♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

東区:明星院

2019年11月17日 08時34分24秒 | 神社寺院等
東区二葉の里に建っている「月光山大日蜜寺(げっこうざん だいにちみつじ)明星院」です。
※広島新四国八十八ヶ所霊場第六十二番霊場です。

藩政時代の境内の規模からは縮小されていますが、藩政時代に建立されていた山門(総門)と中門が復興され、
2018年境内整備が完了したように(わたしは)思いました(上画像)。


2005年5月11日撮影
山門、中門がまだない時代で。本堂が直接見えます。


(裕編集の)明星院

11月17日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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安芸区:ほことり広場(西日本豪雨災害状況)

2019年11月16日 08時23分00秒 | 旧瀬野川町附近
安芸区中野5丁目の瀬野川河川敷に設置されている「ほことり広場の西日本豪雨での災害状況」です。
※2018年7月6日西日本豪雨でほことり広場の遊歩道などは被害を受けました。
※瀬野川右岸側のほことり広場の被害に比べ、
(上画像)左岸側の国道2号堤防が崩壊し国道が大きくえぐられている大きな被害が出ていました。


コンクリート舗装部分には川砂が堆積
遊歩道横の土部分はえぐられていました

この地区での犠牲者はなかったというものの災害後一年を過ぎた今になりましたが、ほことり広場の頁を編集しました。
(裕編集の)(西日本豪雨後の)ほことり広場

11月16日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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安芸区:(瀬野川河川敷)ほことり広場

2019年11月15日 08時53分27秒 | 旧瀬野川町附近
わが町の安芸区中野5丁目の瀬野川河川環境整備事業として設置された「ほことり広場」です。
※2007年“ほことり広場”で瀬野川イルミネーションが冬場の賑わいとして催されるようになりました。
(第十回を迎えることもない2015年には規模を縮小されイルミネーションは無くなりました)
※2018年7月6日西日本豪雨で広場の遊歩道などは被害を受けましたが、エスキーテニス場は無事でした。


2018年3月9日までの工期で、遊歩道の整備が1,320万円で行われました。
しかし、7月6日の西日本豪雨で、水泡に帰しました。


最初の画像は、西日本豪雨被災からほぼ復興している“ほことり広場”です。
(瀬野川高水敷ほか4個所災害復旧工事30-1 工事費6,310万円 工期:平成31年12月19日までありますが)
(裕編集の)ほことり広場

11月15日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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西区:広島酔心調理製菓専門学校

2019年11月14日 18時57分32秒 | 建物等
西区福島町に開校している「広島酔心調理製菓専門学校」です。
広島酔心調理製菓専門学校の資料によると
『本校は、1972年の開校以来、創立者原田曜誠の「食は文化である。食は人の生命と人格を左右する。私たちの志す道は尊く大切な道である。・・・』とあります。

2011年撮影した時は外壁にこういう横幕、縦幕は無かったのです。
2018年みると横幕が貼ってあったので撮影したのです。

中央職業能力開発協会第55回2017年技能五輪全国大会
西洋料理 敢闘賞 石井 駿介(調理師科2年生)
洋菓子製造 銀賞 田村 浩乃(製菓衛生師科2年生)
洋菓子製造 敢闘賞 橋本 祥平(製菓衛生師科2年生)


(裕編集の)広島酔心調理製菓専門学校

11月14日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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番外:わが家のパイナップル・冬越下段取

2019年11月13日 19時04分58秒 | Pineapple栽培
最低温度が一桁になってきたら温室から
室内出窓の処に冬養生をして春を待つのです。

ことしは(も)温かい日が続き重い腰が動かなかったのですが、
(上画像)
今年の冬越の下段取り、葉っぱを荷造り紐でまとめた処です。
今年はパイナップル苗、四鉢での冬越になります。

(下画像)
今年収穫したパイナップル苗から脇芽で育った苗です。
下葉を整理したところです。
これを上画像のように葉っぱを荷造り紐でまとめました。
他の三鉢も同じような工程でまとめました。


今後、保温のためにビニール袋を被せて、部屋内に取り込みます。
一番小さな鉢は、(10月16日このブログで紹介した)
わが家で育ったパイナップルを食べた後、クラウンを植えたものです。

