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知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった  1』 『謎解きは、世界中に分散・散失したロンゴロンゴ木片の解読から』

2023-01-12 10:00:07 | 歴史・世界・古代

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 1』

『謎解きは、世界中に分散・散失したロンゴロンゴ木片の解読から』

『絶海の孤島の歴史「黎明期・隆盛期・衰退期」の変遷から現世界は学ぶべき!』

 

ロンゴロンゴの記された24の木片(文字板)が19世紀後半に収集されたが、風雨による損傷や、破損、焼失部分のあるものも多かった。 これらは現在、世界各地の博物館に分散しており、イースター島に残っているものはない。

 

先日、NHK BS『絶海!謎と神秘の巨石文明モアイとイースター島▽21のミステリー徹底究明』再放送(2021/08/26)を見ました。 もし『ロンゴロンゴ』の破損・焼失した過去の、残念な歴史がなければ、こんなに多くの謎が残らず、多くは解読・解明されたことだと思い、残念です。

 

イースター島には『ロンゴロンゴ』と言う不思議な絵文字がありました。 謎の『ロンゴ・ロンゴ』の解読と解明の歴史は?

1770
年、
スペインからフェリーペ・ゴンザレスが、イースター島にやって来ました。 そのとき島民は、奇妙な文字でサインしたと言う。 それが「ロンゴ・ロンゴ」です。

しかし、1862年
ペルーの奴隷狩りによって、最後の読み手である、『タンガタ・ロンゴ・ロンゴ』たちも、さらわれ死んでしまった。

 

1864
宣教師ユージン・エイラウドは、島の民家から、いくつかの文字が彫られた木片を発見したと言うが、その後、島民のキリスト教改宗とともにほとんどの、『コハウ・ロンゴ・ロンゴ』のもの言う木は、『悪魔の文字』として焼き捨てられてしまった。 謎の文字となった『ロンゴ・ロンゴ』ですが、根気強い研究によって、文字の読み方は、解明されました。 まず、右上から左へ読み、180度回転させて板の上下を逆にして、下から2行目を右から左へと読む、これを、繰り返すという奇妙な読み方でした。

この文字のルーツは、インダス流域の『古代インド文字』、『アンデス文字』、
『エジプト文字』と、諸説入り乱れています。 内容にしても、
  神への祈り
  神官への支持
  鳥に伝わる伝説
  死者の名簿、など様々です。

ロンゴ・ロンゴの文字が刻まれている木片で、現存しているのは、世界でたった28点。 世界各国の博物館などにあるが、イースター島の博物館には、本物は、1枚しかありません。 チリ本土の「サンチアゴ国立自然史博物館」にあるものの複製が、2枚展示されています。 この文字が解明されれば、島に残された多くの謎が解明されるかも知れません。

 

ロンゴロンゴの『文字板B』

ウキペデイア情報から引用

数字は何行目かを表す数字。Fin de 13 は「13行目の終わり」という意味

 

バルテルが発表した絵文字の一例 [Jacques B.M. Guy / Public Domain / 出典]

ウエブ情報から引用

イースター島

モアイ1,000体以上、周囲60㎞、休火山3個の火山島、木がなく、川がない、動物もいない。 そのイースター島の21の謎。

 

1.  楕円形の遺跡、と

2.  石垣箱型がセットになっている

3.  石がゴロゴロなのに栄養満点のタロイモ、水分蒸発防いだ

4.  川がないが、5か所の地底湖

5.  黎明期、隆盛期、衰退期 島民のルーツはタヒチ

6.  島民のルーツは台湾?

7.  どやって渡ってきた ダブルカヌー

8.  綾取り創世神話、溶岩の中に巨木の化石

9.  未解読文字 ロンゴロンゴ

10. モアイ 面長、ほりが深い、長い爪

11. 頭蓋骨に羽根飾りの跡

12. 超能力

13. 1000体も量産

14. 運び方

15. なぜ巨大化、全長12、巨人21、人口2万人で、12世紀3座している、14世紀5、16世紀10、権威誇示

16. 星とモアイの神秘的な関係、モアイの向きとスバル?

