夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

偏(ひとえ)に数多くの諸兄諸姉に感謝を重ね、改めて良いお年をお迎え下さい!!

2014-12-31 11:58:19 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であり、
民間の中小業の会社を35年近く奮戦して,2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
私の半生は何かと屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・と思いながら
直ちに年金生活にして、身過ぎ世過ぎの日常生活を過ごしてきた。

そして私は随筆、ノンフィクション、近現代史などの読書に続いて、文章を綴るのが好きである。

退職してまもなくして、偶然にブログの世界を知り、丸10年が過ぎて、早や11年生に進級した。

そして結果的には、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
            
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
       
         
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。    
       
ここ5年、このサイトに綴ることが生きがいのひとつになっているので、
数多くのお方にお読み頂き、私がブログが継続できたこともあり、偏(ひとえ)に感謝の一言です。
       

こうした中で、数多くの諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂くと、
ここ6年ぐらい殆どの方が心ある写真を添付し、
いつまでも言霊(ことだま)を信愛し、散文のような文章だけでの表現は、
時流に残されてしまう私なりに憂慮してきた。

そして 特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもある。

過ぎし一昨年の2012年(平成24年)の『文化の日』の翌日の4日から、
私は遅ればせながら写真添付を始めて、投稿文を重ねているが、
昨今、写真を添付しないと、何かしら寂しい心情となり、我ながら独り微苦笑したりしている。

                 
或いは何よりも数多くの50代以上の諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが圧倒的に多く、
確かな人生の教科書と思い、私は励まされたり、微笑んだりして、年金生活を過ごしたりしている。

そしてコメントを頂いたり、或いは私は数多くの方の投稿文を読ませて頂き、
感きわまってコメントをしたりしている。
何よりもこの広い空の下で、未知のお方に投稿文の上で、
めぐり逢えたことに秘かに感謝を深めたりしている。
                 
        

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった二人だけ家庭であり、
家内の父は過ぎし2004年(平成16年)の秋、私の定年退職時の直前に病死し、
家内の母は独り住まいとなったので、
私たち夫婦は年末年始の期間は我が家で共に新年を迎えよう、と誘い、この年から恒例のようになっている。

今年も家内の母には、28日の夕方に来宅して貰い、私たち夫婦と3人で年末を過ごし、
新年を迎え、3日の午前中に帰宅される。

我が家の年末年始の情景は、居間の17畳ばかりの一角に6人用の炬燵で設置し、
家内の母には、奥の6畳の和室で休んで頂く。

こうした中で、居間の炬燵で、それぞれの好みの御節料理の単品の数々を頂いたりし、
談笑するか、テレビを視聴したりして過ごすことが多くなっている。

こうした中で、我が家では大晦日の今宵は、『お年取り』のささやかな酒宴を致しますので、
今年の最後の投稿とします。

『お年取り』は大晦日(おおみそか)の夜に年を取ることを祝って行う儀式と伝えられているが、
我が家でもビールや日本酒を呑ながら、御節料理の単品の数々を頂いたりし、談笑を重ねたりしている。
       

今年は安倍政権の基で、デフレ脱却を果たし経済復興をめざす様々な施策が実施され、
国民のひとりとして無力な私でも、戸惑いながら思案して、やがて明るい日本に期待している。

こうした中で、社会に於いては余りにも悲惨な出来事が多く、私は悲嘆したり、憂(うれ)いたりしましたが、
来年こそは、明るいニュースで数多くの方と共に微笑んだりしたい、と祈願しています。

改めて諸兄諸姉には、良いお年をお迎え下さい。

                  2014年(平成26年)12月31日
                               『夢逢人』

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除夜の鐘、ぼんくらの私は一日早く、拝聴して・・!?

2014-12-30 17:26:32 | ささやかな古稀からの思い
東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
今朝の9時半過ぎに、我が家から3キロばかりにある都立の『神代植物園』を独りで訪れて見よう、
と突然に思い立った・・。

『神代植物園』には、50数年創設以来幾たびも訪ねてきたが、ここ10年の年金生活の中、
四季折々を季節のうつろいを享受してきた。

このような思いから、昨今の数多く椿(ツバキ)の花の彩(いろど)りは・・
或いはクヌギ、コナラなど雑木林の冬木立の情景は・・と思いめぐらして、
『神代植物園』の正門前に到着したのは、11時過ぎであった。

しかしながら閑散として、おかしいよなぁ、と思いながら、
正門の入場券売り場の近くの案内板を見ると、
《・・12月29日(月曜日)~1月1日(木曜日・祭日 休園 》
と明記されていたので、私は少しボケてしまったのかしら、と落胆したりした。
       

やむなく『神代植物園』のまわりの小道を歩き、
55年前の中学時代の通学路のひとつを歩いたりした。
そして多きく変貌してしまったが、少しばかり原景が残っていたので、
これを頼り歩いたりした・・。
       

       

やがて『神代植物園』の深大寺入門に着くと、いつも見慣れた情景に、
微笑みながら眺めたりした。
       

この後、隣接している『深大寺』に入ると、鐘を撞(つ)く音が聴こえた。

やがて山門(さんもん)の近くにある梵鐘を吊した鐘楼堂(しょうろうどう)に於いて、
ひとりの仏門者が鐘を撞(つ)いていた・・。
       

私は生家は、仏教の中で多い曹洞宗であるが、
お墓参りは私の母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸ぐらいあり、
散策とか旅先で寺院にめぐり逢った時は、手を合わせる程度の拙(つたな)い身である。

そして何かと単細胞の私は、『大晦日』にはNHKの恒例番組の『ゆく年くる年』に於いて。
確か各地の寺院が映しだされて、こうした中で除夜の鐘が撞(つ)くシーンがあった、と思い重ねてしまった・・。


恥ずかしながら私は『除夜の鐘』に関しても無知な方であった。

過ぎ去り2000年(平成12年)の春、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)を購読していた時、
大晦日の夜、日本の各地で除夜の鐘を撞(つ)くが、古来より108回となっていることに関して。
遅ればせながら55歳の時に教示された。
       

《・・仏教で人間の煩悩(ぼんのう)が、108あるとされる・・
煩悩とは、身体や心の欲望、他人への怒り、ないもののへの執着などとされている。

仏教に於いては、①生まれてくる苦しみ
        ②年をとる苦しみ
        ③病気の苦しみ
        ④死の苦しみ
4大要素を『四苦(しく)』とし、

        ⑤欲しくても手には入らない苦しみ
        ⑥愛する人と別れる苦しみ
        ⑦いやなことをさせられる苦しみ
        ⑧その他の色々な苦しみ
『八苦(はっく)』があるとされている。

そして、この『四苦八苦』の四苦(4x9=36)と八苦(8x9=72)を加算すれば、108になる。

108回の来歴については、他にも諸説があるが、
一年の様々な思いをかきたてる除夜の鐘は、 旧年中に107まで撞(つ)き、
最後の1回を新年に撞くのが慣例である。

尚、『除夜の鐘』は、中国の宗(960年~1279年)の時代に始まった風習だと云われて折、
『除夜』とは、旧暦で一年の最後の夜のことである・・》
       
       
こうしたことを学んだりしたが、私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、その直後から多々の理由から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

そしてこうした人生の『四苦八苦』の怜悧を深く思案したりすると、
つたない私は、どうしたらよいの、と迷うばかりが本音となっている。
           
        

こうした心情を秘めている私は、前方で真摯に鐘を撞(つ)く情景に、
1日早いが、『除夜の鐘』と思い深めて、真摯に拝聴したりした。

余談であるが、私が鐘を撞(つ)く情景にめぐり逢えたは、
当院のご厚意で、たまたま私は12時を告知する鐘であった。

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私の幼年期の頃、生家で『餅つき』をしていた当時のささやかな想いで・・。

2014-12-30 09:25:42 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市の外れで、世田谷区と狛江市の隣接した地域に住んでいるが、
生家の実家も近くにあるが、私の幼年期の遠い65年前後の頃は、
『餅つき』は、歳末の近くになると私の生家で行っていた。

私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕していた。

この頃は、江戸時代からの名残り農家の六人組で、
『餅つき』などの場合でも、お互いに20日過ぎた頃から、
この日はあそこの家で『餅つき』をする互いの助成制度の風習が残っていた・・。

具体的には、祖父の家を含み、六軒の家で交互に手伝う習慣となっていた。
       

こうした中で祖父の家の順番になると、この一週間前の頃に父が俵(たわら)に入りたもち米をリヤカーで積んで、
甲州街道に精米専門店があり、精米して頂き、
精米された餅米を俵(たわら)に入れ、排出されたもみ殻、糠(ぬか)も含めて帰宅していた。

やがて『餅つき』の前日には、精米された餅米を水に漬けたりしていた。

そして当日になると早朝から生家で大きな竈(かまど)に、薪(まき)を燃やして、
生家で最も大きなお釜(かま)が水が沸騰する少し前に、
餅米を入れた二尺近い正方形の大きな蒸篭(せいろ)を幾重にも重ねて、やがて蒸(む)した。

