知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『地域猫(別称野良猫))と家猫と、どちらも可愛く・愛おしい 1』 『猫、特に地域猫(使いたくない別称:野良猫)は、よく撮っていますが』

2025-03-31 09:44:12 | 

『地域猫(別称野良猫)と家猫と、どちらも可愛く・愛おしい 1』

『猫、特に地域猫(使いたくない別称:野良猫)は、よく撮っていますが』

ずいぶん減ってきました。 当然のことですが、最近は、野犬(別称:野良犬)は殆ど見られませんが、地域猫も激減しています。

❶横浜市 三渓園正門前の看板猫(地域猫)ミーちゃん 
         
 エピソード 其の①、地域猫(ミーちゃん)ですので、見ず知らずの人には、なかなか、なつきません。 この撮影の時はたまたま、駐車場前の車の通りも少なかったので、黒い路面の、白い路面標示に、白い猫がたたずむ、シャッターチャンスでしたが、もちろん、こんな行儀よくは座ってはいません、車とアマチュアカメラマンが気になって、何時でもダッシュして逃げられるような及び腰の姿勢でした。
 
 ここで天の助けです。 三渓園のメンテナンスのご婦人が。こう言ってくれました『ミーちゃん、こっちを向いてちゃんとお座りしてやってね』と一言。 その時の写真で、ほんの『まぐれ』で、某カメラ機材用品チェーン店のコンテストの一般の部で佳作に入選しました。 又も『まぐれ』ですが、某団体がポスターにつかえるかチェックしたそうです。 『まっすぐ前進!』『黙って前進!』のキャッチフレーズでどうかと。 残念ながら地域猫の『汚れと小さな傷が拡大には耐えられない』とのことで夢叶わずとなりました。

 エピソード 其の②、次の機会に又遭遇しました。菖蒲池の周辺の池の水が干上がり、この地域猫が匍匐して水鳥カモを狙っていました。 あまりに真剣に狙っているので、カメラを向けるのも忘れて心配しました。 飛びかかったときに、水の嫌いな猫が大変だなあと思ったと同時に、この地域猫は大きなカモと浅いが泥に足をとられる状態を心配していました。 そこへ、先日のメンテナンスのご婦人が近づきまして『ミーちゃん、それは無理、獲れませんよ』と、十分野生のミーちゃんです暫くはその姿勢をキープしていました。

❶横浜市 三渓園正門チケット売り場前の茶虎猫姉妹(家猫)


  これは一目瞭然、笑っているのではなく、怒っているのですです。 へっぽこカメラマンの狙う茶虎猫姉妹はぐっすりと昼寝中でした。 突然の、堅牢で有名な某社カメラのズームレンズの、心良い響きのズーミングのメカニカルサウンドも茶虎姉妹には、昼寝を妨げるノイズ以外の何物でもありませんでした。 『姉さんの昼寝の邪魔するのは誰だ』と。
(記事投稿日/2020/06/12、 最終更新日:2025/03/31、 #179)

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『唐王朝初期の皇女「文成公主」は、政略婚姻の大行列で、長安からチベット(吐蕃)ラサまで、2900㎞を嫁入り!』

2025-03-28 11:10:11 | 寺院・仏閣・神社・お社

『唐王朝初期の皇女「文成公主」は、政略婚姻の大行列で、長安からチベット(吐蕃)ラサまで、2900㎞を嫁入り!』

『この政略婚姻に干渉した、胡は文化的交流や軍事的対立を通じてチベット(吐蕃)チベットの発展に影響も多大』

『古代の中国王朝も「胡(ペルシャ系民族で、西胡は胡(匈奴)の西側に、東胡は東側に位置)」には四苦八苦』

中国は、およそ550年の戦乱の、春秋時代(BC770〜BC403)・戦国時代(BC403〜BC221)の後の、秦・漢・隋・唐と、統一国家が続きますが、大帝国唐王朝時代でも『胡(西胡・東胡)』には悩まされようです。

古代中国における「胡」という言葉は、北方や西方の異民族を指す用語でした。
西胡は唐代にシルクロードの交流が活発になると、ペルシャ系民族やその文化を指すようになり、中国文化に影響を与えました。 東胡は春秋戦国時代から秦代にかけて存在し、匈奴の東側に位置していたため「東胡」と呼ばれました。彼らは遊牧生活を営み、後に匈奴によって滅ぼされました。 西胡は唐代にシルクロードの交流が活発になると、ペルシャ系民族やその文化を指すようになり、中国文化に影響を与えました

中国史上,周辺の外族を懐柔するため降嫁させられた王族女子。 公主はプリンセスの意。 唐初吐蕃のソンツェン・ガンポに嫁した文成公主等が名高い。中国側の武力的劣勢をカバーするため遊牧諸族の意向を受け入れ降嫁したもので,王族といっても疎遠なものや養女の場合もあった。しかしこれが漢文化浸透の契機となった点も看過しえないようです。

『唐王朝は強大な帝国でありながら、国境付近では異民族(当時、(西胡・東胡)を「胡」と総称)緊張関係を持った。特に安史の乱(755年-763年)異民族勢力が重要な役割を果たし、唐王朝の弱体化を促進した。
ただし、唐王朝は、異民族に対して外交的に巧みな対応を見せた時期も多く、中央アジアから東アジアに広がる広大な領土と多民族社会を統治するため、軍事力だけでなく文化的・経済的な交流も重視していたことが特徴的です。例えば、シルクロードを通じた貿易や文化交流の繁栄は、唐王朝の国際的影響力を高めました。その一環として政略婚姻がありました。』

『中国唐王朝側の武力的劣勢をカバーするため遊牧諸族の意向を受入れ「降嫁」で唐の友好関係築く大きな役割を』

大唐時代の吐蕃
 
ウエブ情報から引用

634年、チベット『吐蕃』は唐に対し公主を迎えたいと申し出たが、この政略結婚は『吐谷渾』の妨害にあって実現せず、638年にソンツェン・ガンポは『吐谷渾』へ兵を送って攻撃し、その上で降嫁を迫った。これにより唐が妥協し、640年に文成公主を降嫁させることとなった。
吐蕃
七世紀初めから九世紀中頃まで,ラサを都とする今のチベット地方にあった統一王国の,中国での呼び名。17世紀中ごろまでチベットの総称として使用され続けた。唐が吐蕃と呼んで以来、唐・インドの文化の影響を受けて栄えたが,のち唐に帰服。宋・元代では単にチベット地方をさしていう。
吐谷渾
中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。3世紀から7世紀まで(286年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。

半世紀も昔のことですが、英語が大の苦手でしたので、駐在するなら、漢字は少しは読めるので漢字圏の中国と思ってましたが、当時は一般人は中国へ駐在はおろか入国もできませんでした。 そんなところに、中国へ唯一の窓口・香港駐在はどうかといわれ、二つ返事で香港駐在になりました。

中国では『「三国志」は年寄りに読ませるな、「水滸伝」は若者に読ませるな』と言われるそうです。 『三国志』を読むと権力争いに夢中になり、『水滸伝』を読むと革命の血が騒ぐからと。  今日の中国はやはりこれらの書の影響が大きいのでしょうか?

香港では『「金瓶梅」は女性に読ませるな』と言われますが、この言葉、男社会の中国で生まれたことに納得です。 これに頷ける自分も、男社会の育ちです。

これらの物語に『三国志演義』を加えて、元から明にかけて、『四大奇書』と言われ、明時代には『金瓶梅』に代わって『紅楼夢』になり『四大名著』と言われてます

20代で香港に駐在して、先ず現地の方々と、丸テーブル囲み『飲茶(点心)』をしながら片言の広東語で、話題にしたのはしたのは、『四大奇書』に挙げられている『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』でしたが、こんな中で、強烈なインパクトを受け、知ったのが、歴史大絵巻『唐王朝の初期の皇女「文成公主」の、政略婚姻の大行列で、長安からチベット(吐蕃)ラサまで、2900㎞を嫁入りと、その後の活躍』でした

文成公主は唐代に実在した女性皇族。 チベット(吐蕃)の王ソンツェン・ガムポに嫁いだ。 別名・和蕃公主、『成果』以下のように多岐にわたります:

唐と吐蕃の同盟強化: 
文成公主は吐蕃のソンツェン・ガンポ王との政略結婚を通じて、唐と吐蕃の間の友好関係を築き、政治的安定と平和をもたらしました。これにより、両国の間での争いが減り、平和的な交流が促進されました。

文化の伝播: 
文成公主は唐の先進的な技術、文化、宗教(特に仏教)を吐蕃にもたらしました。特に、唐代の農業技術や工芸技術、漢字文化を吐蕃に伝えたことが吐蕃の発展に寄与しました。

仏教の広がり: 
文成公主は熱心な仏教信者であり、吐蕃に仏教を持ち込んだことは、チベット仏教の発展において重要な役割を果たしました。彼女がソンツェン・ガンポと共に建てた寺院(例: ジョカン寺)は、現在でも重要な宗教施設として残っています。

外交手腕の評価: 
文成公主の行動は、周辺諸国における唐の影響力を拡大するうえでも重要でした。彼女の外交的な役割は、東アジア全体の安定に寄与したとされています。

彼女の功績は現代でも中華文化やチベット文化の一部として語り継がれており、彼女の生涯は和平の象徴として評価されています。

長安とラサの距離は約2900㎞、嫁入り行列は、大勢であったようですが具体的人数は記録が見つかりません。

公主は、ソンツェン・ガンポの息子であり当時王位にあったグンソン・グンツェン(在位:641年 - 643年)の妻となった。 642年に王子マンソン・マンツェンをもうけたが、その翌年にグンソン・グンツェン王は落馬が原因で急死した。公主はラサにラモチェ寺を建て、唐から取り寄せた釈迦牟尼像を祀って夫の菩提を弔った。

夫の死から3年後、文成公主はグンソン・グンツェン王の死によって再び王位についたソンツェン・ガンポ王と再婚した。 再婚までに3年の期間があるのは、喪に服していたためと考えられる。

ソンツェン・ガンポ王との結婚生活は649年の王の死によって、わずか3年で終わりを迎え、マンソン・マンツェン(在位:650年 - 676年)が即位した。マンソン・マンツェンの死後、680年頃に逝去。(現代では文成公主を観音菩薩の涙から生まれた多羅菩薩の化身とする見方もある。)

ウエブ情報から引用

多くの日本人は敬意を抱いて「中国4000年の歴史」といいますが、中国の歴史は奥が、実に深いです。 日本の縄文時代も凄いです。
(記事投稿日:2025/03/28、#994)
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『中国の思い出 6(二〇三高地、ここの攻防以上の戦いは無い』―「軍港である旅順港」入れませんが、二○三高地は、最近OKと運転手—

2025-03-24 07:31:01 | 外国

『中国の思い出 6(二〇三高地、ここの攻防以上の戦いは無い)』

『本当に運がよかった「軍港である旅順港には入れませんが二○三高地に は、最近入れるようになりましたよ」とタクシーの運転手』


中国大連に商用出張したときに、旅順の小売店をタクシーで回りました。 比較的順調にいったので、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』をふと思い出し、運転手さんに、旅順港に立ち寄って貰いました。 

旅順港に着いた時には、運転手さん曰く『軍港である旅順港には入れませんが、二○三高地には、最近入れるようになりましたよ』でした。 ふたつ返事で、OKして、入門ゲートまで、連れてってもらい『坂の上の雲』の兵どもの戦いの山、丘陵に、映画とは違った樹木の茂っていましたが、『山河は変わらず』を見れました。 あとで教わったことですが、当時、『ごく最近までは余ほどの著名人(中国政府が許可した)以外は入れなかった』そうで、本当に運がよかったです。

司馬氏は、この作品『坂の上の雲』の前に、乃木希典将軍についての作品を
『殉死』として発表しています。 この殉死も数十年前の、西南戦争の時の『連隊旗奪われ事件』を生涯の汚点として、この失点のためにずっと『国に自分を担保していた』ような節があるともみられています。 ウエブ情報からです。

昭和42年の作品。 第9回毎日芸術賞を受賞。 旅順攻撃を描いた『要塞』、乃木と静子の結婚から殉死までを描いた『腹を切ること』の二部構成。 冒頭で「以下、筆者はこの書きものを、小説として書くのではなく小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめてみるといったふうの、そういうつもりで書く。・・・(中略)・・・筆者自身のための覚えがきとして、受けとってもらえればありがたい。」と書かれているように翌年から執筆される『坂の上の雲』の準備段階とも言える作品かもしれない。

乃木ご夫妻二人の殉死の部分は、生涯忘れられないほどの、強烈な衝撃を受けました。 戦国時代にはあり得たかもしれませんが、それでも普通は『介錯』がありました。
 
小説はあとがきを読んでから読むことを、始めたのが、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』からです。 この作品の中の『二○三高地』を読んだ時に、現代の戦争を考えると、後にも先にも、これ以上の強行作戦はないと思います。 あの史上最大の作戦『ノルマンディー作戦(正式作戦名 ネプチューン作戦)』を超えるように個人的には思えます。