17. 衰退原因はネズミ、海鳥の卵

18. 食料危機

19. 人骨に刃物の跡(女性・子供)森林崩壊から100年

20. 希望を託された鳥人伝説

21. ラパヌイ文明滅亡

 

先ずは、『1、楕円形の遺跡

8-10世紀にモアイと、ほぼ同時期につけられた、この楕円形の遺跡

(ヤシの巨木をモアイづくりで全滅させた海洋民族の祈り)

ウエブ情報から引用

 

『2、石垣箱型がセットになっている楕円形の遺跡』

重要な食糧(鶏卵・鶏肉)を、盗人、野生動物から守った鶏舎

ウエブ情報から引用

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった!』の残り(3~21)は、楽しみな今後の課題です。

(記事投稿日:2022/05/05、#531)

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『ペルー、インカのモライ遺跡(円形段々畑・アンデネス)が凄い』『「所変われば品変わる」、インカの段々畑 VS 東洋の棚田』

2022-08-10 18:34:05 | 歴史・世界・古代

『ペルー、インカのモライ遺跡(円形段々畑・アンデネス)が凄い』

『「所変われば品変わる」、インカの段々畑 VS 東洋の棚田』

『食料自給率が低く「仮想水」輸入大国日本は学びたいこと沢山』

 

今回は、NHKBSプレミアム放送からの新しい情報で『所変われば、品変わる』を再確認して、今までの知識『インカの段々畑 VS 東洋の棚田』を備忘録に纏めました。

インカの段々畑・アンデネスには『水路』がありませんでした。 理由は『目から鱗』で段々畑・アンデネスは高度差のある山岳地帯にあり、海や川からの水蒸気が急上昇して露結して作物に水分を供給することでした。 当然ですが、急傾斜地には段々畑と、緩傾斜地には、傾斜のままで、畑になっていました。 水分の露結には、斜傾地より段々畑の方が露結有効面積は大きくなりますので。 

中南米の高温寡雨地域では段々畑・アンデネスになります。 高低差や温度差を利用してジャガイモやトウモロコシ、トマトなど、アンデス原産の作物を同時に栽培する『垂直農法』がなされていました。 

一方、東南アジアの高温多雨地域には棚田、主には水田稲作(二~三期作)が沢山見られます。 『棚田』は、英語では『rice terraces』、中国では『梯田』とも言われます。 

平地での灌漑は河川からの導水が必要で大規模な土木工事を行う必要があるが、一方、山岳地帯ではちょっと山を切り開いて棚田を造り、水を通せば、水は上から下に流れるから、最小限の工事で灌漑は完成する 

日本に、中国・東南アジアほど、棚田が開発されなかったのは、日本独特の東南アジアとは異なる気候と地形にあったのではないでしょうか。 『インカの段々畑 VS 東洋の棚田』の情報の再掲です。

インカのモライ遺跡(段々畑・アンデネス)

陸田(おかだ)で、ジャガイモ・トウモロコシを栽培、同心円模様が印象的なインカの農業試験場(15世紀、約700年前)と言われています。

ウキペデイア情報から引用 

 

アンデス諸文明の知恵の結晶「アンデネス」とは、マチュピチュ遺跡の周囲に連なる段々畑「アンデネス」の由来です。

ウキペデイア情報から引用

アンデス山脈の多くの遺跡にある「アンデネス」は、インカよりはるか以前の紀元前6世紀頃にチチカカ湖沿岸に登場したと言われます。

元陽の棚田(地形と気候の異なる日本では、ここまでは?)

山岳地帯に、およそ1200年前の唐の時代からハニ族によって、つくられてきた、壮大な棚田。 麓から山頂まで連なる光景は『雲の梯子』とも称されます。

ウキペデイア情報から引用

棚田にはいくつかのメリットがあります。まず、平野の水田よりも風通しが良いため、害虫が発生しにくいメリットがあります。 次に、斜面にあることから日照の時間が長く、南向きであればさらに日当たりが良いことも稲作に良い影響があります。

他にも、棚田の稲は地中奥深く根が伸びる特徴があり、地中のミネラルをより吸収することから美味しいお米が作られるといった特徴もあります。 そんな棚田ですが、山の斜面では台風の影響を受けやすいことや、コンバインのような機械での作業が難しい、用水の確保が難しいといったデメリットもあります。 

