夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

庭の手入れ、敗者復活戦により朝の7時から奮戦しても、あえなく・・。

2013-06-30 16:34:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
過ぎし26日の月曜日に、庭の手入れをしたが、無念ながら体力を使い果たして、
玄関庭しかできなく、主庭の手入れは残してしまったので、敗退したような心情であった。

昨夜、私は明日の日曜日は、朝から主庭の手入れに専念しょう、と決意した。

今朝5時に目覚め、地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時は21度、昼下りは27度前後、夕暮れの6時は24度前後、
日中は曇り後(のち)晴れ、と報じていた。

私は何よりも暑さに苦手な身であるが、真夏の暑さを思い馳せれば、楽なもんだ、
と自身を叱咤激励して、庭の下り立ったのは7時少し前であった。

ストレッチパンズの長ズボンは夏用とした上、いつものように着古したワイシャツ、ウォーキング・シューズ、
夏用の帽子を深く被り、滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにして、
主庭の樹木の枝葉を高枝鋏(たかえだばさみ)で切り落としたりした。
               
やがて切り落とした枝葉を整理した後、草むしりをする前に蚊取り線香を
周囲に置いたした。

そして陽射しは燦々と照らす中、草むしりをしていると、汗がしたたり落ちてきた。
或いは樹木の下にもぐるように草を取ったりすると、泥まみれとなり、汗も流れたりしたが、
昼食を時間も忘れて、奮戦した。

年金生活の運動不足の私にとっては、ときには良いかしら、微苦笑をしたりた。
そして、無念ながら体力の衰えた私は、ときたまテラスの簡易椅子に腰かけて、
少し休憩ねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、冷茶を飲んだりした。
          
若き30代の後半の時は、体力にまかせて、休日の時に日中の殆ど夕闇の頃まで
庭の手入れをしていた。

そして夏の時節には、40代の半(なか)ばの頃は、この当時に流行(はや)っていた
プリンセス・プリンセスの『Diamonds』、或いは『世界でいちばん熱い夏』などを唄っていた。

♪ダイヤモンドだね AH AH
 いくつかの場面
 AH AH 
【『Diamonds』 作詞・中山加奈子、作曲・奥居 香、唄・プリンセス・プリンセス 】

このような歌をかぼそい声で唄いながら、真夏の30数度の中を汗まみれ泥まみれなり、
日中の7時間ぐらい奮闘していた。

その後、50代の初めの頃、こうした時はCDラジカセを家の軒下に置いて、
CDを6枚前後掛けながら、草むしりをしたりしていた。

一番聴いたのは、この当時に私が熱中していたハード・ロックのグループの『X JAPAN』であった。
労苦の伴う草取りの時は、バラードの曲よりはハード・ロックの曲が最適と思ったりして、
暑さの中、ご近所からクレームがこない程度の大音量で、
汗をぬぐいながら聴いたりしながら、奮戦した。

定年退職した直後の数年は、草を抜きながら、あの時はあんなことがあった、
と現役時代の頃の職場の情景、先輩、同僚、後輩の顔立ちが、甦(よみがえ)ったりするのが多かったりした。

ここ数年になると、私は定年退職し年金生活に入った頃の
おぼつかない私の心情を思いだしたりすることが多い・・。

数多くのサラリーマンと同様に、私の現役時代は多忙な時を過ごしたので、
年金生活の最初の6ヶ月の頃は、平日のゆったりとした時のうつろいに、
働くことなくこのような贅沢な時を過ごしても良いのかしら、と思ったりした。
                 

このようなことを思い馳せたりして、草むしりに専念していたが、
午後1時半過ぎ、アバウトであるが、何とか庭の手入れを終えた。

そして私は風呂に入った後、居間から小庭を眺めると、
草も所々残っていて、私は黒土一面の庭で樹木、草花にあるのが理想であるので、
やはり若い頃の現役時代の体力があった頃の手入れから程遠い、と微苦笑したりした。

高齢者4年生の今、やむえず次回から、少しづつ懇切丁寧に、
庭の手入れをしなければ、やはり駄目かしら、と苦笑した。

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感銘された映画の作品、自宅で鑑賞する時は、なぜかしら季節に応じて・・。

2013-06-29 16:21:55 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
若き時期のひととき映画青年の真似事をしたこともあったので、
読書が最優先であるが、ときおり居間で映画を観たりしている。

そして私なりのつたない鑑賞歴でも、魅了された作品は、何回でも観るタイプである。

例えば邦画の場合は、『二十四の瞳』、『東京物語』、『浮雲』、『雨月物語』等である。

洋画に関しては、『街の灯』、『市民ケーン』、『第三の男』、『逢びき』、『ライムライト』、
『ジョニーは戦場に行った』等は、10年ごとに観たりしている。

或いは最初の一ヶ月に於いて、少なくとも10回以上熱中して観る映画もある。
邦画の『七人の侍』、『用心棒』、『駅~STATION~』、
洋画の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』、『ディア・ハンター』、
『ゴットファーザ Ⅱ』などが鮮明に記憶に残っている。
               

私は1944(昭和19)年に東京郊外で生を受けて、
小学3年の頃から独りで映画館に行き、邦画に魅せられて、中学からは洋画にも魅了され、
これ以降は映画の愛好者のひとりなった・・。
やがて映画専門誌の『キネマ旬報』なども愛読し、シナリオにも関心をもち始めて、
シナリオライターになりたくて、大学を中退したのが、1964(昭和39)年の秋であった・・。

まもなく養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。

そして、習作に励んだりし、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。

この後、1970(昭和45)年にある民間会社に何とか中途入社し、
35年ばかり勤めて定年を迎えた身である。
          
このように若き時代の一時には、映画館に通ったりして、程ほどに映画作品を鑑賞してきたので、
1966(昭和41)年頃までに上映された作品は知っているつもりであるが、
その後は数多くのサラリーマンと同様に多忙な時代を過ごしたので、余り鑑賞する機会がなくなった。

定年後は年金生活をして、ときおり居間の映画棚に保管してあるビデオテープ、DVDの1000作品ぐらいを
居間のテレビを通して鑑賞したりしている。

しかしながら、2000(平成12)年頃までに制作された作品が圧倒的に多いので、
古き良き時代の映画の愛好者のひとりかしら、と微苦笑する時もある。


私は定年退職の5年前頃の2000(平成12)年の当時は、
退職後にその時に観たい映画として、100作品前後の名作があればよいと考えていたが、
瞬(またた)く間に増えだした・・。
やむえず、250本収納できるビデオ・ラックを2本買い求め万全とした。

しかし、時代はビデオ・テープからDVDに移行期の上、
私のソフト販売店からの購入、或いはWOWOW、BS2からのコピーが増えて、
天上までとどく、幅広い大きなラックを買い増ましたりした。

そして今日は、邦画、洋画、映画以外のドキュメンタリー、音楽の四つの区分で、
ビデオ・テープ、DVDが並んでいる。


そして私はその時に観たい映画作品をラックの前で選定したりするが、
何故かしら、やはり季節に応じて観てしまうのである。
          
冬の季節の時などは、『アラビアのロレンス』、『プラトーン』、
『イングリッシュ・ペイシェント』等の砂漠、荒野、ジャングルの背景が多くなるのである。

そして夏の時節は、『ドクトル・ジバコ』、『カサブランカ』、『かくも長き不在』等の
寒冷地、静寂な戦争を背景にした選定が多くなるのである。

不思議なことであるが、猛暑の夏の時、『アラビアのロレンス』の砂漠、
『戦場にかける橋』の熱帯林の背景は、暑くて落ち着かないのである。

かといって、居間を寒いぐらいに冷房を冷やして、
鑑賞するのは映画の内容からして、おかしな事と思ったりしている。

このようにして私は鑑賞しているが、1950年代、1960年代の公開された作品が圧倒的に多く、
ときおり私は、どうしてかしらと微苦笑したりしている。


そしてここ10年、ハイビジョン映像をHD画質のままで記録できるBlu-rayに戸惑い、
身過ぎ世過ぎの年金生活なので、困ったなぁ、と苦笑したりしてきた。

一昨年の『地上デジタル放送』の7月24日の実施日に、やむなく対応して、
遅ればせながら、我が家でも3D機能のあるテレビの50型、
そしてブルーレイディスク・DVDレコーダーを設置した上、
従来から愛用していたビデオテープも再生専用として、接続した。

このような状況で、私が感銘させられた名画をテレビを通して鑑賞したりしている。


そして私の拙(つたな)いなりの観賞歴であるが、過ぎし年に私はベストテンを勝手に選定している。
映画専門雑誌の名高い『キネマ旬報』の1999年10月上旬特別号 として、
『映画人が選んだオールタイム・ベスト100の外国映画編』を購読し、
私なりに喚起させられて、まもなく選定した私の洋画のベストテンである。

『キネマ旬報』のベストテン《参考》1999年10月上旬特別号
               
①『第三の男』キャロル・リード監督 (1949年)

②『2001年宇宙の旅』スタンリー・キューブリック 監督(1968年)

③『ローマの休日』ウィリアム・ワイラー監督 (1953年)

④『アラビアのロレンス』 デイヴィッド・リーン監督(1962年)

⑤『風と共に去りぬ』ヴィクター・フレミング監督(1939年)

⑥『市民ケーン』オーソン・ウェルズ監督(1941年)

⑦『駅馬車』ジョン・フォード監督(1939年)

⑦『禁じられた遊び』ルネ・クレマン監督(1952年)

