私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。
そして私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
やがて1953年(昭和28年)の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。
そして祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、翌年の1954年(昭和29年)の5月に亡くなった。
どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたりの叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。
そして私たち子供は母と叔母に支(ささ)えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/4b/de500d68e99601a053ecd94deab0c67f.jpg)
この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償の時代であった。
祖父が亡くなって後、私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡された・・。
帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で言っていた。
そばにいた小学5年の次兄は母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏していても・・PTAの会費・・払おうよ・・』
と次兄は怒りような声で母に言ったりした。
次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない我が家の畑で農作物を採り、
程近くに広い敷地にある国際電電公社(現・KDDI)の数多くの社宅に売りに行ったりした。
このお陰で、何とか人並みにPTAの会費を支払うことができた。
長兄は旧家の跡取りであったので、亡き父の願い、祖父の遺言もあり、国立大学付属の中学校を通学する中、
たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。
このした中で、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生が溜息まじりに言われたりしていた。
そして学校に行くのが苦手な児となった・・。
この当時、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。
この当時は学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。
やがてかぼそい声で何とか唄い、結果として通信簿『2』であった。
私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは独りで家の留守番をしている時は、
ラジオから盛んに流れていた『越後獅子の唄』の歌に魅了されていた。
♪笛にうかれて 逆立ちすれば・・・わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし・・、
【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】
とかぼそい声で唄ったりしていた。
そして唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
やがて私が小学校の高学年になると、母に百円を懇願して、独りで映画館にたびたび通った。
この当時は、電車賃は子どもで往復10円、映画館の入場料は殆ど三本立ちであったが子どもは40円で、
帰路にラーメン屋に寄り35円で、あとの15円は映画館の中にある売店で都こんぶ等を買い求めていた。
こうした中で、映画の『ビルマの竪琴』を観て、『埴生の宿』の歌を知り、
或いは映画の『二等兵物語』を観たりして、『ふるさと』の歌を学び、
これこそ私が待ち望んだ音楽だ、と少年心に感動しなから、深く感銘を受けたりした。
しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。
何かと平素は無口の癖、ときたま怒り出し、周囲の多くの同級生が困惑し、
伊豆七島のひとつの大島は、幾10数年ごとに爆発する活火山の由来だった。
やがて小学6年生の頃になると、突然に人前でおしゃべりをすることが大好きと変貌して、
見知らぬ小父さん、小母さんと私の方から話すようになり、
母、兄妹、そして叔母も驚いていた・・。
これ以来、私はお調子者のひとりとなって、学生時代、社会人のサラリーマンの中、
ときにはトンボのように自由にふるまったり、おだてられると高揚しながら奮闘したりしてきた。
後年、この歌の『越後獅子の唄』は、1951年(昭和26年)に松竹映画『とんぼ返り道中』の主題歌として、
越後獅子の少年を美空ひばりが演じていた、と解かった懐かしい映画のひとつとなった。
何よりも私が身勝手に孤独感を感じ、屈折した幼年期を過ごしたが、
この歌は心を癒(いや)して、慰めてくれた貴重な心の歌となっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/6a/bf18aa6a7237f8923d8100175b9ebb29.jpg)
やがて私は年金生活をしている2009年(平成21年)の3月下旬に、
筒井清忠・著の『西條八十』(中公文庫)を読んだりし、
西條八十氏がこの歌の作詞された発想が描かれていて、私は驚きながら、多々教示された・・。
《・・昭和25年の春、西條八十が『山のかなたに』の打ち合わせるのため、
新東宝の撮影所を訪れると、柳谷金語楼・主演の『続・向う三軒両隣り』のセツトがあり、
小憩中で、誰もいない中に一人の女の子がぼんやりと立っていた。
西條八十が元気づけようと、
「君も金語楼劇団に入っているの? 小さいのに感心だね」
と話しかけると、
