住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

臨終に思う

2005年06月07日 15時01分42秒 | 仏教に関する様々なお話
先週末、東京で知り合いの葬儀を執り行なった。このことは前回述べたとおりではあるが、その時私の日頃の思いを十分に述べられなかったという後悔が残った。儀式そのものは厳粛に、心を込めて為し終えたのだが、ご家族にそのことの意味するところを十分に申し述べる余裕もないままに失礼してきてしまったように感じている。

備後の地元では、未だに七日毎の供養が行われることもあり、その間に様々なことをご遺族にお伝えする機会にもなっているが、東京まで駆けつけてあげられないもどかしさもある。そこで、この場を借りて私の物足りない思いを記してみたいと思う。

まずは、葬儀などの場で、誰もが成仏されますようにと念ずることの意味するものを私なりに解釈した一文を読んでいただき、人の死と葬儀について考えていただければありがたい。

 『成仏を念ずるこころ』

この世に誕生したとき、誰しも、皆違う人生を、
それぞれに与えられた環境の中で歩み始めます。
そして、両親をはじめたくさんの人々、たくさんの
生き物たちの導き助けのお陰で成長し、
世の中の役に立つことに喜びを感じ、
自らの役目をはたしてまいります。

生まれたときから一刻一刻そうして時を重ね、
心を養う営みを続けつつも、
身体は病み老いていきます。
そして、命ある者の定めとして、いずれは誰もが
その終焉を迎えます。

仏教では、人は身体と心が一つになってはじめて、
ひとつの命を生きると考えます。
身体の寿命は一人ひとり違いがありますが、
誰もが最期の時を迎えます。
しかし身体が寿命を終えても、心はしばらくの間
この世にとどまります。

日本では四十九日の間、死して後なお心は、
私たちと同じこの三次元の空間にあって、
遺族親族から回向された功徳をいただかれ、
また自身の生前の善行の功徳や様々な行い、
つまり業にしたがって、
自分に相応しい来世に生まれ変わると考えられています。

通夜、葬儀、七日参りでは、
遺族、親族、近隣の縁故者は、故人に代わり功徳を積み、その功徳を故人に手向ける、
つまり回向いたします。
その功徳によって、よりよいところへ生まれ変わりください、
そしてまた仏教にまみえ、
心の修行を重ね、
ついにはさとりの世界に
到達されますようにとの思いを込めて、
「どうぞ成仏して下さい」と
私たちは念じるのです。

葬儀において、檀那寺の住職は
引導作法を修法いたします。
これは、故人に改めて仏道に入門していただく為に
戒律を授け、名前を改め、
来世での修行の糧として様々な作法を
お授けするものです。
つまり仏教徒として仏の教えを来世でも
身につけるべく葬儀が執り行われるのです。

仏教では、死後六道に輪廻すると申します。
六道とはつまり
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界のことで、
そのいずれかの世界に死後生まれ変わると考えます。
そうして生まれ変わり生まれ変わり、
何度も生を重ねて心の修行をしていくと
教えられています。

同じ人界でも様々な境遇があり、
自ら相応しいところを選択し生まれていく。
今世を生きる私たちも
そうして自ら選択した人生を歩んでいます。
そして、どのような所に生まれ変わるかは
死ぬ瞬間の心が大切になるのです。

私たちは、自らの行いを肯定するような心を
形づくっていきます。
そのため善い行いをする人は心が浄らかになり、
悪い行いをする人は心が汚れていきます。
ですから常に善い行いを心がけ、
小さな功徳でも積む習慣が必要になります。

地獄・餓鬼・畜生・修羅界の住人のような、
他を害したり、むさぼり怠けたり、
争いばかりする心を持たぬよう
心しなければなりません。
私たち仏教徒にとってなすべき善い行いは、
仏前勤行次第に十善戒として示されています。

身近な人の死を前に、故人の来世での幸せを
願うとともに、自らの人生を振り返り、
より善い来世が得られるために
今世において、いかに生きるべきかを
考える機会にしていただければありがたいと存じます。
コメント (2)
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