫婦は家内の母を誘い、
鹿児島市内と霧島温泉に5泊6日の旅をした時である。

この中で、鹿児島市の郊外にある島津家の別邸で名高い磯庭園と称せられた『仙厳園』に、
私は独りで観て廻ったりした。

この時は、四年前に、家内と団体観光ツアーでこの『仙厳園』と隣接された『尚古集成館』を訪れた時は、
わずか二時間半ばかりで慌(あわ)ただしく拝見した程度であり、
何かと心残りがあったのも本心でもあった。

一時間近く歩き廻り、喉の乾きを覚えたので、
『竹徑亭』に寄り、抹茶を飲みながら、和菓子を頂き、
窓辺からはボタンの花がたわわに咲き、それぞれの色合いに染められ、
この時節を教示してくれた。

この後、中国の江南地方より移植された孟宗竹の竹林を長らく私は見つめていた・・。
そして、この地から孟宗竹は日本各地に広まった、と解説されていた。


ここ30年近く、私が住んでいる近くに生家だった長兄の宅より、
この時節になると毎年頂いている。
長兄の宅の宅地のはずれに、五、六坪の竹林があり、
手入れも昔ほど出来なくなり、地表に出た、カラスを掘り起こしている。

このカラスと称した筍であるが、家内に料理してもらい、
私は3日も続けて食べたりし、家内に飽きられながらも、
幼年期の愛惜感も増して、この世の最上の食べ物のひとつである、と思いを深めながら頂いている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『おとなのおやつ』ってなぁに、と高齢者の私は学びながら、苦笑を重ねて・・。

2012-03-29 14:18:52 | 食べ物、お酒
今朝、私はいつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
10面の【経済面】に於いて、
《 小売り シニア層狙い
         電話一本宅配 割引カード 》
と見出しのフレーズがあり、私もシニアのひとりなので、この記事を注視した。

そして右側には、畠山朋子・記者が、シニア市場の実態が解り易く掲載されていた。
《・・
主に60歳以上による消費市場を指す。
高齢社会白書によると、2010年の65歳以上の人口は2958万人で総人口の23%を占める。
2025年に3500万人まで増え、
高齢人口の比率が高まると予想されている。

60歳以上の2011年度の消費額は計109兆円と全体の4割を超え、
消費意欲は旺盛だ。
団塊の世代(1947~1949年生まれ)がシニア層に加わり、
消費市場も刺激されている。
・・》

そしてこの下段に『世代別の消費額』が円グラフで表示されていた。
《・・
60歳以上・・・・・・・109兆円
50~59歳・・・・・・・50兆円
40~49歳・・・・・・・47兆円
30~39歳・・・・・・・31兆円
~29歳・・・・・・・・・10兆円
                *イオンが2011年度家計調査報告を基に作成
・・》
私はこの『世代別の消費額』を長らく見て、もとより人口の世代別の人口比例がないにしても、
圧倒的に60歳以上の消費額が多いのに、驚いたりした。

この相関関係で、スーパーやコンビニなどが、
高齢者(シニア層)の顧客獲得でしのぎを削っている状況が、
畠山朋子・記者が具体的に現状を記載されていた。

私は記事を読みながら、《電話一本宅配》《割引カード》など商魂がたくましい、
と苦笑したりした。

そして《・・コンビニ大手のファミリーマートは、
50歳以上のシニア層をターゲットにしたPB開発を進めている。

一月下旬に発売した「おとなのおやつ」シリーズは、
発売から一カ月で100万食を突破する大ヒットとなった。・・》
と読んだりしたが、私は「おとなのおやつ」は無知であった。


私は何事も好奇心を失くしたらこの人生は終りだ、という信念の持ち主であるので、
こっそりと「おとなのおやつ」をネットなどで調べた。

http://www.family.co.jp/goods/otona/otonanooyatu/
☆【ファミリーマート】<==商品情報<==おとなコンビニ研究所<==おとなのおやつ☆

私はこのサイトを見て、婦女子の食べ物か、と苦笑した。


私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
年金生活を始めて、自主的に買物を担当している。
平素は家内から依頼された品をスーパー、専門店で買い求めて、
そして店内で魅せられた品を購入している。
家から徒歩10分以内には、スーパーは3店あり、駅前まで20分ぐらい歩けば、
少なくとも7店があるので、殆どスーパーを利用している。

コンビニに関しては、家から徒歩10分以内に3店あるが、
ときおり月刊総合雑誌の『文藝春秋』を買い求めたり、
散策している時に、喉の渇きを覚えた時はペットボトルの『煎茶』を購入したりしてきた。

私は根はケチなせいか、同じ品であれば、
あえてコンビニなどで高い価格で買い求めたりしたことはない。
そして私は、朝、昼、夕食以外は間食する習性はないのである。

幼年期の小学2年に父に病死される前、
父から、男子たる者は三食を腹いっぱい食べれば、間食などはみっともない、
と幾たびか言われたので、これまでの67年の人生で、殆ど間食はしなかった。
ただ、国内旅行で私たち夫婦は旅先で和菓子屋などで、
家内が煎茶か濃茶でその地の銘菓を頂く時、私はやむなくお付き合いをしてきた。