しかし、棚田にはもう一つ大きな特徴があるのです。 それは、ただ人の食料を確保する水田としての機能だけではなく、自然と人間が共存するために大きな役割を果たすものなのです。

 

棚田による防災

棚田には、何と防災としての側面もあるのです。 まず、棚田にはダムとしての機能も果たします。(日本でも最近話題になっている流域治水です。) 日本は河川が小さく、洪水が起こりやすい特徴がありますが、棚田は山に降った雨の一部分を止め、河川へ流さないという、ダムのような機能を持っているのです。

他にも、土砂災害の防止にも棚田は活躍します。 雨水が地下に浸透することで発生する地滑りは、棚田があることで地下への浸透水が減る効果があるため、発生率を軽減できるのです。 人間による自然開発は生態系を崩し、災害を増やす原因となります。 しかし、棚田は災害を抑えながら、人々の持続可能な生活を支える機能があると言えるのです。 

人が住まう地域の自然に適応した農業が、持続可能な生活を支えるのだと、棚田から学ぶことができるのです。 小売業も、農業さえも、超大規模化できなければ生き残れないのが、最近の実態です。 日本のように脊梁山脈からの傾斜地と急峻な河川の多い国は、激甚気象化の中で、これからは課題の山積です。 『食料の自給率が低く「仮想水」輸入大国日本』ですよ!

(記事投稿日:2022/08/10、#558)

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『大ピラミッドのこと 12(ギザの石灰岩台地の上の見事な風景 2葉)』 『高津道昭氏の「ピラミッドのテトラポットによる堤防構築説」』

2022-07-24 14:30:10 | 歴史・世界・古代

『大ピラミッドのこと 12(ギザの石灰岩台地の上の見事な風景 2葉)

『高津道昭氏の「ピラミッドのテトラポットによる堤防構築説」』

『高村公太郎氏の「ピラミッドのからみ工法による霞堤防構築説」』 

100基近くのピラミッド群のテトラポット説は、高津道昭氏著書の『ピラミッドはなぜつくられたか (新潮選書)』から。 

ウエブ情報から引用 

ナイル川のピラミッド群は「ピラミッドのからみ工法にとる霞堤(不連続堤防)説」は、竹村公太郎氏著『日本文明の謎を解く 21世紀を考えるヒント』から。

 ウエブ情報から引用 

竹村公太郎氏の説、「ナイル川西岸だけのピラミッド」は、巨大ピラミッド3基だけではなく80基、未発見を含めれば、約100基。 東岸にはゼロ。  2008年に最新の1基が発見された。 これもナイル川の西岸にあった。 この配列にこだわった視覚デザイン学の高津道昭氏は、「ピラミッドはテトラポット」であったと推理し、「ピラミッドはなぜつくられたか」(新潮選書)を出版した。

それでは、なぜ、ナイル川の左岸、つまり西岸だけにピラミッドが建設されたかナイル川の右岸、つまり東岸には、山岳地系が連続しており、ナイル川東岸の流路は安定している。一方、ナイル川西岸の砂は、ナイル川によって削られ、ナイル川は西へ西へとリビア砂漠に逃げて、ナイル川河口デルタが維持できない。 

そこで古代エジプト人は、巨大な「日本でいう『からみ』」を建設することにした。 日本での『からみ』『からみ工法』とは、長い堤防は、建設が難しいので、杭を打ちこんで、その杭に、木の蔓や枝、竹をからみつける。この『からみ』に堆積土が盛り上がってきて、これを突き固めて堤防になる。 

エジプトでは;ピラミッドを適当な間隔で建設する。 毎年、ナイル川の洪水は、上流から土砂を運んでくる。 洪水はピラミッド周辺で澱む。 ナイル川の土砂は沈降し堆積する。

ここで残った謎は; キザの3基の巨大で、大理石を貼り付け、輝く大ピラミッドは、ギザの大地に、なぜ建設されたか。

  • 河口に近い高台の上になければならなかった。
  • 可能な限り高くしなければならなかった。
  • 光の反射のために正四角錐でなければならなかった。
  • 光を反射させるため鏡のような大理石を張る必要があった。