⑦『ゴットファーザー(三部作)』フランシス・F・コツポラ監督(1972・1974・1990年)

⑦『道』フェデリコ・フェリーニ監督(1954年)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私の選定は、

①『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』セルジオ・レオーネ監督(1984年)

②『ディア・ハンター』マイケル・チミノ監督(1979年)

③『イングリュシュ・ペイシェント』アンソニー・ミンゲラ監督(1979年)

④『ピアノ・レッスン』ジェーン・カンピオン監督(1993年)

⑤『かくも長き不在』アンリ・コルピ監督(1961年)

⑥『街の灯』チャールズ・チャップリン監督(1931年)

⑦『ゴットファーザー(三部作)』フランシス・F・コツポラ監督(1972・1974・1990年)

⑧『自転車泥棒』ヴィットリオ・デ・シーカ監督(1948年)

⑨『ジョニーは戦場へ行った』ドルトン・トランボ監督(1973年)

⑩『逢びき』 デイヴィッド・リーン監督(1945年)

数多(あまた)の感動をもたらしてくれた作品の中より選定するのが、
もとより酷な作業で、『時』が人生にもたらす影響をヒントに選定しましたが、
上記のいずれがベストワンになっても良い作品です。

尚、選定の際に於いて、 『第三の男』キャロル・リード監督 (1949年)、
『市民ケーン』オーソン・ウェルズ監督(1941年)、『アラビアのロレンス』 デイヴィッド・リーン監督(1962年)、
『許されざる』クリント・イーストウッド監督(1992年) 、『カサブランカ』マイケル・カーチス監督(1943年)等は
最後まで検討した作品です。

《1999年9月29日、私の日記より》

小説、映画、音楽などの選定の結果、その人の性格、人格、思想を表わす、と改めて思った次第です。


この後も、キネマ旬報』の1999年10月下旬特別号として、
『映画人が選んだオールタイム・ベスト100の日本映画編』を購読し、
私なりに喚起させられて、まもなく選定した私の邦画のベストテンである。

『キネマ旬報』ベストテン《参考》1999年10月下旬特別号
               
①『七人の侍』黒澤 明・監督(1954年)

②『浮雲』成瀬巳喜男・監督(1955年)

③『飢餓海峡』内田吐夢・監督(1964年)

③『東京物語』小津安二郎・監督(1953年)

⑤『幕末太陽傳』川島雄三・監督(1957年)

⑤『羅生門』黒澤 明・監督(1950年)

⑦『赤い殺意』今井昌平・監督(1964年)

⑧『仁義なき戦い』シリーズ 深作欽二・監督(1973~74年)

⑧『二十四の瞳』木下恵介・監督(1954年)

⑩『雨月物語』溝口健二・監督(1953年)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私の選定は、

①『駅 STATION』降旗康男 ・監督(1981年)

②『用心棒』黒澤 明・監督(1961年)

③『人間の條件(全六部作)』小林正樹・監督(1959~61年)

④『東京物語』小津安二郎・監督(1953年)

⑤『七人の侍』黒澤 明・監督(1954年)

⑥『浮雲』成瀬巳喜男・監督(1955年)

⑦『雨月物語』溝口健二・監督(1953年)

⑧『飢餓海峡』内田吐夢・監督(1964年)

⑨『切腹』小林正樹・監督(1962年)

⑩『砂の器』野村芳太郎 ・監督(1974年)


洋画と同様に、【時】が人生にもたらす影響をヒントに選定しましたが、
上記のいずれがベストワンになっても良い作品です。

《2003年8月16日、私の日記より》

こうした選定作業の時、その人の人生を歩いてきた思考の全てが反映する、と改めて感じました。

このように当時の私は選定しましたが、邦画に関しては、ここ数年は、
小学5年生の時に、独りで映画館で観た『楢山節考』木下恵介・監督(1958年)が、
私のベストワンだ、と思い返したりしている。

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東京郊外の住む私、いつものように夢のようなひとときを過ごし・・。

2013-06-28 14:43:39 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
定年後に自主的に買物専任者の私は、家内の要望を確認した後、
スーパーに向って歩いた。

こうした買物や散策の時は、この時節は制服のような定番の服装として、
夏用のストレッチパンズの長ズボン、スポーツシャツの半そで、ウォーキング・シューズとなり、
夏用の帽子を深めにかぶり、紳士用の小物入れのB5サイズのショルダー式バックを斜め掛けをしている。

そしてバックの中身の必須品として、財布、メモ・ノート、ポールペン、ハンドタオル2枚、ハンカチ2枚、
煙草、ライター、携帯灰皿、扇子(せんす)などを入れ、ウォーキング・スタイルで歩く。

本日は、たまたまコンバクト・デジカメを首回りから下げて、颯爽と歩いた。

そして自宅の近くに野川が流れ橋のひとつを渡る寸前に、
買い物する前に上流に向かって散策しょう、と思いたった。

まもなく隣接した小学校の付近を歩いたりし、その先の上流に向かい住宅街に隣接した処を歩いたりた。
   

野川の両岸には遊歩道があり、川沿いの近くには小路もあり、そして清流が流れ、
川幅こそ下流は広くなっているが、このような情景が6キロぐらい続き、
平素の私の散策するコースのひとつとなっている。

そして私は上流に向かいながら、ときたまデジカメで撮ったりした。
          
或いは道沿いに見かけた花を撮ることもある。
                   

この後、道沿いに隣接した小公園に寄った。
               
私は幼年期に農家の児として育てられたので、こうした情景に圧倒的に魅せられ、
やすらぎを感じるひとりである。
          

私は定年後に年金生活の始めた直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
                          
或いは雑木の多い小庭に古ぼけたの家に住みながら、
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりしていた。

平素の私は、午前中のひととき独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
                                

私の住んでいる処は、東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅で、
生家も近く、結婚前後の5年を除き、63年ばかり住んできたので、
この地域の『里っ児』でもある。

最寄駅は京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような中間地域となっている。

いずれもバスの利便性は良いが、年金生活を始めてからケチの性格に変貌した為か、
路線バスを利用することなく、原則として散歩も兼ねて歩いたりしている。

そして現役のサラリーマン時代の通勤の時は勤務地の関係、
或いは昨今の都心に買物、旅行をしたりする時は、
更にバスの利便性も良いので、『成城学園前』を利用したり、ときには散策をしたりしている。

こうした辺鄙(へんぴ)な所に私は住み、定年後の年金生活の日常に於いて、
その日に応じて歩き廻ることが多い。

もとり現役時代のサラリーマンの時は、午前中のひとときに、
のんびりと好きな散策をできることはできなかったので、
年金生活の9年生になった今でも、夢のようなひとときとなっている。


この後、下流に向かい、やがてスーパーで買い物し、帰路に向った・・。
          
そして単細胞の私は、道沿いに花を見かけると、立ち止まり撮ったりした。
   

この後、スーパーで買い物をした後、レジ袋を両手に提げて、帰宅したのは昼の12時であり、
いつものようにこの時節は汗まみれになった私は、洗面所で顔を洗ったり、着替えたりした、

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ときめきを時折感じながら年金生活の今、つたない私でも人生の最良の時期・・。

2013-06-27 12:52:59 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
私の半生は何かと劣等感があり、屈折の多い人生だったので、
敗残者のようなことも幾たびか体験してきた。
そして残された人生は、せめて少しばかり自由な時を・・、と念願しながら年金生活をしている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた築後36年の家に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
              
日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味のひとつの国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          
こうした中で、数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日記として綴られている場合は、その人なりの思いを、その方ご自身の言葉で、
淡々と綴られているのに圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして、こうしたことは日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多かった。

何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしながら、
私は読ませて頂きながら秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
人生の苦楽を確かに学びながら年金生活を過ごしたりしてきた。
          

こうした年金生活を過ごしている私は、
何事も好奇心を失くしたら、この人生は終わり、と信条を掲げ、
興味のあることに、ときめきを感じながら過ごしている。

たとえば新聞の記事のひとつであったり、
購読した本を読みながら、行間から感じることに深くうなづき、思考させられたりする。

或いは買い物に行き、中高年の女性の言葉、しぐさに瞬時に魅了された時、
素敵だよなぁ、と感じてしまう・・。

ある時は、散策とか旅行先で、限りなく美しい感じた情景に、
足を止めて、長らく見惚〈みと〉れてしまう・・。
          

年金生活9年生になっている今、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
程ほどの貯金を崩しながら私たち夫婦は生活しているが、
裕福なことに縁遠いが、働たらくこともなく程ほどの生活ができるのは、
もとより現役のサラリーマン時代には、甘受できなかったことである。

つたない人生の歩みだった私でも、60代の年金生活は心身溌剌と享受しているが、
その時々にめぐり逢える人、情景に対しての感じなどは、
富貧の差に関係はなく、自身の受け止められる清浄心、と思ったりしている。
               
そして人生のたそがれ時期の70代、やがて80代を迎えれば、
私の親族、知人などから無念ながら死去されたり、
少なくとも身体の衰えは、私はお逢いできた時に感じさせられてきているので、
私は60代の今、ゴーデン・イヤーズと称されている人生の黄金時代の60代は、
確かに的言であり、つたない私でも、我が人生の最良の時だ、と深めている。

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学士会館、遥か38年前に結婚式、披露宴のささやかな想いで・・。

