私は恥ずかしながら、満66歳の誕生日を迎え、高齢者の3年生となった。
一昨年の2009〈平成21〉年に初めて高齢者の入門を許されて、
我が街の調布市から『介護保険証』が郵送されて、私は驚きながらも高齢者なってしまったのか、
と微苦笑を重ねたりしてきた。
私は民間会社の中小業に35年ばかり勤め定年退職後、
残された人生の日々を自身の趣味で過ごしたく、年金生活とした。
数多くのサラリーマンの人たちと同様に、多忙だった現役時代であったので、
せめて人生の後半戦ぐらいは、読書と散策などをし、
ときには国内旅行で各地の四季折々の情景に心を寄せれば、
本望かしらと思っていた。
そして、私の何よりの望みは、こうした日常生活をし、
心の発露として散文を綴ることである。
幸い2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
まもなくして、ブログの世界を知り、四つばかりのサイトに加入して書き散らかしてきた。
私の心の根底には、退職後の1年を過ぎた頃、
亡き作家・城山三郎〈しろやま・さぶろう〉氏の『無所属の時間に生きる』の随筆集を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を教訓としている。
《・・
人生の持ち時間に大差はない。
問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、
その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、
あえて挑むとか、打って出ることも、肝要となろう。
・・》
私は年金生活の7年生の身であるが、
果たして振り返った時、私自身は深化したか、
或いは体力の衰えに甘えて、退廃したか解からない。
私は先ほど、自身の過去に綴った投稿文を読み返していたりした・・。
私は1944(昭和19)年9月に、
今住んでいる北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)近くの実家で生を受け、
祖父、父、母、そして父の妹の叔母2人、
長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊として乳児の時を過ごした・・。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らないひとりでもある。
祖父と父が中心となり、小作人だった人たちのご厚意手を借り、
程々の広さの田畑を耕し、宅地の周辺には竹林、雑木林があった。
長兄、次兄に続いて私は生を受けたが、跡取り候補の男の子は2人いたので、
祖父、父らは、3番目は何かしら女の子を期待していたらしかった。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
いじけた可愛げのない劣等感のある幼年期を過ごした。
このした中で長兄、次兄は、学校の成績は優等生であり、
私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
父が私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をした後、
42歳の若さで肝臓が悪化して、病死した。
この後、まもなくして祖父は胃がんで最寄の大学病院で亡くなった。
そして、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。
母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私達子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、
貧乏な生活が始まった。
母は私が中学校に入学した1957(昭和32)年の春、
やむなく田畑を売り、小田急線の狛江駅の近くにアパート経営をしたが、
何とか明日の見える生活となったが、学業に何かと経費を要する5人の子供がいたので、
家計は余裕もなかった。
そして私が高校に入学した1960(昭和35)年の春、
母はラブホテルのような連れ込み旅館の経営に打って出て、孤軍奮闘したので、
私達の生活は何とか普通の生活になった。
幼年期の頃、本といえば、農協の月刊誌だったと思われる『家の光』しかなく、
小学5年の時に都心から引越してきた同級生の家には沢山の本があり、
愕然としたこともあった。
私は都心の私立の高校に通い、
地元から離れ、都心の空気と兄達の影響のない高校であったので、
私なりに純粋に伸び伸びとして育ち、高校時代になって初めて勉学が楽しくなった。
そして遅ればせながら、読書にも目覚めたり、文学、歴史などに深く興味を持ち、
小説らしき習作を始めたりした。
この後、大学を中退し、アルバイトなどをしながら映画・文学青年の真似事をし、
やがて幾度も小説新人の応募で最終候補6作に漏れ、落胆し、やがて挫折した。
やむなく民間会社に中途会社にする為に、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
この当時は映像・音響メーカーのある大手の民間会社に中途会社にできたのは、
1970(昭和45)年の春であった。
そしてまもなく、この会社の中の音楽事業本部のひとつのレーベルが、
外資レコード会社として新設されて、私も異動させられた。
そして六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、
もとより音楽業界とコンピュータ業界に関連していたので、
時代の最先端にいると勘違いしたりした。
この間、幾度も恋をしたが、失恋の方が多く困惑したり、
結婚後の数年後に、若気の至りで一軒家に茶室まで付け足して建てて、
住宅ローンの重みに耐えたりていた。
そして私は30代の後期になると、次兄が自営業していたのであるが、
経済的な理由で、突然に次兄は自宅の布団の中で、睡眠薬を過剰に飲み自裁された・・。
私は援助も出来なかったことを知り、さいなまれながら、
たとえどのようなことがあっても、少なくとも父の死の42歳を乗り越えなければ、
という思いが強く意識した。
そして、55歳を迎える寸前に、音楽業界はリストラ旋風の中、
私は30年近い本社勤務から、出向となり、都落ちの失墜感の中、
家内と退職後の生活設計を改めて話し合い、
定年後の私は年金生活に入り、お互いに残された人生の歳月を趣味の時間で過ごそう、と決意した。
このように私は大手企業のサラリーマンの一部に栄進したエリートでなく、
屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎え、
