活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

想説/活版印刷人あれこれ15

2009-08-24 09:50:53 | 活版印刷のふるさと紀行
 かくして日本最初の活版印刷人ドラードたちは東シナ海に乗り出して行きました。
 ならば、8年半後の彼らの帰国まで、日本では「印刷」に関してなにもなかったのか。ひたすら、彼らが帰って来るまで待つだけだったのか。
 答えはノンです。

 ヨーロッパに派遣された印刷研修生を一軍とするならば、二軍というか裏メンバーがおりました。
 この裏メンバーはヨーロッパのグーテンベルク方式の印刷についてはなにも知りません。なにもかもが手探りで始めなければなりませんでした。
 しかし、彼らがいたからこそ、8年半後、加津佐でのキリシタン版の印刷が軌道に乗ったのです。

 裏メンバーのキャップは養方軒パウロでした。
 ヴァリニャーノから金属活字を使った活版印刷の日本導入計画を聞き、版下作りを委嘱されたそのときから「よし、おのが生涯、最後のご奉公だ」と、積極的にかかわることにしたのでした。

 彼が最初に動いたのは京、ミヤコへ上ることでした。
 目的は二つありました。ひとつはイエズス会のミヤコの管区をとりしきるオルガンティーノ司祭に会ってヨーロッパの印刷について教えを乞うことでした。在日期間が長く日本語を理解出来るところから、ヴァリニャーノよりもくわしい話が聞けると思いました。それと、彼の下にいる来日したばかりの修道士たちから新しい情報を得ることが出来るからです。
 もうひとつは木版印刷にくわしい僧侶時代の知己を訪ねることでした。漠然と木版とヨーロッパの印刷との違いはわかってはいるものの、禅寺の小坊主時代から
キリシタンに転じてからも、「書写」だけを経験して来た身に、大事なことは
木版でもいい、少しでも「印刷」に近づくことだと考えたからです。

 「尊師は活字のもとになる版下を書け」とおっしゃった。
  印刷をまったく知らずしてそんなことが出来るわけがない、それが養方軒パウロの老成した智恵でしたし、事実、京行きは多くの成果をもたらしてくれました。


 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする