住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

世の中単純化していないか

2005年06月21日 11時42分06秒 | 時事問題
どうもこのところ気になることがある。この世の中何かみんな頭が単純になってはいないかと思うのだ。特にマスコミ、新聞の論調など、その傾向が濃厚なのではないか。今日の新聞にも「頭のいい人悪い人の言い訳術」という本が広告にあった。頭がいい人悪い人などとそう簡単に二つに分けられるものでも無かろう。

こういう題名にすればよく売れるという発想なのだろうが、世の中他にもこれに似たものがゾクゾクある。JRの宝塚線の脱線事故でも、加害者を非難する声は被害者以外からもものすごい高まりがあった。加害者JRを悪者に仕立て上げみんなで寄ってたかって、こてんぱんにやっつける。経営者に土下座させなければ気が済まないといった剣幕だ。

何もJRは事故を起こしたくて電車を走らせているのではない。経営サイドの怠慢もあったかもしれないが、それなりに旧態依然とした社風の中一生懸命やってきていたのではないか。様々な原因が重なり事故になった。これからは無いよう心して取り組むと言う。それでよいのではないかと思う。あまりに被害者遺族の感情に流されすぎではないか。

前には三菱自動車の火を噴く事故が相次いだ。自動車事故は日常茶飯事。三菱の車の事故ばかりが新聞紙上を賑わせた。いまはJALが狙われている。その根源には、あの米国の同時多発テロに対する報復劇に至った、悪事に対する嵩にかかった勧善懲悪の発想があるように思える。悪い者には何をしても良い。そんな風潮が世の中の大勢を占めているようだ。特にマスコミにはその気風がある。恐ろしいことだ。

私たち人間は完全ではない。間違いを犯すのが人間だ。その人間が人間を神であるかの如くに裁こうとすることがいかに恐ろしいことであるか。私たちが一番よく知っているはずではなかったか。

お釈迦さまの時代。アングリマーラという凶悪残忍の輩がいた。アングリとは指、マーラとは花輪。次々に人を襲い殺した人の指を首飾りにしていた。シュラーバスティの街を托鉢して終わったお釈迦様は、アングリマーラの居るところに向かう道を一人歩いていった。そのことを知ったアングリマーラは、一人でのこのこやってくるあの沙門を襲ってやろうと剣や弓矢を持って忍び寄った。

しかし、走れど走れどゆるゆると歩くその沙門を捕らえることが出来ず、思わず「そこの沙門よ、止まれ」と声を掛けた。するとお釈迦様は私は「私は止まっている。そなたこそ止まるがよい」と言った。止まって話しかけた自分に止まれと言い、歩いている沙門は止まっているという。

その意味が分からずアングリマーラが問うと、お釈迦様は、「私は生きとし生けるものに対して害する心が止んでいる。しかるにそなたはその心のみに歩まんとしているではないか」そのように言われて、アングリマーラはその場で崩れ落ちお釈迦様にすがり、弟子となった。

直にその噂が街に溢れ、アングリマーラがシュラーバスティの坊さんたちの精舎のあるジェータ林に入ったとなれば、お坊さんたちに何かあったらいけないと心配し、お釈迦様を師と仰ぐパセーナディ王は五百の騎馬兵と共にジェータ林に駆けつけた。

「アングリマーラという残忍な兇賊を捕らえんが為に来たり」という王様に対し、お釈迦様は、「大王よ、もしその者が髭や髪をそり落とし、袈裟衣を着て出家し、殺すことなく、盗まず、過ちを語らないという自戒堅固になったとしたらいかがなすであろうか」と問うた。すると王は、「そのようなことがあれば私は彼を敬い供養し保護するであろう、がそのようなことはあり得ない」と言われた。

するとお釈迦様は、「そこにいる沙門こそあのアングリマーラである」と、変わり果てたアングリマーラを指し示した。王は「本当にそなたがあのアングリマーラか」と絶句され、誰もが恐れ捕らえることの出来なかった凶悪残忍な者を武器無くして調伏したお釈迦様を讃歎したと言う。

しかしながら、その後彼が托鉢へ街に行けば、人々から石を投げられ、衣を破かれ、棒で叩かれた。血を流しつつもそれに堪えて戻ったアングリマーラにお釈迦様は、「堪え忍ぶがよい、それはそなたが来世にわたって受けるべき報いを今受けているのだから、忍び受けるがよい」と諭され、アングリマーラも、それに良く堪え修行に励んだと言われている。

私たちは誰もが過ちを犯す人間に過ぎない。周りの人たち、様々な恵まれた環境のお蔭で罪を犯すことなく満足に生かさせてもらっていると考えた方が正しいのではないか。罪を犯したことを悔い改め改心した者には、その罪を償った後には私たちと同じ目で見守ってあげることが必要なのではないかと思う。過ちを犯した者もその非を認め改める素直な心が必要なのであろう。

私たちは、マスコミや新聞、他の人たちの考えにとらわれることなく、冷静に物事の因果因縁を捉え、より成熟した物の見方を身につけることが肝要なのだと思う。単純に何事も善玉悪玉を決めつけてしまうことは誠に危険なことなのではないかと思う。

(これは本日の護摩供後の法話に加筆校正したものです。参考文献阿含経典による仏教の根本聖典)
コメント (3)
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