住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

僧侶の仕事

2005年06月27日 15時24分02秒 | 仏教に関する様々なお話
よく日本では、上求菩提・下化衆生(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)、などと言ったりする。上下というのが気になるので、内求菩提・外化衆生と言い換えたりする。高野山で布教を教えて下さった長岡秀幸師がそう言われていた。

確かにこう言い換えた方が適切に意味もよく分かる。つまり、自らにとっては悟りを求めることを第一とし、外には生きとし生けるものの教化(きょうけ)に当たるということ。これが私たち僧侶にとっての為すべきこと、これ以外にはあり得ない。為すことすべてがこのどちらか、もしくはそのどちらにも該当するものでなくてはならない。本来は、である。

法事などに呼ばれお経を読む。そのお経は、僧侶自らにとっては、その時心を澄ませ静かに心落ち着かせる修行であり、それを聞いて下さる親族など参詣者にとってはお経を聞き心安らかなひとときを過ごし、また仏教の教えを聞き学ぶ機会となる。

読経する者の心が別の所にあり、穏やかならず、落ち着いたお経が唱えられなければ、そのお経を聞いている人の心にもその動揺した波動が伝わるであろう。どんなにきれいな声でお経を唱えても、心ここにあらず、まったく関係のない私的な思念で一杯であれば、それを聞く人もそのお経に心一つに聞き入ることはないのではないか。そんな風に思っている。

つまり、僧侶にとってはどんなことでもその行為が悟りに向かう修行、ないしはそれにそったものになっているか。縁のあった周りの人にとってはそれが仏教という心安らぐ、もしくは幸せをもたらす教えを吸収する縁(よすが)、より所となっているかがポイントなのではないかと思う。

法事では「胡座をかいたりして、どうぞゆったり座って下さい」などとよく言ったりする。それは法事とは足の痛みをこらえる我慢大会ではないと思うからだ。なるべくゆったりとリラックスしてお経を聞いてもらい、その教えの意味するところが分からなくても、日常と違った静かな心持ちになっていただくことが大切なのではないかと思っている。

心落ち着かせ、お経に耳を澄ませ、呼吸を整え、安らぎを感じていただく。そのことが仏教で言う八正道の中の正定となり、仏教をそのまま実践することに繋がる。その後仏前勤行次第を唱えたり、法話を聞いていただくことによって、教えの何たるかを少しだけでも知っていただく。

教えの法味である智慧の一端を獲得するところとなり、短い法事の中で仏教の実践である布施・戒・定・慧の定と慧を行うこととなる。この後食事や供養の品やお布施を施され、布施を実践し、残りの戒は、その後の日常において実行されれば、それだけで立派な仏教徒としての実践が完成する。

こうした意味合いにおいて、お経の後には長く感じられるようでもその時々に応じた仏教のお話をさせていただいている。本来はお経よりも大切なものなのかもしれない。インドのベンガル仏教徒たちの法事では、お経はものの5分程度しかあげない代わりに、三帰五戒の授与や法話を長々として、食事時間がその後に続く。

弘法大師の時代には、お経を唱えた後には、延々とそのお経の講義をされたらしい。お経を上げてもらう、ないしそれを聞くのが法事というのは誤った認識なのではないかと思う。あくまで、それが僧侶にとっての修行、参詣者にとっての仏道実践、そして僧侶にとっての教化(きょうけ)となっていることが第一の要件なのではないか。だからこそその法事に功徳があり、その功徳を故人に手向ける価値があるのであろうと私は思う。
コメント (1)
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