活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

想説/ 活版印刷人あれこれ1

2009-08-07 13:52:53 | 活版印刷のふるさと紀行
 彼の肩書きを正確にいうなら、イエズス会東インド管区巡察師、乱暴にいうとしたらイエズス会の日本布教の総元締めということになるでしょうか。
 前任の日本布教長として着任したトルレスやカブラルよりもイエズス会の中での地位は高かったのです。 その人の名は1579年7月に口之津に上陸したアレサンドロ・ヴァリニャーノ、40歳、イタリア人司祭でした。
 フランシスコ・ザビエルが中国の「海賊」というニックネームのジャンクで鹿児島に上陸してからちょうど30年が経っていました。

 この30年の間に、日本の、しかも西九州はかなりの変化を見せていました。何しろ今から400年以上も前です。私たちとすれば、牧歌的な情況を想像しがちですが、どうして、どうしてあいつぐ戦争とイエズス会の方針で寺社の焼打ち、取り壊しなどで村落は荒れ果てていました。「日本こそ神の約束された土地」というのには程遠いのがヴァリニャーノの実感でした。

 ただ、日本人が利発で探究心が強く、知識欲が旺盛、しかも戦いが多い割には温和な人種であることは来日以来、まだ日が浅いヴァリニャーノにも伝わってくるものがありました。
 そんなある日のこと、司祭館代わりに使っている建物の裏手の小屋に無造作に積まれている和綴じの冊子の山を見つけました。さっそく日本人修道士を呼んで問いただすと、近くの曹洞宗の寺の取り壊しの際、押収したものだとわかりました。おそらく取り壊しに動員された元仏教徒の信徒にしては、その場で燃したり、破り棄てるわけにはいかなかったと想像できました。

ヴァリニャーノの目は釘付けになりました。(2に続く)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする