知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『古代は、古代人は凄い 8(ペルシャ戦争の中のサラミスの海戦)』『中国の誇大表現に、劣らぬ「ヘロドトス」の誇大表現はサラミスの海戦にも?』

2024-01-27 17:10:51 | 歴史・世界・古代
『古代は、古代人は凄い 8(ペルシャ戦争の中のサラミスの海戦)』
『中国の誇大表現に、劣らぬ「ヘロドトス」の誇大表現はサラミスの海戦にも?』
『古代史の中の戦争は、なぜ、スケールアップした記録になるのか』

情報源と、その情報内容の評価は、現代の情報過多で、かつ、フェイクニュースの  反乱する時代に、さらに、人類に驚異の『生成AI』がありますので、これからは、大変で収拾がつかなくなりますので、それも生成AIにお願い!

古代の三大海戦(正確な定義はなく、「レパントの海戦」は入りません))については、昔から興味がりました。
○サラミスの海戦(ギリシャvsペルシャ、BC480)
○ポエニ戦争(ローマvsカルタゴ、BC264~241)
 ○白村江の戦い(唐vs倭、AD663)

サラミスの海戦
 ウエブ情報から引用

の海戦を調べていて、気づいたのは、あの狭い海域にヘロドトスが歴史書に書き残した軍艦の数でした。 紀元前480年、サラミスの海戦に参加した戦力は、アテネ・ポリス連合軍が三段櫂船380隻(うち、アテネは180隻)とその他数隻、ペルシャ軍は三段櫂船684隻(ヘロドトスの「歴史」では900-1207隻)、なぜ、これほど誇大表現なるのか、今後の課題)、その他の船が数百隻だといわれている。

海軍は古代の地中海で生まれたと考えられている。 これは、中国などはあくまで陸上での戦闘が中心であったのに対し、ヨーロッパ周辺では地中海を舞台とした海上交易が早くから始まったため、その制海権を確保することが重要であったことに起因する。 紀元前15世紀からフェニキアが地中海を制し、その後古代ギリシャの海軍が地中海を制した。 古代の海戦はガレー船が中心で、船上に控えた兵士が弓や剣で敵船へ斬り込んで戦闘を行った。

紀元前1178年頃、古代エジプト王ラムセス3世がデルタの戦いで「海の民」連合軍に勝利する。 紀元前480年、サラミス海戦で三段櫂船を擁しテミストクレス率いるギリシャ艦隊が艦数で勝るペルシャ艦隊を撃破した。
海の民
海の民の背後にいた人々については多くの説がありますが、確認されているものはほとんどありません。 
  • 旧約聖書に登場するペリシテ人
  • 火山の噴火で故郷を追われたクレタ島のミノア人
  • エトルリア人、リビア人、あるいはインド・ヨーロッパ人

サラミスの海戦に参加した戦力は、アテネ・ポリス連合軍が三段櫂船380隻(うち、アテネは180隻)とその他数隻、ペルシャ軍は三段櫂船684隻(ヘロドトスの「歴史」では900-1207隻)、その他の船が数百隻だといわれている。

戦力ではアテネ側が圧倒的に不利であった。 戦闘が開始された状況には諸説あるが、その中に一人の女性指揮官がポリス連合軍の前に立って全軍を鼓舞し、戦闘が始まったという説がある。

先ずは、ペルシャ戦争の理解を
ウエブ情報から引用


ペルシャ戦争とは、
アケメネス朝ペルシャ帝国 VSギリシャ連合の3度に渡る対決、
始まりは紀元前500年から始まり、終結は紀元前449年。 カリアスの和約という平和条約が結ばれて終結となります。
では、このペルシャ戦争のきっかけと終焉までを簡単に、

イオニア植民市の反乱(BC500年)
当時、周辺の地域を次々に征服、撃退し大帝国となっていたペルシャ。 このペルシャから支配を受け、重税などの圧力を掛けられていたのが小アジアのイオニア人植民市。 その中でも特にペルシャからいじめられていたのがイオニア人植民市のミレトスという町、ギリシャの都市国家のひとつ。 当時のペルシャとギリシャの間では、地中海や黒海での商業圏をめぐる対立がありました。

そして、ミトレスの住民を中心としてイオニア植民市はペルシャに反乱を起します。 BC500年のこと、彼らの後ろ盾となったのはアテネでした。 これが、ペルシャ戦争のきっかけとなります。

第1回ペルシャ戦争(BC492年)
反乱の介入をやめようとしないアテネに対して、ペルシャは軍を派遣、当時のペルシャ大王はダレイオス1世。 まず、ペルシャ軍はギリシャの北側トラキアを制圧。 ギリシャ本土の攻撃に、艦隊を派遣するも、途中暴風に遭い、そのまま引き返した。 まずはギリシャの不戦勝。

第二回ペルシャ戦争(BC490年)/マラトンの戦い
ペルシャも再度攻撃を仕掛けます。 ペルシャの軍はエーゲ海の島々を攻略し、アテネのすぐそば、マラトンという地域に上陸。 アテネはスパルタに援軍を頼みますが神事で派遣を断られ、一緒に戦ってくれたのは都市国家プラタイアイ。 アテネ、プラタイアイ連合はペルシャに勝利、これが、マラトンの戦い。

マラソンの語源がこのマラトンの戦い。 マラトンでの勝利を伝える為に伝令を命じられた人がマラトンからアテネまでの長距離を1人で走りきりアテネのャ城門のところで力尽きた故事。 相手がペルシャとの戦いでした。 BC486年にペルシャのダレイオス1世は死に、継いだのがクセルクセス1世でした。

第3回ペルシャ戦争(BC480~479年)
 有名な戦い、スパルタの兵士300人でペルシャの大軍に突っ込んで全滅した。 この時のペルシャの国王はダレイオス1世の後を継いだクセルクセス1世。 10万のペルシャの大軍とスパルタ軍300名がテルモピレーという山と海で囲まれた場所で激突します。

4000人くらいの兵士を連れてきていたのですけど、彼らはペルシャ軍を見た途端に逃亡。 残ったのがレオニダス王を含めたスパルタの兵士300名だけだった。 スパルタの人たちは超戦闘部族で、強いですが、さすがに、この兵士の差を埋めることはできず、スパルタは敗北します。 これが、ペルシャ戦争におけるペルシャ最初の勝利となります。

 サラミス湾の海戦
ウキペデイア情報から引用

スパルタの敗戦でピンチとなったギリシャの諸都市。 そこに英雄が現れます。 テミストクレスというアテネの将軍。 彼は、ラウレイオン鉱山の収益を軍艦製造にまわして三段櫂船という特別な船を造っていた。 そして、ペルシャ海軍をサラミスにおびき寄せて大海戦に臨みます。

 アテネは200隻ほどの船を出し、ギリシャ連合軍も400隻ほど。 対するペルシャの海軍は700隻。 数の上では、ややギリシャ側の劣勢ですが、地の利を生かしギリシャ軍はペルシャに打ち勝ちます。 これが、サラミス湾の海戦。

アテネでは、軍役義務を果たした人に参政権が与えられました。 貴族や多くの平民も軍役を果たし参政権を獲得していたけれども、武器を買うお金もない人たちは軍役義務を果たすことができず参政権を持つことができませんでした。

しかし、サラミス湾の海戦によって武器も買えない人たちにもチャンスが巡ってきたのです。 船を漕ぐ役目です。 当時の船は帆をはって風の力で進むわけですが、戦争となれば風の吹くままに進むわけにはいきません。 敵船の逆に進んでいったら戦いになりませんから。そこで、人力で漕ぐのです。 これにより武器も買えない平民の人々も軍役を果たすことになり参政権を獲得することになります。

ギリシャの勝利
このサラミス湾の海戦で大勝利を得たギリシャは、その後の陸上のプラタイアイの戦いでも勝利。 さらに海上でもミカレ岬の戦いにも勝利しペルシャはエーゲ海から後退していくことになります。

 大国ペルシャ帝国からの攻撃をギリシャ連合軍は撃退したのです。 これは、よくペルシャの専制王政に対するギリシャの民主政の勝利だといわれます。 モチベーションの違いでしょうか。 ペルシャ軍は征服した地域の民や奴隷も軍の中に多くいたのに対して、ギリシャは志願兵なども多かったようです  。

その後の海戦
紀元前31年のアクティウムの海戦では、ローマ艦隊がアントニウス率いるカタパルトを装備したエジプ艦船に対して火矢と火壺を投擲して勝利を収めている。
1538年、プレヴェザの海戦でオスマン帝国が宿敵のアンドレア・ドーリア軍(スペイン)を撃破し地中海を制圧。スペイン勢力を地中海から締め出しイスラム教徒が覇権を確立する。 1571年に起きたレパントの海戦はガレー船同士の海戦の頂点あり、ガレアス船の投入など艦載砲も使用されたが、依然として接舷しての移乗攻撃が決定的な役割を果たした。