少女は笑って、
「いやだわ先生、私コロムビアの専属歌手なのよ。先生と同じ会社ですよ」と言った。
これが西條八十と美空ひばりの出逢いだと、森一和は著している。
西條八十は美空ひばりを知らなかったが、美空ひばりは西條八十を知っていたのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/4b/3c5daa2f8ef0ac5bafc9a956264494e4.jpg)
それ以来、西條八十は美空ひばりを興味をもって眺めていたのだが、
天才少女への世間の眼は冷たいものがあり、新聞で「ゲテモノ!と叩かれたりしていた。
こうした中で、西條八十は会社から美空ひばりの正月用の作品を頼まれたのである。
西條八十は戦前に住んでいた柏木あたりに、
正月になると越後獅子が来ていたのであるが、
その子供達が芸をしながら、いつも怖い目つきの親方を恐れいた痛々しい様子を思い出し、
この曲を作ったという。
つまり、『越後獅子』とは当時、社会的に冷たい目で見られ、
大人の歌手の間で肩身の狭い思いをしていた美空ひばり自身のことなのであった。
この歌のテスト盤を聞いた斎藤寅次郎・監督が、
この歌を主題歌とした美空ひばりの主演映画『とんぼ返り道中』を企画、
昭和26年の正月映画として大ヒットした。
浅草六区の直営館では、満員の客をさばくためにフィルムを適宜カットし、上映回数を一回多くしたが、
美空ひばりの出る場面、歌う場面は残したので、客は満足して帰ったという。
しかし、この『越後獅子』が、美空ひばり自身を象徴していたことを
当時の観客の何人が察知していただろうか。・・(略)・・》
注)本書の原文(425・6ページ)より、あえて改行など多くした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/0f/3e7954959acd65ddec6b20ffffde7395.jpg)
このように作詞家としての西條八十氏の『越後獅子の唄』の発想としての秘話、
その後の斎藤寅次郎・監督の英知で『とんぼ返り道中』が上映されたのは、私は無知であった。
私はラジオから聴こえたのを幼年心なりに覚え、
数年過ぎた頃、独りで三流の映画館で観ながら、涙を流したのである。
こうした創作の秘話などを読んだりし、具体的に教示されたのであるが、
こうしたことは本書のような本を読まない限り、
たとえネットの世界が広まり安易に知識が得られる今日でも、不明と思われ、
改めて読書は限りなく奥深く、思索させられる根幹かしら、と確信させられたりした。
尚、余談であるが、《・・美空ひばりの歌った『越後獅子の唄』・・
後の名歌手・島倉千代子は少女の頃、この歌を聞いて歌手になりたいと思ったという・・》
と本書の原文の中(423ページ)に明記されていたで、私は涙があふれながら独り微苦笑したりした。
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私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。
そして私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
やがて1953年(昭和28年)の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。
そして祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、翌年の1954年(昭和29年)の5月に亡くなった。
どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたりの叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。
そして私たち子供は母と叔母に支(ささ)えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/4b/de500d68e99601a053ecd94deab0c67f.jpg)
この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償の時代であった。
祖父が亡くなって後、私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡された・・。
帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で言っていた。
そばにいた小学5年の次兄は母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏していても・・PTAの会費・・払おうよ・・』
と次兄は怒りような声で母に言ったりした。
次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない我が家の畑で農作物を採り、
程近くに広い敷地にある国際電電公社(現・KDDI)の数多くの社宅に売りに行ったりした。
このお陰で、何とか人並みにPTAの会費を支払うことができた。
長兄は旧家の跡取りであったので、亡き父の願い、祖父の遺言もあり、国立大学付属の中学校を通学する中、
たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。
このした中で、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生が溜息まじりに言われたりしていた。
そして学校に行くのが苦手な児となった・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/9e/0e1f12e0d1ba40da216e16277ad46f6e.jpg)
この当時、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。
この当時は学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。
やがてかぼそい声で何とか唄い、結果として通信簿『2』であった。
私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは独りで家の留守番をしている時は、
ラジオから盛んに流れていた『越後獅子の唄』の歌に魅了されていた。
♪笛にうかれて 逆立ちすれば・・・わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし・・、
【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】
とかぼそい声で唄ったりしていた。
そして唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/c9/11197725ee51c99d29d3b7c7b8cd5e8d.jpg)
やがて私が小学校の高学年になると、母に百円を懇願して、独りで映画館にたびたび通った。
この当時は、電車賃は子どもで往復10円、映画館の入場料は殆ど三本立ちであったが子どもは40円で、
帰路にラーメン屋に寄り35円で、あとの15円は映画館の中にある売店で都こんぶ等を買い求めていた。
こうした中で、映画の『ビルマの竪琴』を観て、『埴生の宿』の歌を知り、
或いは映画の『二等兵物語』を観たりして、『ふるさと』の歌を学び、
これこそ私が待ち望んだ音楽だ、と少年心に感動しなから、深く感銘を受けたりした。
しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。
何かと平素は無口の癖、ときたま怒り出し、周囲の多くの同級生が困惑し、
伊豆七島のひとつの大島は、幾10数年ごとに爆発する活火山の由来だった。
やがて小学6年生の頃になると、突然に人前でおしゃべりをすることが大好きと変貌して、
見知らぬ小父さん、小母さんと私の方から話すようになり、
母、兄妹、そして叔母も驚いていた・・。
これ以来、私はお調子者のひとりとなって、学生時代、社会人のサラリーマンの中、
ときにはトンボのように自由にふるまったり、おだてられると高揚しながら奮闘したりしてきた。
後年、この歌の『越後獅子の唄』は、1951年(昭和26年)に松竹映画『とんぼ返り道中』の主題歌として、
越後獅子の少年を美空ひばりが演じていた、と解かった懐かしい映画のひとつとなった。
何よりも私が身勝手に孤独感を感じ、屈折した幼年期を過ごしたが、
この歌は心を癒(いや)して、慰めてくれた貴重な心の歌となっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/6a/bf18aa6a7237f8923d8100175b9ebb29.jpg)
やがて私は年金生活をしている2009年(平成21年)の3月下旬に、
筒井清忠・著の『西條八十』(中公文庫)を読んだりし、
西條八十氏がこの歌の作詞された発想が描かれていて、私は驚きながら、多々教示された・・。
《・・昭和25年の春、西條八十が『山のかなたに』の打ち合わせるのため、
新東宝の撮影所を訪れると、柳谷金語楼・主演の『続・向う三軒両隣り』のセツトがあり、
小憩中で、誰もいない中に一人の女の子がぼんやりと立っていた。
西條八十が元気づけようと、
「君も金語楼劇団に入っているの? 小さいのに感心だね」
と話しかけると、
少女は笑って、
「いやだわ先生、私コロムビアの専属歌手なのよ。先生と同じ会社ですよ」と言った。
これが西條八十と美空ひばりの出逢いだと、森一和は著している。
西條八十は美空ひばりを知らなかったが、美空ひばりは西條八十を知っていたのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/4b/3c5daa2f8ef0ac5bafc9a956264494e4.jpg)
それ以来、西條八十は美空ひばりを興味をもって眺めていたのだが、
天才少女への世間の眼は冷たいものがあり、新聞で「ゲテモノ!と叩かれたりしていた。
こうした中で、西條八十は会社から美空ひばりの正月用の作品を頼まれたのである。
西條八十は戦前に住んでいた柏木あたりに、
正月になると越後獅子が来ていたのであるが、
その子供達が芸をしながら、いつも怖い目つきの親方を恐れいた痛々しい様子を思い出し、
この曲を作ったという。
つまり、『越後獅子』とは当時、社会的に冷たい目で見られ、
大人の歌手の間で肩身の狭い思いをしていた美空ひばり自身のことなのであった。
この歌のテスト盤を聞いた斎藤寅次郎・監督が、
この歌を主題歌とした美空ひばりの主演映画『とんぼ返り道中』を企画、
昭和26年の正月映画として大ヒットした。
浅草六区の直営館では、満員の客をさばくためにフィルムを適宜カットし、上映回数を一回多くしたが、
美空ひばりの出る場面、歌う場面は残したので、客は満足して帰ったという。
しかし、この『越後獅子』が、美空ひばり自身を象徴していたことを
当時の観客の何人が察知していただろうか。・・(略)・・》
注)本書の原文(425・6ページ)より、あえて改行など多くした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/0f/3e7954959acd65ddec6b20ffffde7395.jpg)
このように作詞家としての西條八十氏の『越後獅子の唄』の発想としての秘話、
その後の斎藤寅次郎・監督の英知で『とんぼ返り道中』が上映されたのは、私は無知であった。
私はラジオから聴こえたのを幼年心なりに覚え、
数年過ぎた頃、独りで三流の映画館で観ながら、涙を流したのである。
こうした創作の秘話などを読んだりし、具体的に教示されたのであるが、
こうしたことは本書のような本を読まない限り、
たとえネットの世界が広まり安易に知識が得られる今日でも、不明と思われ、
改めて読書は限りなく奥深く、思索させられる根幹かしら、と確信させられたりした。
尚、余談であるが、《・・美空ひばりの歌った『越後獅子の唄』・・
後の名歌手・島倉千代子は少女の頃、この歌を聞いて歌手になりたいと思ったという・・》
と本書の原文の中(423ページ)に明記されていたで、私は涙があふれながら独り微苦笑したりした。
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