パイナップル栽培、貴方もできますよ。
(わが家の)パイナップル栽培
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東区:神田橋水管橋撤去後

2019年11月13日 08時35分48秒 | 橋梁
中区白島九軒町と東区牛田本町を結び京橋川に架かる「神田橋水管橋が撤去」されました。
※平成29年度末(2018年3月末には)解体撤去されました。
*(上画像)牛田側水管橋跡地が小公園に整備され、説明板が設置されています。

昨日このブログで紹介した神田橋水管橋があった時の画像と比べていただければ幸いです。

19.10.28.撮影
(上流側牛田大橋からみました)神田橋水管橋撤去され、工事中の神田橋がみえました


(裕編集の)神田橋水管橋撤去後

11月13日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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京橋川:神田橋水管橋

2019年11月12日 08時41分02秒 | 橋梁
中区白島九軒町と東区牛田本町を結び京橋川に架かる「神田橋水管橋」です。
※平成29年度末(2018年3月末には)解体撤去されました。

初代の神田橋水管橋は、明治30年7月に完成したそうです。
二代目の神田水管橋は、昭和25年に架け替えられました。

2015年4月9日撮影
手前:神田水管橋、神田橋、向側:神田側道橋


そこにあるときは特段考えることもなかったのですが、
撤去されたことを知りましたので、2013年、2015年撮影していた画像で、
今更でしたが頁を編集してみようと思ったのです。
(裕編集の)神田橋水管橋

11月12日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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京橋川:神田橋

2019年11月11日 08時54分56秒 | 橋梁
中区白島九軒町と東区牛田本町を結び京橋川に架かる「神田橋」です。
※(現在の)神田橋は、1962年竣功。7径間プレテンション桁橋です。

※神田橋上部工補修工事が、2020年1月19日までの工期で、工事費7,895万円で行われています。


転勤で1982年故郷牛田に戻ってきて以来この橋を見ていましたが、
撮影して頁を編集したのは2000年でした。
ことしみたとき、斫り音が響いており橋上部工の補修工事が行われていました。

(裕編集の)神田橋

11月11日(安芸区のわが家付近)天候:(雨上がりの)くもり

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中区:(平和記念公園)平和の塔

2019年11月10日 08時11分39秒 | 平和記念公園
中区中島町の平和記念資料館東館南側緑地帯に建立されている「平和の塔」です。

*“平和の塔”と云う名称のモニュメントは各地に建立されているようですが、
ここ広島平和記念公園に建立されている平和の塔は、
『1948年8月6日、世界連邦建設同盟が結成され尾崎行雄(政治家)が会長に、賀川豊彦(キリスト教社会運動家)が副会長となって活動を開始し
第五代会長には湯川秀樹が就任していました。
世界連邦建設同盟は現在世界連邦運動協会と名称を変えて活動している』そうです。


ここのところ米国を中心にして自国優先、自国さえよければという考え方が世界に広がり、国際連合は大国の拒否権で機能不全をきたしているようにわたしにはみえます。
このモニュメントが訴える“世界連邦”的考えを唱える為政者は皆無といっていいように思っています。
そのようなことを考えながらこのモニュメントを横目で見ていましたので2018年久しぶりに正面から撮影し更新しました。
(裕編集の)(平和記念公園)平和の塔

11月10日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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中区:ジュノー広場

2019年11月09日 07時57分22秒 | 公園・緑地等
中区袋町のまちづくり交流プラザ北側に整備されている「ジュノー広場」です。

マルセル・ジュノー博士を顕彰して設けられた広場です。
※ジュノー博士(スイス人医学者)とは、
1945年(捕虜の待遇などの調査などで)赤十字国際委員会の駐日代表として来日しました。
同年8月6日広島の原爆被災の惨状を聞くや、医師として放射能の恐ろしさを知りながら、15トンの医薬品とともに9月8日来広し、廃墟と化した市街地に入って、各所で自らも被爆市民の治療にあたったそうです。