ご近所の主人たちが5人来てくださり、それに私の生家の人である。
祖父、父、母、叔母、そして長兄、次兄に続いて、
6歳の私なり手伝いをしたりしていた。

午後になると、大人3人掛かりで杵(きね)で臼(うす)の蒸されたもち米を搗(つい)たりした。
すべて手作業なので、労力のいる時代だった。

やがて餅になると、お供(そな)え、長方形ののし餅、とそれぞれに作っていた。
長方形ののし餅は、長方形の板で形を整え、片栗粉でまぶした。

この当時の生家に於いては、年末から正月のお雑煮、七草を得て、
その後、ときたま2月の上旬まで食卓に出されることもあった。

このために、のし餅などは10畳の部屋を二つ使い、廊下まではみ出していた。
       
       
夕方の6時頃になると、搗(つ)きたての餅をあんこ、大根のからみ、きなこ用に
それぞれ作り、夕食がわりとなった。

ご近所の主人たちには、酒が振舞われ、茶碗酒として出された。

こうした時、ご近所の叔父さんが、私に云った。
『XXちゃん・・何を食べるの・・』

『う~ん、大根の辛いの・・』
と私は云った。

『そうかい、からみねぇ・・
XXさん、この児きっと呑んべえになるね・・』
と赤い顔になってしまった叔父さんは、私の父に笑いながら云ったりしていた。

後年、私が30代後年より、お酒は日本酒の純米酒の辛口をこよなく呑み、
呑兵衛のひとりとなったので、この叔父さんは的言されたりした。


この数年後の1953年(昭和28年)に父が病死し、まもなく祖父も他界したので、
私の生家は急速に没落しはじめた・・。

そして1956年(昭和31年)の頃になると、
私の周囲の家々も時代の波が押し寄せ、田畑、竹林、雑木林が消え去り、住宅街に変貌し、
このような風習は、消えた去った・・。
       

このような私の幼年期の頃、生家で『餅つき』をしていた当時の頃を思い浮かべ、
綴ったりしていたが、私にとっては餅つきの情景は限りなく深い愛惜感も秘めている。

そして私たち夫婦は39年近く生活して、餅に関しては、
初めて10年ぐらいは和菓子屋で年末に長方形の『のし餅』を買い求めてきた・・。

その後の今日まで、スーパーで殆ど一年中販売されているシングルバックされた『切り餅』を
ときおり買い求めたりしているので、季節感がなくなってしまった、と微苦笑しながら食べたりしている。

そして新年に頂くお雑煮に入れる餅もシングルバックされた『切り餅』となり、
お供(そな)えもスーパーで販売されている可愛らしい小振りを2セット買い求めて、
やがて我が家の元旦の朝の情景となり、私は戸惑いながら時の流れだよなぁ、
と苦笑して早や30年過ぎている。

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年の瀬、全国的に年末年始の休暇の中、東京郊外に住む我が家では・・。

2014-12-29 12:14:40 | ささやかな古稀からの思い
東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
過ぎし27日の土曜日のテレビのニュースで、本日の早朝から帰省ラッシュでふるさとに向かい新幹線、在来線の乗客、
或いは自動車で高速道路を利用され帰省される方が多く、
成田空港では、年末年始を海外で過ごす家族連れらの出国ラッシュがピークを迎えました、
このようなことを報じていた。

そして私は前日の26日の金曜日には、『官庁御用納め』とカレンダーに記載されていたので、
民間会社の数多くは27日の土曜日から年末年始の休暇が始まったのかしら、
と私は感じたりした。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内の父が2004年(平成16年)の秋、私の定年退職時の直前に病死し、
家内の母は千葉県の八千代市に一軒屋の独り住まいとなったので、
私たち夫婦は年末年始の期間は我が家で共に新年を迎えよう、と誘い、
この年から恒例のようなこととなっている。

ほぼ毎年28日の夕方に来宅して貰い、年末を過ごし、新年を迎え、3日の午前中に帰宅することが多い。

我が家の年末年始の情景は、居間の17畳ばかりの一角に6人用の炬燵(こたつ)を設置し、
家内の母には、奥の6畳の和室で休んで頂く。

こうした中で、居間の炬燵で、それぞれの好みの御節(おせち)料理の単品の数々を頂いたりし、
談笑するか、テレビを視聴したりして過ごすことが多くなっている。
       

このように我が家は私の定年退職後の年末年始は過ごしているが、
私のふるさとは、今住んでいる近くに生家があり、三男坊の私としては長兄宅が実家となっている。
そして私はこの地域には結婚前後の5年間を除き、65年ばかり住んでいる。

このような事情もあり、私は帰省の方たちを見かけると、少し羨(うらや)ましいのが本音である。

こうしたことは過ぎし一年の思いを秘めて、ふるさとの親、親族、そして友人たちに再会して、
共に語る合う情景が浮かび、
どうかご無事で行かれ一族再会のような親愛を深めて下さい、と思ったりしている。

そして日本の各地、或いは海外に旅行される方たちにも、
せっかくの年末年始の休暇を楽しまれて下さい、と感じたりしている。

或いは自宅で年末年始を過ごされる方たちには、
27日頃よりご家族で大掃除、買物などをされ、ゆったりと新年をお迎え下さい、
とニュースを視聴しながら思ったりした。

こうした中、年末年始も仕事で業務に携(たずさ)わる方たちには、
大変ですね、お身体を程々にご自愛して下さい、と心を寄せたりした。
       

我が家は過ぎし22日の月曜日から家内は大掃除で孤軍奮闘し、
私は買物のメール老ボーイでスーパー、専門店に幾たびか往還したりし、
或いは小庭の掃き清めたりしてきた。

そして27日の土曜日には、本格的な年末年始の買物を実施した。
私は家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供となって、
駅前、最寄りのスーパーで伊達巻、かまぼこ、栗きんとん、黒豆、田作り、昆布巻などの単品を買い求めたり、
やつがしら、里芋、くわい、蓮(ハス)、ごぼうなどの農作物は、家内は相変わらず料理をしているので、
5店前後を2日間ぐらいで廻りながら買い求めてきた。

しかしながら私たち夫婦の体力の衰えも実感してきたので、
ある大きなスーパーを単独として、お互いに現品を確認した上で、有料配達を活用し、
安楽な年末年始の買物となったりした。

昨日の28日に簡素な『お正月飾り』をした。
何かと無知な私でも12月29日は「苦待つ」といわれ縁起が悪いので、
31日は「一夜飾り」と云われ、神様に対して礼節がない、
と亡き母から学んできたからであった。

そして28日は、末広がりで縁起が良いかしら、と私たち夫婦は微笑んだりした。
       

やがて夕方の3時過ぎに、家内の母が予定通り来宅され、
私たち3人は、夕食を兼ねてささやかな酒宴を6時からして、互いに談笑を重ねたりした。

家内の母は84歳、私は70歳、そして家内は65歳で、
それぞれ高齢者の身であるが、この一年のその人なりのささやかな出来事を話したり、
好きし年に私たち夫婦は家内の両親を誘い、幾たびか旅を重ねた旅先のこぼれ話しなどを話したりすると、
お互いに話題が泉のように尽(つ)きない・・。


たまたま昨夜の場合は、夜の9時過ぎに酒宴を終り、この後は家内の母と家内が母と娘の時間と思い、
私は2階にある寝室で、布団にもぐり読書をしているうちに眠ってしまい、
早朝の5時に目覚めてしまい、やがて居間の炬燵(こたつ)で本を読んだりした。

こうした中で未明より小雨が降りだしていたので、雨脚の音を微かに聴きながら、
昨夜は少し早く寝すぎたかしら、齢ばかり重ねた私でも早寝早起き元気な児かょ、
と微苦笑をしたりした。

やがてネットで地元の天気情報を見ると、
本日の午前中は小雨、午後は曇り、明日以降の一週間は晴れマークが続いていたので、
天上の気候の神々は、本日の小雨は打ち水で年末年始の日々を清めて下さる、
と私は解釈して微笑んだりしている。

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敗残者だった私、過ぎし60代の年金生活に万歳、と心の中で三唱して・・。

2014-12-28 15:14:41 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
今年の9月に古希と称される70歳となり、早や実質として年金生活は丸10年が過ぎている。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市(当時は北多摩郡神代村)の片隅の地域で、
1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として生を受けた。

やがて東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
私は小学生から映画をこよなく愛して少年だった影響で、映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。

そして養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。

こうした中で、明日の見えない日々であったが、根拠のない自信ばかりで習作活動に励んだりし、
純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選した・・。

こうした落胆している中、やがて30代を迎えた時を想像すると、家庭を持ち妻子を養う自信がなく、
あえなく敗退し、挫折した。

そして人生航路を変えて、民間会社に中途入社する為の手段のひとつとして、
コンピュータの専門学校のソフト系を一年間学んだ。
       

この後、 1970年(昭和45年)4月、ある民間会社の大手に何とか中途入社し、
まもなく創立された外資系のレコードに移籍させられた。

そして音楽に直接に携わる制作畑でなく、裏方の商品、情報、経理、営業を配属され、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
      

しかしながら最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となり、
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は都心の本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたりした。

そして遠い勤務地に通勤し、やかて半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、
と自身を叱咤激励しながら奮戦している中、出向先の会社も大幅なリストラが実施されたりした。

或いは私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風が加速され、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたりした。
       
              
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このように私は敗残者のようなサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
         

更に私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした。

そして私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭の為か、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、ささやかに年金生活を始めた。

そして厚生年金、わずかな企業年金を基盤に、程ほど貯金を取り崩しながら、
お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、と願いながら年金生活を開始した。
       

私は調布市の片隅に住み、生家も近く結婚前後の5年を除き、この地域に65年ばかり住んでいる。
そして住宅街の外れに住み、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
私より5歳若い家内と共に過ごしている。
    