半生記は何かと自慢史が多いと伝えられている中、私は限りなく遠い存在である。
私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野で専門知識があり優れた人の前では、
卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。
私は定年退職時の5年前頃からは、
漠然と定年後の60代は五体満足で生かしてくれ、
これ以降の70代は余生だと思ったりしている。
昨今の日本人の平均寿命は、男性79歳、女性86歳と何か本で読んだりしているが、
私は体力も優れていないが、
多くのサラリーマンと同様に、ただ気力で多忙な現役時代を過ごしたりしてきた。
退職後も煙草も相変わらずの愛煙家の上、お酒も好きなひとりであるので、
平均寿命の前にあの世に行っている、と確信に近いほどに思っている。
世間では、よく煙草を喫い続けると五年前後寿命が縮じまるという説があるが、
身勝手な私は5年ぐらいで寿命が左右されるのであるならば、
私なりの愛煙家のひとりとして、
ときおり煙草を喫ったりしながら、思索を深め日々を過ごす人生を選択する。
そして、昨今は嫌煙の社会風潮があるので、
私は場所をわきまえて、煙草を喫ったりしている。
このように身勝手で屈折の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかの欠片〈かけら〉を残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のように、と思ったりしたのである・・。
私はこれといって、恥ずかしながら特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案した。
文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、もとより小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意したのである。
私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をした時代もあったが、
定年後の感性も体力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。
何よりも多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、苦心惨憺な時も多かったのが本音でもある。
私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨長明〈かもの・ちょうめい〉が遺〈のこ〉随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらをたったひとつ綴れれば、本望と思っている。
そして私の死後、数百年を過ぎた頃、文愛人の一部の方から、
あの時代に短かき随筆をたったひとつ遺した人もいた、と思って頂ただければ望外の思いである。
このような思いを秘かに私は思ったりしている。
こうして定年後の年金生活の身過ぎ世過ぎの日常生活で、
家内とふたりだけの生活の中、買物の担当をしたり、
散策をしながら、四季折々のうつろいを享受し、
長年の連れ合いの家内との会話も、こよなく大切にしている。
そして時折、何かと甘い自身の性格と文章修行に未熟な私さえ、
ときには総合雑誌の『サライ』にあった写真家の竹内敏信氏の連載記事に於いては、
風景写真を二葉を明示した上で、文章も兼ね備えて掲載されていたが、
このような形式に誘惑にかられ、悩んだりする時もある。
たとえば私が国内旅行をした後、
投稿文に写真を数葉添付して、旅行の紀行文の真似事をすれば、
表現上として言葉を脳裏から紡(つむ)ぐことは少なくすむが、
安易に自身は逃げる行為をしていると思い、自身を制止している。
そして、言葉だけによる表現は、
古来より少なくとも平安時代より続いてきたことであるので、
多くの人の心を響かせるような圧倒的な文章力のない私は、
暗澹たる思いとなりながらも、まだ修行が足りない、と自身を叱咤したりしている。
そして拙(つたな)い才能には、
何よりも言葉による表現、読書、そして思索の時間が不可欠であり、
日常の大半を費(つい)やしているので、年金生活は閑〈ひま〉だというのは、
私にとっては別世界の出来事である。
このような思いで今後も過ごす予定であるので、
果たして満天の星のひとつになれるか、
或いは挫折して流れ星となり、銀河の果てに消え去るか、
もとより私自身の心身によって決められることである。
しかしながら、いつの日にかは命(いのち)果てる時がある。
ある日、私の自宅の近くの川沿いの遊歩道を歩いていた時、
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所で、
私の散策の好きなひとつのコースでもある。
一昨年の秋、ある日にいつものように木のベンチに私は座り、
煙草を喫いながら、少し休息をした・・。
この時に、どうした思いか解らないが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、
ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたのである。
この遊歩道で、独りで歩き、
桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の中、
木漏れ陽を受け、ときおり舞い散る葉を眺め、
好きな本を抱(かか)えて、突然に命が果てる、といった状況を願ったのである。
5年先か10年先か、或いは数10年先か判からないが、
いずれいつの日にか、命は絶えるのであるが、
亡くなる時は、こうした思いもあることは確かである。
私の葬儀に関しては、お通夜、告別式も家族葬とし、
死者は土に還るという意味あいから、樹木葬にと、
私達は子供に恵まれなかったこともあり、寺院の墓地は不要である、
とここ7年ばかり家内に云ったりしている。
このような身勝手な身ながら、ぼんやりとカレンターを見ていたら、
『先負』と明記されているので、
《午前中が悪いが、午後から良好》と古人から伝えられているので、
私の残された人生の後半戦は、恵まれることが多いのかしら、
と私は微笑んだりしている。
《つづく》
次回は、ここ一年の私の日常生活、変貌を気楽に綴る。
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