住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

数珠の話

2005年07月09日 14時36分57秒 | 仏教に関する様々なお話
仏事に数珠は欠かせないものだと思われている。生協の「急なお葬式のためのお参りグッズセット」の中にも入っている。最近では少し大きなホームセンターのようなスーパーでも売られてもいるようだ。

はたしてそれをお買いになる人は数珠とは何だと思っているのかなと、ふと思うことがある。仏事に参加する者としての身だしなみ、携帯すべきもの。祈念するときに擦るもの。何か仏教徒としての標識的な意味あるもの。

まあ、何でも良いが、本来の意味合いというものがまったく抜けきっている今の仏教を象徴するものと言えるものなのかもしれない。はっきり言おう。数珠は本来仏教とは何の関わりもないものだった。だったなどと言うと歯切れが悪いが。だから今でもタイやスリランカなど南方の仏教徒は数珠など使わない。お坊さんたちも勿論持っていない。と言うことは元々仏教に数珠はいらないものだったということなのだ。

だから私も、何年かインドの坊さんとして過ごしていた期間数珠は手にしていなかった。誰かに差し上げたり、預けたりしていた。私が数珠で思い出すのは、インドのリシケシに行ったとき、ガンジス河を前に数珠を手にマントラを唱え修行する行者さんの凛々しい姿である。

白い布をまとい額に灰で模様を描いたサドゥーと言われるヒンドゥー教の行者さんだった。目を閉じて一心に唱えるその姿は正に神々しいものだった。神様の言葉、日本では真言と訳されるマントラを唱え神と一体になった法悦の中、その行者はジャパヨーガと言われるその修行を何時間も続けていた。

インドで数珠のことをマラと言う。粗末な木の実の玉が108つ黄色や赤の糸で繋がれている。日本のもののように半分ずつにした両端に二つも元玉はない。一括りにして元玉は一つだけある。

私はその行者を目撃したときに、「ここは密教のふるさとなのだ」そう思った。日本の高野山で学んだ真言宗の源流にやってきた、そう思った。と言うことは真言宗はヒンドゥー教なのかと早合点してもらっても困る。ヒンドゥー教が密教化する段階で既に仏教の中に密教が生まれていたと考えた方がよい。共にその時代密教化が進んだのだと。

それはさておき、この数珠というのは、その時の行者さんが爪繰っていたように真言を唱えるときに唱えた回数をカウントするものなのであった。真言一回唱えて玉を一つ爪繰り、108つの数珠を一回りして、100回とカウントする。

日本の数珠であれば、その時、端についた小さな玉を一つ上に押し上げる。それを10回繰り返すと、千回になり、その時、反対側の端にある小玉を一つ上に上げておく。それを10回繰り返すと1万回となる勘定になる。つまり真言を1万回数えられるように日本の数珠は作られている。

数珠とは計算機なのであった。何も仏教徒にとっての必需品ということではない。だから数を数える必要のない時代には数珠はなかった。従って未だに南方の上座部仏教徒は数珠を必要としない。大乗仏教になって、真言の数を数える必要が出来て始めて仏教徒は数珠を手にした。釈迦入滅から500年以上も経ってからのことだったろうと思う。その数珠がキリスト教に伝えられてロザリオとなった。

因みに数珠を擦るようになったのは、我が国で随分後になって、お経を唱えるときにお経の終わりや真言の終わりをつげる金がなかったので、真言の終わりを周りに教えるために擦って音を出したのが始まりだと伝えられている。

コメント (3)
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