私的図書館

本好き人の365日

「倭は国のまほろば」

2003-07-20 12:17:00 | 日々の出来事
崇徳院は五歳で即位した崇徳天皇のこと。

この人、歌を読むのが上手で、勅撰集に七十七首が入っている。
しかし、やっぱり有名なのはその生き方。『雨月物語』を始め、多くの物語に書かれているように、劇的なんだなこれが。

形ばかりの天皇に祭り上げられたかと思いきや、父親の鳥羽上皇のお気に入りの后に、男の子が生まれると、自分は退位させられ、その子が天皇になってしまう。

まったく、男って奴はしょうがない。若い奥さんに弱いんだから。
崇徳帝二十二歳。新しい帝、近衛帝にいたってはたったの三歳。

この近衛帝、十七歳で夭折してしまうんだけど、その後継者の決め方も、後々に禍根を残すことになる。
崇徳院を疎んじていた近衛帝の母の美福門院が、鳥羽上皇(この頃は法皇になっていた)と図って、崇徳院の息子を差し置いて、待賢門院(崇徳院の実母)と鳥羽上皇との第四皇子、のちの後白河天皇を帝位につけてしまったのだ。さらに、その皇子の守仁親王を東宮(皇太子)に据える。
…やれやれ、女の嫉妬も恐ろしい。

自分の息子の即位の夢を断たれた崇徳院は、
その翌年、鳥羽法皇が崩御されると、ついに謀反を起こします。(なんか応援したくなっちゃうな)

こうして起こったのが世に言う「保元の乱」(1156)←勉強、勉強。

しかし、敵も強かった。
源義朝(牛若丸の父)、源頼政(鵺退治で有名)、平清盛(言わずと知れた平氏の大将)などの軍勢に敗れ、捕らえられて讃岐の国に流されてしまう。(う~、なんだなんだ、このラインナップ?卑怯じゃないか~)

天上人がこんなことやっている間に、武士達が台頭してきたのもなんとなくわかる気がする。

崇徳院は讃岐の地で写経にいそしみ、五部の大乗経(大乗の説法を説く経典)を写して、都に送るが、それさえ突き帰されてしまう。

ここからがすごい。

これを恨んだ崇徳院は、その五部の写経を魔道に捧げ、自らの血で「この功徳をもって、日本国の大魔王となりて、天下を乱し国家を悩まさん。どうかこの願い成就させたまえ」という誓文を書き込んで、讃岐の海に沈めるのです。

その後、源義朝は「平治の乱」(1159)で清盛に敗れ、家臣の長田忠致に殺されてしまう。美福門院も四十代の若さで亡くなり。清盛の平氏も、義朝の子、源義経により滅亡。(1185)
その源氏も兄弟、親子で争い、北条氏に取って代られる。

…これは、崇徳院の祟りといわれても仕方ないかも。

物語を書くために、後世かなり脚色されたはずだから、歴史的事実はともかく、人間関係は本当はこうじゃなかったかも知れない。(本当は崇徳院は第七魔王の化身で、世界を混沌に陥れようとしていて、それを三人の勇者とお姫様が協力して、四国八十八箇所の聖地に封印した。そしてこれで危機は去ったかに見えたが・・・四百年後。魔王は復活し、織田信長として再び天下をねらって動きだしたりなんか・・・しませんね、やっぱり☆)

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。」

        ―『平家物語』―

崇徳院には、あんな誓文よりも、恋の歌を読んでいて欲しかったな~。

崇徳院が荼毘に付された白峰の御陵を、西行法師が訪れ、七日の間、回向(死者の冥福を祈ること)したという。

今は、香川県坂出市の白峰宮や仲多度郡の金刀比羅宮、京都の白峰神社などで祀られ、参拝されているそうな。

かつて、天叢雲剣(草薙の剣)を振るい、各地を平定した、倭建命(やまとたけるのみこと)はこの国の美しさをこう読んでいる。

「倭は国のまほろば

 たたなづく青垣

 山隠れる

 倭しうるはし」

人々の営みは相も変わらずだけど、昔から、この豊葦原の瑞穂の国の美しさは、そこに住む人々の心の風景になっていたということかな。