住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

善と悪

2005年07月28日 17時28分50秒 | 仏教に関する様々なお話
お釈迦様は仏教を説かれた訳ではない。仏教徒に向けて話された訳でもない。ただ、教えを乞う人に必要な教えをお説きになった。一部の人々にだけ有効なものではないし、何かを信じなければダメというものでもない。勿論時代を経ても古くなるものではない。それは謂わば人類普遍の教えと言えるものであり、教えを聞いた誰もが心に平安をもたらすことのできる教えである。

ところで、私たちはどこから来て、どこへ行こうとしているのであろうか。私たちは何のために生きているのであろうか。お釈迦様は何事にも因縁有りと教えられている。私たちの生き死にも原因がある。様々な境遇の中必死に生きる私たちのそれぞれにみんな各々必然性があるということだ。自らの行いが原因となり、その果報として今がある。

すべてが自業自得。何でこんな辛い厳しい時代に生きているのかと思ってみても、みんなそんな時代を生きているのだし、先人だってもっと想像できないほど悲惨な時代を生きてきたはずなのである。

しかしどの時代にあっても楽になりたい安定した生活を送りたいと思うのは誰もが持つ素直な気持ちであろう。少しは安らぎが、安定、快楽が欲しい。癒しを求め、リラクゼーションに大金を費やす時代でもある。より善くありたい。より善く生きたいと思う人も多いことであろう。

法句経という古いお経に、「善きことをなせる者は、この世にても喜び、死後にも喜び、何れにても喜ぶ。われ善きことをなせりとて喜び、天界に達してさらに喜ぶ」「悪しきことをなして果報の生ぜざるうちは、愚者は蜜のごとき思いをなせども、悪の果報生ずるときは、苦悩をうく」とある。

なされた行いの結果が喜ばしいものであることが今生でも来世にも及ぶ行為を善きことと仏教では言う。過去の行いが結果して目先の利益、損得に振り回され悪事を行い、当座少しばかりのいい思いをしても、今生で友を失い世間の非難を浴びるような行為はもとより悪行であるとされる。今生に例えいい結果が現れなくても、来世に善い結果が期待されるような功徳ある行為を仏教では善行と言う。

この三世にわたる行いについてお釈迦様が具体的に示された教えが十善業道と十悪業道の教えである。十悪業道とは、身で行う殺生・偸盗・邪淫と、口で行う妄語・綺語・悪口・両舌と、心で行う慳貪・瞋恚・邪見を言う。

殺生とは、生き物を殺すなど残忍で手を血に染め、生き物に対する思いやりがないこと、
偸盗とは、与えられていない物を盗み心をもって取ること、
邪淫とは、他人の妻を娶るなどもろもろの欲に対する邪な行いをすること、

妄語とは、自分のため他人のためにわずかな利益のために故意の偽りを語ること、
綺語とは、相応しくないときに不確かなこと根拠のないこと意味のないことを語ること、
悪口とは、他を苦しめ不機嫌にさせる怒りを伴った粗暴な言葉を語ること、
両舌とは、お互いを離反させる楽しみ喜びのために分裂をもたらす言葉を語ること、

慳貪とは、他人の財産や必需品が自分のものであれ、と貪りの心を持つこと、
瞋恚とは、他の者が害されよ、殺されよ、滅亡せよ、と邪悪な思いを持つこと、
邪見とは、善悪の行為に果報がない、来世はない、両親への孝行には果報がない、一切知者である覚者は存在しない、など誤った見解を持つこと。

そして、このような「悪しきことをなす者は、この世にても憂え、死後にも憂え、何れにても憂う。おのれの行為の汚れたるを見て憂え悩む」ということになる。

この正反対に位置する行いが、十善業道である。身で行う不殺生・不偸盗・不邪淫と、口で行う不妄語・不綺語・不悪口・不両舌と、心で行う不慳貪・不瞋恚・不邪見を言う。

これらは、決して何か悪事をしなければ良いという意味合いのものではない。つまり、悪を止め、善い生き方とはこういう事ですと教え、奨励する教えである。江戸時代の高僧慈雲尊者は、十善は人の人たる道であり、自己本来のあるべきようへの自覚の道であると教えられた。

たとえば不殺生、生き物を殺すべからずということではあるが、これは殺さなければいいということではなくて、殺生の正反対にあたる慈愛の心をもって、生き物を慈しみ育むことを教えるもの。
不偸盗は、盗みをしなければ良いというのではなくて、自分のものを他に分かち与える施すことの喜びを教えている。
不邪淫は、邪なる姦淫をしなければ良いというのではなくて、貞潔な身の清らかな生活による静謐な幸せを教える。

不妄語は嘘を言わなければいいということではなしに、正直な心を養い真実を語るべきことを教える。
不綺語以下も同様に、相手の気持ちを尊重し相応しいときに必要なこと確かなこと誤りのないことを語ること。
不悪口とは、愛情に満ちて多くの人に愛され喜ばれるような言葉を語ること。
不両舌とは、和合友好を楽しみ喜び、離反している者たちを調停し融和している者たちを助長すること。

不慳貪は、他人の繁栄を喜び、今あるものを大切に、足ることを知り、簡便な生活による安らぎを知る。
不瞋恚は、おのれに害を与える者に対しても憎しみを抱かず、誰に対しても慈しみの心を持って接し、冷静であること。
不邪見は、因果道理をわきまえ、ものごとをありのままに見ること。

これら十善業道を修めることによって、私たちは何も憂いることのない平安、来世にまで及ぶ安楽を手にすることが出来る。いわば、十善業道は、お釈迦様が私たち人類に与えてくれた幸せの御守りとも言うことができるのであろう。
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