住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

托鉢の思い出

2005年07月02日 17時36分52秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
昔托鉢をしながら生活していた時期がある。高野山から戻りお世話になった東京のお寺の役僧を辞して後、四国を歩いていた時分のことだ。だから、今からかれこれ14、5年も前のことになる。

自分には帰るお寺なんか無かった。だから、役僧を辞めてしまったら、もともと自分名義だった団地の一室に戻るしかなかった。初めにしたことは、掛け軸の阿字を本尊様にしてその周りに持っていた仏様方を配置し、その前に素焼きの器を仏具にした修法用の壇を設けることだった。そこで毎朝お勤めをし、何とか自分が僧侶であることを確認した。

本来お寺で生活するから僧侶なのではない。職に就かないから僧侶だと思っていたから、何の仕事をすることもなく、職探しもしなかった。と言うことは生活が出来ない。それでも、家賃もいるし食費もかかる。そこで、インドで知り合った禅僧信玄師の手ほどきよろしく、また当時親しくして頂いていたK師から聞いていた、巣鴨のとげ抜き地蔵で一つ托鉢をしてみようと思いたった。

K師というのは、真言宗の修行のあと臨済宗の専門道場で修行されているときに、たまたま私がその道場に坐禅に行き知り合った真面目な修行僧だった。私より少しだけ年長なだけなのに世間を渡り歩いて苦労をされたのだろう、私には随分親身に世話を焼いてくださった。その後さらに天台宗で修行されて、今天台宗のお寺の住職になられた。

話を戻すと、その翌年には四国を遍路する予定で網代傘や脚絆を手に入れていたし、信玄師から教えられたビニール紐で編んだ草鞋もある。それに雲水衣を羽織って頭陀袋を前に掛け電車に乗った。JRの巣鴨駅でおり、とげ抜き地蔵まで歩く。4のつく日が縁日と聞いていたので、縁日に行ったからだろうか、まだ9時過ぎだというのに大変な人だ。

山門には既に4人の坊さんが立っていた。私が門を入ると、じろりと皆視線を投げてきた。新参者の登場だという感じ。頭陀袋から、サラダ皿として売られていたタイ製の木の器を両手で胸の前にもって立つ。初めての托鉢でどうして良いのか分からない。その少し前に信玄師の地元で托鉢したときはそれぞれの家の前で延命十句観音経を唱えながら回ったのだが、こうした立ちんぼの托鉢は初めてだった。

他の人を見ると口の中でぶつぶつやっている人もある。そこで私も理趣経を唱え始めるが、途中でお金を入れて下さる方があったりすると途絶えてしまう。なかなか思うようにお唱えが出来ない。般若心経にしたり十句観音経にしたり。

時間が経つにつれて参詣者が増えて境内の洗い観音には長蛇の列ができていた。山門手前で線香を買うとその列に並ぶ。その際に財布から小銭を取り出し、山門の両側に並ぶ托鉢僧の鉢に入れてくださる方もある。線香を渡すときに擦る火打ち石の音が耳に心地よい。線香の煙が辺り一帯に漂う。

鉢から開けた頭陀袋の中の小銭が重くなり首から下ろして下に置いた。午後になり参詣者が減りだして一人二人と托鉢僧も帰って行った。その中の誰かと話をしたかったが結局誰とも話さずじまいでその場を後にした。その日なぜかそのまま帰ることが出来ず、都電に乗り早稲田に向かった。早稲田の知り合いのN氏に「托鉢してきたんですよ」と告げていた。

それから週に何度か、こうして托鉢に出る生活が始まった。寅さんで有名な葛飾柴又の帝釈天にも行った。私のお寺の原点とも言える浅草寺にも行った。銀座まで地下鉄を利用して数寄屋橋でも托鉢した。

浅草寺は何度か行くと雷門で托鉢していると警備員から追い払われた。そこで駅からの道と仲店が交わる手前当たりで托鉢するようにした。場外馬券場があることもあって、土日には随分と気前のいい男の人たちから沢山の施しをいただいた。

銀座では、銀座の地下街に暮らすホームレスの男性からお金をいただいたり、ある時には料理屋からもらったばかりという感じのまだ冷たい脂ののった鯖の切り身をいただいたりした。その頃小さな紙に少し自分の思いを書いたものを差し上げていたのだが、そのホームレスさんはその書き物をベンチにゴロリと寝転がって読んで下さっていた。その姿を今も忘れずに憶えている。

数寄屋橋には宝くじの売り場が近くにあって、夏や年末の時期には沢山の人が並んでいたが、宝くじを買う前に私の鉢の中に小さく畳んだお札を投げ入れていく人も結構いた。その頃はただひたすら心を無にして立ち禅だと思って立っていた。人の姿を見ると入れて欲しいという思いがどうしても出てくる。さもしい思いが己とあきらめ、ただ何も思わず過ぎゆく人の姿を見れるようになると自然に人が目の前に来て下さっている。そんな思いで立つことに専念した。

ある時、銀座の街を歩いている姿を親戚に目撃され母親に連絡されるということがあった。不憫に思った親戚はそうまでして坊さんで居る必要は無かろうに、ということを言ったのであろう。その様な趣旨のことを母親からも言われた。しかしその頃既に確信的なものを得ていた私は別に気にすることなくそれまでの生活を続けた。

結局数寄屋橋交番近くの地下鉄の出口横と浅草寺の仲店脇での二カ所を自分の托鉢場と決めて、週に二度ほどその日の気分でそのどちらかへ向かった。時間は10時頃から2時間程度だけ。その他の日は図書館に通ったり書き物を用意したりして過ごしたように記憶している。

時バブル全盛期であった。おそらくそんな良い時期に托鉢をさせていただけたお蔭で、この2年ほどの期間、私は一年のひと月ほど四国を歩き遍路し、後はお寺の法要の手伝いを年に数度する他は托鉢だけというゆとりある生活を送ることができた。

托鉢をしているところで偶然にも高野山で一度お会いしただけの方と再会し、その後親しくお付き合いをさせていただいている先輩僧もある。施しをいただいて差し上げた書き物を見て連絡して下さり、それ以来連絡を取り合っている方も何人かある。私にとって懐かしくもあり、またとてもとうとい一時期の経験であった。
コメント (1)
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