活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

想説/活版印刷人あれこれ6

2009-08-12 20:05:55 | 活版印刷のふるさと紀行
 ヴァリニャーノは二,三度、背筋を伸ばしてふたたび、総長宛の報告書を続けました。
《そうだ、これからが本題だ》そう張り切ってのことでした。

イエズス会総長猊下
 
 私はこの優秀で向学心に富んだ日本人に「活版印刷術」をもたらすことを決意するに至りました。
 尊師のご承諾を得て私がインド管区巡察師として、1575年と77年に9名の司祭と16名の修道士を日本に送り込みました。日本布教長カブラルの要請があったのも事実ですが、私が日本人の信者をふやし、ゆくゆくは日本人神父の養成を思考したからです。しかし、残念ながらまだ、彼らの活躍の場は満足すべきところにありません。日本語の壁、信者めいめいに渡す「しおり」がないからです。

 信者の獲得、神学生の教育に必要なのはひとりひとりの手に、わかりやすく教理を説いた「印刷された本」を持たすことであります。いま、新たな開校を進めておりますセミナリヨやノビシャドの教科書の印刷も必要です。
 重ねて申しますが、私は到着以来、各地の巡察のつど、日本語の読み書きのむずかしさに当惑している私が送り込んだ宣教師に同情の念を禁じ得ません。
 そうです。布教に当たる宣教師にとっても、教えを受ける日本人にとっても「印刷された本」があれば、どれだけ効果的か。
-…-…-…

 まるで、目の前にメルクリアン総長がいるかのように、ヴァリニャーノは真剣に紙の上で訴え続けていました。

 ルイス・フロイスは「天の御使いのごとく彼は日本を助けに来た!」といっていますが、このとき、ヴァリニャーノは日本を助けるためのツールとして「活版印刷」に大きな期待を抱きはじめておりました。
 ナポリ王国の名門生まれ、北欧の貴族の末裔、早逝したのちのローマ教皇パウロ四世ジャンピエトロ・カラファに目をかけられたヴァリニャーノが日本に来たことが日本の活版印刷史の最初のページを開くことになったのです。

 私は1580年、この時点に、彼は日本に活版印刷の機械や技術者を持ち込む決断をしていたと見ます。イエズス会の総長に宛てた報告書はいわば、事後報告であって着々と手を打ち始めていたのでした。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする