活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

想説/活版印刷人あれこれ11

2009-08-19 09:10:36 | 活版印刷のふるさと紀行
 その思いつきは船旅の間じゅうふくらみ続けました。
 どうやらヴァリニャーノという頭のきれる巡察師の内面には、慎重さ、用心深さとこれぞと思ったら没頭し、突き進む相反する性癖があったようです。いったい、血液型は何型だったのでしょうか。

 五幾内巡察からふたたび豊後に立ち寄った彼は敬愛する大友宗麟になにもかもぶつけて協力を依頼するこころづもりでした。織田信長が「印刷」に興味を示した話から
使節派遣のアイデアまで全部を打ち明けたかったのです。
 ところが、宗麟は日本イエズス会のしくみやありようといった基本問題と信長篭絡について論じるものですから、そちらが中心になって歯がゆい思いでした。

 その反動ではありませんが、薩摩・天草経由で一年ぶりに長崎に戻ったそのときから、遮二無二に印刷導入と使節派遣の実現に向って奔走し始めました。
 宗麟はやや煙たい存在でしたが、肥前には有馬鎮貴と大村純忠ともっと年若で扱いやすい応援団がいました。
 《ふたりの力を借りてコトを早く進めよう。はやくしないと、船が出てしまう》
 今、長崎で風待ちしている定航船は来年二月には出航してしまいますから使節を乗せることが不可能になってしまいます。

 シモ、下の教区に所属する全司祭を集めたヴァリニャーノは協議会を開き、次々に二十もの議題を片付けた後におもむろに口を開きました。それは、協議というよりも宣言でした。
 「私は日本のイエズス会会員のために、日本の全キリシタンのために、日本に活版印刷を持ってくる。そのための要員と使節をこの下の教区から選出する」
 参加者は耳を疑いました。顔を見合わせました。
 天正遣欧使節の計画が公表された瞬間でした。1581年の降誕祭が迫っていました。





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