活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

想説/活版印刷人あれこれ9

2009-08-17 11:26:42 | 活版印刷のふるさと紀行
 フロイスが推挙した養方軒パウロはそれから何年もヴァリニャーノにとって得がたい助っ人になりましが、それは後の話です。
 
 それはそれとして、有難かったのは、そのパウロが鎌倉五山の禅院にいたことがあって、「五山版」全盛期の挿話をいくつも聞き知っていたことです。
 そのひとつに『宗鏡録』の話がありました。
 「全部で百巻25冊からの大冊で、応安四年に刊行されとった。この各巻に文字を刻んだ人の名が記されていたが、みんな明(中国)から来て、帰化したご仁ばかりじゃった」
 この話はヴァリニャーノにヒントを与えてくれました。

 養方軒の話によって日本の国字が唐や宋や元や明、あるいは朝鮮と、大陸に源を持っていることが、ヴァリニャーノにはよく理解出来ました。
 その国字の母国からこの日本へ仏典や五山版の文字彫刻のためにたくさん海を渡って来た活字彫刻工の話は新鮮でした。と同時に、これから自分が進めようとしている「活版印刷」の導入にも、それに堪能な人にぜひ、加わってもらわねばならぬと心を決めたのです。

 まず、手始めにすることはなにか。ヴァリニャーノはさっそく自分の思い付きを目の前の養方軒に依頼することにしました。

 「私はあなたに、書体見本を書いてもらいたい。一つはかな文字の1セット、
もう一つは、この国でよく使われるであろう漢字を選んでできるだけたくさん」
 怪訝そうな顔をした養方軒パウロに
 「これは子どもや文字に慣れていないご婦人用に手本にしたい。あるいは向こうから海を渡って来る修道士の日本文字の教本にしたい」と、付け加えた。
 「そのためには、知り合いの能筆家を集めて、早急に事を進めてほしい」
 「謝礼はフロイス、あなたが面倒をみてほしい」
 てきぱき話を進めるヴァリニャーノにみんな気おされてしまいました。
 フロイスは養方軒の下にパウロの息子とロヨラという日本人の修道士見習いとドラードの三人を指名して、じぶんを含めて都合5人で、いうなれば「国字プロジェクト」を発足させました。

 もちろん、これが「国字活字プロジェクト」になることはフロイスは予感しておりました。 時に1580年の暮、キリシタン版印刷誕生に先立つこと11年前のことでした。 






  





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想説/活版印刷人あれこれ8

2009-08-14 10:41:16 | 活版印刷のふるさと紀行
 ヴァリニャーノはバドヴァ大学で教会法学を学んでいたころ、論文の印刷でたびたび足を運んだヴェネツィアの印刷所の内部を思い描きました。

 その1560年代そうそうといえば、グーテンベルクの活版印刷術の発明から100年、ヴェネツィアには手広く活版印刷を営んでいる印刷所が何軒もありました。
 ヨーロッパではいちはやく「写字の時代」がはるかに遠ざかって「印刷の時代」が盛んになっておりました。印刷がニューメディアでしたから学生は印刷に大変な興味をもっていました。印刷の恩恵が計り知れないことを知っていました。
 ヴァリニャーノもその一人、印刷所を訪ねるたびに、鋳造や植字や印刷の職場を目を皿のようにして見てまわりました。食事時間になって親方夫妻の食卓に招じいれられたことさえありました。

 《日本に印刷機を持ち込めば、印刷は出来る》
 《問題は活字だ、日本文字の活字がなければ、日本人は読めない》
 親指の爪にも満たない鉛の活字がヴァリニャーノの頭の中で踊った。
 ヴァリニャーノは日本での印刷のネックが「活字」にあることを直感したのです。さすがでした。

 それにしても、と、彼は頭をめぐらす。
 《私はあまりにも日本文字について知らなすぎる》
 フロイスを呼んでふたりで日本に活版印刷を持ち込む相談をすることにしたのでした。印刷について知識があり、日本をよく知っているからです。
 フロイスは日本文字について養方軒パウロという仏僧から改宗した70歳はゆうに超えているであろう老人に来てもらいました。木版には知識がありますが、鉛活字を使う活版印刷が想像も出来ないパウロに話をのみこませるのは大変でした。

 日本の文字には中国から入って来た「漢字」と、日本で作られた簡略文字の「仮名」の2種類がある。仮名は数が限られているが、漢字となると万はくだらないということがわかりました。自分の勘が当たっていたことはうれしかったが、この壁にどう挑むかでした。






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想説/活版印刷人あれこれ7

2009-08-13 10:32:52 | 活版印刷のふるさと紀行
 その1580年の暮、ヴァリニャーノは府内(いまの大分)のコレジヨで『日本のカテキズモ』の執筆にかかっていました。
日本に到着した彼を待ち構えていたのは、日本イエズス会の厳しい財政問題、日本布教長カブラルと都地方の長オルガンティーノの対立、大村純忠からもちかけられたイエズス会へ長崎を譲渡しようという問題、口之津の領主有馬のゴタゴタなどなど山積みでした。

 いま、府内にとどまっているのは大友宗麟との交渉ごとによるものでしたが、それにしても、そんな中での執筆とはおそるべき行動力といえましょう。
 カテキズモはキリスト教要理と訳されていますが、日本人の修道士がキリスト教をよりよく知るための本で、この本を使ってわかりやすく教理を説明してあらたな信者を少しでも多く獲得してもらいたいのが狙いでした。

 とにかく、私が思うのに、彼は短い時間で自分の存在をきわだたせる必要があり
ました。選ばれたエリートではあっても彼はイタリア人で、イエズス会内部の多くのポルトガル人勢力の鼻をアカさねばならなかったのです。
 したがって豊後でも臼杵につくったノビシャドや府内のコレジヨで熱っぽい講義をしました。好評でした。しかし、在日20年に近いルイス・フロイスの通訳なしでは講義が進まないのが残念で、満足するわけに行かなかったのです。

 《あれほど日本に送り込んだ宣教師たちに日本語をモノにしろといいながら》自分自身が話せないもどかしさ、いま、進めているカテキズモにしても日本語で書けない口惜しさ。
 いま、この多忙の中で日本語に習熟するのは不可能だ、だとしたら、「印刷を日本に持ち込むこと」を私の課題にしよう。そのためにヴァリニャーノはどこから手をつけるか
思案しはじめました。




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想説/活版印刷人あれこれ6

2009-08-12 20:05:55 | 活版印刷のふるさと紀行
 ヴァリニャーノは二,三度、背筋を伸ばしてふたたび、総長宛の報告書を続けました。
《そうだ、これからが本題だ》そう張り切ってのことでした。

イエズス会総長猊下
 
 私はこの優秀で向学心に富んだ日本人に「活版印刷術」をもたらすことを決意するに至りました。
 尊師のご承諾を得て私がインド管区巡察師として、1575年と77年に9名の司祭と16名の修道士を日本に送り込みました。日本布教長カブラルの要請があったのも事実ですが、私が日本人の信者をふやし、ゆくゆくは日本人神父の養成を思考したからです。しかし、残念ながらまだ、彼らの活躍の場は満足すべきところにありません。日本語の壁、信者めいめいに渡す「しおり」がないからです。

 信者の獲得、神学生の教育に必要なのはひとりひとりの手に、わかりやすく教理を説いた「印刷された本」を持たすことであります。いま、新たな開校を進めておりますセミナリヨやノビシャドの教科書の印刷も必要です。
 重ねて申しますが、私は到着以来、各地の巡察のつど、日本語の読み書きのむずかしさに当惑している私が送り込んだ宣教師に同情の念を禁じ得ません。
 そうです。布教に当たる宣教師にとっても、教えを受ける日本人にとっても「印刷された本」があれば、どれだけ効果的か。
-…-…-…

 まるで、目の前にメルクリアン総長がいるかのように、ヴァリニャーノは真剣に紙の上で訴え続けていました。

 ルイス・フロイスは「天の御使いのごとく彼は日本を助けに来た!」といっていますが、このとき、ヴァリニャーノは日本を助けるためのツールとして「活版印刷」に大きな期待を抱きはじめておりました。
 ナポリ王国の名門生まれ、北欧の貴族の末裔、早逝したのちのローマ教皇パウロ四世ジャンピエトロ・カラファに目をかけられたヴァリニャーノが日本に来たことが日本の活版印刷史の最初のページを開くことになったのです。

 私は1580年、この時点に、彼は日本に活版印刷の機械や技術者を持ち込む決断をしていたと見ます。イエズス会の総長に宛てた報告書はいわば、事後報告であって着々と手を打ち始めていたのでした。

 
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想説/活版印刷人あれこれ5

2009-08-11 14:52:03 | 活版印刷のふるさと紀行
イエズス会総長猊下

 私は総長猊下が日本に関して出来るだけ明確な事情把握を得られるよう心から願って
本日はこの国の印刷事情をご報告すると同時に私の提案に耳を傾けていただくべくペンをとった次第です。
 なにとぞ、取り急ぎ当報告書を提出する私の微衷をご賢察の上、その不備をご寛恕いただきたいと存じます。-…-…

 3日目の夜住院に戻ってヴァリニャーノはさっそくローマの総長宛の書簡を書き出したのでした。
まず、報告書の前半では、禅僧から得た知識を次のように簡潔にまとめておりました。

 日本では仏僧(ボンヌ)と呼ばれる宗教家が300年も前から木版印刷で開版事業を行っている。日本の上層階級たる領主、殿(トノ)、公家、武家(ブケ)と呼ばれる騎士たち、彼らは押しなべて仏僧を尊敬、仏教に帰依してきたので、木版印刷された中国伝来の「宋本」、「元本」、「明本」など各時代の仏典、経本、あるいは儒教書をこれまた中国伝来の印刷術で本にして、競って知識を求めて来た。部数は上層階級相手であるから限られているようだ。
 この開版事業は日本の有数なテラのある本山(ホンザン)で行われてきたが、このところ相次ぐ戦争と混乱でかつてのように盛んではない。近年、ミヤコの禅寺では仏書以外に歴史書,医書、詩文など文学書も手がけるようになっている。

 身分上これらの書物を手にすることのない商人や地主、奉公人も私のみるところ知識欲は旺盛で、日本人の識字率はヨーロッパのどこの国民をも凌駕するのではないか。

 日本人が優雅で礼儀正しいことは先に報告したとおりだが、書物を愛し、文字に書かれた知識に関心を寄せることで、彼らが優れた天性と秀でた理解力を持つことはおどろくほどである。日本を司牧するわれらとしての着目点はかかってここにある。

 そしてヴァリニャーノは報告書の後半でいかにも彼らしいアイデアを披瀝しているのです。

 


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想説/活版印刷人あれこれ4

2009-08-10 09:25:22 | 活版印刷のふるさと紀行
 しばらくの間、ヴァリニャーノは、ほころびのある墨染めの僧衣に身を包み、顎の下に長い白髭をたくわえた禅僧をじっとみつめたままでした。
 前任のカブラルから聞かされていた日本の僧侶のイメージとはあまりにもちがういかにも内に秘めた教養と人徳が醸し出す雰囲気に気おされる気がしてなりませんでした。
 さらに、いっぽうで自分の頭の中で言いしれない「驚愕」が渦まいていることを自覚せざるを得ませんでした。

 《この日本に200年も前から印刷本が存在しているなんて。200年も前ということは、1300年代ではないか。英仏の百年戦争以前ではないか。》
 
《なんと、ドイツでグーテンベルグが活版印刷術を発明する100年以上も前に、日本のテラで本が印刷されていたとは》
 
《その同じ頃、私の生まれ故郷キエティの教会ではどうであったろう。おそらく
あの大理石の石机に向って修道士たちが羽ペンを握り締めて一字、一字手書きの写本作りに精をだしていたことだろう》
 イタリア南部のふるさとに思いをはせながらも、この極東の島国には不似合いの文化のありようが、彼にはまだ、信じられない気がしてなりませんでした。

 つい、彼は、咳き込むようにして目の前の禅僧に質問をぶつけずにはいられませんでした。
 「それなら、こうした本や文字の印刷は僧侶専用のものなのか」
 「いまも各地のテラでは木版の印刷はなされているのか」
 「婦人や子どもにもこんなに複雑な文字が読めるのか」
 「仏典以外の印刷物は存在するのか」

 そのつど、禅僧はときおり白髭に手をやりながら、思慮深げに言葉を選びながらていねいに答えてくれました。
 いちいち通訳を介さねばならないこともあって、ヴァリニャーノの禅寺通いはそれから三日にも及びました。
 この訪問によって彼は来日早々から考え続けて来た自分の構想に自信を持つことが出来ました。
 「この日本の印刷事情についてローマの本部に報告すると同時に、行動に移そう。急がねばならぬ」
 

 
 
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想説/活版印刷人あれこれ3

2009-08-09 18:52:26 | 活版印刷のふるさと紀行
 翌日からヴァリニャーノの日本の印刷事情調べが始まりました。
 イエズス会入会以前、バトヴァ大学で法学や神学を学んでいたころの彼は人も知る学究の徒で、図書館で膨大な書籍を読み漁り、調べごとの虫と綽名されるくらいでした。しかし、この九州の僻地で、日本語も日本文字も解さない彼にとって日本の印刷事情調査はどこからとりついたらよいのか、きわめて難題でした。

 まずは、この書物の持ち主に当たるしか方法はない。ヴァリニャーノは日本語が達者で在日期間の長い修道士と少しはイタリア語やポルトガル語を解するコンスタンチノ・ドラードをともなって、禅寺に老僧を訪ねることにしました。
 意外なことに、キリシタンによって寺を荒廃に追い込まれ、仏像や仏具から経本の類まで持ち去られて窮状にある年老いた禅僧がヴァリニャーノの質問にていねいに答えるばかりか自分の全知識を披露してくれるではありませんか。
 ひょっとして、寺から強奪するように持ち去った典籍の貴重さをこの司祭は理解してくれていると見てとったからかも知れません。

「これは整版とも呼んでいますが、「木版」で印行されたものです。木の板に文字を刻して紙に刷る、この技法はその昔、中国から日本に持ち込まれました。本の中身も向こうから伝わって来たものです。
 ミヤコやコウヤサンやナラやカマクラなどの寺でわれわれと同じ僧侶の手によって本にされたものです。寺では宝のように大事に、大事にして来ましたから新しいように思われるかもしれませんが、このなかには200年も前の本もあります」
 老僧は和本を押しいただくようにして、頭をさげました。それは、教会で聖書や教理書に接する神父と寸分も変わらぬ敬虔さでした。

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想説/活版印刷人あれこれ2

2009-08-08 14:54:46 | 活版印刷のふるさと紀行
 目の前の和装本の山にです。

 そして、「これは美しい」思わずひとりごとをいってしまいました。
 最初に手にしたのは、真白い和紙のページに上から下へと何本も罫線が引かれていて、その罫線と罫線の間に四角っぽい文字が整然と並んでいる本でした。
 いままで自分が親しんで来たどんな種類の本とも違う文字の力強い構成、和紙を袋とじにして、手触りのいい本にしている軽快さ、とくにアルファベットの文字構成を見慣れている目に、いかにも力強く、新鮮で美しく映ったのです。

 ヴァリニャーノは口之津に着いてからローマやインドでは目にしたことのないいろいろなものに接しました。だからたいていのことには驚きません。
 到着直後には、犬にしても、馬や牛にしても日本で見かけるのが、あまりにも小さいのに驚かされたものでした。
 つい、つい、「神が日本人のサイズに合わせてお創りなった」というポルトガル人修道士の冗談を真に受けたくなったほどです。