このような私であるので、今回の『おとなのおやつ』は、間食の範疇であり、
婦女子の食べ物であるので、私にとっては無縁だ、と苦笑を重ねたりした。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

作家・嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)氏より、料理の作る楽しさ、改めて教示され・・。

2012-03-18 13:05:44 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
13面の【文化】欄に日曜日の特集記事のひとつとして、『本のソムリエ』を思わず読んでしまった。

この『本のソムリエ』の主旨は、《汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)で博覧強記な回答者陣が
韋編三絶(いへんさんぜつ)のうえ、森羅万象の悩みを快刀乱麻かつ誠心誠意、全身全霊で質疑に応答します。》
と格調高く掲げられた質疑回答となっている。

今回はふたつの質疑があったが、《料理作る楽しさ教えて》と見出しされた質疑に関し、
汗牛充棟で博覧強記な回答者としては、誰かしら、と私は少し思い浮かべた。

そして回答者は、作家の嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)と明記されていたので、
やはり現世の作家の中から、料理に関しては、この方が圧倒的に突出している第一人者であり、
数多くの本も上梓され、私も多々教示を受けたりしてきたので、最適任者と確信したりした。


嵐山光三郎氏は、1965(昭和41)年に國學院大學文学部国文科卒業され、専攻は中世文学であり、
在学中の講師として丸谷才一、安東次男らに学んだひとりである。

この直後、平凡社に入社されて、編集者として奮闘されながら、
やがて『別冊太陽』と『太陽』のそれぞれ編集長に抜擢された後、
この後は、散漫経営のため平凡社が経営危機となった1981(昭和56)年に退社され、
出販社を設立されたりする中で、編集者、作家としてもご活躍された。

この後は、 1987(昭和62)年に『素人庖丁記』で翌年に第4回講談社エッセイ受賞、
その後も俳諧の分野も含めて、多彩に本を上梓されている。

私は氏の数多くの本を読んできたが、料理に関しては、
『 文人悪食』(新潮文庫),『 文人暴食』(新潮文庫)の2冊だけでも読めば、
それぞれの料理の時代の変貌してきた味を検証して食べ歩き、
その時代に活躍された作家たちが、どのような料理を好まれたか、
明晰に作家の作品を根底に描いた力作である。


こうした稀な方の嵐山光三郎氏が、今回の質疑にどのように回答するか、
私は興味して、読んだりした・・。

壇 一雄・著作の『壇流クッキング』(中公文庫)に於いては、
《・・
放浪作家がつくる料理は豪快で楽しく、本から、おいしい匂いがたちのぼってくる。

いまの季節ならタケノコの竹林焼き。
(略)
壇さんにこれを作ってもらって九州の山で食べたときは、
醤油のこげた匂いで腰までふるえました。》

私はこの本は未読であるが、生前の壇 一雄(だん・かずお)氏のご自宅に於いて、
台所の近くの大きな食卓で、亡き作家の立原正秋(たちはら・まさあき)氏が招待されて、
奥様の手料理を味わいながら、お互いに料理好きな両氏が談笑する写真を思い重ねたりした。

この後は、水上 勉・著作の『土を喰(くら)う日々』(新潮文庫)を採りあげられいた。
《・・
軽井沢の畑でとれた野菜を自ら料理したもので写真入り。
1月から12月の章までの「わが精進12カ月」である。
水上さんは少年のころ、京都の禅寺で精進料理の作り方を教えられた。

3月はリンゴセロリサラダ。
(略)
このサラダを水上さんに食べさせてもらったときは、下にレタスが敷いてあった。
シャキっとして歯ごたえで、すずやかな禅味がある。》

私はこの本を幾たびか精読している。
私の幼年期は農家の児として育ったので、殆どこの本に書かれている素材は知っているが、
無念ながら料理に素養のない私は、ときおり家内に作ってもらっている。

たとえば、蕗(ふき)の薹(とう)もひとつである。

私の幼年期は、祖父と父が中心となって小作人だった人のご厚意を借りて、
田畑を耕していて農業を営んでいた・・。
2月頃に宅地の外れに蕗の薹を見かけたりしていたが、
取り残した蕗の薹が日増しに大きくなり、4月の頃になると蕗の成長を驚いたりしていた。

祖父、父たちは、蕗の薹などで晩酌をしたりしていたが、
蕗になった料理り数々は、幼児の私には苦手な食べ物のひとつであった。

私は40代の頃は、中小業の民間会社で情報部門に勤務していたので、
4月からの新管理体制など対応で開発・運営などに、
ほぼ毎年早春の頃から多忙な身となっていた。

日曜日に休めればよい期間が多く、睡眠不足もさることながら、
果たして上層部の要請に答えられるか、と必死に面持ちで過ごし奮闘していた。

節分を過ぎた頃の日曜日、
昼前に庭に下り立ち、蕗の薹がわずか地上から、
こんにちは、といった表情で小指の先程度の大きさで、10数個見つけたりした・・。

私は蕗の薹になる前の莟(つぼみ)のような蕗を採り、家内に手渡した。

昼食の前、私は弐合徳利をお燗している時に、
家内に味噌味などで蕗の薹の幼期を簡素に調理して貰い、
私は早春の陽射しの射しこんでる庭を眺めたり、
家内と他愛のない話をしたりして、純米酒を呑んだりしていた。