年金生活を始めた当初、平素の買物は自主的に専任者と家内に宣誓したりした。
そして戸惑いながら買物の責務を終えた後、独りで近所の遊歩道、小公園などを散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
              

こうした中で、第二の人生と称せられる年金生活を過ごしてきた中、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』かしら、と感じ深めている。
       

『健康』に関しては、もとより健康でなければ、それぞれの人の日頃のささやかな願いも叶わない。

私は現役サラリーマンの時代の時、50歳の頃に会社の懇親会で、
定年退職されたOBの65歳のひとりと談笑した時に、
年金生活になると、病院にお金を運ぶか、趣味でお金を使えるか、と教示され、
天と地の開きがありますね、と私は応(こた)えたりした。

そして大病は、ご自身の自助努力と幸運がなければ避けられない、と漠然と思ったりした。
私が現役サラリーマンだった58歳の時に、同僚の死去に接したりした。

やがて年金生活を始めて数年過ぎる中、先輩、同僚だった人たちの死去を知り、
余りにも若き60代なのに、と戸惑いながら、ご冥福を祈ったりしながらお通夜に参列したりした。

私は定年の5年前に、定年後の60代の10年間だけは五体満足に生かしてくれ、
その後の70代以降の残された歳月は、余生であると漠然ながらと思ったりしてきた。
                 

私は定年退職後、年金生活を始めた当初から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後も独りで自宅から3キロ範囲の遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

こうした根底には、私も現役時代のサラリーマンの時は、数多くの人たちと同様に多忙であった。
そして家内は、我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。
 

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。
                 
      
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。


年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
                 

このように年金生活を過ごしているが、私は敬愛しているチャップリンの遺(のこ)された言葉のひとつに、
《 人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とサムマネー。 》
という名言があり、人生の確かな格言ですねぇ、と程ほどの貯金しかない私でも、信愛しているひとりである。

このような私であるので、もとより健康は大切である、と確信を深めながらも、
余りにも我が身を安住な環境ばかりこだわり安息な日々を過ごすと、この残された人生は狭い思考となるので、
ときには私たち夫婦は異郷の地に旅路を重ねてきた。

そして私たち夫婦は海外の地は苦手であるので、せめてと思いながら日本の四季折々の各地を訪ねてきた。

例えば北海道の各地、雪舞い降るマイナス10数度の中、
山里、街の外れなどの雪路を歩きながら、圧倒的な異郷の冬麗な美の情景を享受している。


このような60代年金生活を10年過ごしてきた直後、
幸いに大病もせずに程ほどに自由に過ごせてきた私たち夫婦は、多く人たちに恵まれる中、享受してきた。

そして私としては、定年退職するまで敗残者の航路であった為か、
今までの人生の中で、60代の年金生活が何よりも享受できた、と実感を深めながら、
心の中で、万歳三唱だよねぇ、と呟(つぶや)いたりした。
       

しかしながら私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

やがて私は70代の歳を迎えてまもない時、70代以上の方は自助努力も肝要であるが、
幸運に恵まれ健康寿命を保った知人、ご近所にいる3軒のご夫妻と何かと談笑したりしている。
そして確かな《いきがい》と《健康》そして《気力》を持ち、しなやかに日々を過ごせれば、
と念願しながら、過ごしている。

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年の瀬の買物、我が家も省力化に変わり果て、私は微笑んで・・。

2014-12-27 15:32:39 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私は過ぎし9月の誕生日を迎え、古希と称される70歳となり、
家内は12月に65歳の高齢者入門となったりした。

そしてお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

我が家の平素の買物は、私が年金生活を始めて以来、私は自主的に専任担当となり、
近くのスーパー、駅前のスーパー、専門店などに殆ど毎日独りで出かけている。
                            
      
こうした中で、月に一度ぐらい家内と共に、ホームセンターに生活雑貨品、洗剤など生活消耗品、
或いはドラッグストアーに行ったりしている。
        

こうした時は私は何かと家事の大半は家内にお願いしているので、
せめて家内のボディ・ガード、荷物持ちをして、お供をしなければ、
一家の主(あるじ)としての責務が果たせない、と私は齢を重ねるたびに深めたりしている。

そして我が家は恥ずかしながら自動車もなく、私は根がケチなせいか、
利便性の良い路線バスには乗らず、ひたすら歩くことが多い。

そして私は買物をする時、多くの品を購入する時とか、或いはビール、お米などの重い品を買い求める時、
買物の引き車と称される『キャリーカート』を曳〈ひ〉いたりして歩いたりしている。
          
          ☆過ぎし日、この『キャリーカート』を私は玄関の前で、段ボールを乗せて、
           ゴムバンドで括(くく)り付けた状景をたわむれで撮ったりした☆    

そして私は家内が大量に買い求める買物の時は、
家内は私より数歩先を歩いて、私は段ボールを乗せた『キャリーカート』を曳〈ひ〉いて、歩いていたので、
まるで江戸時代の下男のようなお供だねぇ、と私は微苦笑したりしてきた。
                    

やがて目的のホームセンター、ドラッグストアー、スーパーなどで家内は買物した後、
私は受け取り、素早く『キャリーカート』に乗せている段ボールに入れたりした・・。

そして昨年の年の瀬の時、年末年始の御節料理の素材、単品完成品をスーパーなどで、
5店前後を2日に及び廻り買い求めてきた。
       

私の母が母の亡くなる1998年(平成10年)の新春の前の年までは、
家内は黒豆、栗などの素材を吟味して買い求めて、
そして御節(おせち)の品々を3日ぐらいで仕上げたりしていた。

そして我が家、独り住まいの私の母用に、それぞれ三段のお重を20年間ばかり料理してきたが、
お互いに齢を重ねてきたので、御節料理は簡略となっている。

駅前、最寄りのスーパーで伊達巻、かまぼこ、栗きんとん、黒豆、田作り、昆布巻などの単品を買い求めたり、
やつがしら、里芋、くわい、蓮(ハス)、ごぼうなどの農作物は、家内は相変わらず料理をしている。

このような簡略の御節料理でも、買物となれば家内なりに吟味するので、
何かと買物の時間を要してきた・・。

この間も私は家内の依頼で、買物メール老ボーイのように、スーパーなどに幾たびか出陣してきたのが、
我が家の年の瀬の実態となってきた。
       

昨日の夕方、我が家の買い物はスーパーなどで配達して下さる方法に、
切り替えようか、と話し合ったりした。

もとより我が家の最寄駅の周辺には、5店ばかりネット販売するスーパーがある。
ネットで注文すれば、我が家に配達して下さるシステムであるが、
インスタントのゴールドブレンドなどを買い求めるには確かに利便性があるが、
やはり里芋、くわい、蓮(ハス)などは現品を確認した上で、買い求めたいので対象外となった。

そして店内で買い求めた後、この店から有料で配達して頂くスーパーがあったので、
我が家に最適だ、と私たち夫婦は笑いあったりした。

本日の10時過ぎに私たちは、近く路線バスに乗車して、10分足らずで下車した。
そして目的のイトーヨーカドーの国領店で、御節料理に関した数多くの品を2時間ぐらいで買い求めて、
配達依頼をした。
       

こうした我が家としては、昨今の時流に便乗した省力化に変わり果て、
体力の衰えを実感してきた私は、余りにも簡単だよなぁ、微笑んだりした。

そして後は、家内からの依頼で、私は最寄りのスーパーに数回行く程度かしら、
と思ったりしている。

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私たち夫婦は長き結婚生活の中、御節(おせち)料理、年末年始休暇、大きく変貌をして・・。

2014-12-26 07:57:47 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日の昼過ぎ、家内からスーパーのチラシを私は手渡しされて、
『悪いけれど・・このスーパーで買って来て下さる・・お願い』
と私は言われて、家内は多忙の中、せめて買物メール・ボーイしかできない私は、
『はい! 了解致しました!』
と私はボケてはいけないと思いながら、若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく返事をした。

この後、私はチラシを見ると、20分ばかり歩く駅前のあるスーパーで、
散歩代わりに身体に良いよなぁ、と何かとプラス思考の私は微笑んだりした。

そして家内がいつものようにサインペンで赤丸の印を付けた購入品を視(み)たりした。

今回、買い求める以外の商品には、
《 蒲 鉾 紅白は祝いの色
  数の子 子孫繁栄を願って
  伊達巻 巻物の形から文化発展を願う縁起物 》
などと明記されて、御節(おせち)料理に欠かせない品々に付記されていたので、
私は上手(うま)い文面を書く人だなぁ、と微笑んでしまった。

やがて家内から依頼された品を買い求めて帰路に向う時、
私たち夫婦の39年の結婚生活の中、御節(おせち)料理に関しても、年末年始の過ごし方も、
大きく変貌をしてきた、と思い馳せたりした・・。
                 

私が東京郊外の調布市の長兄宅の生家から離れたのは1972年(昭和47年)の春で、
神奈川県・川崎市の登戸でアパート経営をしながら、隣接に住んでいる母の宅に同居した後、
やがて千葉県・市川市の国府台で賃貸マンションで新婚生活を2年ばかり過ごしたりした。

そして私の生家の近くに一軒屋を構えたのは、1978年(昭和53年)の春であった。

この当時の私は33歳の若さで世間知らず、家内は中学生の時から茶事を学んできたので、
気負いもあり住居の中で茶室を設けたりした。
しかし作庭費用に困り果て、やむえず雑木主体の庭とした。

