いま中国四十九薬師の団体参拝があった。ここ國分寺もその12番札所になっている。平成になって出来た中国地方5県にまたがる薬師如来巡拝の霊場である。少しお話をと言うので、國分寺とお薬師さんの話をした。
國分寺についてはありきたりの國分寺の話に加え、「現在奈良国立博物館に所蔵されている国宝・紫紙金泥・金光明最勝王経十巻は、元々ここ備後國分寺に収められたもので、おそらく中世に神辺であった合戦に巻き込まれた頃沼隈の長者に引き取られ、尾道の西国寺に寄贈された後、奈良国立博物館に収蔵されたのではないかと言われている。現在そのものを奈良国立博物館のホームページから見ることが出来る」などと話した。
また、お薬師さんについては、「本堂の前に医王閣と書かれた扁額があるが、これは、医王如来の大きな建物との意で、医王とは薬師如来のことでもあるが、元々医王というのはお釈迦様のことであった。お釈迦様は当時の医者が病気を診断処方するその方法論で教えを説いていかれた。
そして、実際に心の悩み苦しみを持った人たちをたちどころに直し癒してしまった。そんなところからお釈迦様の別名を医王如来と言った。仏教辞書などで薬師如来を引くと釈迦如来の別名とある。確かにそのお姿も似通っている。と言うよりも薬師如来の左の掌に乗る薬壺を取ってしまったら全く同じである。
右手は開いて前を向けている。施無畏の印と言って、訪れた人誰にたいしてもその人の恐れや不安、誰もが抱え持っている心の影の部分を癒して下さることを意味している。私たちは誰でも言うに言えない悩みを抱えている。みんな満ち足りた顔をしているように見えるが、みんな悩みをそれぞれに抱え持っているものだ。
そうした苦しんでいる心をすーっと吸い取って癒して下さるのがお薬師さんだ。こうしてお参りされたら、みんなそうした重い心をお薬師さんに吸い取ってもらうようにお参りすればいい。それから大切なのは、心晴れやかになったら自分自身もそうしたお薬師さんのような優しい心を持って欲しいということ。誰に対しても優しい心でにこやかに対応してあげること。
微笑みを相手に与えることも慈悲の実践の一つ。何も物やお金をあげたりするばかりが慈悲ではない。今世間は不機嫌な人ばかりではないかと思う。街を歩いて肩がぶつかっても何も言わないような時代になった。「すいません」一つ言う余裕、心のゆとりもないのかと思えてしまう。そんなことにかかずらっていたら儲けが逃げていってしまうとでもいう心の貧困な時代とも言える。
人の揚げ足は取るくせに、人を褒めたり人の成功を讃えることをしない時代ではないか。他の幸せを自分の喜びと感じることも大事な慈悲の心の一つ。どうかこの霊場を参拝されて、誰でもが自分の友と思えるような広い心持ちになっていただいて、お薬師さんのように優しい心で身近な人たちと接するようになれたならば、それが最もありがたく尊い御利益なのではないかと思う」などと20分程度の話をさせてもらった。
國分寺についてはありきたりの國分寺の話に加え、「現在奈良国立博物館に所蔵されている国宝・紫紙金泥・金光明最勝王経十巻は、元々ここ備後國分寺に収められたもので、おそらく中世に神辺であった合戦に巻き込まれた頃沼隈の長者に引き取られ、尾道の西国寺に寄贈された後、奈良国立博物館に収蔵されたのではないかと言われている。現在そのものを奈良国立博物館のホームページから見ることが出来る」などと話した。
また、お薬師さんについては、「本堂の前に医王閣と書かれた扁額があるが、これは、医王如来の大きな建物との意で、医王とは薬師如来のことでもあるが、元々医王というのはお釈迦様のことであった。お釈迦様は当時の医者が病気を診断処方するその方法論で教えを説いていかれた。
そして、実際に心の悩み苦しみを持った人たちをたちどころに直し癒してしまった。そんなところからお釈迦様の別名を医王如来と言った。仏教辞書などで薬師如来を引くと釈迦如来の別名とある。確かにそのお姿も似通っている。と言うよりも薬師如来の左の掌に乗る薬壺を取ってしまったら全く同じである。
右手は開いて前を向けている。施無畏の印と言って、訪れた人誰にたいしてもその人の恐れや不安、誰もが抱え持っている心の影の部分を癒して下さることを意味している。私たちは誰でも言うに言えない悩みを抱えている。みんな満ち足りた顔をしているように見えるが、みんな悩みをそれぞれに抱え持っているものだ。
そうした苦しんでいる心をすーっと吸い取って癒して下さるのがお薬師さんだ。こうしてお参りされたら、みんなそうした重い心をお薬師さんに吸い取ってもらうようにお参りすればいい。それから大切なのは、心晴れやかになったら自分自身もそうしたお薬師さんのような優しい心を持って欲しいということ。誰に対しても優しい心でにこやかに対応してあげること。
微笑みを相手に与えることも慈悲の実践の一つ。何も物やお金をあげたりするばかりが慈悲ではない。今世間は不機嫌な人ばかりではないかと思う。街を歩いて肩がぶつかっても何も言わないような時代になった。「すいません」一つ言う余裕、心のゆとりもないのかと思えてしまう。そんなことにかかずらっていたら儲けが逃げていってしまうとでもいう心の貧困な時代とも言える。
人の揚げ足は取るくせに、人を褒めたり人の成功を讃えることをしない時代ではないか。他の幸せを自分の喜びと感じることも大事な慈悲の心の一つ。どうかこの霊場を参拝されて、誰でもが自分の友と思えるような広い心持ちになっていただいて、お薬師さんのように優しい心で身近な人たちと接するようになれたならば、それが最もありがたく尊い御利益なのではないかと思う」などと20分程度の話をさせてもらった。