住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

例によって霊の話

2005年07月22日 19時40分13秒 | 仏教に関する様々なお話
最近はどうか知らないが、私たちの子供の頃は夏になると決まって恐怖映画が放映された。フランケンシュタインやドラキュラ、狼男。和物でも四谷怪談など。今思い出しても昔は随分とこの分野に力が入っていたものだと思う。「エクソシスト」あたりからどうもこの分野の趣向が変わってきてしまったようにも感じる。それはともかく、この頃はそのかわりに陰陽師の影響からか除霊をテーマにしたテレビ番組がまことしやかに放映されている。

そんなこともあってか、最近お祖父さんを亡くした家で、家の二階に何か感じる。何かおかしい、猫も二階に上がろうとしないという話を相談に来られた方がある。身体の寿命を終えても49日の間私たちと同じこの3次元の空間にまだ心はおられるのですから、怖がることはない。多分お祖父さんがまだ見守っているのでしょう。そう言うと安心してお帰りになった。

霊の話イコール怖い話ということになって、昔こんな事があった、と背筋の凍るようなと表現される話は霊が取り憑いたりする話と相場が決まっている。しかし悪さをする、人にたたる霊というのはどうも私たちの恐怖心が作り上げた妄想に過ぎないのではないかと私は思っている。

このあたりのことを、つまりこの霊の問題を本来仏教ではどう考えているのだろうか。南方の仏教で良く唱えられるラタナスッタ(宝経)は、お釈迦様が霊たちに説法するお経として有名だ。

このパーリ経典の中ではブータという言葉が使われている。ブータとは生類という意味もあるが、鬼神、鬼類とパーリ語辞書にある。パ英辞書ではghostとある。つまり、幽霊、亡霊、幻影のこと。また、現代ヒンディでブータは、死霊、悪魔、死体という意味で使われる。

以前インドのサールナートにいる頃、晩に子供たちが何か暗闇に白いものが見えたと言って騒いでいたことを思い出す。その時子供たちが使っていたのがこのブータという言葉だった。つまり私たちもよく分からずに実体が分からないままによく口にする霊という言葉と同じように使われるようだ。

そのブータ、霊たちに対してお釈迦様があなたたちは幸せであれ、あなたたちは人間を護り給えと教え諭す。なぜなら人々こそあなたたちに供物を捧げているではないかと。そして慈しみを人々にたれよ、とこのお経は説いている。

そして人間界天上界におけるどんな宝よりもすぐれたものは如来に他ならない。その如来が得た煩悩の滅尽、離貪、不死の法に等しいものはない。善人によって称讃される聖者たち、弟子たちは供養を受けるに値し、彼らに施したものは大きな果報をもたらす。僧におけるこの宝こそ勝れた宝であるとあり、悟りの階梯に従ってそれがいかなるものかを示し、なにが勝れているのかを説き、あなたたちも努力しなさいと諭している。

最後にここに集まった地上や空中の霊である自分たちは、神々や人間に尊敬され、このように成就した仏、法、僧を礼拝し、幸せであれ、とお経が締めくくられている。霊たちが仏法僧に対して幸せでありますように、と唱える文句で終わっている。

霊とはそうしたものたちであるべきだ、ということでもあろう。仏教という尊い教えを守り、日々心を清めようと努力する者たちには霊たちも幸せであって欲しいと思い、より良くあるべく協力してくださる、ということではないか。

逆に、自分一人だけ良くあればいい、他の人たちがどうあっても知らぬ存ぜぬ、自分の利益、利権だけを主張するようなけちんぼな者たちには霊たちは何をするか分からないということなのかもしれない。

恨み辛み、他の者たちの不幸をものともせず利を貪る、嫉妬の根性で生きている者たちは気をつけよ。そう警告するお経なのかもしれない。霊、霊たちとここまで書いてきた。その霊たちのことを神々と訳す翻訳がある。

それは、この経典の説くこの場合の霊たちとは神なのだということでもある。天界に生まれるような良い生き方をされた人の死後生まれ変わった存在を指しているのであろう。そうした良い霊たち、尊敬に値する霊たちに私たちは周りにあって欲しいものだと思う。その為には、私たち自身の心がその霊たちの心に叶うものでなければならないのであろう。

良いそうした霊たちにそっぽを向かれるような心ばかりで生きているのであれば、良い霊は離れていってしまう。類は友を呼ぶと言うが、類は霊を呼ぶ。そう言うことなのだと言われる。嫉妬、怨み、貪りの心で生きている人にはそうした心にかなった薄汚い霊が取り憑くのであろう。

私たちを幸せに導き、さらに幸せに向かわせてくれる、そうした霊たちに周りにいて、しっかりお守り下さるようなきれいな心、慈しみの心を常に心がけたいものだと思う。そうすれば暗闇に白いものを目撃しても何も恐れることはない強い心でいられるはずなのだ。そして仏教の教えに生きていたら本当は、霊のことに気遣うこともなく、何も恐れるものはない、霊に頼ることもない、ということになるのだと思う。だから仏教とは本来、そうした霊たちの存在を超越した教えなのだと言うこともできるのであろう。
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