何より困窮したのは、色々な面で想定した価格より遥かに高く、すべてのローンは多額の借金となり、
月々の返済は、私が孤軍奮闘しても赤字が多かったりした。
まもなく専業主婦だった家内は、契約社員などで、3年ぐらい我が家の生計の強力な援軍となったりした。
       
     

そしてクリスマスの頃になると、家内は御節(おせち)料理の素材を付近の専門店、スーパーなどで買い求めていた。
栗、黒豆、田作りなどの素材であり、
たとえば栗は丹波の栗、といったように家内は茶事で学んだ体験を生かし、程ほど高価な品を選定していた。

家内は大掃除、御節(おせち)などで奮闘し、茶室の床飾りとして『結び柳』などをし、
私は28日頃に仕事納めをした後、翌日頃から我が家の庭の手入れをしていた。

大晦日の昼過ぎ、家内が御節(おせち)料理の完成を私に告げた後、
独り住まいの母用に、三段のお重を風呂敷でしっかりと結び、
私は家内から受取り、私は独りで母の所に届けたりした・・。

やがて私は途中で酒屋に寄り、地酒の四合瓶を買い求め、母の所に行ったりした。
その後、母の宅で、出前のお寿司を食べながら、私は持参した地酒を呑み、
母とふたりだけで他愛のない話を数時間を過ごしたりした。

こうしたことは、母の亡くなる1998年(平成10年)の新春の前の年まで、
20年間続けた。
        

こうした年末年始休暇の中で、毎年の新年の2日の私の生家の長兄宅の『新年の祝い』に於いて、
家内は9時前に長兄宅に行き、長兄の奥方と共に、料理の仕上げ、席の準備などをしたりした・・。

そして私は新年会の始まる30分前頃まで長兄宅に行き、
長兄の家族はもとより、叔父、叔母さんなどに新年の挨拶をしたりした。
この間、母、次兄、妹の家族も加わり、11時頃から新年会となった。

やがて3時頃に『新年の祝い』は散会し、家内は長兄の奥方と共に後片づけをしたりしている間、
長兄、そして長兄の子供らと私は茶の間で談笑したりした。

こうした長兄宅での新年会は、母の亡くなる前の年まで、長く続いた。
              

私たち夫婦が1978年(昭和53)年の春に新居を構えた後、
年末年始休暇を利用して、私たち夫婦は家内の両親、家内の妹夫婦などと、
毎年1泊2日の新年会を兼ねた短き旅路を重ねたりした。

この後、確か1980年(昭和55年)の大晦日に家内の両親に来宅して貰い、『お年取り』を復活させた。
『お年取り』は大晦日(おおみそか)夜に年を取ることを祝って行う儀式である。

私たちは新婚時代の時、家内の両親宅に招待されて、御節(おせち)料理の頂きながら、
日本酒、ビールなどを呑みながら、談笑したりした。

こうした『お年取り』を我が家でも真似て、私たち夫婦は家内の両親に来宅して貰らった。
そして私は家内の父と心身の波長が合うので、程々に遠慮なく、食べたり、呑んだりし、
私たち4人ながら心身盛り上がったりした。

そして宿泊して頂き、元旦の新年を迎え、殆ど昼下りに家内の両親は帰宅されたりした。
その後、ときには家内の弟が加わったり、家内の妹夫婦に宿泊してもらったりし、
家内の父の体調が悪化するまで、20年ぐらい続いたりした。
                                               

1998年(平成10年)の新春に私の母は死去した後、この年の晩秋に喪中の葉書を関係者に送付したりした。
そして年末年始、喪に服するのは戸惑いを覚え、
何よりも母親の死去で失墜感、空虚感が私の根底にあった・・。。

世間の人々の多くには、残された息子は幾つになっても父親の死より、母親の死の方が落胆を増すと聞いたりしていた。
私の場合は父は小学2年に病死され、もとより母、そして父の妹の叔母に育てられたので、
50歳を過ぎた私でも、心は重かったのである・・。

このような私の感情を家内は察して、
『年末年始・・どちらかに旅行に行きましょう・・』
と私に言った。

そして私たち夫婦は、私の定年退職する2004年〈平成16年〉の前年まで、
年末年始の休暇を利用して、4泊5日前後で国内旅行に行ったりしていたので、
もとより御節(おせち)料理は我が家では、お休みとなった。
          

家内の父が2004年(平成16年)の秋、私の定年退職時の直前に病死し、
家内の母は独り住まいとなったので、
私たち夫婦は年末年始の期間は我が家で共に新年を迎えよう、と誘い、
この年から恒例のようになっている。

ほぼ毎年、28日か29日の夕方に来宅して貰い、私たち夫婦と3人で年末を過ごし、
新年を迎え、3日か4日の午前中に帰宅される。

我が家の年末年始の情景は、居間の17畳ばかりの一角に6人用の炬燵で設置し、
家内の母には、奥の6畳の和室で休んで頂く。

こうした中で、居間の炬燵で、それぞれの好みの御節料理の単品の数々を頂いたりし、
談笑するか、テレビを視聴したりして過ごすことが多くなっている。

こうしてお互いに齢を重ねてきたので、御節料理は簡略となっている。
駅前、最寄りのスーパーで伊達巻、かまぼこ、栗きんとん、黒豆、田作り、昆布巻などの単品を買い求めたり、
やつがしら、里芋、くわい、蓮(ハス)、ごぼうなどの農作物は、家内は相変わらず料理をしている。

このように私の母が生前した時代は、家内は黒豆、栗などの素材を吟味して買い求めて、
そして御節(おせち)の品々を3日ぐらいで仕上げていた事は、今や省略している。
       

余談であるが、私の御節(おせち)の好みの品は、数の子を食べながら、
純米酒の辛口を呑むことが好きである。

そして蛸(たこ)は、高級と称される明石の『蛸(たこ)』よりも、
何故かしら廉(やす)い北海の『酢だこ』が好み味で、何かと食べまくり、
家内は呆れ果てて早や36年ばかり過ぎている。

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年の瀬を迎える時節、何かと愚図の私でも、戸惑いながら奮闘して・・。

2014-12-25 09:12:49 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、ぼんやりと私は居間のカレンダーを見ると、『25日』木曜日と明記され、
小学生の当時は劣等生だった私は、確か本日二学期の終業式を終えて、通信簿をもらい、
明日より新年の1月6日まで冬休みかしら、と通信簿『2』と『3』の多かった私は微苦笑したりした。

この後、台所のある市から配布された『調布市ごみリサイクルカレンダー』を見たりした。
ここ一週間、何かと年末までのごみの収集日を見たりし、
ボケてはいけないと気にしてきた私の必須事項であった・・。

23日の火曜日の祭日は、燃やせるごみ、カン==>カンは今年最後の収集日
24日の水曜日は、古紙、古布 ==>今年最後の収集日
25日の木曜日は、容器包装プラスチック ==>今年最後の収集日
26日の金曜日は、燃やせるゴミ、ビン==>ビンは今年最後の収集日
27日の土曜日は、お休み
28日の日曜日は、お休み
28日の月曜日は、ペットボトル ==>今年最後の収集日
30日の火曜日は、燃やせるごみ ==>今年最後の収集日
31日~1月4日は、お休み

このような日程となり、今年最後の収集日で要注意日としてきたが、
今年は30日の火曜日は、『燃やせるごみ』の今年最後の収集日であるので、
小庭を掃き清めるのは前日の29日に行えばよいかしら、と微笑んだりしてきた。

市から指定されたそれぞれのごみリサイクル品を私は朝の7時まで、
市から指定された所の道路に面した門扉の内側に置き、
この周辺の家では一番早いかしら、と思いながら何かと愚図の私でも微苦笑してきた。
       

そして26日の金曜日は『官庁御用納め』と明記され、
いよいよ働いて下さる多く諸兄諸姉は、年末年始休暇が27日の土曜日から新年の1月4日の日曜日まで、
8連休かしら、と思ったりした。

私の現役サラリーマン時代は民間の中小業に勤めていた時は、
『官庁御用納め』に準拠し、『仕事納め』となったりすることが多かったが、
それまでの期間は年末年始を控えて、その上に外資系の為か年の決算月もあり、より一層奮戦したしていた。
そして『大晦日』の前日まで奮闘していた時代もあったりした。

昨今のサラリーマン諸兄諸姉の多くは、短期に成果が問われる時代で、
更に常時リストラの過酷な時代の為、せめて年末年始の時ぐらいは、
愛する妻と可愛いお子様とゆっくりとお過ごし下さい、と諸兄に無力な私でも、秘かに声援してしまうのである。
          

私は年金生活をしている中で、何かと愚図の私でも、この時節は何かと慌ただしい過ごしている。
そして私は家内の指示棒に基づいて、少しばかり奮闘している。
       

年賀状に関しては、私の住む地域は確か25日まで郵便ポストに投函したら元旦に配達できます、
と明記されていたので、私は過ぎし日の19日の金曜日に50通ばかり投函したりした。

そして平素の買物専任者の私は、殆ど毎日のようにスーパー、専門店を廻ったりしているが、
年始に伴い、家内が御節料理の真似事をするので、
家内の要請のひと声に基づき、買物メール老ボーイは駅前のスーパー、専門店に出陣回数が多くなっている。

或いは家内のボディガード兼お供、そして荷物持ちで、
駅前に買物に何回か同行するが、家内はその後に料理の重責となる。

家内は大掃除にここ4日ばかり孤軍奮闘し、独り住まいの家内の母を28日の日曜日に来宅して頂き、
私たち夫婦と共に三人で年始の1月3日まで共に過ごすのが、
ここ10年の恒例となっているので、これらの準備で多忙なのである。