 二冊目に手を伸ばしました。こんどの本には罫は入ってはいません。一冊目よりも大きな文字が並んでいます。仏教の経典かもしれないと見当はつけたものの、絵や装飾が入っていないので違うのでは思ったりしました。
 「そうか、私のつとめは、まず、日本の本を知ることだ」
 ヴァリニャーノは日本人の同宿を呼んで、冊子の山を自分の居室に運び込ませました。じっくり見てみたくなったのです。
 彼にはどれもが写本ではなくて、「木版」で印刷されていることはわかりました。「そうだ、日本での印刷を知らねばならない」、彼が次に考えたのがこれでした。彼は日本にこんなに立派な印刷物があるとは予期していませんでした。活版印刷誕生以前のヨーロッパと同じように、まだ、「写本」時代にいると想像していただけに、これは、うれしい現実でした。 

 
 
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想説/ 活版印刷人あれこれ1

2009-08-07 13:52:53 | 活版印刷のふるさと紀行
 彼の肩書きを正確にいうなら、イエズス会東インド管区巡察師、乱暴にいうとしたらイエズス会の日本布教の総元締めということになるでしょうか。
 前任の日本布教長として着任したトルレスやカブラルよりもイエズス会の中での地位は高かったのです。 その人の名は1579年7月に口之津に上陸したアレサンドロ・ヴァリニャーノ、40歳、イタリア人司祭でした。
 フランシスコ・ザビエルが中国の「海賊」というニックネームのジャンクで鹿児島に上陸してからちょうど30年が経っていました。

 この30年の間に、日本の、しかも西九州はかなりの変化を見せていました。何しろ今から400年以上も前です。私たちとすれば、牧歌的な情況を想像しがちですが、どうして、どうしてあいつぐ戦争とイエズス会の方針で寺社の焼打ち、取り壊しなどで村落は荒れ果てていました。「日本こそ神の約束された土地」というのには程遠いのがヴァリニャーノの実感でした。

 ただ、日本人が利発で探究心が強く、知識欲が旺盛、しかも戦いが多い割には温和な人種であることは来日以来、まだ日が浅いヴァリニャーノにも伝わってくるものがありました。
 そんなある日のこと、司祭館代わりに使っている建物の裏手の小屋に無造作に積まれている和綴じの冊子の山を見つけました。さっそく日本人修道士を呼んで問いただすと、近くの曹洞宗の寺の取り壊しの際、押収したものだとわかりました。おそらく取り壊しに動員された元仏教徒の信徒にしては、その場で燃したり、破り棄てるわけにはいかなかったと想像できました。

ヴァリニャーノの目は釘付けになりました。(2に続く)
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謎の活版印刷人

2009-08-02 13:46:43 | 活版印刷のふるさと紀行
 私はかつてキリシタン版を印刷したコンスタンチノ・ドラードに「活版印刷人」なる呼称をつけました。本当はもっとわかりやすく「日本最初の」という冠つきで表現したかったくらいです。

 たしかに、彼はポルトガルのリスボンで金属活字を使う「活版印刷」のテクニックを習って、帰国途中にインドのゴアやマカオで印刷を手がけ、1591(天正19)年には加津佐で『サントスの御作業の内抜書き』を印刷、刊行に漕ぎ着けました。
 まさに、これが日本におけるグーテンベルク方式の活版印刷のはじめでありましたから、彼こそ日本最初の活版印刷人といえるでしょう。

 しかし、ドラードのことを書いたり、話したりしているうちに私の頭の中を去来してやまない疑問がいくつも出てきました。

 その中でもいちばんの疑問はドラード以外の活版印刷人の存在です。
 小さくてわかりにくいでしょうが、写真は1592(文禄元年)に天草で印刷,刊行された国字本『どちりいなきりしたん』です。
 前にも申しあげた記憶がありますが、『サントス…』はローマ字ですから、ドラードにとっては学習済みでした。ところがこの『どちりいな』は漢字や仮名まじりの国字です。


 彼以外によほどの人数の有能な活版印刷人がいなくてはとても、帰国後一年ぐらいで印刷できるシロモノではありません。伝えられていない、あるいは消された活版印刷人がおそらく何人も存在したにちがいありません。


 大内田貞郎先生の近著『「きりしたん版」に「古活字版のルーツを探る』(勉誠出版)をヒントにいただいて、次回から何回かにわたってキリシタン版の謎の活版印刷人を想説ふうに追いかけてみることにします。
 あくまで、想像ですとお断わりしながらですが。
         
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