この大作を読むのが、大変などの思いはありませんでした。 この本のあとがき(「坂の上の雲」という題名の意味とは)に次のようにあった所為だと思ってました。 

このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。 最終的には、このつまり百姓国家がもったこっけいなほどに楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっともふるい大国の一つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうとおもっている。 楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。 のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

軍港・旅順港は、将に天然の要塞です。
 
ウキぺデイアより引用

 

 この堅固な要塞を、第一回総攻撃失敗、第二回総攻撃失敗、満を持した第三回総攻撃の白襷隊も失敗して、最後に『二○三高地』に主攻変更した。


 
ウキぺデイアより引用

 

1904年12月5日に、日本軍が占領、下の写真はその後で、『二○三高地』を北側から撮ったもの。
 
ウキぺデイアより引用

 

海抜203ⅿの『二○三高地』のトップから、旅順港を撮り下ろしたもの。
 
ウキぺデイアより引用

 要塞の攻防戦は、攻める方の戦死者が圧倒的に多いのが普通ですが、この戦いは守る側にも多数の戦死者が出ました。 ロシア南進の要であった旅順港を守る大要塞で、この旅順港から食料弾薬が十分に補給され、停泊中の艦船から水兵の補充もあったのでしょうか、双方の戦死者の多さには驚くばかりです。

交戦勢力比較
    大日本帝国            ロシア帝国  
指導者・指揮官 
    乃木希典             アナトーリイ・ステッセリ
                      ロマン・コンドラチェンコ  †

戦力 
    約51,000名 (第一回総攻撃時)        陸軍約44,000名 
                                                                   海軍約12,000名、その他約7,000名

                    (籠城  戦開始時) 

損害                                                                   
    戦死約15,400名           戦死約16,000名 
    戦傷(延数)約44,000名       戦傷(延数)約30,000名  

乃木希典大将の評価は、いろいろありますが、近代要塞、それも陸軍大国のロシアの堅固に強化した旅順要塞を攻めた戦いは、攻城の困難さを知れば、上記の数値がすべてを物語っているように見えます。
(記事投稿日;2020/05/16、最終更新日;2025/03/24、#166)

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『美しい星地球・グレートネイチャー 006(日経新聞広告蘭に関野吉晴氏の「人類は、この星の奇跡に守られている。」)と、(奇跡の星地球以外、火星にさえも人類は住むのは難しい)』

2025-03-22 09:13:26 | 寺院・仏閣・神社・お社
『美しい星地球・グレートネイチャー 006(日経新聞広告蘭に関野吉晴氏の「人類は、この星の奇跡に守られている。」)と、(奇跡の星地球以外、火星にさえも人類は住むのは難しい)』

関野吉晴氏(1949/01/20-)は、日本の探検家・人類学者・外科医。武蔵野美術大学名誉教授。1999年植村直己冒険賞、2000年旅の文化賞(旅の文化研究所)

1993年、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万キロの行程を、自らの脚力と腕力だけをたよりに遡行する旅「グレートジャーニー」に出発。10年の歳月をかけ、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。

 ウエブ情報から引用

先ずは、表題の広告の中にあった文章に納得でした。 その抜粋引用です。

5万キロの旅で見えた地球の現在
アマゾンの森林破壊、パタゴニアの氷河の減少、メコン川水源の水位低下など枚挙に、枚挙にいとまがありません。温暖化をはじめとする人為的な影響が多いのでしょう。世界が一つになって対応を考えるべき時代。(80億人が皆で節電・節水・節肉食等身近からが喫緊課題)

孫の世代へどんな環境を残せるか
ネーティブアメリカンのイロコイ族は、重大な決定は7世代後を見通して決めるそうです。変化が著しい現在では、せいぜい50年先、孫の代までの視野で精一杯ですが、それまでは「爺さんたちがこんな地球にした」といわれないために、「地球永住計画」という活動を始めました。この活動名は「火星移住計画」に対する発想です。(コスパから考えてもこれ全く同感、生物学的にも奇跡の星地球以外の星に、火星にさえも、人類は住めるのか?)