こうした我が家の予定事項を少しづつお互いに奮戦しているが、
私は平素のように読書をしたり、のんびりと遊歩道、公園を散策したいのであるが、私はこの時節は叶わないことが多い。
そして愚図でノロマの私でも、何かと慌ただしいのである。
                 

或いは『お正月飾り』もあり、無知な私でも12月29日は「苦待つ」といわれ縁起が悪いので、
31日は「一夜飾り」と云われ、神様に対して礼節がない、
と亡き母から学んできたので、28日の午前中まで心身清めた後にしょう、と思ったりしている。

そして新年を迎える為に散髪屋(理容店)に関しては、月一度のサイクルの私は、
先手必勝の意味合いもあり18日に身ぎれいにしたりしてきた。

しかしながら何かと慌ただしく、ぼんやりと空白する日はいつなの、と思ったりしたが、
家内の母が28日の午後より来宅するので、それまで奮闘すれば、
あとは平素のようにのんびりと過ごしてきたのが毎年の恒例だった、と思い浮かべ微笑んだりしている。

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クリスマス・イブ、過ぎし歳月の私たち夫婦のささやかな変貌は・・。

2014-12-24 12:31:19 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、ぼんやりと私はカレンダーを見ると、24日は『クリスマス・イブ』の日かょ、と微笑んだりした。

やがて私は、私たち夫婦が結婚前の交際していた遥か遠い日の40年前の頃、
思い馳せたりして微苦笑したりした・・。

この当時は、銀座とか私が勤務していた所在地の六本木の喫茶店で待ち合わせをして、
私は少し背伸びをして、高級な食事処を誘って、
ワインなどを呑みながら、イタリア料理かフランス料理、或いはインド料理などを頂いていた。

そして確か39年前の頃は、クリスマス・イブの時は、銀座の4丁目に近い喫茶店で待ち合わせをしていた。
私は退社後、少し待ち合わせ時間に遅れそうになり、日比谷線の『六本木』から『銀座』までの地下鉄の電車の中が、
この日には特に遅く感じ、もどかしい心情となり、下車後の地上までの階段を駆け上り、
喫茶店に行ったりした・・。

この当時の1975年(昭和50年)の頃は、もとより携帯電話もない時で、
待たされる方は、待ちわびる時代となり、駆け付ける方も何かと連絡する方法はない時代であったので、
お互いに信頼だけで結ばれていた時代てもあった・・。
          
           ☆☆ 今回掲載したすべての写真、年金生活のクリスマスシーズン、旅先でたわむれに撮った ☆☆

その後、結婚してからは、私は退社後に付近の専門店で一週間前の頃から思案していたプレゼント品を購入し、
封筒状のクリスマス・カードにささやなな一文を認〈したた〉めたりした。

そして幾たびか待ち合わせをしていた洋菓子店の『クローバー』の二階の喫茶店があるが、
この一階に魅了されていた『クローバー』でケーキを買い求めて、
新居の賃貸マンションに帰宅してたりした。

この後は、一軒家を建てて、ローン返済で苦節していた時代が3年ばかり続き、
せめて愛用している『クローバー』でケーキだけ購入して、帰宅していた。
          

やがて私が40代の頃には、家内に何か欲しい品、とやんわりと訊(き)いたりしていたが、
必要な品は、デパートで買い求めているから必要はないわ、
できたら旅行に行って温泉にゆっくり・・と要望されたりした。

この当時は私は多忙であったのは、40代の後半の頃から、業務が幾分空〈す〉いた2月頃に、
冬の旅をして、家内の念願に応〈こた〉えたりしていた。

そして定年退職後の年金生活に於いても、我が家はプレゼントの品よりも、
観光ホテルに滞在して、ゆっくりと温泉を満喫することが多くなっている。
          

このように我が家はクリスマス・イブは、旅先以外の年は、
家内が居間などにささやかな室内飾りをして、平素より幾分多めの料理を頂きながら、
私はウィスキーをオンザロックと称した氷片を入れただけの濃いめを呑みながら、
家内はビールを呑みながら、いつものように談笑したりしたりしてきた。

もとより私たち夫婦が子供に恵まれたならば、クリスマス・イブの日も含めて、
大幅に変貌してきただろう、と思いながら、こればかりは叶わぬ夢となっている。

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私のサイト、閲覧数(PV)は500万を超え、偏(ひとえ)に数多くの皆様に感謝を重ねて・・。

2014-12-23 15:21:27 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
本日は年末年始に備えて、小庭の手入れを朝の8時から4時間ばかり、孤軍奮闘した。

そしてお風呂に入った後、パソコンを立ち上げて、私のブログサイトを見ている中、
昨日までの『トータルアクセス数の閲覧数(PV)は5、000、638』、『訪問者数(IP)は1、028,298』と表示され、
閲覧数(PV)が500万が超えたのか、と微苦笑したりした・・。

しかしながら閲覧数(PV)に関しては、数多くの方が御存知のように、
ここ6年ぐらいはグーグル、マイクロソフトなどの大手のロボット検索が、懸命に追跡するように活動しているので、
大幅に加算されている実態であり、無念ながら実質数は不明であり、250万ぐらいが妥当かなぁ、
と苦笑したりした。
                  

私は2004年(平成16年)の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職して、
まもなく偶然にブログの世界を知った・・。

そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入し、
この日から3,625日が過ぎている。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
        

このような軌跡で、ブログの世界を知って丸10年が過ぎて、早や11年生に進級した。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
       
               

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
         

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。    
                                      
                   
私はブログを投稿する際、最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、文才に乏しく試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
2008年(平成20年)の当時は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中で、たった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。
          

このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像され、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
          

こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
          

そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010年〈平成22年〉の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、
と目安ができるので、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
2年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行している。

やがて私は今年の9月に古稀と称される70歳となったので、シニア日記系『70歳代』に加入している。
                 

こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは2年近く前から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。

そして私の投稿文の最初の一行に於いては、殆ど私の住んでいる地域を明記している。
このことは私が投稿文の中で、散策、買い物したりする場合、日本のどの地域なのか、
初めて読んで下さる方に理解して頂く為である。

こうしたささやかな思いで、つたない投稿文を繰り返して、早くもブログは10年が過ぎている。

          
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
恥ずかしながら筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することが多い。
                                                     

こうした中で、50代から70代の多いシニア層に於いて、
『にほんブログ村』に加入している方を中核に、多くのお方の投稿文を読ませて頂いた。

日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を学びながら年金生活を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
               

私のブログサイトの左側の『ブックマーク』に於いて、
ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
少なくとも2年半以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトである。

そしてこの1年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトのお方も多く、
大半は『にほんブログ村』で知り得たお方である。

この諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。

                   
              
私は気楽にコメントを書くことはできない身で、
コメントを書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプのひとりである。

このように時間を要して、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響したので、
原則としてコメントの返信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌した時代もあったりした。
       

しかしながらここ3年は、来訪しコメントを残して下さった方には、原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、
そのお方にコメントをしたりしている。

そして上記の諸兄諸姉のサイトを明記した以外に、ときおり読ませて頂くお方も多く、
ここ3が月に於いても、瞬時に魅了されたお方のサイトも30名のお方もいる。
               

私がブログを書き始めて、丸10年が過ぎて、早や11年生であるが、
何よりもこの広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
その上に、数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、改めて感謝している。

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買物メール老ボーイの私は、これからの時節は何かと多忙となり・・。

2014-12-22 16:42:03 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は2004年(平成16年)の秋に定年後の年金生活を始めて以来、
平素の買物は自主的に専任者となった私は、
家内の依頼された品物を買い求めに、殆ど毎日スーパー、専門店に買い物に行ったりしている・・。

我が家は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。

或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
或いは私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
       

そして殆ど朝食後の一時間を過ぎた頃、
家内は新聞の折込みに入っていた最寄りのスーパーにチラシを取りだして、
家内が赤のサインペンで丸印を付けたりする。

やがて、この赤丸が我が家の本日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。

この後、家内からスーパーのチラシを私は手渡し、
『本日は・・これだけお願い・・』
と家内は私に言ったりしたている。

私は現役サラリーマン時代の緊張感から10年近く解放されて、
体力の衰えも感じている中、せめてボケてはいけないと思い、
『はい! 了解致しました!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく返事をしている。

このような我が家の平素の買物パターンで、私は独りで指定された駅前のスーパー、専門店に行ったり、
或いは最寄のスーパーに行くこともある。
       

今朝、ぼんやりと私はカレンダーを見ると、『冬至』と明記され、微笑んだりした。
もとより一年で最も夜である時間が長いことで、これからの日は朝の日の出が日増しに早くなるので、
私は微笑んだのした。

そしてこれからの年末に向かう時節は、平素より買物の出陣する回数が多くなるよなぁ、
と微苦笑したりした・・。


我が家の年末年始は、独り住まいになっている家内の母を我が家に来てもらい、
私たち夫婦と共に年末年始を共に過ごすのが、ここ10年の恒例行事のようになっている。
          

こうした中で、我が家の御節(おせち)料理は、私の母の生前の時よりも簡略化して、
私たち3人がそれぞれの好みの御節料理の単品の伊達巻、かまぼこ、栗きんとん、黒豆、田作り、
昆布巻など駅前、最寄りのスーパーで買い求めたり、
やつがしら、里芋、くわい、蓮(ハス)、ごぼうなどの農作物は、家内は相変わらず料理をしている。