2005年9月17日撮影
当時は、シェアサイクル「ぴーすくる」のサイクルポートはありませんでした


(裕編集の)(マルセル)ジュノー広場

11月9日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区:白島九軒町原爆死没者慰霊碑

2019年11月08日 08時42分51秒 | 原爆慰霊碑等
中区白島九軒町の通称・白潮公園に建立されている「白島九軒町・原爆死没者慰霊碑」です。

碑文には、
『爆心地より1.7km離れた白島九軒町は、被爆後火災によりほとんど焼失しました。
火に追われこの河原に避難し火傷、負傷で苦しみながら悲惨な死を遂げた町民を火葬にしたこの地に、慰霊碑を建立し死没者の冥福を祈るとともに世界平和を祈念します。』とあります。


おじさんが昭和20年に書き残した‘原爆記’にもここ白島九軒町の被爆後の混乱ぶりが垣間みられる記述があります。

2001年この慰霊碑の前で頭を垂れた後撮影し頁を編集し、今回更新しました。
(裕編集の)白島九軒町・原爆死没者慰霊碑

11月8日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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中区:(通称)白潮公園

2019年11月07日 08時07分30秒 | 公園・緑地等
中区白島九軒町の京橋川右岸にある東部河岸緑地「(通称)白潮公園」です。

この公園には原爆死没者慰霊碑が建立され、
桜の名所でもあることから公園自体は以前から知っていたのですが、
(わたしが使っている地図に公園名はなかったのでわからなかったのです)
公園の名前は(被爆)桜の苗木が折られたという2006年の事件での新聞報道で知ったのです。


2019年になって公衆便所も撮影しましたので、加え頁を更新しました。
(裕編集の)(通称)白潮公園

11月7日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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京橋川:(被爆橋梁)京橋

2019年11月06日 08時27分45秒 | 被爆建造物等
中区橋本町と南区京橋町を結び京橋川に架かる「京橋(きやうはし)」です。
※毛利輝元が広島城に入城したその年1591年に、京に向かう橋ということで
「京橋」が誕生したそうで、京橋川は京橋が架けられた川ということで明治以降呼ばれたそうです。

  爆心地から≒1,380m
1945年8月6日原爆で親柱の上部がずれた程度で通行には支障はなく、被災者が続々と渡ったそうです。
(後の9月の枕崎台風の被害もなかったそうです。)

2000年7月22日撮影


(裕編集の)(被爆橋梁)京橋

11月6日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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京橋川:(被爆橋梁)比治山橋

2019年11月05日 08時14分39秒 | 被爆建造物等
中区鶴見町と南区比治山本町を繋ぎ京橋川に架かる「比治山橋(ひぢやまはし)」です。
※比治山橋は、1939年9月架橋されました。
橋長:147.5m、幅員:20m、上部:RCゲルバー桁橋、下部:門型橋脚です。

*爆心地より≒1,710m
比治山橋は、1945年8月6日原爆の爆風で(下流側の西詰よりの)欄干一部が落ちましたが、
落橋はまぬがれ渡ることが出来ましたので、多くの被災者が比治山方面に逃げることができたそうです。
しかし、橋には死体多数が折り重なっていたそうです。

2005年1月28日撮影


(裕編集の)(被爆橋梁)比治山橋

11月5日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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安芸区:(旧中野村平原地区名由来)平原家の墓じまい

2019年11月04日 08時43分46秒 | 旧瀬野川町附近
安芸区中野東(旧中野村平原)に建立されている「(平原地区名由来)平原家墓地」を取り上げました。
※法名板に安永五年が一番古い法名が刻まれ、平成14年が最後の刻まれた方でした。
※今(令和元)年7月に墓じまいされました。

わたしは平成になって移り住んだ新住民ですので、
この地の古くからの伝承を知らないのですが、平原の地名に由来するであろう平原家の墓地だなと思ったのです。

ことし7月になって、墓石が撤去されて、整地されていたのです。
作業している作業員の方に声をかけると、
墓はお寺に改葬し、ここは整地しコンクリート床にするのだとの返答でした。

(裕編集の)(旧中野村平原地区名由来)平原家の墓じまい

11月4日(安芸区のわが家付近)天候:くもり、はれ

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