ほろ苦い蕗味噌を口に含むと、香り、風味はまぎれもなく早春の息吹きを感じながら、
と味わっていたのであった。

昼食後、少し酔った睡眠不足の私は、2時間ばかり昼寝をしたりしていた。

私は定年退職後の年金生活をしている今、
散策をしたりして、ときおり蕗の薹を見かけたりすると、
芭蕉を敬愛し、じきじきに弟子入りに懇願したひとりの俳人の名句が思い出したしている。

思ひ出し 思ひ出し蕗の にがみかな
                  詠み人・路通

私は江戸時代の前期に残された名句を呟(つぶや)き、微苦笑をしたりしている。

このような蕗に関しては、ささやかな思いを秘めたりしている。


今回の嵐山光三郎氏の結びの文として、
《・・
壇さんも水上さんも本業は小説家で、料理は余技である。
だから読んでいておいしい。
作る途中が楽しい。
自分だけでなく、だれかに作ってあげる、という気持ちがぜい沢なのです。》

このような名文を読みながら、ただ恐れ入りました、
と私は未知の嵐山光三郎氏の本に掲載されていた写真の顔立ちを眩しげに見たりしている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たかが『かいわれ大根』、されど『かいわれ大根』、私が秘かに愛食するひとつとなり・・。

2012-03-04 09:28:18 | 食べ物、お酒
私は中小業の民間会社に35年ばかり勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職をした後、
年金生活をしている身である。
この直後から、自主的にな日常の買物を宣言して、早や8年生となっている。

買い物に行く前、いつものように家内がスーパーのチラシに、
サインペンで赤丸の印(しるし)を付け、これが必須の購入品となり、
あとは私が店頭で魅せられた品を買い求めることになっている。

今の時節、野菜売り場なども寄ったりすると、もとより蕪(カブ)、大根(ダイコン)、白菜(ハクサイ)、
キャベツ、ホウレンソウ等を見たりしているが、
三つ葉、春菊、菜の花、独活(ウド)なども見たりしている。

今年の冬は寒気が多く、農作物に多大に影響され、
私の幼年期は農家の児であったせいか、
作ってくださる農家の方は、労苦の成果がなくお気の毒と思ったりしている。
しかしながら、農作物は何より新鮮が優先されるので、鮮度が落ちていると、
晩酌の友が欠けているようで、少し気落ちしたりしている。

こうした時、私は迷わず『かいわれダイコン』に手を伸ばし、
買い求めたりしている・・。


私が『かいわれ大根』を初めて知ったのは、確か25年前の頃で、
家内が購入して、私は頂いた時、この世に最も美味しい食べ物で、確かな味だ、
と私は絶賛の言葉を家内に重ねて言ったりした。
これ以来、私は好きな食べ物のひとつとなっている。

10センチ前後の可愛らしい大根であるが、
それなりの辛味があり、口に含んだ香り、そして辛味が増してくる。
こんな小さな食べ物なのに、それなりの自己主張のある食べ物であり、
一人前に大根の風味、味わいを満喫できるのである。

私が現役時代のサラリーマンの時、上層部の方から、業務改善の指示で、
予算は少なく、早く成果を、と難題を受けたりすると、
帰宅後の晩酌の時、かいわれ大根を食べたりしている。
そして、一寸の虫にも五分の魂、と心の中で呟(つぶや)いて、
ストレス解消としていたこともあったりした。

年金生活の今は、NHKのニュースを見ながら、夕食の時、家内と他愛ない話をしているが多い。、
ときおり政局の混迷のニュースを視聴したりする時、
心の節度の欠けた議員の諸兄諸姉の言動に、
馬鹿なことを・・、有権者から託されたふるまいかょ、恥を知りなさい、
と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

こうした時、無力な国民のひとりとして、
かいわれ大根をつまんで、純米酒の辛口を呑んだりしている。

私は恥ずかしながら、ときおりストレスを感じたりする時もあるが、
このような時、かいわれ大根は心身の安定剤の上、何より特有の風味、味わいに魅了され、
食事の際に、一品に付け加えていることが多い。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世で一番美味しく、贅沢な食事のひとつは、温かいご飯に大根(ダイコン)下(お)ろし・・。

2012-01-01 14:54:44 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
2004(平成16)年の秋に家内の父が死去し、家内の母は独り住まいとなったので、
年末年始には我が家に来て貰い、私達夫婦と共に三人で過ごすのが恒例となっている。

私の母が1998〈平成16〉年の生前までは、世間並みに御節料理を三段重として、
家内は素材の購入から料理までを一週間ぐらいで、ふたセットを作ったりしていた。
ひとつは独り住まいの私の母、そして我が家で頂く分である。

このようなほど程の御節料理から遠ざかって、昨今の我が家は、
それぞれ三人が食べたい単品を購入したり、家内は少しばかり料理をしたりしている。
成城、仙川、最寄のスーパーに買い求めたり、或いはここ数年は通信販売の盛況で、
我が家も遅ればせながら、製造元の現地などの販売所に連絡して、購入したりしている。
たとえば、ホタテ、数の子などである。