2013-06-26 13:50:12 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私が加入しているブログのランキングの『にほんブログ村』に於いて、
私が秘かに魅了された74名の50代から80代までの男性、女性のお方たちの投稿文を、
隠れキリシタンのように投稿されるたびに、深く読ませて頂いている。

或いはタイトルに魅せらて、思わず投稿文を読ませて頂いていることもあり、
こうした中で、昨日のひとつとして、
【学士会館 中へ・・・】と題された投稿文に、私はクリックした。

そして『小春日和♪ときどき森へ・・・~ by 華 ~ 』のお方の投稿文のひとつと解り、
添付された数々写真を見たりし、
http://blog.goo.ne.jp/cocoa3003/e/efc6f16e682d6c1db3fe4add27f11c89
☆『小春日和♪ときどき森へ・・・~ by 華 ~ 』<== 6月25日【学士会館 中へ・・・】☆

この最下段に《外から・・・は早々にUPしています》と明記されていたので、
私はクリックして、このお方の6月21日の【東京散歩・・・学士会館】も読ませて頂いた・・。

私は数々の写真を見たりして、最近の『学士会館』の情景も、確か38年前の頃と余り変わっていない、
と懐かしさもあり、長らく見惚(みと)れたりした・・。

私たち夫婦は、遠い昔の1976〈昭和51〉年の3月下旬に、
この『学士会館』で結婚式、その後に披露宴を挙げた処であった。
          

私が家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、平素はこよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風(ながい・かふう)は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父は微苦笑されながら、何かと私を可愛いがってくれた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、
私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、両家の結納となった。

その後、結婚日、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、行き違いが発生して、
もとより人生初めてのことで私、そして新妻となる家内は大波にもまれたりした。
          
この中の結婚式場もひとつであった。

私たちは結納の前の交際時、私は余り結婚準備金がなく、
長兄のように結婚式場と名高い『椿山荘』は経費も要するので、
ホテルの小さな式場で結婚式を挙げれば・・、
このような意味合いの言葉を相手方の新妻となる女性に言ったりした。

こうした時、この女性は『会社の首脳の方が、学士会館も良い処、と言っていました・・』
と私に言い、
私は恥ずかしながら『学士会館』は未知の処であり、
その後に私なりに調べると、私は国立大学には縁がなく、私立大学の中退の身であったので、
困惑したした。

やむなく単細胞の私は、中途入社する時に、何かとご尽力を頂いたお方が東大法学部出身であったので、
このことを頼りに、新年早々、ご自宅に訪れて丁重に懇願した。
          

そして結婚式の後の披露宴は夜6時からが難題となった。

秋になった頃の土、日曜日の日中にすれば良いのに、結婚式、披露宴など夜に行うのは、
我が家の代々行わったことはありません、母に言われたり、
長兄、次兄からも言われたりした。

この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、
情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、秋には軌道する予定であった。
私としては、新たなる新年度の4月から新妻と寝食を共にし、
桜の樹の下で散策することを夢にみていた私は、
結婚式場の学士会館の空白は、3月の最終一週間としては、この日しか空いていなかった。     

こうした多事多難もあったりし、何とか私たちは3月下旬のある日、
学士会館で結婚式、そして披露宴と決定した。
          
この日の当日の朝は、激しく雨が降り、ときおり風が激しく吹く春の嵐のような状況であった。
この当時、私は小田急線と南武線の登戸の地域で、アパート経営をしていた母宅に同居していた。

そして前日まで会社で深夜勤務をしていたので、朝の9時過ぎに風呂に入ったりした。
髪の毛を洗ったり、髭(ひげ)を剃ったり、身体を清めていると、
夕方の4時45分から結婚式を挙げた後、披露宴は夜の6時であるが、
来て下さる方たちに余りにも悪天候なので、申し訳なく思い重ねたりしていた。

そして私のこれまでの幼年期からの素行が何かと悪かったので、
天上の気候の神々はこのような采配をされたと思いながら、
今後の結婚生活は大丈夫かしら、と少し不安化でもあった。
                                         
その後、調布市の片隅みに住んでいる生家の長兄宅に集合した後、
先発隊として私は、次兄の運転する自動車で末妹と共に3人で、
小降りなった中、都心の結婚式場の学士会館に向った。

そして首都高速道路から、シティ・ホテルのニューオータニが観え、
あすこに今晩泊まるのかょ、とぼんやりと思いながら、
披露宴に来て下さる方たちのひとりひとり、思い重ねたりしていた。

学士会館に3時半過ぎに着き、私たちは指定された控え室に行き、
まもなく長兄と義姉の夫婦と子供ふたり、そして長兄の自動車に同乗してきた母の姿も見え、
少しばかり家族間で談笑したりした。
          
その後、私は着付け室に移動した。
結婚式の1週間前になると、母は突然に思いつめたように、
『やはり・・貴方・・羽織(はおり)、袴(はかま)にしなくては・・おかしいわよ・・』
と母は私に言った。

私は当時はサラリーマンの5年生であり、和服を身に付けたことは少なく、
着慣れたスーツの代わりに、黒の礼服を着れば良いと思っていた。

『でもねぇ・・結婚式は羽織、袴にして、その後の披露宴のなかばで・・黒の礼服を着れば・・
そうして頂戴・・』
と母は私に言ったのである。
               
このようなこともあり、式場の着付け室で、
私と長兄が和服の着付けをして貰う予約をしていたので、
50代なかばの女性、そして40代と思われる2人の女性に着付けをはじめてくれた。
          
私の父は小学生の2年の時に病死されたので、
何かと父の代理として長兄が面倒を見てくれたりした。

長兄はこの中のリーダー格と思われる50代なかばの女性人に、寸志を手渡していた。
しばらくした後、
『お兄さま・・良いお召し物で・・ やはりある程度以上のものですと・・』
とこの女性は、兄の衣装を誉(ほ)めちぎっていた・・。
長兄は旧家であったので、日頃から着慣れ高価な紋付の羽織と袴を所有していたのである。

私の方は、借り物の《やや良い》の部類で、昔の通信簿だと『4』程度であった。

しばらくすると、長兄の着付けに何かと3人掛かりとなって、私の方は誰もいなくなった。
          
やむなく私は、
『本日の・・主役・・僕なのですが・・』
と中年の女性たちに聴こえる程度の小声で私は言った。

『あらぁ・・ご免なさい・・そうでしたわねぇ・・』
と40代と思われる2人の女性がきて、私の着付けをはじめた。

『主役の貴方・・スラっとしたお方で素敵ですが・・でも、少しタオルを当てましょうね・・』
とひとりの方が私に言った。

この当時の私は、体重は56キロ程度で、身長は170センチであった。
やがて私のお腹周辺にタオルを2枚あてがって、着付けをしてくれた。

着付けが終わると、私を大きな鏡の前に導いて、
『お似合いですわ・・』
とリーダー格と思われる50代なかばの女性が言った。

私は不馴れな羽織、袴はそぐわなく落ち着きを失った上、
明(あき)らかに誉(ほ)め倒されていると感じ、
『兄貴・・俺・・先に出て・・煙草を喫っているよ・・』
と私は長兄に大きな声で言った。
                          

この後、私は不馴れな羽織、袴、そして扇子を持ちながら、
結婚式に参列して下さる新族、親戚の人たちと控え室で談笑した後、
結婚会場の進行担当者に導かれて、指定の4時45分に結婚式の式場に向った。

そして花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・、
と私は改めて思いながら緊張した。

そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。
                         
この後、披露宴が始まる6時まで、披露宴の控室にいる友人と談笑したり、上司に挨拶したり、
祖父の代からの交際のある近所の小父さんなどに挨拶していると、
披露宴の進行担当者から、控室に戻るように私は言われたした。

そして私たち夫婦は披露宴の会場に向った・・。
その後は媒酌人の挨拶、主賓の祝辞を頂いたり、各テーブルにキャンドルの点火をしたりした後、
私たちは、それぞれ色直しで退場した。

私は苦手な羽織、袴から解放されて黒の礼服に着替え、ほぼスーツと変わらないので、平常心となり、
まもなく愛(いとお)しい新妻と逢えば、水色のロングドレスとなり、
お似合いだょ、と私は言ったりし、余裕さえあった。
                    
この後も、数多くの来賓の方たちから祝辞を受けながら、
私は照れ臭いので、お酒を呑みながら、料理も盛んに食べたりしていた。
そしてボーイさんは、私の空になった徳利、料理皿を見て、
次から次へと新たなる徳利、料理皿を持参してくれ、私は積極的に呑み、食べたりした。

横にいる新妻は、余り食べていないようで、ボーイさんが次の料理皿を待ちかねているようで、
私は下(さ)げて良いですよ、というしぐさをした後、
ボーイさんは安堵しながら皿を下げて、 新たな料理を新妻の前に置いたりした。
          
こうして余興、祝電を受けたり、花束記念品を私たち夫婦は、それぞれの母に捧げたり、
長兄が両家の代表謝辞を述べたり、友人のひとりが司会をして下さったので、
お開きの辞を述べたりしたのが確か8時半過ぎであった。

そして私たち夫婦と親は、披露宴に出席して下さった人が退場するのに、御礼を述べながら見送ったりした。

この後、私は新たなるプレイザー姿に着替えて、
学士会館前で私の友人、新妻の友人と談笑をした後、宿泊先のニューオータニに向った。

車中で、誰でも主役になれるのは、誕生、そして結婚式、やがて最後の死去する時、
と改めて実感させられながら、当人が意識できるのは結婚式だけだなぁ、と思ったりした。
          

そして参列してくれた友人のひとりが、翌年の春に学士会館で結婚式を挙げられ、
私も披露宴に出席し、フランス料理を気楽に頂いたりした。

このように学士会館は、結婚式、披露宴の申し込み、確認事項などで、
そして友人の披露宴などで、6回ぐらい行ったかしら、と私は思い馳せたりした。

尚、『小春日和♪ときどき森へ・・・~ by 華 ~ 』のサイトに於いて、
コメント欄がなく、やむなく無断で掲載させて頂いた。

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ある『リタイア後の夢』の記事を読み、年金生活の私は、ないないづくし、と苦笑して・・。

2013-06-25 14:37:55 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、午前中は曇りと予報されていたが、なぜかしら朝の8時過ぎに雨が降りだして、
9時過ぎに小雨となったりした。

こうした時、私はぼんやりとネットの記事を読んだりしていると、
たまたま《ヨット、別荘、クルーズ旅行……「リタイア後の夢」の値段》と題されて、
副題として《仕事漬けの生活から解放されたら一度は自分の船や別荘を持ちたい――。
そんな男の夢は一体どのくらいのお金で買えるのか。》
と明記され、ビジネス総合誌として名高い『PRESIDENT』から配信された記事であったので、
つたない年金生活の私は、こっそりと読んだりした。
http://president.jp/articles/-/9656
☆【PRESIDENT online】<==《ヨット、別荘、クルーズ旅行……「リタイア後の夢」の値段》☆

私は年金生活をしているが、この『PRESIDENT』誌は、
特集が魅せられた時で年に4回ぐらい購読している雑誌であるが、
今回のジャーナリストの伊藤 博之さんが寄稿された記事を読み終わった後、
降参致します、我が家はないないづくし、と苦笑したりした。
         

私は『ヨット』に関しては興味がないので、論外となっている。
第一私は、泳ぎにしても、平泳ぎは200メートルが限界である上、海洋の知識もないので、
国内旅行で遊覧船、フェリー船に乗船すれば、この船から海上の景観を観られれば充分である。

『豪華客船で繰り出す世界一周クルーズ』に関しては、
私たち夫婦が参加した場合は、旅費とその地の間接費を配慮すれば、5000万円前後要すると、
もとより老後の生活予備資金が無くなるので、対象外である。
          
『中高年のアルピニストの夢・・海外の登山ツアー』に関しても、
私は現役サラリーマン時代の緊張感も無くなり、体力の衰えた今は、
いくら頑張っても高尾山のハイキングぐらいであり、無念ながら山は眺めるものである、
と思っている昨今である。

『夫婦で温泉巡りなどを楽しむ・・キャンピングカー』も、
私は定年後に感覚が衰えたので、自動車の免許証も更新を止めた身であるので、対象外である。
たとえ自動車の免許証を維持しても、キャンピングカーのベットで寝るよりも、
観光ホテルに宿泊して、部屋の布団かベットで寝る方が快適であるので、論外となっている。

『リゾートマンションや別荘』に関しては、興味があった。
私は若き40代の頃は、退職後に八ヶ岳、蓼科の分譲別荘地に永住することを夢をみたりしていた。
周囲の景観の四季折々の情景を眺めて、家内と共に生活することを考えたりした。

私は50代の頃に家内に言ったりしたが、反対をされた。
60代の心身元気な時はたとえ良くても、70代以降の身体が衰えた時、どうするのかが主旨であった。
そして日常の買物、そして本屋、近くの病院の利便性も失くして、
あなたの定年後の生活は満足できるの、と言われたりして、あえなく夢は挫折した。
          

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。
         
私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、
コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
何とかこの当時は映像・音響の大手メーカーの民間会社に中途入社出来たのは、1970(昭和45)年の春であった。

音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した身である。

こうした中で1998〈平成10〉年に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年から私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このように私は中小業のサラリーマンの身として、年収1千万円台で何とか卒業できたが、
大企業で栄進された方、或いは官公庁の上層部のように高額所得地位にも成れず、
程ほどの年収、退職金であり、金融資産は程ほどとなり、
何かと半生史は自慢史が多い中、つたない私はもとより対象外となっている。
          

定年後の年金生活は、せめて日常の買物ぐらいは私がしなければと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。
          
そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

国内旅行に関して、私たち夫婦は家内の母を伴い、
温泉のある格安の観光ホテルに滞在して4泊5日前後の旅行を幾たびしたり、
私たち夫婦の時は観光ホテル、リゾートホテルに滞在して、周辺を散策したりしてきた。

そして高額の宿泊施設には無念ながら余裕がないので、
今までの旅で一番経費が要したのは、小笠原諸島の『父島』に訪ねた時であった。
この時は2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊となったが、
総経費はふたりで80万円ぐらいだった、と記憶している。。
          

私たち夫婦の年金生活の資金基本は、お互いの厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新たな年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としているが、
今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

このような年金生活をしていると、今回の記事は、私たち夫婦にとっては、
ないないづくしかしら、と私は苦笑したのであった。

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ときには庭の手入れ、汗まみれ泥まみれで、孤軍奮闘して・・。

2013-06-24 15:28:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、地元の天気情報を見ていたら、朝の6時は20度、昼下りは24度前後、夕暮れの6時は23度前後、
午前中は処により小雨が降りますが、午後より曇りとなり、
梅雨の間としては、幾分涼しい日中となります、と報じていた。

私は何よりも暑さに苦手な身であるが、涼しいことは何よりも朗報だ、
と思い、庭の手入れをしょうと固く決意した。

我が家の小庭は、私が何かと熱いこの時節、手入れを怠(おこ)たってきたので、
樹木の枝葉の伸び、雑草が元気よく繁っているので、
せめて玄関の小庭ぐらいは手入れをしょう、と思ったりし、庭の下り立ったのは9時過ぎであった。
          
どんよりとした曇り空で、いつ雨が降りだしてもおかしくない中、
雨は降らないでねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

もとより庭の手入れは、私の責務の範囲であるが、
この時節から初秋の頃まで、蚊(か)が気ままに飛来することがあるので、
家内は苦手で、この間は家内の援軍はなく、私が孤軍奮闘をしている。

私は幼年期に農家の児として育ったのて、たとえオデコに蚊にくわれても、
鈍い子の為か、平常心でいられるが、
さすがに高齢者4年生の身で抵抗力が弱まって、安全第一と思い、
蚊取り線香を東西南北に置いたりした。

そして、いつものようにストレッチパンズの長ズボン、着古したワイシャツ、ウォーキング・シューズ、
帽子を深く被り、滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにして、
樹木の枝葉を高枝鋏(たかえだばさみ)で切り落としたりした。
          
その後、切り落とした枝葉を整理していると、空は明るくなって、
やがて陽射しが燦々と照らしてきた・・。

本日は曇りで涼しい日中の予報であったのに、
と私は汗をたらしながら、どうしてなのょ、と天上の気候の神々の采配に戸惑ったりした。

この後、私は玄関の軒下で簡易椅子に座り、台所を整理している家内に、冷茶を所望したりして、
水分補給をしながも、今しなくていつするのよ、と自身を叱咤激励をしたりした。

そして草むしりをしたりすると、樹木の下にもぐるように草を取ったりすると、
泥まみれとなり、汗も流れたりしたが、昼食を時間も忘れて、奮戦した。

我が家の主庭は、垣根は常緑樹、庭は四季のうつろいを明晰に変貌する落葉樹を10数本があり、
草花は半夏生(ハンゲショウ)、唐糸草(カライトソウ)、小判草(コバンソウ)、
玉すだれ、秋海棠(シュウカイドウ)などの茶花を中心に植えているが、
これだけだと少し寂しいので、今の時節としてはアメリカ芙蓉(フヨウ)を群生させている。
          
そして玄関庭には、露草(ツユクサ)、高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)、紫式部(ムラサキシキブ)などを配置しているが、
玉すだれ、秋海棠(シュウカイドウ)も配している。

私は幼年期に農家の児として育ち、生家の宅地は広場のような黒土だけで、
周辺は常緑樹、落葉樹の樹木の情景であったので、
我が家の狭い小庭でも、せめて黒土の庭に落葉樹と草花を植えたりしている。

しかしながら、この時節は草は繁るのが早く、草むしりに忙しいが、
体力の衰えた私は、3週間に一回ぐらい奮戦している。

このような怠(なま)け者の私は、今しなくていつするのよ、
と思いながら泥だらけ汗まみれで奮戦して、疲れ果てて終りにしょう、
と私はあえなく決意したのは、1時半過ぎであった。

そして風呂に入った後、けだるい身体で、玄関の軒下に下り立ち、
玄関の小庭を眺めたりしていると、
風が吹き、少し枝葉が揺れていた・・。
今頃になって、そよ風かょ、草をむしっている最中であったら助かったのに、
と私は微苦笑したりした。

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沖縄慰霊の日、戦争を知らない私でも、国民のひとりの責務と思い、黙祷し・・。

2013-06-23 08:22:24 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して南の空に向かい、黙祷したのは朝の6時半過ぎであった。

私は1944〈昭和19)年9月下旬に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に、日本は敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
少なくとも沖縄戦が事実上集結したこの日の6月23日は、
『沖縄慰霊の日』と命名された厳粛な日として認識している。
          

恥ずかしいことを告白すれば、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年、
私は大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしている中、
たまたま中野好夫、新崎盛輝の両氏による共著『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読み、
高校時代以来、何かと時事に興味を抱き、ベトナム問題と同様に
まとまりつかない沖縄問題に思考に整理できず、深く悩んでいた・・。

そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。

若き私は感受性が豊かな時であったので、年長者の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この本の言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、基軸となった・・。

これ以降、やがて社会人となり、そして定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。

私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れる避け、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、更に思いを深めたりした・・。


もとより太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、
沖縄戦は事実上集結した日である。
そして沖縄県は『慰霊の日』として、この日は戦没者追悼式が行われている。
          
何よりも戦時中、日本の本州の防波堤となり、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、民間の住民まで戦禍にまみれ、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この『慰霊の日』は、沖縄に向って、満22歳より黙祷をしている。


私よりご年配の方はともかく、私より若き世代の人たちの一部に、
『沖縄慰霊の日』の由来を誰でも解り易く、簡潔に記した書物は、
私が知る限り、知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の書かれた『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この中で、この『沖縄慰霊の日』を明記している。

そして私は若き人たちと共有致したく、今回あえて転記させて頂く。
《・・
太平洋戦争が最終段階に入った1944年(昭和19年)3月、
本土決戦を引き延ばす目的で、沖縄に第32軍(牛島満・司令官)が配備された。

そして全島を要塞化する計画が推進されたが、
10月10日の大空襲で守護隊は大きな被害を受けて、那覇市は全焼。
548人の一般市民の死者をだした。

この後、守護隊の主力部隊が、フィリピン作戦、に狩り出された為、
軍首脳部は県民の中から、人員を補充せざるを得なかったのである。
沖縄戦が始まった時点の兵力は、約10万人とされるが、その3の1は、前記のような補充兵だった。

これに対し、ミニッツ太平洋艦隊司令官の基に、バックナー中将の率いるアメリカ軍の艦船は、約1500隻。
兵力は17万3000人で、後方支援部隊も合せると、実に44万人に達したという。

兵器と爆薬の面でも、心もとない守護隊に対して、アメリカ軍は圧倒的に優位にたっていたのである。

このアメリカ軍が、1945(昭和20年)年3月23日、沖縄諸島に激しい艦砲射撃をくわえた。

彼等は、26日に慶良間列島を確保した後、4月1日から沖縄本島に対する上陸作戦を開始した。

日本軍の主力が、首里を中心に配備されていたので、アメリカ軍はさほどの抵抗も受けずに上陸を完了し、
沖縄本土は南北に分断した。

この後、アメリカ軍は、南部にいた日本軍に対する総攻撃を開始。
両軍の激戦は40日におよび、劣悪な条件で戦った日本軍の抗戦には、すさまじいものであった。
しかし、この戦いの為、守護隊の主力は壊滅した。

残った約4万人の兵力は、5月22日に、更に南部に撤退した。
ここには推定で約10万人の県民も避難した為、沖縄戦は過酷な様相を呈することとなった。

勢いに乗るアメリカ軍の激烈な攻撃にさらされる極限状況の中で、
日本軍による一般人の虐殺、食糧の強奪などが発生。

更に、女子学生で組織された看護隊『ひめゆり部隊』の悲劇にみられるような、
          
県民達の凄惨な事件が続発した。

そして6月23日、牛島司令官の自決。
ここで日本軍の組織的な抗戦は終結した。

しかし、引き続き行なわれたアメリカ軍の掃討作戦で、6月末までに、約9000人の日本兵が犠牲となった。

この三ヶ月間の戦闘死者は、日本軍6万5908人、県出身の軍人2万8228人、
アメリカ軍1万2281人で、計10万5417人。
そして一般の県民は、推定で9万4000人が亡くなった。

軍人よりも一般人の犠牲者が多い所が、沖縄戦の非人道的な面が如実に現れている。

沖縄県では、沖縄が事実上終結した6月23日を『慰霊の日』とし、1951(昭和26)年から祝祭日に指定。
糸満市の『平和記念公園』で、戦没者追悼式が行なわれている。
・・》
注)原文よりあえて改行を多くした。

私は転記しながら、改めて再確認しながら、戦争とは、かくも果てなき残虐の行為である。
          

                         

私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れたが、
この中のある時、海原を観ていた時、ガイドさんが、
『あの海の彼方は・・アメリカの艦隊でいっぱいだった・・
とご年配の方から教えて貰いました・・』
と私はガイドさんから教えて頂いた。

そして私は、前方の海原にアメリカの艦隊がひしめき、
そこから艦砲射撃がされ、沖縄本土が被弾する状況を想像した時、
私は胸が熱くなり、そして涙があふれていた・・。
          

私はこの日の『沖縄慰霊の日』、そして原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、8月9日の『長崎被爆』、
そして 敗戦となった8月15日は、
たった一枚の赤紙(召集令状)で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方たち、
或いは戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
毎年この日に黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
                     

尚、掲載した数々の写真は、過ぎし2007〈平成19〉年10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母と共に、沖縄本島の一部を訪れた時に撮ったものである。

1930〈昭和5〉年生まれの家内の母は、
この数か月前に、死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい、と家内に言ったりした。

家内の母は、戦時中は(新潟県)高田の女学校時代に於いて、
軍事工場の支援に強制従事させられた体験を含めて、
何か平和祈念公園の中で、沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地にも花をささげたい、
このような慰霊の旅路を、この沖縄の前半の時に私たち3人は巡礼した。


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梅雨の間のひととき、東京郊外の自宅の周辺を散策すれば・・。

2013-06-22 16:07:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、6時過ぎに目覚めると、雲ひとつない青空が拡がった快晴となり、
ここ三日間は梅雨真っ盛りのように雨が降り、ときおり曇りの日が続いたので、
久々の陽射しに、恋しく待ち焦がれた、といったような心情で、
まばゆい朝の陽射しを眺めたりした。

この後、地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時は17度、昼下がりは28度前後、夕暮れの6時は23度前後、
晴れ時々曇りの日中となりますが、午後の6時過ぎからは雨、
と報じられ、過ぎしの18日以来、日中は雨降ることがなく、
これだったら安心して買い物、そして散策ができる、と私は微笑んだりした。

そして朝食を家内と共に頂き、しばらくした後、いつものように家内から買物専任者の私は、
家内から本日の購入品の指示を確認した後、
やがて10時過ぎに最寄りのスーパーで買物をしたりした。

この後、買物の責務を終えた私は、本日はどのコースを散策しょうかしら、と少し思案した後、
野川の遊歩道とした。

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅は、
自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道があり、
私は上流に向かったり、ときには下流に向かったりし、こよなく歩いているコースのひとつであり、
本日は下流沿いとした。
                         

こうした散策と買物の時は、この時節は制服のような定番の服装として、
夏用のストレッチパンズの長ズボン、スポーツシャツの半そで、ウォーキング・シューズとなり、
夏用の帽子を深めにかぶり、紳士用の小物入れのB5サイズのショルダー式バックを斜め掛けをしている。

そしてバックの中身の必須品として、財布、メモ・ノート、ポールペン、ハンドタオル2枚、ハンカチ2枚、
煙草、ライター、携帯灰皿、扇子(せんす)などを入れ、ウォーキング・スタイルで歩く。

本日は、たまたまコンバクト・デジカメを首回りから下げて、颯爽と歩いた。

そして情景に瞬時に魅せられた時、立ち止まりデジカメで、記念写真ねぇ、
と心の中で呟(つぶや)きながら、この過ぎゆく季節のひとときの情景を撮ったりしている。
          

野川の遊歩道を歩いていると、隣接した処に世田谷区立の『きたみふれあいひろば』と称された小公園があり、
10日ぶりかしら、と思いながら入園した。
          
私はこうした初夏の花が、梅雨の間にも咲き始めるのに、愛(いと)しさを感じ、
見惚(みと)れたりする。

そして少し歩くと、この小公園があり、私が四季折々圧倒的に魅了されている処で、
立ち止まったりした。
          
私はこうした雑木の樹木に魅せられているが、
過ぎし日に家内と共に歩いていた時、あなたは農家の児だったから、
と私は言われ、確かに幼年期に農家の児として育てられたから、こうした情景にやすらぎを覚える、
と家内に応(こた)えたりした。

この後、園内の中央部の付近、そして公園の片隅を歩いたりした。
   

私は樹木のうつろう情景が何よりも好きであるが、こうした花も好感したりしている。
そして公園の出入り口の付近で、立ち止まったりした。
          

この後、帰宅に向かう遊歩道を歩いていたら、川辺の小路に野花が咲き、
私は眺めた後、川辺に下り立ち、私は見惚れたりした。
             
その後、季節のうつろう中で、健気(けなげ)にも無心に咲いている野花に、
私もあの野花のようになれたら、と思いながら、自宅に向かった。

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ブログの世界、私が初めて知った時の頃の思いは・・。

2013-06-21 13:11:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
私の半生は何かと劣等感があり、屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・、
と思いながら、年金生活をしている・・。

年金生活をしている中のひとつとして、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

そして原則として少なくとも国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、毎日投稿してきている。
          
私が初めてブログの世界を知ったのは、定年後のまもない時であった。

我が家でインターネットを開設したのは、私が定年退職する数ヶ月前であった。
この当時の私は、数多くの同世代の人たちと同様に、多忙の現役サラリーマン時期であり、
自宅のパソコンでインターネットを施設したならば、
友人たちと電子メールの交流の時間に余裕もない思いがあり、
退職後からすればよいと思いがあったのである。
          

