『中国の思い出 6(二〇三高地、ここの攻防以上の戦いは無い)』
「軍港である旅順港」入れませんが、二○三高地は、最近「OK」と運転手が—
中国大連に商用出張したときに、旅順の小売店をタクシーで回りました。 比較的順調にいったので、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』をふと思い出し、運転手さんに、旅順港に立ち寄って貰いました。
旅順港に着いた時には、運転手さん曰く『軍港である旅順港には入れませんが、二○三高地には、最近入れるようになりましたよ』でした。 ふたつ返事で、OKして、入門ゲートまで、連れてってもらい『坂の上の雲』の兵どもの戦いの山、丘陵に、映画とは違った樹木の茂っていましたが、『山河は変わらず』を見れました。 あとで教わったことですが、当時、『ごく最近までは余ほどの著名人以外は入れなかった』そうで、本当に運がよかったです。
司馬氏は、この作品『坂の上の雲』の前に、乃木希典将軍についての作品を
『殉死』として発表しています。 この殉死も数十年前の、西南戦争の時の『連隊旗奪われ事件』を生涯の汚点として、この失点のためにずっと『国に自分を担保していた』ような節があるともみられています。 ウエブ情報からです。
昭和42年の作品。 第9回毎日芸術賞を受賞。 旅順攻撃を描いた『要塞』、乃木と静子の結婚から殉死までを描いた『腹を切ること』の二部構成。 冒頭で「以下、筆者はこの書きものを、小説として書くのではなく小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめてみるといったふうの、そういうつもりで書く。・・・(中略)・・・筆者自身のための覚えがきとして、受けとってもらえればありがたい。」と書かれているように翌年から執筆される『坂の上の雲』の準備段階とも言える作品かもしれない。
乃木ご夫妻二人の殉死の部分は、生涯忘れられないほどの、強烈な衝撃を受けました。 戦国時代にはあり得たかもしれませんが、それでも普通は『介錯』がありました。
小説はあとがきを読んでから読むことを、始めたのが、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』からです。 この作品の中の『二○三高地』を読んだ時に、現代の戦争を考えると、後にも先にも、これ以上の強行作戦はないと思います。 あの史上最大の作戦『ノルマンディー作戦(正式作戦名 ネプチューン作戦)』を超えるように個人的には思えます。
この大作を読むのが、大変などの思いはありませんでした。 この本のあとがき(「坂の上の雲」という題名の意味とは)に次のようにあった所為だと思ってました。
このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。 最終的には、このつまり百姓国家がもったこっけいなほどに楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっともふるい大国の一つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうとおもっている。 楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。 のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
軍港・旅順港は、将に天然の要塞です。
ウキぺデイアより引用
この堅固な要塞を、第一回総攻撃失敗、第二回総攻撃失敗、満を持した第三回総攻撃の白襷隊も失敗して、最後に『二○三高地』に主攻変更した。
ウキぺデイアより引用
1904年12月5日に、日本軍が占領、下の写真はその後で、『二○三高地』を北側から撮ったもの。
ウキぺデイアより引用
海抜203ⅿの『二○三高地』のトップから、旅順港を撮り下ろしたもの。
ウキぺデイアより引用
要塞の攻防戦は、攻める方の戦死者が圧倒的に多いのが普通ですが、この戦いは守る側にも多数の戦死者が出ました。 ロシア南進の要であった旅順港を守る大要塞で、この旅順港から食料弾薬が十分に補給され、停泊中の艦船から水兵の補充もあったのでしょうか、双方の戦死者の多さには驚くばかりです。
交戦勢力比較
大日本帝国 ロシア帝国
指導者・指揮官
乃木希典 アナトーリイ・ステッセリ
ロマン・コンドラチェンコ †
戦力
約51,000名 (第一回総攻撃時) 陸軍約44,000名
海軍約12,000名、その他約7,000名
(籠城 戦開始時)
損害
戦死約15,400名 戦死約16,000名
戦傷(延数)約44,000名 戦傷(延数)約30,000名
乃木希典大将の評価は、いろいろありますが、近代要塞、それも陸軍大国のロシアの堅固に強化した旅順要塞を攻めた戦いは、攻城の困難さを知れば、上記の数値がすべてを物語っているように見えます。
(記事投稿日:2020/05/16、#166)
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