結果として、我が家の食卓は、御節料理の単品が並び、各自が好みの品を食べ、
元旦の朝はお雑煮を頂いている。

このような昨年末の28日から夕食の時に、
家内、家内の母はビール、私はビールか弐合徳利で純米酒の辛口を呑みながら、
御節料理のそれぞれ単品を談笑しながら頂いている。


こうした時の私の昼食は、ときおり大根(ダイコン)下(お)ろし、御醤油をかけて、
温かい白米のご飯にのせて食べたりしている。
そして、食後は煎茶を飲み、至って満足している。

家内達はこのような私の昼食を見ていて、最初の頃はあきれていた。
『幼年期に農家の児として育った私は・・この世で一番美味しく・・贅沢な食事だょ・・』
と私は笑いながら言ったりしている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠い昔、私が初めて食べたパンは、恥ずかしながら『こっぺパン』であり・・。

2011-08-02 22:00:42 | 食べ物、お酒
私は定年後に平素の買物担当となって、早や7年生となっている。
スーパーのパン・コーナーにも寄ることが多く、
ときおり紡錘形で底の平たいパンを見かけ、近づくと『なつかしきのコッペパン』と明記され、
何となく気になるパンの一種である。

3年前の頃、このパン・コーナーで初めて見かけた時、
見惚〈みと〉れながら、懐かしさの余り、ひとつ購入した。


私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほどの田畑、竹林、雑木林を維持管理していた。

そして、この実家から歩いて、一キロ前後の駅付近に小学校がある。
1951〈昭和26〉年の春に私は小学校に入学し、
確か3年生の頃だったと思われる。

小学校の校門の近くに文房具屋さんがあり、
私たち学童は、鉛筆、ノート、ゴム消し、下敷きなどを親から買って貰ったりしていた。
この文房具屋さんが、ある日、店の一角にパンを置きはじめたのである。

『こっぺパン』と命名され、紡錘形で底の平たいパンで、
厚みを半分に切って、バター・ピーナッ(通称・バターピー)、
或いは(イチゴ・・?)ジャムが塗られていたのである。


この当時の私の実家は、農家だったので、
殆ど毎日、米の白いご飯、ときには小麦を混ぜて頂いていた。
或いは、ときおり小麦を精米し、粉状にしたのを父が『うどん』にし、母がゆで上げて、
家族そろって頂いていた。

父は私が小学2年の3学期に病死され、
祖父もまななく他界されて、成人は女手ばかりとなり、
我家は没落しはじめた。


このような時、文房具屋さんで、
『こっぺパン』のバターピー、確か15円だった、
とおぼろげに脳裏に残っている。

私としては、初めて見たパンでもあり、
香(かぐわ)しいバターピーに魅了され、
親がサラリーマン、商店の店主している同級生が、頻繁に購入しているのを見かけたりしていた。

やむなく私は誘惑に負けて、
母親に懇願して、お金を貰い、文房具屋さんに行ったが、
売り切れで失望し、とぼとぼと自宅に向かい歩いたりした。

翌日、早めに文房具屋に行き、待望の『こっぺパン』のバターピーが買えて、
私は食べながら、この世にこのような美味しい食べ物があったか、
とほうばりながら、実感したのである。

その後、色々な菓子パンが店内の一角に置かれ、
私が小学校を1957〈昭和32〉年3月に卒業した頃は、
『こっぺパン』は消え、多彩な菓子パンで占領されていた・・。


後年、私はこの『こっぺパン』が、
太平洋戦争中は主食が配給制度だった時に考案され、
ひとつの『こっぺパン』が一人一食相当分と知ったりした。

そして、都心の1部の小学校の給食に於いては、
1950〈昭和25〉年から開始されたと知り、
世田谷区に隣接した実家の地域は、今より遙かに格差があった、
とこの当時は農家が多く、商店も少ない地域であったことを思い浮かべ、苦笑したりした。


3年前に、『こっぺパン』を購入し、自宅で家内と半分づつ頂いたが、
『今としては・・余り美味しくないね・・
思いでばかりかしら・・
過ぎ去った過去は・・美しく感じることが多いもんねぇ・・』
と私は苦笑しながら、
5歳ばかり齢下の都心育ちの家内に云ったりしていた。

遠くなったあの当時は、今のように世界中から小麦の種類、
パンにそなえる素材などを含めて。パンを焼く技術を備えた高級なパン屋さんは、
1部の裕福な地域しかなく、
何よりも私も含め、多くの人は貧しかった時代であった。


今の我家に於いては、スーパーのパン・コーナーで食パンを一斤を購入し、
家内はトーストで焼き、マーガリンを付けて愛食し、
ときおり私も頂き、贅沢な食べ物のひとつ、と感じたりしている。
或いは、ときおり私はアンパンを食べたりしている。

そしてスーパーで『こっぺパン』を見かけると、
ときおりあの当時の思いが甦〈よみがえ〉ることもある・・。


下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京郊外の田舎者の私、何かと長年に於いて選定している和菓子は・・。

2011-07-30 21:17:17 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
地酒の辛口を愛する呑兵衛のひとりなので、
平素は原則として甘い物は苦手で、和菓子、洋菓子は余り食べない。