このようなことはクリスマスの少し前の頃から、家内が孤軍奮闘して、
大掃除、家内の母を迎える準備、そして買物だけは家内のお供、荷物持ちで私も参戦している。

そして私は小庭の手入れをした後、掃き清めるだけて、ときおり家内の緊急依頼で、
買物のメールボーイとなっている。

このような出来事も我が家の年末の恒例となっている。
       

本日、家内の依頼により、御節(おせち)料理用にやつがしら、里芋、くわい、蓮(ハス)、
ごぼうなどの店内で良いと思ったら、買ってきてください、と私は依頼された・・。

そして私は買物を兼ねて、下見と称して今年の農作物の出来具合を確認するために、
京王線の『つつじが丘』の駅の近くのスーパー、
その後『仙川』の駅の近くのスーパー、最後に我が家の最寄りのスーパーを歩き廻ったりした・・。


買物専任者となった当初の頃、私は良い品と感じて買い求めて帰宅した後、
確かに良い品ですが、お値段が高すぎるわ、
と私は家内から怒られたりした。

そしてまもなく、《程ほどの良い品を廉(やす)く》買い求めるのが、
普通のサラリーマンの専業主婦の買物なのよ、
まして我が家は年金生活をしているだから・・と私は家内から言われたりした。

この当時、家内は25年以上に及び専業主婦をしてきたので、
買物専任者の新入生の私は、そうなの、と思いながら、奮起一番これ以来、
私は幼年期に農家の児として育てられた体験を思い馳せるように、農作物の出来具合を見たりし、
買い求めたりしてきた。

しかし余りにも廉(やす)いと、農家の労苦を少しばかり知っている私は、
農家の方は生活が大丈夫なのかしら、と無力な私でも心配したりした。


平素は、《程ほどの良い品を廉(やす)く》モットーとしてきた我が家は、
せめて年末年始ぐらいは家内の母と共に過ごすので、少し背伸びして《良き品を程ほど値段》で、
食べ物を選定しょう、と毎年この時節には買い求めてきた。

このような事情で良い品に数店のスーパーを回ることもあり、
年末の買物の時節を迎える昨今、買い物の時間も何かと予定時間より多くなってきている。

そして私は平素のように読書をしたり、のんびりと遊歩道、公園を散策したいのであるが、
私はこの時節は叶わないことが多い。
そして愚図でノロマの私でも、何かと慌ただしいのである。

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スマホ、フェイスブック、タブレット端末などに無知な私、ひたすらパソコンを信愛して・・。

2014-12-21 15:46:29 | ささやかな古稀からの思い
私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
大学を中退し、アルバイトをしながら映画、文学青年の真似事をしたしていた。
その後、明日の見えない日々であったが、根拠のない自信ばかりで習作活動に励んでいた。

やがて30代を迎えた時を想像すると、家庭を持ち妻子を養う自信がなく、
早々と断念して、民間会社に中途入社する為の手段のひとつとして、
コンピュータの専門学校のソフト系を一年間学んだ。
                 

そして、この当時は音響・映像メーカーの大手のある民間会社に、
何とか中途入社が出来たのは、1970年(昭和45年)の春で、25歳の時だった。

そして上司から現場を学べと指示されて、工場にある商品管理に勤務してまもない時、
音楽事業本部の中のひとつのレーベルが外資レコード会社として独立し、
私もこの外資レコード会社に移籍させられた。

翌年の春、私は本社のコンピュータ担当者として指示を受けたが、たったひとりの専任者となった。

この頃は、私が入社した音楽事業本部の方が完成されたシステムを運営されていたので、
このシステムを活用して、利用させて貰ったりした。
その上、音楽事業本部の担当責任者から、共同管理のつもりでね、と暖かい支援を受けながら、
多々学びながら、業務に奮闘していた。

そして1980年の初めの頃、パソコンが市販されたので、
私も個人の自宅用にNECのPC8801、そしてフロッピー・ディスク、プリンター、漢字用のロムなどを購入したら、
この頃のボーナス分に近い金額を要し、住宅ローンの返済もあったので、何かと苦渋したのであった。

そして肝要のパソコンの言語はベーシックだったと思うが、簡単ようで、中々手こずったのは本音であった。
          

この後まもない時、私の勤めていた会社は、管理コストを削減する目的で、
独自のシステムで全て管理し、情報部門を設置してもらい、
私達4名が奮闘しはじめたのが、1983年(昭和58年)の秋であった。

こうしてオフィス・コンピュータの中型を導入して、
テスト処理、本稼動に伴う運営、管理表の作成、システムの部分改定などをしたりすると、
幾たびか徹夜をしたり、休日出勤したり、
日曜日だけは休むようにしたが、お互いに奮闘した時代であった。
                 

この後、1992(平成4)年になると、あるレコード会社と合併することになり、
各分野のシステムを互いに調整した後、
私の勤めいたソフト販売店の請求・回収業務などの債権管理をしている責任者が突然に退社したので、
やむなく私が選出されて、この業務に専念することになり、
私は20年近い情報畑から異動することになったりした。

私は不慣れな債権管理などの管理畑で悪戦苦闘をしたりした後、
他部門に異動したいなぁ、と思ったりしていた時、
『ウィンドウズ95』のニュースを知り、果たして一般の個人の方たちは使いこなしができるかしら、
と思ったりしていた。


その後、私は念願の他部門に異動し、この部門はバソコンの設置台数が少なかったので、
私は遅ればせながら『ウィンドウズ98』のノート・パソコンを個人的に購入して、
社内はもとより、自宅でも活用をしたのであった。

その後、1999年(平成11年)の初めにリストラ烈風の中、私は出向先となり、
定年退職後に備え、自宅のパソコン『ウィンドウズXP』のディスクトップに一新させたのは、
退職時の3年前の2001年(平成13年)の晩秋であった。

そして多忙な勤務状況であったので、自宅に於いては個人的な電子メールの送受信などには余裕がなく、
殆ど個人的な資料を表計算を利用して作成したり、ソフト会社から販売されている日記に綴ったりしていた。
       

そして、退職時2004年(平成16年)の数が月前に、我が家ではインターネットを開設したのであるが、
パソコンなどを取り巻くネットのウェブ環境の進化にただ驚き、ため息をつくことが多かったりした。

そしてネットの世界は、まったくの初心者の若葉マークの身となり、ホームページの開設を思案したりしていた。
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風の散文を綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。
           

そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、政治、社会などに専門知識がない私でも、私なりの思いを発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。

やがて私は、2004年(平成16年)11月中旬に【アメーバ・ブログ】に加入したり、
まもなく幾つかのブログサイトに彷徨(さまよ)い、この【gooブログ】に定着して、今日に至っている。
       
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸10年は過ぎて、早や11年生に進級した。

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
       

パソコンに関しては、定年退職後に備えて『ウィンドウズXP』の肝要のパソコンが、
壊れてしまい、どうしてなのょ、と困惑した。
やむなく『ウィンドウズXP』のディスクトップの二代目として2006(平成18)年の初秋に購入した。

この間は日本でも、パソコンのハードも進化しながら価格は廉(やす)くなる中で、
更に急激にネットが普及の速度を増す中、数多くのサイトは、更新と称されるアップデートが行われて、
もとより記憶容量も急速に増加してきた。

この後、遅ればせながら、2011年(平成23年)6月中旬に、
『 ウィンドウズ・7(セブン)』に買い改めて、外部ハードディスク(2ギガ)も備え、
そして昨年の12月には、『ウィンドウズ8』買い求めて、今日に至っている。
          

このように私は会社の情報畑で、汎用の大型コンピュータ、オフィス・コンピュータを20数年活用し、
パソコンは1980代の初めの頃から6台ばかり買い求めて使用してきたが、
何かと自慢史の多い人の中、つたない私はパソコンの秘めたり機能も充分に活用できず、
ただ進化に戸惑い、どうしたらよいの、と戸惑うことも多いのである。
       

我が家はNTT東日本の管轄下の光ファイバー固定回線を頼りに、
電話は『ひかり電話』となり、たまたま世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住んでいるので、
都内地域の電話配線下となっている。

そしてネット回線は『フレッツ』なり、私はパソコンでネットを日々利用している。
或いはテレビも、アンテナ不要の『スカパー!光』となり、
このように我が家はすべて光ファイバー固定回線の体制になったは、
定年した翌年の2005年(平成17年)の頃からであった。

そして私たち夫婦は、この当時に旅先の北海道の道東地方をめぐっていると、
くまなく道路際には光ファイバー固定回線が配線されていたので、
これからの日本は光ファイバー固定回線の時代だ、とこの当時の私は微笑みながら思ったりした。
       

私は恥ずかしながら携帯電話さえも使えない身となっている。
1998年〈平成10年〉の当時の私は、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
この少し前の年の頃から、若手の20、30代の世代が携帯電話を使い始めていたが、
50代の私たちも、いずれは携帯電話を利用しなければ、と思っていた。

この数年前の頃から音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999年〈平成11年〉の初春に、取引先の物流情報会社に出向となった。

勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品をソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女120名前後で対応した。

東京ドームより広い商品センターの中で、連絡事項などはマイクを通して拡声器、もしくは電話などで通達し、
携帯電話も要求されない現場で奮闘し、
この出向先で5年半ばかり勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職時を迎えた。