知っている素材に囲まれて暮らす
日本でも森林資源の循環利用が注目されています。国産木材の利用には、光合成による炭素固定化や経済的な波及効果は勿論、素材を身近に知っているという安心感も見逃せない気がします。(『樹木・木材は燃えるか、朽ちるまでは炭素を、封じ込め固定化、木造建築を見直そう)

絶妙なバランスで生かされている私たち
地球の質量の約30%を占める鉄によって発生する磁場、大気を散逸させない重力、太陽からの距離、磁場の傾き、液体の水、月との関係など、全てが奇跡的に重なり合ってこの地球を形成しています。地球の生命体も絶妙なバランスで支え合っています。(地球上には、既知の生物が約175万種、うち哺乳類約6,000種、鳥類約9,000種、昆虫約95万種、維管束植物約27万種など。 未知のものも含めると、実際には300万種~1億1100万種が生存しているとの推計もされる。出典:国立環境研究所 五箇公一氏資料)

これまで常に自分が『面白い』と思う方角へ探検を続けてきましたが、現在は環境のあるべき姿で後世に伝えられるかが活動の指針なっています。
とありました。

奇跡の星・地球が、人間の勝手な行動で瀕死の状態になりつつあります。自然の事象とか人間のことをブログにしたときは。いつもこの文章で括ります。

この掛替えのない『宇宙船地球号』『水の惑星』『緑の地球』を守っていかなければなりませんので、何とか間に合ってくれと、祈りながら、みんなでやれる『節電・節水・節肉食、移動には歩行・自転車・バス・電車』と、政界・産業界のリーダーの皆様に頑張って頂きたい、CO2排出削減は、次のビッグ3『発電業・製造業・運輸業』での喫緊対策です。 

みんなでやる『「節電・節水・節肉食、移動には自転車・バス・電車」「プラチック使用減らす(土に還るプラスチックでも製造時はCO2を!)」は、『発電業・製造業・運輸業』の規模縮小にはなりますが、これ以外に80億人の個人で、何かできるでしょうか。 限界のある狭い地球で80億人が暮らすには、皆で摂生し、質素な生活に維持が必須です。
(記事投稿日2025/03/20、#993)
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『史上最強の柔道家・木村政彦 vs 元関脇で稀代の興行主・力道山』 『昭和の巌流島で、木村には、「当て身」と「腕がらみ」を禁じ手に!何故か』

2025-03-20 13:28:33 | 格闘技


『史上最強の柔道家木村政彦 vs力道山元関脇で稀代の興行主』

 『昭和の巌流島で、木村には、「当て身」と「腕がらみ」を禁じ手に!何故か』

 木村政彦も力道山も、レジェンド・伝説的な格闘技家です。 

 木村政彦はプロレスの前の柔道が光り輝いています。 後述しますが、神永がオランダのヘーシンクに日本のお家芸『寝技』で敗れました。 『神永の代わりに47歳の木村を当てようとした』話があったほど、木村は強かったようです。 

 力道山は、関脇で相撲界から引退ですが、現役時代は幕内勝率:0.581、優勝なし、三賞は一回だけ等から、やはり凄かったのは、第二の人生ともいうべき、プロレス界での活躍と大成功と、政界・財界との広いつき合いと、実績です。

 

エリオ・グレイシーとの死闘、

『木村は2Rで得意の大外刈りから腕緘(わんかん)に極め、エリオの腕を折った(脱臼等の暗喩ではなく紛れもなく「骨折」である)』

         ウキペデイアより引用

 

昭和の巌流試合と呼ばれた試合

『木村は素足、力道山は真鍮板を貼ったシューズのつま先で、どこかを蹴った後、不意打ちの張り手連打で腰から崩れ落ちた木村政彦の前に立つ力道山』

          ウキペデイアより引用

 

アマスポーツとプロスポーツ

 柔道界のレジェンド・木村政彦は、奥様の結核治療のストレプトマイシンを、アメリカから輸入するお金のために、プロ柔道を立ち上げ、そして失敗・解散から、プロレスへと進み、力道山は相撲界からプロレスへと進み、稀代の興行主兼プロレスラーとして成功した。

  木村政彦は、戦争を挟んで日本選手権13連勝で15年間無敗という成績で、あったが、このレジェンドを講道館は七段以上には昇段させなかった。

 アマポーツとプロスポーツの違い、それぞれの運営と興行、ローマ時代の格闘技の目的などとも、いろいろと比較・想像が広がります。

  『昭和の巌流島の戦い木村政彦vs力道山』には何が起こったのか、その結果は、周知のごとく多く人々(特に還暦・古稀世代)の記憶に鮮明にあります。

  講道館と全柔連の関係と方針・動きの中に思いを馳せながら、柔道の変革、打撃技(当て身)なしで、寝技にも制限、立ち技中心の現在の柔道になった。  これは嘉納治五郎館長の方針とは異なる、三船十段の意志貫徹の結果か『何故』と、考えさせられる。

