活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

想説/活版印刷人あれこれ12

2009-08-20 11:00:19 | 活版印刷のふるさと紀行
 大村の三城城で降誕祭のミサをあげた夜、ヴァリニャーノは眠れないまま、障子ごしに昨日から降り続いている雪を見ていました。
 知らず知らずのうちに三日がかりで決めたヨーロッパに派遣する「印刷要員」の顔ぶれ再確認を彼はしていました。

 彼が選んだ洋行させる日本最初の活版印刷人は、
 まとめ役というか監督にディオゴ・メスキータ。神父昇格を目前にしたポルトガル人修道士。こんどの五畿内巡察ではじめて出会い、有馬セミナリオの教師に抜擢したばかりでしたが豊富な学識と誠実な人柄にほれ込んでのことでした。

 印刷研修生のトップとしては日本人修道士のジョルジ・ロヨラ。日本文を書かせると、文章の巧みさ、文字のうまさでは彼の右に出る者はいないという評判が決め手でした。メスキータの意をくんで積極的に動いてくれるだろうという期待がありました。

 研修生の次席は日本人の同宿コンスタンチノ・ドラード。口之津上陸以来、身の回りの世話から日常のちょっとした通訳までこなしてくれているこの少年は最初から念頭にありました。

 あと一人、日本人の同宿のアゴスティニョ。ロヨラとドラードを助ける補助役として選びました。

 実は要員の人選に先立ってヴァリニャーノが悩んだのはローマかヴェネツィア
か、どこで印刷の実習を受けさせるかの問題でした。
 彼は、そのどちらも選ばず、ポルトガルに決めました。
 「日本のイエズス会が世話になっているのはポルトガル国王です。師がイタリアご出身だけに、何事もイタリア優先は避けたほうが無難でしょう」
 いつか大友宗麟から忠告された日本的な配慮を活かしたことも手伝ってのことでしたし、イエズス会本部のお膝元では、面倒を見るほうも、見られるほうも気詰まりではということもありました。
コメント
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