しかし旅行先などで、煎茶、抹茶などを頂きながら、
和菓子を食べさせてくれる処では、家内と共に頂いたりしている。

日常、私が親族、知人宅に訪問する時は、
お子様が高校生ぐらいの場合は、洋菓子を買い求めるが、
これ以上のお歳を召している場合は、和菓子を使っている。

家内は中学生の時から茶事を学んでいるので、
程々に和菓子に関しては詳しく、私は和菓子も無知な方であるが、
季節感がかもし出されていれば、私は独断と偏見で選定している。

旅先で和菓子の買い求める場合、
その地で長い歴史を育(はぐく)んだ老舗の和菓子店を使う。

私は差し上げたお方から、こうした場合は喜ばれている。

その地に生まれ、長年におよび人々から愛用されて、
もとより味そのものが長年培(つちか)われた和菓子となっているので、
まぎれない和菓子と私は確信している。

そして和菓子は、その地の風土、文化を代表するひとつと思っている。

このような思いで、ときたま家内と和菓子について話したりすると、
貴方は人前では和菓子について話されないように、
と和菓子の基本も由来も無知な私に、家内は幾たびか苦言されたりしている・・。


このように和菓子にも拙〈つたな〉い知識しかない私が、
ここ10数年、新年、春のお彼岸、お中元、夏のお盆、秋のお彼岸、お歳暮などの折、
実家、知人宅に選定している和菓子がある。

文明堂の三笠山であり、この詰め合わせを愛用している。
三笠山を中核に、ゆず、白桃、あんず、抹茶、栗などの風味の品が、
それぞれの季節に応じてあるので、私なりに調和して詰め合わせにして、進呈しているのが、
ここ10数年の習わしのようになっている。

もとより味覚も良く、色合いも良く、そして日持ちも良いのである。
その上、高齢者から幼年者まで、どなたでも賞味できるので、
今回もこの品にしたよ、と私は訪問日の前日に家内に云ったりしている。


下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

だががタケノコ、されど筍(たけのこ)、私なりの筍(たけのこ)の深い思いは・・。

2011-04-22 22:07:11 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
夕食の時に、筍(たけのこ)を頂いたが、3日続きであったので、家内は少しあきれた表情となった。

私の住む家の近くの実家である長兄宅から、
この時節になると毎年のように筍(たけのこ)を頂いているが、
今年は一昨日の朝に持ち寄って下さった。

そして私が筍(たけのこ)は、この世の最上の食べ物のひとつである、
と公言していることを知っている家内は、
その日の夕食の一品として食卓に並べられた・・。


日常の私は、殆ど毎日、付近の遊歩道を歩いたりし、周辺の情景を眺め、
季節のうつろいを享受している。

ときおり遠方に散策したりする時、偶然に孟宗竹の竹林に出会った時は、
思わず足を止めて、しばらく眺めたりしている・・。

或いは国内旅行の旅先で、孟宗竹の竹林を観た時も、
私は時間が許す限り、眺めたりしている・・。

私の幼年期は、実家が農家で竹林を保有していた時代もあり、
私なりに孟宗竹の筍、そして竹林には深い思いでがあり、多少のこだわりがある。


このような心情を秘めている私なので、このサイトに於いて、たびたび綴ったりしてきた。

先ほど、私は過ぎ去った幼年期に思いを馳せていた時、
孟宗竹の筍なども読み返していた・・。



2007年7月2日に於いて、
【 ひととき夢の中で・・♪ 】と題して、投稿していた。

【・・
昨日と同様に、昼過ぎに塩野七生・著の『ローマ人の物語』(新潮文庫)第23巻を読んでいるが、
居間で簡易ベットに横たわりながら、
1時間程過ぎた頃、眠りに付いた・・。


私は東北新幹線のある駅からタクシーで15分走り続けた場所で降ろされた。
周囲は里山を背景に放置された田畑が幾重にもあり、広大な荒地となっていた。

ひとりの年配の老人が私に、
『あんたかいなぁ・・竹の物狂いのお人というのは・・』
と言った。

私は煙草を老人に勧めた後、私は煙草に火を点(つ)けた。

私はこの老人の方に熱弁を奮(ふる)っている・・。

日本の江戸時代から愛されている孟宗竹をこの地一面に植え、竹の文化村を作りたい。

平地の土地は、土壌を四尺ほど、改良し、
建物以外は公園のように遊歩道を設ける以外は、孟宗竹・・一色とする。

建物は筍(タケノコ)主体の専門料理店、筍の加工食料品所、
そして竹に関しての日常品から工芸品に至るまで加工所、販売店まで手がけたい・・。

お客さんは、駅からマイクロバスでお迎えして、
筍づくしの料理と里山で栽培した山菜を食べて頂いた後、
孟宗竹の中の遊歩道を散策して頂き、
お土産売り場で保存のきく筍、筍と山菜、そして竹細工の多種をお買い上げて頂く・・

『あんたぁ・・採算あうのかいなぁ・・』
と老人は私の言葉を遮(さえぎ)った。

『採算はギリギリですが・・
孟宗竹の四季の移ろいの美しさを観て・・その方なりに感銘をして頂ければ・・』
と私は老人に言った。

『そりやぁ・・そうだが・・
あんたに以前言った値段で・・売るよ・・
だけどもね・・あんたは・・夢を見るのがお好きな人だね・・』
と老人は苦笑しながら、私に言った。


私は目覚めた・・。
民間会社のサラリーマンを定年退職し、年金生活の私には、
無念ながら、このように気力も資金もない。

私は庭に下り立ち、雨の舞い下りる庭の樹木を眺め、
煙草を喫いながら、どうしてあのような夢を・・と思い返している。


私は東京の郊外で農家の児として生を受け、
父、祖父が亡くなる小学幼年期まで田畑、雑木林、竹林の中で育った。

竹林は、孟宗竹の専用とした2反程あり、5月頃には筍を青果市場に出荷し、
竹は秋の頃に竹細工の方達が買い求めに来宅していた、
このような記憶は、心の片隅に鮮明に残っていたる。

ここ50年ばかり筍を作られている場所を見たり、
テレビで視聴したりすると、
あれは本物の筍じゃない、と思ってたりしている。


私の幼年期に観た竹林は、前年の秋に根が浅くなった所を最低三尺掘り下げて植え直し、
春先には地割れと土壌が固くなるので、私達の子供は近寄れなかったのである。

4月の下旬から5月の初め、
地割れの箇所をたよりに祖父と父が専用のスコップで掘ったりしていた。
すべて地中で育ち、根元は最低15センチ以上あり、
少しでも地上に芽が出たものは身が固くなるので、
商品価値が激減するのである。

私は地上から5センチほど芽がだした筍は皮が黒ずむので、
子供心でも、カラス、と呼んでいた・・。


このような想いがあったのか、ときには考えられない夢を見ることがある。

齢を重ねた私は、今でも夢は甘く、ときには苦いものである。

・・】



そして、2006年5月6日にも、
【 タケノコ、されど筍(たけのこ)・・♪ 】と題して、投稿していた。


【・・
   第一章

以前、筍については、私はたびたび綴ってきた。

私の幼少の頃、竹林があり、青果市場に出荷していたので、
鮮明な思い出とこだわりがある。

地上から5cm以上、芽を出し伸びたものは筍じゃない、ということである。

私が大学入学後、ある体育系の部に所属した時、
同期の方が福井県、福岡県の友がいた。

このような話をしたら、半信半疑の目付きをされたので、困っていた。


私の新婚旅行の時、京都の筍の売り場を観た時、
15センチの高さ、根回りが5センチが3月末に売られていた。

私の実家では、少なくとも30センチ、根回りが10センチ以上が基準値であったので、
これが筍かょ、と感じた。

このような思いがあり、地方のお方は理解してくれるかしら、
と思い続けていた。

幸いにして、昨日の読売新聞で私の証言に近い記事があったので、
嬉しく感じ、記事を精読した。

      
     
   第二章

昨日の読売新聞の中、【彩事記】が随時掲載をされている記事であるが、
榊原智子・女史が綴られた記事を無断引用させて頂く。

《・・
今春は寒い日が多かったため、タケノコが生えてくるのが、
例年より遅くなった。
一番手の孟宗竹は、関東では4月下旬から頭を出し始め、
首都圏のタケノコ園ではこの連休に、
タケノコ狩りのピークを迎えているという。

タケノコの産地といえば鹿児島、京都、静岡などの暖かい地方が知られている。
中でも京都産は軟らかく味のよさで有名だが、
実は東京も、戦前まで京都と並ぶタケノコの産地だった。

とりわけ『目黒のタケノコ』は、知る人ぞ知る名産だった。
目黒区守屋教育会館・郷土資料室によると、
京都では土や肥料をふわりとかけて、軟らかいタケノコを育てるのに対し、
目黒では根っこのあたりまで深く掘り、肥料を加えては固く戻したという。
この作業を数回繰り返す独自の栽培法で、
身が締まり、味のいいタケノコを作っていた。

これが《初物好き》の江戸っ子の間で人気となり、
値段が高騰したため、質素倹約を求めた天保の改革(1841~43年)では、
『早い時期の掘り出しはダメ』と禁制まで敷かれたという。

それほど盛んに栽培されたタケノコだが、
関東大震災の後に郊外に広がった宅地開発や、
高度経済成長期の都市の拡大で、タケノコ畑はじりじりと減少。
(略)
・・》

東京の郊外の私の実家でも、程々にひろい田畑を耕していた農家は、
竹林を保持し、筍を青果市場に出荷していた。
竹になったのは、竹細工の業者が買いに求めに来た、記憶が残っている。

目黒方式と違うのは、秋になり、根が浅くなったのを、
最低50センチ前後、深く掘り、枯れた竹の葉、肥料を施して、地中に埋めた。

地上は生育した竹以外は黒土1色で、冬を越え、春の4月頃に地割れを見つけ、
専用のスコップで掘り出した。

この間は、子供は竹林に入ることは、足跡、靴跡が残るので、厳禁となっていた。

芽が地面より5センチ以上になったものは、柔らか味が薄れるので、
買取り価格が安くなり、家庭で食べたりしていた。

特にこれ以上伸びた筍は、竹の皮が黒ずみ、
子供の私さえ、カラスと呼び馬鹿にしていた。

東京の郊外は、地中でいかに大きく育てあげるかが鉄則であった。



   第三章

東京の郊外は、東京オリンピック以前にどの家も筍の青果市場への出荷は終えた・・。

わずかに竹林はあるが、かつてのような手入れがされず、
ただ伸ばし放題の竹林が残っている。


このような形の竹林は、まだ私が小学生の頃、
付近の崖に面した傾斜地に著名な小説家の邸宅があった。

傾斜に竹林が密集し、下方に池があった。

私は小学3年ぐらいの時、下校の時に遠廻りし、この脇道を通った時に、
この小説家が難しい顔して池を見詰めていた。

『あれが芸術家かょ・・難しい顔しているが・・
竹は生え放題・・孟宗竹のこと解っていないなぁ』
と子供心に内心呟(つぶや)いた・・。

後年、高校生になった私は駅前の本屋に行った時、
店内の壁面に色紙と写真が掲げられていた。
そして、さりげなく《武者小路実篤》と明示されて折、
私はあのお爺さんが、と気づかされたのである。


私は筍を出荷した竹林は、ある程度に間引いた上、黒土の1色で春になると、
筍が出やすい状況のこだわりがあった。

孟宗竹が密集し、その間から筍が出てきて、
地上から10センチ以上に成育した時に、収穫するのは邪道と思っている。

こんな思いもあるが、
実家でもわずかに残した手入れが行き届かない竹林から、
毎年10本前後生えてくる。

子供の頃、カラスと馬鹿にしたのを実家から、毎年頂いている。

かってのような整備された孟宗竹の群生を旅行先で見かけると、
私は少し涙ぐんで、立ちすくんだりしている・・。
      
・・】



これ以前にも、2005年4月24日に於いて、
【 筍(たけのこ)が食卓に・・。 】と題して、投稿していた。

【・・
昨日、長兄の宅より大きな筍を頂いた。
家内は、早速台所で筍をむき始めた。

遠い昔、私が幼児であった頃、祖父、父が農家をしていたので、竹林が二反あった。

秋になると、地表に根が出そうになったのを三尺近く堀起こし、地中深く根を埋めていた。
次兄と私は、穴が掘られたのを子供心にいたずらをし、父によく怒られた。

春先になると、この竹林に子供が入るのを禁じられた。

柔らかな地表が微(わず)かな地割れを見つけて、筍を掘り出すためであった。
この微かな地割れを二、三尺を堀り、やがて大きな筍を掘り出した。

芽が地表にだしたのは、柔らか味が出てしまい身が固くなるので、カラス、と呼んでいた。
このカラスは、値が下がるので、家の人々の食卓にのせられた。
地中にあった良質の筍は、市場に出荷していた。

それから残した筍は、日増しに大きくなり、若い竹となり、
子供心でも著しい成長を眺め、感嘆した心を躍らせていた・・。


夏になると、ひんやりした竹林に入るのが、私は好きだった。
田畑の暑い中、この竹林は涼しく、ときたま風が吹くと、
さわさわとした葉ずれの音を聴き、心地よいひと時を感じたりした。

秋のある日、竹細工の方が買い付けにきたりした。

この頃、孟宗竹で籠(かご)、笊(ざる)、作物入れ用とかで何処の家も使われていた。

その後、昭和28年に父が亡くなり、まもなく祖父も他界した。


私の家は、この後に急速に変わり、竹林も無くなった。

今、長兄の宅は、五、六坪の竹林に留めている。
手入れも昔ほど出来なくなったので、地表に出た、カラスを掘り起こしている。


あの香(かぐわ)しい情景は、東京のこの付近の郊外では消え去ってしまった。

今、庭に出ると、紅梅の根元の周囲には、蕗(ふき)の葉が微風を受けて、揺れている・・。

・・】


このように数多い筍、竹林の多い中、たった三つだけを再掲載したが、
私はテレビなどで筍を掘り起こす情景を偶然に視聴したりする時、
遠い昔の幼年期に見た筍とは、違いますよ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
苦笑したりすることが多い。


下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お雑煮(ぞうに)、齢ばかり重ねた私は、恥ずかしながら学び・・。

2011-01-02 05:29:47 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
昨日の元旦の朝は、お屠蘇〔とそ〕の苦手な私は、純米酒の冷酒を呑みながら、お雑煮を頂いた。
このようなことは、家内と結婚して35年ばかり続いている。

私は1944(昭和19)年に東京郊外の農家の三男坊として生を受け、
幼年期まで農家の児であったが、少なくとも三が日の朝は、お雑煮を頂いてきた。

そして私は恥ずかしながら、お雑煮の由来なども知らず、今日に至っている。
お餅にダイコン、ニンジン、ネギ、里芋などの農作物に、鶏肉を加えた醤油味で、
美味なのに、どうしてお雑煮などと可哀想な命名をしたの、と思ったりしたのである。


先ほど、ぼんやりと遅ればせながら、こっそりとネットで検索したのである。
私が日本の文化、行事などに関してのネットの世界の教授は、
定年後に初めてめぐり逢い、何よりも親愛を深めているのは、【日本文化いろは事典】サイトである。

そして、私は読みながら、そうでしたの、と赤面しながら学んだりしたのである。

http://iroha-japan.net/iroha/B02_food/25_ozoni.html
☆ 【日本文化いろは事典】「お雑煮」☆

正直に告白すれば、
《・・
「雑煮」の語源は「煮雑〔にまぜ〕」で、いろいろな具材を煮合わせたことからきています。
・・》
このようなことである。

年始早々恥ずかしいことであるが、齢ばかり重ねた身であると、反省ばかりしている。


にほんブログ村 小説ブログ コラムへにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢のひとつは、『宮古の魚介類炭火焼き 浄土ヶ浜』・・。

2010-09-07 10:28:38 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先ほど、ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を読んでいたら、
【新おとな総研】の中で、定期連載の『旅のしおり』の見出しに、

《 宮古の魚介類炭火焼き 浄土ヶ浜に…岩手 》

と見出しされた記事に、私は過日に浄土ヶ浜に訪れたので、読みはじめたのである・・。

無断ながら転載させて頂く。

《・・
      宮古の魚介類炭火焼き 浄土ヶ浜に…岩手

炭火焼きで新鮮な魚介類を味わえる漁師直営の「宮古漁師のホタテ・カキ焼きハウス」が
今月、岩手県宮古市の浄土ヶ浜にオープンした。

週末と祝日限定で、山田町などのカキ小屋と異なり、
メニューはカキ、ホタテに加え、ホヤやムール貝など様々。

最初の営業となった4、5両日は、
多くの親子連れや観光客が訪れ、おいしそうに口に運んでいた。

ハウスは、宮古市の漁師10人で作る「はんもうどの海(かい)・宮古」(竹谷紀幸代表)が、
衰退ムードの漂う漁業を盛り上げようと企画した。
魚の価格下落による収入減を補填(ほてん)し、後継者を育成する狙いもある。

会場は、浜の手前の駐車場近くに建つ浄土ヶ浜ターミナルビルで、
客はビル内で魚介類を購入、隣接する小屋のテーブルで炭火焼きを楽しむ。
通年営業。
6テーブルが用意されているが、初日の大盛況を受け、5日は9テーブルに増やした。

この時期なら、宮古産の岩ガキ(1個300円)、ホタテ貝(1枚200円)、ホヤ(1個100円)、しゅうり(ムール)貝(1皿200円)など。
季節に応じてマガキ、毛ガニ、サケなども加える予定だ。

会場では、客たちが直径13センチほどのホタテ貝や重さ300グラムあるカキなどを、
漁師とうちわであおぎながら焼き、しょうゆをかけておいしそうにほおばった。

盛岡市青山、会社員福士司さん(52)は
「新鮮でおいしい。潮の香りが漂っていて、家で食べるのとは全然違う」と満足げだった。

竹谷代表は「宮古でこういう形式は初めて。
私たちが突破口になり、少しでも漁業振興ができれば」と意気込みを見せる。

(2010年09月06日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://otona.yomiuri.co.jp/trip/news/100906tb03.htm?from=otonatop
☆【YOMIURI ONLINE】 宮古の魚介類炭火焼き 浄土ヶ浜に…岩手☆


私は家内と共に過ぎし8月30日から9月1日に於いて、
たまたま東北地方の太平洋に面した三陸海岸で、
宮古市の海岸にある『浄土ヶ浜』を望む高台にある『浄土ヶ浜パークホテル』3連泊した。

今回のこのニュースを知り、
無念ながら《週末と祝日限定で・・最初の営業となった4、5日・・》と読み、
呑兵衛で魚介類の炭火焼きが大好きな私は、もう少し旅行の日程をズラせば、
このような光景にめぐり逢えたのに、と微苦笑したひとりである。

やむえず私は、夢の中でお逢いしたい、と思ったりした。

秋晴れの休日、宮古駅の周辺に住む家族、
或いは宮古市の中学、高校を卒業した幾10年の同級生が、
駅前より路線バスに乗り、浄土ヶ浜ターミナルビルで下車する。

そして秋の陽射し、秋のさわやかな浜風を受ける中、
地酒、ビールを呑みながら、炭火焼きの岩ガキ、ホタテ貝、ホヤ、しゅうり(ムール)貝を頂く・・。
そして悪友と『この人生・・何かと大変だなぁ・・』
と云ったりしながら、談笑を重ねる・・。

家族グループであったならば、父親は地酒、母親はビールを呑みながら、
子供と共に炭火焼きの岩ガキ、ホタテ貝、ホヤ、しゅうり(ムール)貝を頂き、
美味しいよねぇ、とお互いに言葉を重ねる・・。

休日のひととき、癒(いや)しとしては、呑んで食べて、
何よりも海辺の光景を観て、お互いに語り合う・・
この人生の最良の時と、このような情景を齢を重ねた私は夢をみる。


☆下段のマークを押し、次画面の『投票』を押して下さいますと、
 つたない私の無上の喜びとなりますので、お願い致します♪

日記<br>

</div>
</div>
<!-- /entry-body -->

  <!-- entry-bottom -->
  <div class=
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする