『唐王朝初期の皇女「文成公主」は、政略婚姻の大行列で、長安からチベット(吐蕃)ラサまで、2900㎞を嫁入り!』
『この政略婚姻に干渉した、胡は文化的交流や軍事的対立を通じてチベット(吐蕃)チベットの発展に影響も多大』
『古代の中国王朝も「胡(ペルシャ系民族で、西胡は胡(匈奴)の西側に、東胡は東側に位置)」には四苦八苦』
中国は、およそ550年の戦乱の、春秋時代(BC770〜BC403)・戦国時代(BC403〜BC221)の後の、秦・漢・隋・唐と、統一国家が続きますが、大帝国唐王朝時代でも『胡(西胡・東胡)』には悩まされようです。
古代中国における「胡」という言葉は、北方や西方の異民族を指す用語でした。
西胡は唐代にシルクロードの交流が活発になると、ペルシャ系民族やその文化を指すようになり、中国文化に影響を与えました。 東胡は春秋戦国時代から秦代にかけて存在し、匈奴の東側に位置していたため「東胡」と呼ばれました。彼らは遊牧生活を営み、後に匈奴によって滅ぼされました。 西胡は唐代にシルクロードの交流が活発になると、ペルシャ系民族やその文化を指すようになり、中国文化に影響を与えました
中国史上,周辺の外族を懐柔するため降嫁させられた王族女子。 公主はプリンセスの意。 唐初吐蕃のソンツェン・ガンポに嫁した文成公主等が名高い。中国側の武力的劣勢をカバーするため遊牧諸族の意向を受け入れ降嫁したもので,王族といっても疎遠なものや養女の場合もあった。しかしこれが漢文化浸透の契機となった点も看過しえないようです。
『唐王朝は強大な帝国でありながら、国境付近では異民族(当時、(西胡・東胡)を「胡」と総称)緊張関係を持った。特に安史の乱(755年-763年)異民族勢力が重要な役割を果たし、唐王朝の弱体化を促進した。
ただし、唐王朝は、異民族に対して外交的に巧みな対応を見せた時期も多く、中央アジアから東アジアに広がる広大な領土と多民族社会を統治するため、軍事力だけでなく文化的・経済的な交流も重視していたことが特徴的です。例えば、シルクロードを通じた貿易や文化交流の繁栄は、唐王朝の国際的影響力を高めました。その一環として政略婚姻がありました。』
『中国唐王朝側の武力的劣勢をカバーするため遊牧諸族の意向を受入れ「降嫁」で唐の友好関係築く大きな役割を』
大唐時代の吐蕃
ウエブ情報から引用
634年、チベット『吐蕃』は唐に対し公主を迎えたいと申し出たが、この政略結婚は『吐谷渾』の妨害にあって実現せず、638年にソンツェン・ガンポは『吐谷渾』へ兵を送って攻撃し、その上で降嫁を迫った。これにより唐が妥協し、640年に文成公主を降嫁させることとなった。
吐蕃
七世紀初めから九世紀中頃まで,ラサを都とする今のチベット地方にあった統一王国の,中国での呼び名。17世紀中ごろまでチベットの総称として使用され続けた。唐が吐蕃と呼んで以来、唐・インドの文化の影響を受けて栄えたが,のち唐に帰服。宋・元代では単にチベット地方をさしていう。
吐谷渾
中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。3世紀から7世紀まで(286年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。
半世紀も昔のことですが、英語が大の苦手でしたので、駐在するなら、漢字は少しは読めるので漢字圏の中国と思ってましたが、当時は一般人は中国へ駐在はおろか入国もできませんでした。 そんなところに、中国へ唯一の窓口・香港駐在はどうかといわれ、二つ返事で香港駐在になりました。
中国では『「三国志」は年寄りに読ませるな、「水滸伝」は若者に読ませるな』と言われるそうです。 『三国志』を読むと権力争いに夢中になり、『水滸伝』を読むと革命の血が騒ぐからと。 今日の中国はやはりこれらの書の影響が大きいのでしょうか?
香港では『「金瓶梅」は女性に読ませるな』と言われますが、この言葉、男社会の中国で生まれたことに納得です。 これに頷ける自分も、男社会の育ちです。
これらの物語に『三国志演義』を加えて、元から明にかけて、『四大奇書』と言われ、明時代には『金瓶梅』に代わって『紅楼夢』になり『四大名著』と言われてます。
20代で香港に駐在して、先ず現地の方々と、丸テーブル囲み『飲茶(点心)』をしながら片言の広東語で、話題にしたのはしたのは、『四大奇書』に挙げられている『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』でしたが、こんな中で、強烈なインパクトを受け、知ったのが、歴史大絵巻『唐王朝の初期の皇女「文成公主」の、政略婚姻の大行列で、長安からチベット(吐蕃)ラサまで、2900㎞を嫁入りと、その後の活躍』でした。
文成公主は唐代に実在した女性皇族。 チベット(吐蕃)の王ソンツェン・ガムポに嫁いだ。 別名・和蕃公主、『成果』以下のように多岐にわたります:
唐と吐蕃の同盟強化:
文成公主は吐蕃のソンツェン・ガンポ王との政略結婚を通じて、唐と吐蕃の間の友好関係を築き、政治的安定と平和をもたらしました。これにより、両国の間での争いが減り、平和的な交流が促進されました。
文化の伝播:
文成公主は唐の先進的な技術、文化、宗教(特に仏教)を吐蕃にもたらしました。特に、唐代の農業技術や工芸技術、漢字文化を吐蕃に伝えたことが吐蕃の発展に寄与しました。
仏教の広がり:
文成公主は熱心な仏教信者であり、吐蕃に仏教を持ち込んだことは、チベット仏教の発展において重要な役割を果たしました。彼女がソンツェン・ガンポと共に建てた寺院(例: ジョカン寺)は、現在でも重要な宗教施設として残っています。
外交手腕の評価:
文成公主の行動は、周辺諸国における唐の影響力を拡大するうえでも重要でした。彼女の外交的な役割は、東アジア全体の安定に寄与したとされています。
彼女の功績は現代でも中華文化やチベット文化の一部として語り継がれており、彼女の生涯は和平の象徴として評価されています。
長安とラサの距離は約2900㎞、嫁入り行列は、大勢であったようですが具体的人数は記録が見つかりません。
公主は、ソンツェン・ガンポの息子であり当時王位にあったグンソン・グンツェン(在位:641年 - 643年)の妻となった。 642年に王子マンソン・マンツェンをもうけたが、その翌年にグンソン・グンツェン王は落馬が原因で急死した。公主はラサにラモチェ寺を建て、唐から取り寄せた釈迦牟尼像を祀って夫の菩提を弔った。
夫の死から3年後、文成公主はグンソン・グンツェン王の死によって再び王位についたソンツェン・ガンポ王と再婚した。 再婚までに3年の期間があるのは、喪に服していたためと考えられる。
ソンツェン・ガンポ王との結婚生活は649年の王の死によって、わずか3年で終わりを迎え、マンソン・マンツェン(在位:650年 - 676年)が即位した。マンソン・マンツェンの死後、680年頃に逝去。(現代では文成公主を観音菩薩の涙から生まれた多羅菩薩の化身とする見方もある。)
ウエブ情報から引用
多くの日本人は敬意を抱いて「中国4000年の歴史」といいますが、中国の歴史は奥が、実に深いです。 日本の縄文時代も凄いです。
(記事投稿日:2025/03/28、#994)