信州スロウライフ12ヵ月

野菜や草花と暮らす生活

病人となった日々

2009年05月02日 22時28分16秒 | Weblog


先月27日に入院し、その日の午後手術した。
歩いて手術室へ行き、片方ずつ40分くらいかけて局所麻酔で瞼の腱膜の切れたのをつなぎ合わせ、余分のたるんだ瞼を切り取り、10針縫い、両方合わせて1時間半で終了する。

手術室はだだっ広かった。手術台は寝心地が良いが、瞼に2人の医師が両側から局所麻酔の注射を行い、チョット痛いですよと言われても、体が緊張で硬くなったままで返事の余地もない。
すぐに、切り取る瞼にデッサンがほどこされ、スーッとメスが入った。
血が流れるのを感じた時に執刀時間を看護師が告げた。
局所麻酔なので痛みは感じないが、神経はピリピリし、ずっと流れているBGMの若い女の子の歌声が耳障りで、頭の中では1昨年亡くなった母の手術当時を思い出していた。

音がいけない。皮膚を切る音、レーザーで出血を止めるのを焼く音。縫ったり切ったり引っ張ったり傷口を器械で開いたり・・・・。
そのくせ、このBGM は脳に良くないと思ったり患者心理は複雑だ。
気分が悪いと脳貧血を起こしても手術台上だから気付かれないかもしれないなどと考えてみたりした。
ああやっと片方が終わった。もう片方が同じ時間かかるのかと思った。

居眠りする気分でもない。時々ハイ眼を開けて~と執刀医が声を掛け、助手がライトをさらに明るく顔に当て、涙が出るくらいまぶしい。
何度かハイ眼を開けて~があったが、これは両方の瞼が均等に二重瞼に縫い合わされているかを見るためだったらしい。
瞼を10針縫ったがモスキィートをと言っているのが聞こえ、極細の糸らしい。


手術が終わり顔の四角布を絆創膏で貼り付けていたのをはがす時、バリバリとはがされ、私は手術室で痛いと、たった1回だけ我慢できずに言った。
手術が終わり生まれて初めて車椅子に乗り病室へ戻った。

午後の4時半に病室に戻り、腫れ上がった顔は氷水で一晩中冷やした。
痛みも出始め自分でなくなった顔を時々鏡で眺めてはうとうとした。
翌日、主治医は朝早くベッド上に顔を見せ、ああ、腫れも少なく順調ですね、これで退院出来ますねとおっしゃる。
慌てた私は、顔が・・・・愉快な顔です。と訴えた。

そうです、瞼を縫っているので、腫れるから派手な顔になりますが段々引きますとさらっと説明し姿を消した。
うううう・・・・我慢、我慢だ。

午後から迎えに来た娘と共に家に帰った。
すっかり変わり果てた顔で、KOされたボクサーのようであり気分は躁状態になっていた。


あれから6日目、やっと病人になれたようだ。
娘はやることがないとぼやきつつ翌々日は宇都宮に戻って行った。
家事はやることがないが、庭を眺めるとやることだらけで術後3日目にJAで野菜の苗を大量に買い求めてしまったためKOボクサーの顔で2日間庭で園芸家になった。

流石に今日は疲れて、朝から病人らしくテレビ三昧で関口知宏の旅の番組を見とれた。
稚内から肥前山口までの1万2千㌔、1ヵ月半の旅で見応えがあった。
楽器をこなし、絵心があり、さっぱりとした誰にも好かれる好青年で、随所随所で述べる感想が味があった。当たり前の中に幸せはあり、想いは叶えられるもので旅をすると新しいものを得るが、同時に古いものの良さを見つけられたと言っていた。

一生かけても行けない場所を画面は山ほど見せてくれた。
お陰で本日は罪悪感を持たずに病人らしく、静養出来て少しは傷の治りも良い筈に違いない。