この間の世の中は、多くの方が携帯電話が愛用する時代となったが、
私は定年後の年金生活の中で、何かの機会で覚えればよい、と思ったりしていた・・。

私は携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
6年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には、
迷子のように、私はどこにいる・・と確認できるGPS機能の携帯電話が必要と思い、
新聞に添付されるチラシの一部に、携帯電話とかスマートフォンの各社の広告が入っているので、
ときおり私たち夫婦は見たりし、思案するばかりで今日に至っている。
       

確か2007年(平成19年)の頃から、急激に普及した『ツイッター』に関しては、
国家の動乱時、或いは災害などの緊急時ならともかく、と思ったりしてきた。

そして『ツイッター』などで《 つぶやき 》などが流行っている状況に、
おかしな社会になっている、と私は苦笑したりしてきた。

私は『ツイッター』は短い綴りで、つぶやくような文章と私は解釈しているので、
短い言葉で私の今の心情を発露するようなことは、無念ながら私には筆力がないので、
利用したことがない。

しかしながら、ある程度の長い文章の綴りであるならば、
つたない私なりに『ブログ』の投稿文として、日常の思い、或いは思索したいることなどを心の発露として綴ったりし、
ここ10年ばかり投稿している。

昨今の日本の社会に於いて、『ツイッター』の利用される方の一部で、
少し心の礼節を失くした方の発信文が問題となっている、と風の噂で聞いたりしている。

ただ、『ツイッター』こそは、まぎれなく日本人の古来から愛された『短歌』、『俳句』、『川柳』などに最適だ、
と思ったりしたのである・・。

短歌は、もとより五・七・五・七・七の三十一〔みそひと〕文字の世界であり、
万葉の時代から日本の人々に愛されてきた叙情詩であり、
この内容も恋の歌・日常生活の描写・社会問題・子供の成長・物語や幻想まで、
どんなテーマでも自在である、と受け継がれている。

俳句は、五・七・五の三句十七音から成る定型詩であり、
「季語」さえ含めば、内容も自在であり、江戸時代から多くの方に愛されてきている。

そして川柳は、五・七・五の十七音の定型で、
ユーモアに富んだ言葉使い、或いは世の中を風刺した作風で、
江戸時代に発生し、明治時代の頃から、多くの方たち慕われてきた。

このように私は思いながら、『ツイッター』を利用される方たちは、
短歌や俳句の一句を詠まれたり、或いは川柳の一句でも吐くことをされれば、
この上なく日本文化は隆盛し、何よりも当人は更に心が豊かになる、と確信を深めたりした。

しかしながら私は、無念ながら短歌や俳句を詠む素養はなく、
『ブログ』の世界で散文のようなつたない綴りを殆ど毎日投稿をしている。

そして若い方たちが、つぶやき、など安易な言葉よりも、
ご自身の心情の発露、或いは思考していることの表現は、
短歌、俳句の一句を詠むか、川柳の一句でも吐くことをされれば、或いは散文をブログで綴られれば、
貴重な時間の浪費にならないのに・・ときおり妄想を重ねたりしている。
       

ここ5年前の頃から高機能携帯電話のスマホと略称されたスマートフォンが、
圧倒的に支持されて、普及している時代となっている。

そしてパソコンより廉(やす)く、手軽に使えるタブレット型の端末機も普及し、
何かと慌ただしく、世の中は情報に溢れている・・。

働いて下さる若き諸兄諸姉、ここ10数年、短期に職務の成果を求められる時代となり、
通常の業務には必須の情報機器であり、こうした中で歩きスマホが問題となっている。

私はせめて歩いている時ぐらいは、前方を見据えて颯爽と歩くのが何よりも美しい、
とサラリーマンを35年近く体験した私は確信を深めている。

そして街中でスマホを使用する場合、ご自身の安全の為に「歩きスマホ」は自己抑制し、
やむなく使用する場合は、電車とかバスの中とで自身が停止できる状態、
或いは職場に早めに出勤して使用する、と念願したりしている。
                    

そして第一線を退かれた60代、70代の殆どの方が、携帯電話かスマホを利用され、
ご高齢の80代以上の方たちも家族間の連絡、緊急連絡でお守り代わりに利用されている状況となっている。

まして若き10、20代の世代の人の一部には、新聞も購読せず、パソコンも所有せず、
スマホだけを頼りに生活をされている現実を学んだりしたことがある。

そして大学生とか高校生など学生間に於いては、ツイッターとかLINEなどで、
話し言葉のような短い文で、深く物事を考えずに、短絡的に早く返信を求められる時代と知り、
果たして社会で働くようになった時、レポートの提出などで、整然とした長い文章ができるかしら、
と私は憂いたりする時がある。
       

このように恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、携帯電話さえも使えなく、
その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

そして無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思い、
私は年金生活を過ごす中、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりして、早や11年生となっいる。

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美輪明宏さんの時間哲学に、年金生活の私でも、共感させられて・・。

2014-12-20 14:57:07 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

先ほど、ぼんやりとネットでニュース記事などを見たりしている中、
『 美輪明宏が見た「運のいい男の法則」 』と題された見出しを見て、
どういうことなんですか、と思いながらクリックしてしまった。

そして記事を精読したが、ビジネス総合誌と名高い『プレジデント』で、
私は特集記事に魅せられた時に買い求めたりしているが、
この記事は2014年2月3日号 に掲載された記事と解り、
プレジデント社の公式サイトとして、配信されていた、と私は理解できた。

http://president.jp/articles/-/11708
☆PRESIDENT online ==> 『美輪明宏が見た「運のいい男の法則』☆

私は美輪明宏さんにお逢いできたことはなく、
一年に数回CDで美輪明宏さんの歌を聴く程度の身であるが、
今回の働いて下さる男性向けの日々の過ごし方に対して、発言された記事であるが、
年金生活11年生の私でも、確かにそうですよね、と共感させられたりした・・。
       

特に《・・(略)・・ニコニコすることは、いわば運を引き寄せる行為。
自分をパワースポット化する行為といってもいいです。

時間の使い方で、最近、私がとりわけ浪費だと感じているのはデジタル・ツールです。
私自身はインターネットもスマートフォンも一切使いません。
確かに、検索やメールは便利な機能ですが、それは思索の時間を奪うことでもあります。

自分の頭で考えたり感じたりするのをサボれば、当然、脳が退化してしまう。
デジタル・ツールもまた正負の法則に支配されているのです。

仕事中の空き時間や通勤時間など、みな一様にデジタル・ツールを手にしますが、
もう少し自分自身と向き合う時間にしてはいかがでしょうか。

また、プレジデント読者の皆さんに苦言を呈するようですが、
日本の大人の男性は「文化」に触れる時間がいささか少なすぎると私は感じています。

クラシックや歌舞伎、美術展などに足を運ぶのはほとんど女性。男性が行くのは会社や飲み屋ばかり。
そこで愚痴をこぼしたり上司の悪口を言ったり。

仕事の忙しさにかまけて、心の栄養を補充し、想念を清く美しくする時間をつくらないから、
年を取れば取るほど、心の潤いがなくなり、前述の微笑みも減少するのです。

優れた作品など文化に触れることは、登場人物やストーリーに自分の人生を重ね合わせ、疑似体験をすること。
それによって幸福の感度も増していくのです。・・(略)・・》
       

私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、音楽に直接に携わる制作畑でなく、
裏方の商品、情報、経理、営業を配属され、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。

しかしながら最後の5年間はリストラ烈風の中、30年間奮戦してきた都心の本社から放り出されて、
出向となり、つたない私なりに失墜感にさいなまわれ、
まもなく自分の敵は自分だ、と自身を叱咤激励して奮闘し、出向先で定年を迎えた。

もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに38年勤め栄進されたエリートとは、
遥かに遠い拙(つたな)い男である。

このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多い中で、
敗残者のような状況だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた。
         
                  
私は定年退職後に年金生活を始めて1年を過ぎた頃、
たまたま作家・城山三郎さんの著作の『無所属の時間に生きる』を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を瞬時に圧倒的に魅了され、この時から教訓としている。

《・・人生の持ち時間に大差はない。
問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、あえて挑むとか、打って出ることも、肝要となろう。・・》

そして私は亡き城山三郎さんの遺(のこ)された言葉を秘かに指針として、日々過ごしている。
       

定年後の年金生活の当初から、私は平素の買物に関しては自主的に選任者となり、
独りで毎日のように最寄りのスーパー、専門店に行ったりし、
ときおり駅前で買物をした時は本屋に寄ったりしている。

その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

或いはときおり庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、携帯電話さえも使えなく、
その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁で、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思い、
このように稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
             
                 
人は食欲、睡眠欲、性欲は動物と同じであるが、誰しもそれぞれの知識欲を深めて、
ひととき時間を過ごし、生きがいのひとつになっている、と私は確信をしている。

或いは17世紀の哲学者のパスカルは、「人間は一本の葦であり、自然のうちでもっとも弱いものにすぎない。
しかし、それは考える葦である」から。
人間とは孤独で弱い生き物だが、考えることができることは偉大であり、尊厳があるとし、
『人間は考える葦である 』と名言を遺(のこ)されている。

このようなことを思い続けている私は、
今回の美輪明宏さんの《自分の頭で考えたり感じたりする・・思索の時間・・》の大切さに、
年金生活11年生の私でも、確かにそうですよね、と共感させられたりしたのである。

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過ぎし40代の時に、救急車に三回ばかり、お世話になった想いで・・。

2014-12-19 16:29:00 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の70歳の身であるが、
我が家の平素の買物は、私が自主的に専任担当となっているので、
たまたま今日は近くのスーパーに向い、路線バスも走る大通りの歩道を歩いていた・・。

前方の道路の彼方から救急車がサイレンを鳴らしながら疾走してきた・・。。
交差点の信号の近くは、少し減速したが、やがて私の近くを通り過ぎて行った。

やがて買物の責務を終えて、帰宅に向かう時、
私は若き40代の時に、救急車に三回ばかり、お世話になったよなぁ、と思いだされた・・。


この当時の私は、あるレコード会社の情報畑で、システムの開発、運営に従事して、
平日は15時間ぐらいの勤務は当然のように感じながら、
ときには徹夜勤務して奮戦していた時代であった・・。

こうした中、突然にギックリ腰で三度ばかり入院した苦い体験がある。
       

最初は土曜日も休日出勤した翌日、日曜日に自宅の和室でゴロコロと横たわって休んでいた時、
家内から、掃除機を取って下さい、と言われた私は、
近くの押し入れの下段に収納している掃除機をかがんで取ろうとした時、
まもなく腰に激痛を感じて、横たわったりした。

翌日の月曜日の早朝、相変わらず腰回りに痛み感じていた。
そしてタクシーで病院に行き、治療を受けて出勤しょうか、と思いながら、
布団から這(は)いずりだして、トイレを終え、何とか洗面所で歯を磨こうとした時、
激痛がはしり、くずれ、床に寝転んでしまった・・。

家内に声をかけ、
『みっともないけれど、救急車を呼んでくれないか・・』
と私は言った。

そして家内は救急先に電話口で、
『ご近所の手前・・近くにきたら、サイレンを止(と)めて下さい! お願いしますね・・』
と家内は言った。

まもなくサイレンの音を響かせ、救急車が自宅に来た。

そしてタンカーを持ち、救急員のふたりが入ってきた。

救急隊員のひとりが、家内を見ると、
『奥さん・・サイレンを止めろ、と先程に言われましたが、
サイレンを止(と)めちゃ、救急車が走っていても、他の車は徐行してくれませんょ・・
奥さん・・救急車の役割がしませんから・・』
と救急隊員のひとりが怒った顔で、家内に言った。

怒られた家内は、ぼうぜんとしていた。

私は聴いていたが、救急隊員のもうひとりの方に、
『それより・・私を早く病院に連れてって下さい!!』
と私は懇願したのである。

この後、家内は少し青ざめながらも、救急車に同乗した。
救急車は、サイレンをけたたましく鳴り響き、
他の多くの車を徐行させ、病院の正面口に着いた。

そして家内が救急員のひとりの方に、寸志のつもりで、
『ほんのお気持ちですが・・』
と手渡そうとしたら、
『奥さん、何をおしゃるんですか・・』
と家内は救急員に怒られたりした。
       

私はタンカーに乗せられ、病院に入ったのであるが、
ロビーの椅子に入院患者の方たちが、数多くたむろしていた・・。
そして私を眺めていたのである。

『あれは、ぎっくり腰だなぁ・・間違いがねぇ・・』
とその中のひとりが言ったのである。

私の方は、腰は痛いが、頭のほうは正気だったので、
恥ずかしい思いであった・・。

診察室に向かう通路の中で、黄緑色の公衆電話が見えたので、
救急員の方に私は言った。
『ちょうと、待って下さい・・
会社に連絡するので、電話をしますから・・』

今度は私が救急員から怒られたのである。
『ご主人、何をおしゃるんですか・・診察を受けるのが最優先ですから・・
常識ですょ・・まったく・・』
と言われたりした。

こうしたことが私としては、生まれて初めての救急車に乗車した初体験である。
       

そしてこの時は、入院直後、医師の人から、
『3日ぐらい容態を診ましょう・・』
などと私は云われ、私は多忙時期であったので、焦(あせ)った。

そして私は医師に、
『早く・・職場に戻らないと・・
痛くても緊急の処置をして下さい・・』
と私は懇願したりした。

結果的には1泊2日の入院生活を生れて初めて体験した。


この一年過ぎた頃、やはり腰に激痛を感じて、身動きができず、
やむえず救急車に、お世話になった。

この時は、治療を受けながら担当医師より、
『1週間前後、容態を診ましょう・・それから具体的に・・』
このような意味合いを私は言われたりした。

やがて私は、看護婦長の姿を見つけて、
『早く・・職場に復帰しないと、会社に影響します・・
担当の先生に、短期決戦のような治療をお願いして欲しい・・』
と私はひたすら懇願したりした。

そして入院生活は3泊4日で卒業した。


この後、二年過ぎた頃、 やはり腰に激痛を感じて、身動きができず、
やむえず救急車に、お世話になった。

さすがに3度目に病院に運ばれた時は、
観念し、担当医師の指示に基づいて、28日間の入院生活となった。

そして病室のベットから何とか車椅子に乗り、公衆電話のある室に行き、
テレホンカードで会社に業務の連絡事項を、毎日のようにしたりした。

その後、上司と共に私の関連する業務担当の方たちが来院したりしたが、
入院という非日常生活の視線から、日常の社会の動きを見つめたりした・・。

病室のベットに休んでいても、周囲の社会は順調に動いて、
自分の存在は一体どこにあるのか、ということであった。

このような体験があったが、退院後、数ヶ月が過ぎると、
入院生活のことなど忘れ、サラリーマンとしての業務に没頭した。
       

こうして私は酷い腰痛で救急車に三回ばかり、お世話になったり、
入院生活も三度ばかり体験した。

この時、担当医師に腰痛の原因を訊(き)いても明解な回答も得ず、
ただ具体的な検査をしながら治療するばかりであった。

昨今、偶然に読んだ腰痛の原因のひとつには、
ストレスと疲労の蓄積、と海外の医師の発言を読み、
そうかしら、と微苦笑したりしている。

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山下達郎さんの『クリスマス・イブ』、まもなくクリスマスを迎える今日、ささやかな思い馳せて・・。

2014-12-18 16:13:47 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳となった身であるが、
ここ2週間前の頃から、新聞の折込みのデパート、スーパーのチラシで、クリスマスの贈り物などが掲載されていると、
高齢者の私でも、微笑んでしまうのである。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

先ほど、ラジオから懐かしい山下達郎さんの『クリスマス・イブ』の歌が聴こえたりした。
       
この後、ぼんやりと私たち夫婦のクリスマスを迎えた頃を思い浮かべたりした・・。
       

過ぎし40年近い昔、私たちの結婚前の交際時には、クリスマス・イブの時にも待ち逢いして、
私は少し背伸びをして、高級な食事処を誘って、
ワインなどを呑みながら、イタリア料理かフランス料理、或いはインド料理などを頂いていた。
そしてプレゼントを交換したりしていた。

その後、結婚して2年が過ぎた頃から、
私は退社後にプレゼントを買い求めて、カードにささやなな一文を認〈したた〉め、
ケーキを購入して、我が家に帰宅してたりした。

この後は、一軒家を建てて、ローン返済で苦汁していたので、
せめてケーキだけ購入して、帰宅していた。

私が40代の頃には、家内に何か欲しい品、とやんわりと訊(き)いたりしていたが、
必要な品は、デパートで買い求めているので必要はない、
できたら旅行に行って温泉にゆっくり・・と要望されたりした。

この当時は私は多忙であったのは、40代の後半の頃から、業務が幾分空〈す〉いた2月頃に、
冬の旅をして、家内の念願に応〈こた〉えたりしていた。

定年退職後の年金生活に於いても、我が家はプレゼントの品よりも、
観光ホテルに滞在して、ゆっくりと温泉を満喫することが多い。

このように我が家はクリスマス・イブは、旅先以外の年は、
ささやかな室内飾りをして、平素より幾分多めの料理を私は日本酒を呑みながら、頂いている程度である。
       

私が山下達郎さんの『クリスマス・イブ』の歌を始めて聴いたのは、
確か1983年(昭和58年)の頃で、この当時の私はあるレコード会社の情報畑で、
開発に奮戦していたが、偶然に他社から発売された『クリスマス・イブ』の歌を聴いた。

メロディーも良いが作詞に瞬時に魅了され、巧過(うます)ぎる歌だなぁ、と感じたりした。

やがて歳月は流れ、何かしらJR東海のCMに盛んにテレビで放映され、
離れ離れの若い男女で、やっと逢える、という情景が、今でも心の片隅に残っている。

後年に判ったことであるが、JR東海のX’mas7 ExpressのCMと知った。

この後、 山下達郎さんのこの曲の唄声を背景に、
毎年のように幾つかの若い男女のせつなく、もどかしい情景が映しだされ、
私は微笑みながら、秘かに若い男女に幸せあれ、と心の中で声援したりした・・。
       

私はシンガー・ソング・ライターの山下達郎さんに関して、無知な方であるが、
この『クリスマス・イブ』を聴いた限り、まぎれなく天才と讃(たた)えている。

この過ぎしJR東海のCMがテレビで放映されると、
私は、若き男女が冬の天の川のように心寄せながら、
ときめき、もどかしさ、せつなさの恋情を齢を重ねた私さえ感じられ、感銘させてくれるのである。

昨今は携帯電話はもとより、スマホが普及している現在は、待ちわびることは死語となっているが、
若き男女のお互いの恋情の思いは、少なくとも遥か平安時代の頃から、ここ千年変わることないのである。

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