それでも、次の二葉の写真を見ますと、『高津道昭氏「テトラポットによる堤防構築説」』と、『高村公太郎氏の「ピラミッドのからみ工法による霞堤防構築説」』のどちらももう少し調べてみようと思っています。 

ギザのピラミッド群の石灰岩台地の海抜は、ナイル川を挟んで、ギザ高台の対面、東側のカイロ市の海抜は15-60m。対して、西側のギザのピラミッド群は、海抜49-63mのギザ台地に立地です。 ナイル川の10mぐらいの増水には関係なさそうです。

ウキペデイア情報から引用(上空から見た三大ピラミッド) 

約230万個のサイズ不揃いのキューブ石材を、高さ(当時)147ⅿも、面の角度52度に積み上げています。 堤防には勿体ないような気がします。

ウエブ情報から引用(上空から見た大ピラミッド)

大ピラミッドは調べれば調べるほど謎が深まります。

(記事投稿日:2022/07/24、#556)

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『古大陸文明の石造遺跡と、新大陸文明の石造遺跡の比較に、興味津々 2』 『ヨ-ロッパ中心の歴史は、凄い古代文明あった南北アメリカを新大陸と呼ぶ』

2022-06-18 13:18:28 | 歴史・世界・古代

『古大陸文明の石造遺跡と、新大陸文明の石造遺跡の比較に、興味津々 2』

『ヨ-ロッパ中心の歴史は、凄い古代文明あった南北アメリカを新大陸と呼ぶ』

 

インカ文明(後13世紀~16世紀)のオリャンタイタンボの6枚の屏風岩と、エジプト カイロのシタデル・要塞(後12世紀~14世紀)の比較

 

先ずは、6枚の屏風岩、凄いのは、の巨石の接合方法と運搬方法(切り出した場所から、約300ⅿの引き下ろし、渓流を渡渉、さらに約150ⅿの引き上げ)です。 さらに、この6枚岩のつなぎ目固定用に使われた板状の石板が見事です。 

この石工技術は、一般的には『木工技術ありきファースト』ですがその遺跡はありません。 更に運搬方法がに至っては全く想像もできません。

 

鉄製工具がなく、石製・青銅製工具で、ホゾ穴堀の方が難しく、このつなぎ目の石で、ホゾ穴堀加工で失敗したときに、新規に造り直しが出来るようにした。 この石板でなら百数十キロであり、比較的容易に、新規に造り直しができる。  つまり数十トンの巨石での、ホゾ穴堀加工の『オシャカ』対応をしないで済む。

ウエブ情報から引用

6枚中最大は、高さ4m、幅2.5m、厚さ1m、

6枚中最大は、高さ4m、幅2.5m、厚さ1m、重さ約80トン(加工石)。 

日本にもある石舞台(7世紀、時間差は約1,000年)には、77トンと60トンの天井石が載せられていますが、全く加工はされておらず、無垢の自然石です。

写真に見える、表面の突起は『継ぎ接ぎ(ツギハギ)』用ではなく運搬用の支点でしょうか、これを支点に回転させながら運搬したと言われています。

ウエブ情報から引用

 

同時代の、エジプト カイロのシタデル・要塞(イル・アルア)

 

  ウエブ情報から引用

ウエブ情報から引用

 

今後の調査のために、古大陸の目ソアメリカ文明とアンデス文明(チャビン文明、ワリ文明、モチカ文明、ナスカ文明、ティアワナコ文明、チムー文明、インカ文明)を整理しました。 

メソアメリカ文明『定住で農耕(田畑)あり』分類

文明

特徴

オルメカ文明

(前10世紀〜850年頃)

メキシコ湾岸に栄えた中央アメリカ初の都市文明。 絵文字を使った。 ジャガー神の信仰

テオティワカン文明

(前2世紀〜後6世紀)

メキシコのテオティワカンに栄えた文明。 ピラミッドを造営。 宗教・商業都市の発達。

マヤ・ティカル文明

(6〜14世紀)

ユカタン半島の古代文明。マヤ文字や階段ピラミッドを造営。スペイン人に征服された。

トルテカ文明

(6〜10世紀)

テオティワカン文明後に成立。 後に分散した。 人身供儀の風習。

アステカ文明

(12〜16世紀)

テノチティトランを中心に栄える。 ピラミッドや象形文字、太陽暦を使用。 1521年、コルテスによって滅ぼされた。青銅器文明・都市文明・20進法。

 

アンデス文明『定住で農耕(田畑)あり』分類 

・南米のアンデス山脈一帯には、アンデス文明が成立した。 アンデス文明は、チャビン文明、ワリ文明、モチカ文明、ナスカ文明、ティアワナコ文明、チムー文明、インカ文明などに分けられる。

文明

特徴

チャビン文明

(前1000年頃)

ペルーにおこった古代文明。 アンデス文明のさきがけとなった。

ワリ文明

(500年〜900年頃)

チャビン文化消滅後ペルー中部に栄えた古代文明。

モチカ文明

(100〜800年頃)

チャビン文化の後、ペルーで栄えた古代文明。

ナスカ文明

(1〜8世紀)

ペルーのカワチ遺跡周辺に栄え、地上絵を残した。

ティアワナコ文明

(1〜12世紀)

ボリビアで栄えた古代文明。

チムー文明

(12〜15世紀)

モチカ文明を継承。 インカ帝国に滅ぼされた。

インカ文明

(1200年頃〜1533年)

ケチュア族首都クスコを中心に建国した大帝国。 高度な石造技術と青銅器、キープを使用した。 著名な遺跡がマチュピチュである。1533年、ピサロに滅ぼされた。

古大陸と新大陸の文明の比較はこれからも興味津々です。

(記事投稿日:2022/06/18、#541)

 

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『シュナントゥニッチ遺跡(マヤ先古典期中米ベリーズの遺跡)』『遺跡エル・カスティーヨは、巨大なコンプレックスの中でも最大!』

2022-04-28 19:06:36 | 歴史・世界・古代

『シュナントゥニッチ遺跡(マヤ先古典期中米ベリーズの遺跡)』

遺跡エル・カスティーヨは、巨大なコンプレックスの中でも最大!』

 

ユーラシア大陸の『四大文明』は、古代アメリカ文明に比較、圧倒的に古い。

  1. 中国文明(紀元前14000年から紀元前12000年頃)
  2. インダス文明(紀元前7000年頃)
  3. メソポタミア文明(紀元前5500年頃)
  4. エジプト文明(紀元前5000年頃)の4つを指します。

温暖な気候で河川が流れる地域において定住生活を始めた人類は、農業の発展によって食糧生産を安定させたことで爆発的に人口を増やしました。

 

対して、南北アメリカの古代アメリカ文明は、比較的歴史が新しい。

1.メキシコの、オルメカ、テオティワカン、アステカ文明

    (紀元前1000年から紀元1500年頃

2.中米ユカタン半島のマヤ文明(紀元前2000年 - 紀元前1000年

3.南米のインカ文明(紀元1200年 - 紀元1500年) 

  インカ文明の前にあったアンデス文明(紀元前1000年 - 紀元1600年

ウエブ情報から引用

メキシコ、中米ユカタン、南米の3大文明の中で、中米のベリーズ、シュナントゥニッチ遺跡のエル・カスティーヨを、散策できなかったことは真に残念でした。 隣国パナマに、5年間も住んでいたのですが。

 

ベリーズの遺跡

ウエブ情報から引用

 

シュナントゥニッチ遺跡(この縄張りと配置のセンスが凄い)

ウエブ情報から引用

ベリーズ西部にあるこの場所『マヤ文明の考古遺跡』は、1000 年も前から無人となっていますが、人ではない何かがいる、と言われています。 このマヤ文明の遺跡は、19 世紀に「石の乙女」という意味のシュナントゥニッチと名付けられました。 近づくと消えてしまう、女の幽霊が目撃されたことからこの名がついたと言われます。

モパン川上流の高台の約2.6平方kmの範囲には、6の広場と 25以上の宮殿や寺院が残されています。 写真は、ベリーズで 2 番目に高い建造物で、エル・カスティーヨと呼ばれる巨大ピラミッドです。

ウエブ情報から引用 

最大の見所はカスティーヨと呼ばれる高さ40mのピラミッドで、壁面には神や踊る人、怪物、貝殻などが刻まれており、マヤの世界観を良く表しています。

(記事投稿日:2022/04/28、#528)

 

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