活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

想説/活版印刷人あれこれ14

2009-08-22 10:23:07 | 活版印刷のふるさと紀行
 
 ヴァリニャーノは頭を抱え込みました。
 まさか、遣欧使節の計画にこれほどの関心が寄せられるとは想像していなかったからです。
 そんな中で選ばれたのが伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの四人でした。
 
 思えばイエズス会の協議会で使節派遣を発表し、人選の相談を持ちかけたばっかりに、これが外に洩れ、大村や有馬では表敬使節の話題で持ちきりになったというのが真相でした。
 結果として生じたのは選んだ四少年にだけ光が当たり、せっかくの「印刷プロジェクト構想」はキリシタンのだれにも理解されず、「印刷研修生」として選んだドラードたちの名前は表に出ないで、まるで影のような存在に押しやられてしまったことでした。

 あえて意に介さない顔をしてはいたものの、ヴァリニャーノにはこたえました。
 メスキータやロヨラ、ときにはドラードまで自室に呼び込んで「印刷プロジェクト」の中身を懇切に説明するのでした。
 しかし、出立の日が近づけば、近づくほど四少年は時の人になりました。
 当然といえば当然です。だれも活版印刷の有用性など知らないのですから。
 それにしても、あとあと使節がヨーロッパに着いてからも、いや、四百年後の今日までも主役は彼等四少年で、活版印刷術の導入のための遣欧が天正使節派遣のきっかけだったなどとは信じてもらえそうにありません。
まさに、主客転倒といってもよい成り行きでした。

 こうして、表敬使節四人と、日本最初の活版印刷人を乗せて、イグナシオ・デ・リーマの定航船が長崎港をあとにしたのが、1582(天正10)年2月20日のことでした。
 四少年は栄えある大村・有馬・大友三候の名代、ドラードたちは印刷研修生でありながら、四少年の従者。形としてはこうなっておりました。
これはヴァリニャーノがおかした小さな蹉跌が生んだやむをえない処置だったのでしょうか。あるいは、ヴァリニャーノが空気を読んでのことだったのでしょうか。
コメント
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