  東京五輪の無差別級、で神永五段がオランダのヘーシンク四段にナント寝技『袈裟固め』で敗れ、銀メダルになった結果はあまりに有名。 ヘーシンクは講道館・天理大学で柔道を学び、寝技も得意であった。

 ヘーシンク198㎝・120㎏ vs 神永179㎝・102㎏、この身長・体重差(特に足の長さは『袈裟固め』有利。 この東京五輪でヘーシンクに対して、すでに47歳の木村を当てようという話も出たほどに、講道館滞在研鑽時のヘーシンク四段を木村五段は相手にしてなかった。

  嘉納治五郎は、この時代にすでに現在の総合格闘技で使われている、オープンフィンガーグローブの製作・採用実現を考えていた。この慧眼、柔道を「総合格闘技」と見た加納館長に感心し、「理論の加納、実践の三船」と言われていたが、これが皮肉に聞こえる。

  『プロスポーツならでは・・・』ですが、昔、タイソンのプロボクシングの15ラウンドの、ファイトに54億円のファイトマネーが支払われた記録も米国、にある。 メディア(テレビ)の所為でしょうか。

  力道山はメディアや政財界の大物を後援会にプロレス興行を大成功させた。これもメディアの所為が大きいのでしょう。 その間木村政彦はずっとヒ―ル役でした。

  ヒ―ル役から二強共存でヒーローの交替制興業実現を狙い、柔道出身の、木村政彦と相撲出身の力道山は、『昭和の巌流島』といわれる『世紀の一戦』をブック、(筋書き)ありで戦うことになり、木村政彦はいつもの『素足」』で、19541222日に戦われた。 

  ブックには「木村の当て身」だけは禁止とあったが、『腕がらみ技』さえも禁止、であった。 全盛期の相撲出身者がここまで恐れた、全盛期を過ぎた木村柔道、の凄さを想います。 ブックには、第一戦は各一本取り合い引分けとあったが、木村の反則(と云われている)の素足での急所蹴りを引き金に、ブックなしの、ガチンコ・セメント勝負になり、力道山の拳打ち(空手チョップではない)と、金具のカバー付きのつま先蹴りで木村が敗れ、意識不明になり、山王病院、に担ぎ込まれた。 その後、木村政彦は格闘技の世界から消えた。

  プロレスは、益々、大盛況が続いた。9年後、この同じ病院に、やくざに、刺された力道山が救急搬送され、そこで亡くなった。

  こんな、柔道家の覚悟を持っていた柔道家師匠と弟子、木村政彦の恩師、牛島辰熊は、過去2回の天覧試合(不定期)、第一回(昭和4年)と、第二回(昭和8年)に決勝で敗れ、優勝を逸している。 自分の、分身として、木村政彦をスカウトして鍛えた。 木村政彦の指導・練習稽古は、厳しく、特に、大外刈りは、失神者もよくでて、警視庁にも、講道館にも練習、相手がいなくなり脱臼者も続出するので、警視庁、講道館でもこの大外刈りは禁止された。さらに、『腕がらみ技』も、禁止されるほどであった。 この『腕がらみ技』も『昭和の巌流島』では禁じとブックに書かれた。

  第三回(昭和15年)の天覧試合を全試合一本勝ちで優勝、恩師の雪辱を果した。この記念品の短刀を子供の鉛筆削りに使っていたという、逸話もあるが、大事な試合の決勝戦の前夜には、この短刀を持って瞑想し、切腹の作法を、繰り返すほどの覚悟であった。

ところで、余談です。

 切腹について、作法道理の介錯なしで切腹した乃木大将と、立会人に最後まで介錯させず切腹した柔道家・猪熊功(柔道三冠王)の二人が記憶に鮮明です。

 元禄時代には、赤穂義士・四十七士も、自分では腹は切らず、もろ肌脱ぎか、小脇差の取りあげを合図で介錯された。 これが今では定説です。 元禄武士の覚悟の問題ではなく、『四家中に分散預けの46人の大人数の切腹で、短時間に』あったようです。

  (記事投稿日:2018/12/23、最終更新日:2025/03/20、#041)

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