私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
午前中のひととき、平素の買物専任者の私は、駅前のスーパーに向った。
私の住む地域は、平年は3月20日前後から染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が最初に咲き始めると、
その後に山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)が咲くが、
今年の冬は30数年ぶりの寒さだったので、10日ぐらい遅いかしらと感じたりしてきた。
私は桜花(さくらばな)に関しては、三分咲きに心を寄せたりした後、
やがて満開の情景にも愛(めでた)りしてきた。
或いは自宅の近くに流れる野川の桜並木の遊歩道を歩いたりすると、
花びらが散乱して、歩道の脇には絨毯のように花びらが重なったりする。
こうした情景を観ると、 私は立ち止まり、数多くの桜花を見たりすると大半は小枝に残っているが、
ときおり微風が吹くと、花びらが小枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
やがて地上に落下する。
古来より、桜の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきたことに、
思いを重ねたりした・・。
私は桜花に関しては、3分咲きに魅了されるひとりであるが、
やはり花びらが散りはじめ、空中にゆったりと舞いながら散る光景に美を感じてきた。
このような情景に私は見惚(みと)れてたりしてきたが、
遥か1000年前の人たちも、私のように感じる人が多いかしら、と思わず微笑んだりしてきた。
そして私は桜花を観る時、齢ばかり重ねた身であるが、
今年も大病もせず、天上の神々の采配で生かしてもらっている、と思いが強く、
毎年、花衣(はなごろも)の情景を眺めていると、過ぎし日々に愛惜を重ねることが多い。
或いは野川の水の流れを見たりしていると、
川面は陽春の陽射しを受け、光を帯びながら清き流れとなっていた・・。
そして川辺に枯れた薄(すすき)の群生に、桜花が重なっていて、
やがて水の流れに巻き込まれ、花筏(はないかだ)のように下流に向かい、ゆっくと流れていた。
このような桜花のうつろう情景に心を寄せてきた。
こうした中で、自宅の周辺の雑木林を歩き廻ったりしていると、
このようなところに桜があったことは知らなかったよ、と教示されることもある。
そして私は山桜を見かけると、 私が若き34歳の時、
自営業をしていた次兄が、資金繰りが破綻して、突然に自裁されたので、
私はこの山桜に心を託して、山桜の咲く時になると、次兄の言葉、しぐさを思い浮かべたりし、
何かとお世話になった次兄を思い馳せたりし、35年過ぎている。
私は中小業の民間会社に35年近く勤め、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となり、その後は年金生活をしている身である。
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている拙(つたな)いひとりである。
春爛漫の時節を迎えた今、齢ばかり重ねた私でも、生きている歓びを改めて享受している。
このようなことを思いめぐらしながら歩いていると、
やがて駅前のスーパーが見えて、夢幻のような思いから現(うつつ)に戻り、私はスーパーに向った。
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午前中のひととき、平素の買物専任者の私は、駅前のスーパーに向った。
私の住む地域は、平年は3月20日前後から染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が最初に咲き始めると、
その後に山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)が咲くが、
今年の冬は30数年ぶりの寒さだったので、10日ぐらい遅いかしらと感じたりしてきた。
私は桜花(さくらばな)に関しては、三分咲きに心を寄せたりした後、
やがて満開の情景にも愛(めでた)りしてきた。
或いは自宅の近くに流れる野川の桜並木の遊歩道を歩いたりすると、
花びらが散乱して、歩道の脇には絨毯のように花びらが重なったりする。
こうした情景を観ると、 私は立ち止まり、数多くの桜花を見たりすると大半は小枝に残っているが、
ときおり微風が吹くと、花びらが小枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
やがて地上に落下する。
古来より、桜の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきたことに、
思いを重ねたりした・・。
私は桜花に関しては、3分咲きに魅了されるひとりであるが、
やはり花びらが散りはじめ、空中にゆったりと舞いながら散る光景に美を感じてきた。
このような情景に私は見惚(みと)れてたりしてきたが、
遥か1000年前の人たちも、私のように感じる人が多いかしら、と思わず微笑んだりしてきた。
そして私は桜花を観る時、齢ばかり重ねた身であるが、
今年も大病もせず、天上の神々の采配で生かしてもらっている、と思いが強く、
毎年、花衣(はなごろも)の情景を眺めていると、過ぎし日々に愛惜を重ねることが多い。
或いは野川の水の流れを見たりしていると、
川面は陽春の陽射しを受け、光を帯びながら清き流れとなっていた・・。
そして川辺に枯れた薄(すすき)の群生に、桜花が重なっていて、
やがて水の流れに巻き込まれ、花筏(はないかだ)のように下流に向かい、ゆっくと流れていた。
このような桜花のうつろう情景に心を寄せてきた。
こうした中で、自宅の周辺の雑木林を歩き廻ったりしていると、
このようなところに桜があったことは知らなかったよ、と教示されることもある。
そして私は山桜を見かけると、 私が若き34歳の時、
自営業をしていた次兄が、資金繰りが破綻して、突然に自裁されたので、
私はこの山桜に心を託して、山桜の咲く時になると、次兄の言葉、しぐさを思い浮かべたりし、
何かとお世話になった次兄を思い馳せたりし、35年過ぎている。
私は中小業の民間会社に35年近く勤め、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となり、その後は年金生活をしている身である。
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている拙(つたな)いひとりである。
春爛漫の時節を迎えた今、齢ばかり重ねた私でも、生きている歓びを改めて享受している。
このようなことを思いめぐらしながら歩いていると、
やがて駅前のスーパーが見えて、夢幻のような思いから現(うつつ)に戻り、私はスーパーに向った。
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