たまには、趣向を変えて、純文学でもひも解いてみますか。
ということで、今回ご紹介する本は、平成六年度、毎日芸術賞受賞作。
遠藤周作の
『深い河(ディープ・リバー)』
です。
自身、カトリック教徒である作者が、落ちこぼれの神学生「大津」に言わせる言葉は、胸に響いてきます。
「私はイエスにつかまったのです。」
この野暮ったい大津を、同じ大学に通う美津子は誘惑します。「神様、あの人をあなたから奪ってみましょうか」
「神」という言葉に嫌悪感を抱き、神のことを「玉ねぎ」と呼ばせる美津子。しかし、彼女も、他人を本気で愛せない自分自身にこう問いかけるのです。(一体、何がほしいのだろう、わたしは…)
実業家と結婚した後も、その思いは彼女から消えません。
それぞれの思いを抱いた人々が、インドへと向かう旅で一緒になります。
「必ず…生まれかわるから、この世界の何処かに。探して…わたくしをみつけて」
亡くなった妻の言葉に、信じてもいない生まれかわりを探す磯辺。
生きることは罪深いことなのか。
戦友の法要にと、かつての戦地を訪れる木口。
その中には、大津の噂を聞いた美津子の姿も。
すべてを包み込み、流れていくガンジス河。そのほとりで、人々は死体を焼き、その灰の流れる中、沐浴し、祈り、水を口に含む。
ヒンズー教の様々な神々。
ガンジス河に集まる様々な価値観。
そんな中、行き倒れた人を、火葬場に運ぶ大津の姿が…
この小説。内容は確かに重いです。でも、不思議と心に響いてくるものがあります。湖に小石を投げ込んだような波紋が、いつまでも、どこまでも広がっていくような。
神父になるため留学した地で、ヨーロッパの基督教に違和感を感じる大津。
彼は異端的とみなされても、「玉ねぎ」から離れることができません。
美津子は、「玉ねぎ」が、大津を完全に彼女から奪ったことを知ります。
『さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか』
不器用なほど、自分の中の「玉ねぎ」に正直でありたいという大津の生き方。それがインドのすべてを包み込む力と相まって、こちらにぐいぐいと迫ってきます。
何のためにそんなことをするのかと、美津子に聞かれたマザー・テレサの尼さん達は言います。
「それしか…この世界で信じられるものがありませんもの。わたしたちは」
行き倒れの人々を世話する彼女達の中に、そして大津の中に、二千年ちかい歳月の後も、転生し、生き続ける「玉ねぎ」の姿を見る美津子。
いい本です。
記憶に残ると言いましょうか、刻まれたと言えばいいのか。誰の中にも、神聖なものへの思いはあります。それが「自然」に対してなのか「玉ねぎ」なのか、はたまた自分自身なのか・・・
生と死を見つめ、生きる業の深さに震える時、苦悩と共にある種の神聖さが垣間見れる。醜く老い果て、苦しみに喘ぎながらも、乳を与えるヒンズー教の女神、チャームンダーのように。
悲しみを背負った人々の河。
母なる河、ガンジスのように流れていく、人間の河。
人間の深い河の悲しみ。
その河の流れの先に向かい、祈る人々。
時にはこんな本を読んでみるのもいいもんですよ。
息抜きに読むのには、お薦めしませんが(笑)
彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい人は彼を蔑み、みすてた忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られるまことに彼は我々の病を負い我々の悲しみを担った
遠藤 周作 著
講談社
ということで、今回ご紹介する本は、平成六年度、毎日芸術賞受賞作。
遠藤周作の
『深い河(ディープ・リバー)』
です。
自身、カトリック教徒である作者が、落ちこぼれの神学生「大津」に言わせる言葉は、胸に響いてきます。
「私はイエスにつかまったのです。」
この野暮ったい大津を、同じ大学に通う美津子は誘惑します。「神様、あの人をあなたから奪ってみましょうか」
「神」という言葉に嫌悪感を抱き、神のことを「玉ねぎ」と呼ばせる美津子。しかし、彼女も、他人を本気で愛せない自分自身にこう問いかけるのです。(一体、何がほしいのだろう、わたしは…)
実業家と結婚した後も、その思いは彼女から消えません。
それぞれの思いを抱いた人々が、インドへと向かう旅で一緒になります。
「必ず…生まれかわるから、この世界の何処かに。探して…わたくしをみつけて」
亡くなった妻の言葉に、信じてもいない生まれかわりを探す磯辺。
生きることは罪深いことなのか。
戦友の法要にと、かつての戦地を訪れる木口。
その中には、大津の噂を聞いた美津子の姿も。
すべてを包み込み、流れていくガンジス河。そのほとりで、人々は死体を焼き、その灰の流れる中、沐浴し、祈り、水を口に含む。
ヒンズー教の様々な神々。
ガンジス河に集まる様々な価値観。
そんな中、行き倒れた人を、火葬場に運ぶ大津の姿が…
この小説。内容は確かに重いです。でも、不思議と心に響いてくるものがあります。湖に小石を投げ込んだような波紋が、いつまでも、どこまでも広がっていくような。
神父になるため留学した地で、ヨーロッパの基督教に違和感を感じる大津。
彼は異端的とみなされても、「玉ねぎ」から離れることができません。
美津子は、「玉ねぎ」が、大津を完全に彼女から奪ったことを知ります。
『さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか』
不器用なほど、自分の中の「玉ねぎ」に正直でありたいという大津の生き方。それがインドのすべてを包み込む力と相まって、こちらにぐいぐいと迫ってきます。
何のためにそんなことをするのかと、美津子に聞かれたマザー・テレサの尼さん達は言います。
「それしか…この世界で信じられるものがありませんもの。わたしたちは」
行き倒れの人々を世話する彼女達の中に、そして大津の中に、二千年ちかい歳月の後も、転生し、生き続ける「玉ねぎ」の姿を見る美津子。
いい本です。
記憶に残ると言いましょうか、刻まれたと言えばいいのか。誰の中にも、神聖なものへの思いはあります。それが「自然」に対してなのか「玉ねぎ」なのか、はたまた自分自身なのか・・・
生と死を見つめ、生きる業の深さに震える時、苦悩と共にある種の神聖さが垣間見れる。醜く老い果て、苦しみに喘ぎながらも、乳を与えるヒンズー教の女神、チャームンダーのように。
悲しみを背負った人々の河。
母なる河、ガンジスのように流れていく、人間の河。
人間の深い河の悲しみ。
その河の流れの先に向かい、祈る人々。
時にはこんな本を読んでみるのもいいもんですよ。
息抜きに読むのには、お薦めしませんが(笑)
彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい人は彼を蔑み、みすてた忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られるまことに彼は我々の病を負い我々の悲しみを担った
遠藤 周作 著
講談社