私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をして奮闘したが、あえなく挫折して、
やむなく企業に中途入社する為に、1年間ばかりコンピュータの専門学校で学び、
この当時に大手の音響・映像メーカーのある会社に何とか中途入社できたのは、1970(昭和45)年の春であった。

まもなくして、この会社の中の音楽事業本部のひとつ大手のレーベルが外資会社として新設され、
このレコード会社に私も異籍させられ、やがてコンビュータの専任者となった後、
この後は20年間殆ど情報部門の専門畑となり、
その後は他部門に異動したり、この間に幾たびリストラの烈風を受けたりし、
最後の5年間は取引先の物流情報センターに出向となったりした。
          
私としては1990年(平成2年)の初めの頃までは、
ある程度は専門畑のコンピュータの世界が解かっていたが、
その後は利用者側の間接部門となったので、
先端技術は解からず、ただパソコンを活用し、業務に従事していたぐらいであった。

このような体験があったが、いざ自宅でパソコンにインターネットを連動させた時、
Webの世界の環境には、驚きと出遅れたと感じたりした・・。
                    
そして、定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いでを随筆風に綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。


私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、無知なりに社会、政治の分野まで発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。
          
そして私は、2004年(平成16)年11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、
『kaze-hikari』という発信名で投稿をはじめた。

私は初めてブログの世界に入り、【アメーバ・ブログ】に加入した時、
タイトル名は私なりのブログ・サイトで要(かなめ)をなすこと思え、深く思案した。

タイトル名の『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』に於いて、
~団塊世代のひとりとして~、と副題をしたのは、
私が中途入社した25歳の時、職場で机を並んだのは、新卒の人が多く、
彼らは団塊世代の人たちが多く、その後30年ぐらいは、
それぞれの時代の苦楽を共にした心情があった。

そして発信名を『極楽とんぼ』と命名したのは、私の幼年期からの深い想いでがあった。
          
私は昭和19(1944)年の秋、東京都の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
          

そして私が地元の小学校に入学する昭和26(1951)年の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑、
そして田んぼの中のひとつには湧き水があったり、小さな川も流れ、
母屋の周辺は竹林、雑木林が周辺にあった。

そしてこの当時の周辺は、田畑、雑木林が圧倒的に多く、竹林もある緑豊かな町村であった。

そして私は小学校に通学したが、いじけた可愛げのない子の上、無口であり、
長兄、そして次兄2人は、学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに言われたりしていた。

やがて私が小学2年の三学期に、父が病死した後、
まもなく3年の一学期に祖父が亡くなり、大黒柱のふたりが亡くなったので、
父の妹の未婚のふたり、そして私の母と私たち兄妹の5人が残され、
農家の肝要の技量、労力を失くした生家は衰退し、生活に余裕のない貧乏な生活となった。
               
こうした中で私は通学していた時、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の私たち全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた・・。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。

私はこの当時は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、この当時の通信簿は5段階であり、私は《劣る》意味合いの『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の独り留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目 正、 唄・美空ひばり  】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
         
そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

このように、この『越後獅子の唄』の名曲の悲しげな歌の裏返しの思考、
そして小説家・山口 瞳(やまぐち・ひとみ)・著の『還暦老人極楽蜻蛉』(新潮社)から無断拝借し、
定年退職後の自由自在でブログの世界で綴ってみたい、秘かな思いであった・・。
          

そして私は【アメーバ・ブログ】に投稿を初め、
私が初めてブログで、【アメーバ・ブログ】に加入し、投稿したのは2004(平成16)年11月12日であった。

そしてブログの初めての投稿文は、今回恥ずかしながら、あえて掲載する。
《 はじめまして 》と題して、
【 ブログの世界は、初めて書き出します。
  まったくのヨチヨチ歩きですので、よろしくご指導をお願いいたします。】
このような加入の挨拶を投稿した後、
《 Webは若葉マーク【その一】 》と題して、30分後に投稿している。
【 インターネットの環境が整ってから、数ヶ月過ぎました。
  この間、色々な未体験の連続で涙と笑いの連続でした。
   パソコンは個人的に10数年。
  職歴の一部として、コンピュータの専任者として、1971年~1990年経験していましたが、
  Webの世界は未知でした。】

このように幼い文体で綴っていた。

まもなくコメントを頂き、私なりに喜びであり、コメントをして頂いたお方の日記に、
私も盛んにコメントを書き込みをしたりした。

ただ、【アメーバ・ブログ】の日記投稿欄の書き込み、送信にたびたびエラーなどが発生し、
初心者として技量もなく、何度も書き直し投稿をしたりした。

その上、各部門による賞金制度が設置されていたので、困惑し、私は他ブログ・サイトを探した。

そしてブログに準じた【goo簡単ホームページ】など4つばかりブログ・サイトに加入した。
こうした中のひとつの大手のブログ・サイトの【gooブログ】が残り、現在に至っている。
          
この間、2005〈平成17〉年の頃、ブログに準じた【すくすくブログ】に於いて、
『極楽とんぼの奮闘記』とタイトルを掲げ、
『yumide』の発信名で、極楽とんぼシリーズを移管後してまもない時であった。

この当時、人気の漫才コンビに『極楽とんぼ』の存在を知り、
1部のお方から誤解されたり、
その後、この人気コンビのひとりが女性に不祥事を起こしたりした・・。

私は『極楽とんぼ』の命名の由来を明示した通り、
何かしら60数年の心の純潔を汚されたような思いとなり、
その後は【年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙~】とタイトル名を変更したり、
発信名も『夢逢人〈ゆめあいびと〉』に改称した。

そして半年前の頃に、いつまでも年金青年におかしいと思い、
【夢逢人かりそめ草紙】とタイトル名を改称したりした。
              

尚、プログに関して、2008(平成20)年の頃に総務省の公表された『ブログの実態に関する調査研究の結果』の中で、
ブログ開設動機による分類に於いて、
   ①『自己表現』、②『コミュニティ』、③『社会貢献』、④『収益目的』、⑤『アーカイブ型』
と分類されていた。

私は『自己表現』の心の思いの発露であり、ときおり『コミュニティ』である、
と思いながら、ブログ投稿を始めて8年が過ぎて、日々投稿し、
そして数多くの方の投稿文を読ませて頂き、多々教示されている。

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東京の郊外は村雨(むらさめ)となり、買物、散策に私は戸惑い、微苦笑して・・。

2013-06-20 15:43:42 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であり、
昨日は午後より雨が予測されたが、どんよりとした曇り空となり、
夜の7時過ぎから遅ればせながら、小雨が降ったり、止んだりしていた。

今朝、6時過ぎに起床すると、小庭を眺めると小雨が降っていた・・。
その後、地元の天気情報を見ると、
朝の6時は22度、昼下がりは23度前後、夕方の6時は21度前後、
午前中には処により小雨となりますが、まもなく雨は上がり、午後から曇りとなります、
と報じられ、暑さの苦手な私は、清涼の一日かしら、と微笑んだりした。
          

そして8時過ぎに雨は上がり、平素の買物ぐらいは私は自主的に担当している身あるので、
朝食後、いつものように家内は、新聞の折込みチラシのスーパー、ドラッグ・ストアーなどに見て、
家内は赤のサインペンで丸印を付けたりした。

そしてこの赤丸が、我が家の本日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。

私は家内からチラシを渡されると、徒歩10分ばかりのスーパーで、
キャベツ、ダイコン、サニーレタスなどの野菜、そして肉類などが赤丸となっていた。

もう一軒の歩いて7分のスーパーに於いては、
ティシュ・ペーパーが12ロール入った1ケース『お一人さま、2点限り』、
或いはトイレット・ペーパーが5箱入った1ケース『お一人さま、2点限り』、
そしてお米(5キロ)、パン類、ロールケーキ等が赤印となっていた。

私はチラシの購入品を確認した後、
『了解、致しました!』
と私は若き自衛隊の諸兄に負けないように、元気な声で言ったりした。
          

私は定年後に無念ながら感覚が衰えたので、自動車免許証を更新を断念した身であり、
もとより自動車も所有せず、その上に自転車もなく、
根がケチなせいか、路線バスも利用することなく、歩いたりしている。

しかしながら買物をする時、多くの品を購入する時とか、
或いはビール24缶入り1ケース、お米5キロなどの重い品を買い求める時、
買物の曳(ひ)き車と称される『キャリーカート』を利用している。
               

何かしら以前に家内が買い物をしていた時、
この『キャリーカート』に大きなトートバックなどを載せてきた、と私は教えられた。
そして私は家内から譲り受けて、私としては段ボールを載せている。
その後、私は5年前に少し堅牢な『キャリーカート』の新車をホームセンターで買い求めたりした。

そして私が買い物する品が手で提げられないような場合は、
この『キャリーカート』を私は曳(ひ)きずりながら買物に行き、
スーパーなどの店内で買物をし、支払いが終った後、段ボールを頂き、
この中に購入品を入れたりしてきている。

これだったならば、たとえ特売品を多めに購入しても、負担がないので、
買物が多い時は、この『キャリーカート』は最良の友となり、私の定年後の愛車となっている。
          
             今年の春、我が家の玄関先で、たわむれに『キャリーカート』を撮った。
             手元にあるのは、途中で買い求めたベットボトルの煎茶で、
             使用する時は荷台の段ボールに、ゴム・バンドを掛けて、曳(ひ)いている。

9時過ぎに霧雨が降りだして、10時過ぎに買物でスーパーに行く予定の私は、
本日の購入品が重いので、『キャリーカート』を曳(ひ)いて行くので、
困るよなぁ、と霧雨が舞い降る空を見上げたりした。

その後、10時過ぎに霧雨は止み、私は小躍りしながら、スーパーに行った。
そして赤丸印の購入品をレジで精算した後、段ボールを頂き、
その後に『キャリーカート』を曳(ひ)いて、スーパーを出ると、なぜかしら小雨が降っていた・・。

傘を持参していなかった私は、やむなく夏の帽子を深く被り、帰宅した。

『XXちゃん・・予想外の雨だよねぇ』
と私は少し濡れた段ボールを見つめながら、家内に言ったりした。


この後のもう一軒のスーパーは、雨の中で長い傘を差して行くので、
『キャリーカートを曳(ひ)いて行くのは断念して、
スーパーで頂くレジ袋で、片手に提げられる範囲の購入品に、私たち夫婦は調整した。

そしてティシュ・ペーパーが12ロール入った1ケース『お一人さま、2点限り』、
或いはトイレット・ペーパーが5箱入った1ケース『お一人さま、2点限り』、
そしてお米(5キロ)は、次回購入することとして、
私はもう一軒のスーパーに行き、
やがて右手に傘を差し、左手に買い求めた品をレジ袋3つばかり提げて帰宅した。
          
私は非常の場合は、ハイキングで愛用している登山ザックを使用し、
目的の購入品をすべて買い求める決意があるが、
平常時の日常なので、次回に買い求めれはよい、と妥協したのである。

そして降ったり止んだりした中、買い物にスーパー2店ばかり廻ってきたので、
本日は散策を断念しょう、と小雨降る空を眺めたりした。

このように昨日の夜から、ひとしきり降ったり、
思い出したかのように、再三に雨が降ったり止んだりしてきたので、
古人からの伝たえられてきた村雨(むらさめ)かしら、と私は戸惑いながら微苦笑している。

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暑さ対策『熟睡、食事、そして笑い・・』と教示され、高齢者の私でも同じと微笑み・・。

2013-06-19 15:37:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
ときおりNHKのBSで、大リーグの野球中継をテレビ観戦をすることもある。
そして特にテキサス・レンジャーズのダルビッシュ有さん、そしてニューヨーク・ヤンキースの黒田博樹さん 
両氏のピッチング内容に圧倒的に魅了させられ、昨年より時折視聴したりしてきた。

そして家内はニューヨーク・ヤンキースのイチローさんのファンでもあり、
私たち夫婦は、ときおりテレビを視聴したりする機会が、昨今多くなっている。

こうした生活をしているので、私は過ぎし日にネットで、MLB(大リーグ)のニュースを見ていた時、
ミルウォーキー・ブリュワーズの青木宣親さんと同様に、
奮闘しているトロント・ブルージェイズの川崎宗則さんのコメントを読んだりした。

こうした中で、《・・夏に向けた暑さ対策について聞かれると、
「寝ることと飯を食うこと、あとは笑うことと、歌うこと。そんな感じかな」と、
気持ち良さそうに笑った。・・》
と共同通信が発信した記事であった。
         

私はあの大リーグでも活躍している川崎宗則さんのコメントを読み終わった後、
高齢者4年生の私も、同じだよねぇ、と微笑んだりした・・。

昨今の私は、朝は7時前後に起床し、午前中のひとときに買い物、そして散策をした後、
午後のひとときにブログの投稿文を書いたりした後、
数多くの方の投稿文を読ませて頂いたりしている。
その後は夜にも本を読むことが多く、深夜の12時過ぎに布団にもぐると、疲れは果て熟睡する。
          

食事に関しては、朝は野菜の盛り合わせ後に一汁三菜、
昼食は蕎麦(そば)或いは素麺(そうめん)、菓子パン、
そして夜は野菜の盛り合わせ後に肉類が多い。

私の野菜の盛り合わせは、大き目の皿にキャベツの千切りを盛大に盛り合わせ、
ニンジンの千切りをのせるだけの簡素な野菜サラダとなっている。

こうした根底には、私は幼年期に農家の児として育ち、その上に遠い30年前の頃に、
今は亡き俳優の森繁久弥さんが、胃腸薬のキャベジンの宣伝に出演していたので、
キャベツの多大な効力を信愛してきたので、こよなくキャベツは盛大に頂いている。
               
笑いに関しては、私は若き頃に映画青年の真似事をして、チャップリンの数多くの作品を敬愛した。
そして氏の遺(のこ)された言葉のひとつに、
《 人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とサムマネー。 》
という名言があり、つたない私でも励まされて、信愛しているひとりである。

昨今の年金生活の中、ご近所を散策したり、或いは自治会の回覧を受けたり、届けたりする時など、
奥様たちと談笑したり、ときおりご主人と談笑したりしている。

そして我が家の中でも、家内を相手に談笑したりする。
或いは夜の9時過ぎには、主(あるじ)の責務のひとつとして、門扉、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認し、若き自衛隊の諸兄に負けないように、元気な声で言ったりしている。

この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に大きな声で報告している。

私は同じ戸締りが終わった後、戸締りの点検は終わったょ、
と私が家内に伝えるのは単純で余りにもつまらないので、
大いにアクセントを使い伝書鳩のように言っている。
         

歌に関しては、現役サラリーマンの時は、カラオケでおつきあいで唄うこともあったが、
鼻歌は年金生活の中でも、ときおり唄っている。
平成の15年頃までのポップス系の歌が多いが、
ときには昭和20年~50年の歌謡曲も唄うこともあり、
唄い終わった後は、齢は隠せない、と微苦笑する時もある。

このような年金生活をしている昨今、熟睡、食事、そして笑い・・、
何よりも肝要だ、と思いながら過ごしている。

その上に暑さ対策として、私は外出の時の買い物、散策の時は扇子(せんす)、
帰宅後の家の中では、団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりしている。

そして我が家はエアコンが稼働するのは、原則として梅雨明けの7月20日前後から、
秋のお彼岸の9月21日前後となっていて、初秋を迎えるのが、
ここ9年の習性となっている。

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それぞれのお方のブログ投稿文、確かな人生の教科書、と深めて早や3年が過ぎて・・。

2013-06-18 15:52:44 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
私の半生は何かと劣等感があり、屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・、
と思いながら、年金生活をしている・・。

そして年金生活の直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

こうした中で、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住みながら、
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりしていた。
          
日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
独りで 毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
       
そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

そして原則として少なくとも国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、毎日投稿してきている。
          

私がブログの世界を知ったのは、定年退職後の2か月後であった。

そして幾つかのブログサイトに加入して、ここ9年近く投稿文を重ねてきた。

私はブログを投稿する際、最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
この当時は150万人の加入数いたので、
私は誰からも読まれなく無視されることは、悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。

こうした意味合いからひとつの目安として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、ささやかながらブログの体験上で学んできた。

そしてブログのランキングのサイトを彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』系にに加入し、今日に至っている。

その後、2010〈平成22〉年の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。
そして私の場合は『シニア』系の『60歳代』に適合し、同世代のよしみとして甘え、加入した。
          

こうした中で、数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日記として綴られている場合は、その人なりの思いを、その方ご自身の言葉で、
淡々と綴られているのに圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして、こうしたことは日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多かった。

何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしながら、
私は読ませて頂きながら秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
人生の苦楽を確かに学びながら年金生活を過ごしたりしてきた。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
               
その一方に於いて、本、映画などの批評、小説、詩、短歌、俳句などの創作に於いて、
その人なりの独創性にあふれた投稿文に接した時、震(ふる)える程、感銘を受ける。
          
こうしたお方のブログサイトは、私のブログの左側の『ブックマーク』に於いて、
《  ☆下記のブログサイト☆ ☆私が圧倒的に感銘をさせられ、
             ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く 》
と2年前の頃にためらいながら公開して、今日に至っている。
               

この間に、ブログのランキングの『にほんブログ村』の場合は、
『お気に入りメンバー』の機能があり、
私は秘かに魅了された74名の50代から80代までの男性、女性のお方を登録し、
隠れキリシタンのように投稿されるたびに、深く読ませて頂いている。
          
私はコメントに関しては、以前のあるブログ形式に準じた10万人ぐらい加入した旧サイトに於いて、
何かしら『お友達リスト』が掲示機能があり、私は数多くのお方とコメントで交流を深めたりしていた。
そしてサイト上に明示できるので、こうした関連からまもなく100人は超えてしまい、
こうした影響もあり、ランキングの首位に4週間ばかりなったことがある。

しかし、私は気楽にコメントを書くことはできず、書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプであるので、
時間を要して、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響したので、
原則としてコメントの返信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌したのであった。

そして2年後には、コメント欄を解放して、来訪しコメントを残して下さった方には、
原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。

こうした心情であるので、私は魅せられたサイトを読ませて頂きながら、
それぞれのお方の確かな人生の教科書、と教示させて頂き、早や3年が過ぎている。
          
そして、この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

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扇子〈せんす〉、そして団扇(うちわ)、熱き季節なると私は、こよなく愛して・・。

2013-06-17 15:05:44 | 定年後の思い
私は定年後の年金生活から自主的に日常の買い物を担当となっているので、
最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパーに行ったりしてきたが、
根がケチなせいか路線バスに乗るのことなく、ひたすら歩いたりしてきた。
その後は、自宅から数キロ以内を歩き廻ったりしていることが多い・・。

この梅雨の時節から、暑さが途絶えて初秋の涼風を感じるお彼岸の頃まで、
私は夏用のストレッチパンズの長ズボンの数種類、アロハシャツかスポーツシャツの半そで、
そしてウォーキング・シューズとなり、夏用の帽子を深めにかぶり、サングラスをして、
扇子〈せんす〉を扇〈あお〉ぎながら、颯爽と歩くことが多い。

そして紳士用の小物入れのB5サイズのショルダー式バックを斜め掛けをし、
財布、メモ・ノート、ポールペン、ハンドタオル2枚、ハンカチ2枚、煙草、ライター、携帯灰皿などを入れ、
買い物したり、散策したりしている。

私が愛用してきた扇子(せんす)は、50代の前半時期に、
たまたまデパートでお中元の品を買い求めた後、紳士の雑貨品売り場のバーゲンで購入した。
少し格調のある扇子で、樋口一葉のお札で買えた品であり、
この後も熱い季節に私の友のひとつとなっていた。

そして私の現役時代のサラリーマンの時代、退社後に駅で電車を待っている時、
プラットホームは暑いので、扇子を取り出し、扇(あお)いだりしてきた・・。

年金生活の中でも愛用していたが、一昨年の8月半ばに、無念ながら壊れて、
やむなく私は駅前のスーパーの衣料フロアーで、買い改めたりした。
          
              今回、記念写真と思い移動させて撮ったが、右側から陽射しを受けていたので、
              私の写真の技量の乏しさを露呈してしまい、恥ずかしい限りであるが、あえて添付した次第である。

衣料フロアーで私は扇子の売り場に行くと、半額セールと大きなビラを見て、
年金生活の何よりの味方だ、と微笑みながら、数多くの扇子を選定した。
しかしながら、何かしら波長に合わず、迷っていた時、
40代の女性の店員さんが、これでしたらいかがでしょうか、と私の前に3点を置いた。

そしてこの中で瞬時に魅了された品を選定した。
その上に、お値段も半額であったので、野口英世のお札2枚で購入でき、
以前愛用してきた扇子より遥かに廉(やす)く、大安の日かしら、と微笑んだりした。

そして帰宅後、家内に見せたりすると、この扇子はご婦人用ょ、
と私は家内から言われて、やはりお洒落な品は女性用か、と私は微苦笑した。

しかし私は魅了されていたので、その後も愛用していたが、
まもなく素敵な飾り紐(ひも)が切れて、やむなく私は事務用の堅牢な黒い紐に変えて、
今日も愛用している。


平素、熱き季節には帰宅すれば洗面所で冷たい水で顔を洗った後、
着替えた後、冷茶を飲みながら、 団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりしている。

我が家はエアコンが稼働するのは、原則として梅雨明けの7月20日前後から、
秋のお彼岸の9月21日前後となっている。

私は幼年期は農家の児として育った為か、寒さには強く、暑さに何よりも苦手な身であり、
家内は寒さに弱いが、夏の暑さは32度ぐらいでは平然としている。

家内はクーラーの冷風が苦手であり、
私はクーラーの冷風をこよなく愛するタイプである。

家内からすれば、女の人は冷え症の方が多く冷風は禁物なのよ、
と天上の神のような声に私には聴こえたので、
これ以来、私なりに多少耐え、古風なタイプでない私でも、梅雨明けの頃までは、
何かと団扇(うちわ)のお世話になっている。

私が愛用している団扇(うちわ)のひとつは、
過ぎし2009(平成21)年の『祇園祭』を家内の要望で、
ある旅行会社の団体観光ツアーで、『三井ガーデンホテル京都三条』で連泊し、
『宵々山めぐり』、『宵山めぐり』、そして山鉾巡行の時は桟敷席の折りたたみ椅子に座り、
ゆったりと観られる企画があり、私たち夫婦は参加した。

そして宿泊したシティ・ホテルのロビーにあったのを頂き、
                   
祇園囃子を奏でる中の『宵山』、そして祭りのピークとなる数多くの山鉾が市内の中心部を巡行する『山鉾巡行』などを
人出の多い中、私はこの団扇を扇(あお)いだりして鑑賞した。

こうした中で、京都の中心街から北上した郊外に貴船川があるが、
この夏季の時節には、清流の中で堅牢な丸太の上に床を敷き、食事を頂ける川床料理があり、
私は水音と川風の清涼を実感し、確かなその地の文化のひとつと思いながら、昼食を頂いたりした。
そして、この食事処を辞する時、
50代の仲居さんが微笑みながら手渡して下さった団扇(うちわ)がある。
               
この団扇(うちわ)は頂いた時は、藍色と白色を配した気品ある品であったが、
私の机の前に竹の花入に、一年中飾り、熱き季節だけ、取りだして扇(あお)いだりしている。

月日は早くも4年も過ぎ、少し色褪せたりしているので、
昨年の夏に家内から、汚(よご)れて上に色褪せていますので捨てます、と私は言われたが、
捨てないでねぇ、と私は言ったりしてきた団扇(うちわ)である。

そして、私はときおり絣(かすり)を召した50代の仲居さんの笑顔を思い馳せたりし、
私には貴重な想いでの団扇(うちわ)のひとつとなっている。

この二本の団扇(うちわ)をその時の心情に応じて、私は使い分け、
今日に至っている。

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年金生活の私、自宅の周辺をひたすら歩き、季節のうつろいを享受して・・。

2013-06-16 14:03:53 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

そしてサラリーマンの現役時代に於いては、もとより我が家の収入の責務があるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

そして年金生活を始め、家内の日常のペースを出来る限り、乱したくないので、
決意して実行してきたことがある。
                
具体的には、家内は殆ど従来通りしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
          

私の住んでいる処は、東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅で、
生家も近く、結婚前後の5年を除き、63年ばかり住んできたので、
この地域の『里っ児』でもある。

最寄駅は京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような中間地域となっている。

いずれもバスの利便性は良いが、年金生活を始めてからケチの性格に変貌した為か、
路線バスを利用することなく、原則として散歩も兼ねて歩いたりしている。

そして現役のサラリーマン時代の通勤の時は勤務地の関係、
或いは昨今の都心に買物、旅行をしたりする時は、
更にバスの利便性も良いので、『成城学園前』を利用したり、ときには散策をしたりしている。

こうした辺鄙(へんぴ)な所に私は住み、定年後の年金生活の日常に於いて、
その日に応じて歩き廻ることが多い。
          

我が家の周辺は住宅街であり、ご近所の多くは、殆ど乗用車を保有しているが、
我家は無念ながら所有していない。

私は若い頃は、生家の自動車を盛んに運転をしていたが、
その後に結婚したり、定年前の30年間はペーパー・ドライバーであり、
定年退職後、車を購入して、ゆったりとドライブするのも、ひとつの楽しみと思ったりした。

しかし、齢を重ね感覚が衰えているので、自身の過ちで事故を起こした場合のことや、
何より人様に対して人身事故で傷つかせたりした場合を考慮すると、
単なる保険の賠償支払いで済まなくなるので、自制し、退職後まもない更新時に免許書を破棄することにした。

私は一時的な自動車の快適さより、
万一、私が加害者となった時、多大な賠償の上、何より被害者の心身の痛切な思いを想像したり、
或いは交通刑務所などに服役したりした場合のことを考えたりすると、
定年後の大切な生活設計が狂うのが、何よりも困るというのが本音でもある。

このような気弱で小心者の私は、私の住む地域は幸いにして公共交通のバス、電車の便に恵まれ、
ときたまタクシーを利用しても程々の費用で済んでいる。
                              

こうした生活を過ごしているが、たとえば我が家から『国領』駅の近くにある大型スーパーに行くのは、
近くの大通りに路線バスもあり、15分ぐらいで到着するので、我が家の周辺の方は、殆ど利用されている。
こうした時の私は、220円のバス代を支払い利便性を享受するより、
我が家の近くに流れる野川の遊歩道を上流に向かって歩けば、
                     
景観に良いし、四季折々の季節のうつろいに心も身もゆだねて、何よりも健康にもよい、と固く信じてして歩いてきた。

このように『仙川』駅の場合も、路線バスに頼らず、
少し遠回りして『実篤公園』などに寄ったりして、都立の『神代高校』、
            

そして音楽系の専門学校として名高いの桐朋学園の学校周辺を通り、
          
駅前のスーパー、専門店などで、買い物をすることもある。

或いは幼年期に通った小学校の近くの『つつじが丘』駅に出て、
帰路は遥か60年前頃の通学路の旧街道を歩いたりしている。

そして時には、自宅の近くに流れる野川の遊歩道を上流に向かい、
徒歩45分ばかり歩いて、『深大寺』を通り、やがて都立の『神代植物公園』に、
四季折々に訪ねたりしている。
    

              
そして野川の遊歩道を下流に向えば、遊歩道沿いに小公園があり、
   
この景観に見惚れながら、やがては小田急線の『喜多見』駅となる。


私は都心の高校に1960〈昭和35〉年の4月に入学してから、
やがて民間会社で都心の本社に30年ばかり勤めて奮戦した為か、今の私は都心の景観は魅力もなく、
ときおり小用で都心に出かけたりすると、ただ人出の多さに疲れる。

こうした私は、住宅街の中を小路を歩いたりしているが、何よりも圧倒的にやすらぎを感じるのは、
季節のうつろいを明晰を表現される落葉樹、野花の多く、人並みの少ない所を歩くのが、
何かと心身の波長に合っている。

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