サラミス海戦の意義
ギリシャ・ペルシア戦争の転換点となりました。 サラミスの後、ペロポネソス半島、ひいてはギリシャ全体が征服を逃れることができた。 そしてペルシャ軍はその威信と士気(物的損失も同様に)に大打撃を受けた。 その後のプラタイアの戦いとミカレの戦いにより征服の脅威が取り除かれ、連合国は反撃を開始できるようになった。 ギリシャの勝利により、マケドニアはペルシャの支配に対して反乱を起こすことができた。 そして次の30年間で、トラキア、エーゲ海諸島、そして最終的にイオニアは、連合国かアテネが統治する後継組織であるデロス同盟によってペルシャの支配から外されることになる。 サラミスは力の均衡においてギリシャ側への決定的な動きを開始し、最終的にはギリシャの勝利につながり、エーゲ海におけるペルシャの力を大きく低下させた。

マラトン海戦やテルモピュライ海戦と同様、サラミス海戦(たとえば、より決定的なプラタイア海戦とは異なる)は、おそらく絶望的な状況と予期せぬ可能性のため、一種の「伝説」の地位を築いている。 かなり多くの歴史家がサラミス海戦を人類史上最も重要な戦いの一つとしている(マラトンについても同じことがよく言われるが)。 この議論のより極端な形式は、もしギリシャ人がサラミスで負けていたら、その後のペルシャによるギリシャ征服は、私たちが知っているような西洋文明の成長を事実上抑圧していただろうという主張である。

一部の歴史家 この見解は、哲学、科学、個人の自由、民主主義などの現代西洋社会の多くが古代ギリシャの遺産に根ざしているという前提に基づいています。 したがって、この学派は、現代史が主に西洋文明によって支配されていることを考慮すると、ペルシャによるギリシャの統治は人類の歴史全体の軌道を変えた可能性があると主張します。 非常に影響力のあったアテネ文化の輝かしい開花は、ペルシャ戦争に勝利した後に初めて起こりました。 軍事的には、実際に何が起こったのかが不確実であるため、サラミスから多くの教訓を引き出すことは困難である。 連合軍は再びペルシャ軍の数に対抗するために陣地をうまく選択したが、今回は(テルモピュライとは異なり)ペルシャ軍は陣地を強調するために不必要な攻撃を仕掛けるという手段に頼らざるを得なかった。 おそらく、この攻撃が引き起こされて以来最も重要な軍事的教訓は、テミストクレスが敵の望ましい反応を引き出すために欺瞞を利用したことにあるだろう。プルタルコスによれば、それまで目立たなかったキモンは「アテネ人の間で大きな名声を得た」という。戦いにおける彼の勇気に対して。この評判により、後に彼は政治家としてのキャリアをスタートすることができました。

古代の情報源と現代の情報源 
情報源とその情報内容の評価は、現代の情報過多でフェイクニュースの反乱する時代に、さらに、人類に驚異の『生成AI』がありますので、これからは収拾がつかなくなります。
(記事投稿日:2024/01/27、#721)
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『古代は、古代人は凄い 4(古代ローマでコロッセオへの水道は?)』 『円形闘技場・コロッセオで模擬海戦は真実! 給排水技術が凄い』

2024-01-09 14:33:29 | 歴史・世界・古代
『古代は、古代人は凄い  4(古代ローマでコロッセオへの水道は?)』
『円形闘技場・コロッセオで模擬海戦は真実! 給排水技術が凄い』

NHKBS(2024/01/07)『徹底解明!コロッセオの秘密(再)『伝説の模擬海戦』に驚きました。 コロッセオは、楕円形の円形闘技場です。 
模擬海戦
古代ローマの円形闘技場で開催された模擬海戦・ナウマキア (naumachia) と呼ばれる興行の一つで、闘技場に水を張り、歴史上の有名な海戦を再現したもの。人工池などで行なわれることもある。 "naumachia"という言葉は、海戦を意味するギリシャ語から来ている。

コロッセオ楕円形闘技場(中央が舞台アリーナ

 ウキペデイア情報から引用
コロッセオは、長さ189メートル、幅156メートルで、外壁は、48メートルの高さです。 この世界一大きな円形競技場とはいえ、コロッセオの中央の舞台アリーナは、長さ87メートル、幅55メートルです。 このアリーナに、二つの軍船団を浮かべられるくらいの広さがあったのか、また、水をどうやって、アリーナに汲み上げたのか、想像すると謎は深まりますが、模擬海戦の記録はあったようです。 『ローマは一日にして成らず』、古代ローマ帝国時代だけでも約1000年以上も続いた、やはり偉大な帝国です。

古代ローマの模擬海戦ショーの歴史ウエブ情報から引用
『こうした模擬海戦ショーの始まりは、紀元前3世紀にさかのぼると考えられているが、実際に行われたのは、4回か5回らしい。 

記録として残っている最初の模擬海戦は、紀元前46年にローマにユリウス・カエサルが建設した人工湖で行なわれたティルス船とエジプト船の戦いと伝えられている。 

紀元前2年には、アウグストゥス帝により、マルス・ウルトル(Mars Ultor)神殿(アウグストゥスが義父カエサルの暗殺の復讐を記念して造営した神殿。 ウルトルは復讐者の意)への奉納行事としてカエサル庭園(horti Caesaris)の池でアテナイとペルシャの海戦が再現された。

アウグストゥス帝が模擬海戦を行なった人工池は、長径が約550m、短径が約370mあったと言われ、アンシエティーナ水道(Aqua Alsietina)を経由して、ローマの北にあるマルティニャーノ湖(Lago di Martignano)から水を引いていたと伝えられている。 この湖の水は飲み水には適さない悪質のもので、アンシエティーナ水道は模擬海戦のために築かれたと考えられている。

同じ人工池で、ティトゥス帝の時代にはコリントスとケルキラの海戦が再現された。 52年にクラウディウス帝がフチーノ湖(Lago Fucino )で行なった模擬海戦では、ロードス軍とシシリア軍に扮した19000人の剣闘士と罪人が戦った。

ドミティアヌス帝も模擬海戦に熱心で、ティベレ川近くの人工湖で、ほぼ実物大の船を使って実施したと言われ、トラヤヌス帝も模擬海戦場を持っていたとされる。 蚊の発生を避けるため、水は模擬海戦のたびに入れ、終了後排水していたようである。

紀元57年、皇帝ネロが木造の円形競技場で、模擬海戦を開、水だけでなく、アザラシやカバなどの海獣も水中に放った。 しかし、突然、会場から水がもれ出して、陸の闘技場になってしまったという。 輸入した海の生き物たちがどうなったかは定かではない。

 紀元80年には、複数日の三日目、多くの催しものがティトゥスに捧げられ、3000人の男たちの海の対決が呼び物となった。 通常、このような規模のイベントが開かれる会場は、コロッセオ(円形闘技場)だろう。 詳細ははっきりしないが、ローマ人は少なくとも一度は、この剣闘士のリングを大海原にしようとしたことがあるようだ。

ローマの歴史家ディオ・カッシウス(紀元235年)によると、紀元86年にこの世界的に有名な円形競技場で海戦が行われたという。 どうやら、激しい暴風雨のために、戦士だけでなく、観客も多数死んだらしい。 コロッセオの地下にある空間がこの可能性を裏づけている。

 とはいえ、皇帝の命令とはいえ、この世界一大きな円形競技場にどうやって船団を浮かべられるくらいの水をくみ上げたのか、想像すると謎は深まるばかりである。 おかしなことは起こるものだが、それほど頻繁ではないだろう。』

とにかく、古代ローマ帝国のリーダーたちは帝国民の娯楽には大変な気づかいをしていたようで驚きです。 帝国民を治める知恵は凄かったようです。
(記事投稿日:2024/01/09、#716)
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『古代は、古代人は凄い 3(古代ローマで興った建築様式を支えたのは?)』 『建造物コロッセオで分かるローマン・コンクリートの不思議』

2024-01-08 22:01:45 | 歴史・世界・古代
『古代は、古代人は凄い 3(古代ローマで興った建築様式を支えたのは?)』
『建造物コロッセオで分かるローマン・コンクリートの不思議』

NHKBS(2024/01/07)『徹底解明!コロッセオの秘密(再)「地下に隠されたテクノロジー」を見ました。 まさに、目からうろこが落ちるように、ローマの『コロッセオと水道橋』の驚異の建造物寿命・耐用年数が少しわかってきました。

この番組を見るまでは、『ローマン・コンクリートのローマ建造物』の建造物寿命・耐用年数について不思議に思っていました。 (古い話では『エジプトの大ピラミッドのキューブ石材固定方法』はまだまだ、これからの課題です。)

コロッセオとコンスタンティヌスの凱旋門.
 
ウキペデイア情報から引用
ローマの地震事情ですが、イタリアが、アフリカプレートとユーラシアプレートが衝突し、互いに押し合っている地域で、テクト二クス的にも地質学的にも複雑な地域であり、地震活動が活発にみられます。 その歴史は約2000年前に遡ります。

ローマ時代の水道橋(フランスのポン・デュ・ガール)

ウキペデイア情報から引用
フランスの地震事情は、山地の東部、南部で地震が発生しやすいといわれますが、南仏のポン・デュ・ガールもイタリアほどではありません。 その歴史は約2000年前に遡ります。

『ローマン・コンクリート』の強さは解明されつつありますが、まだまだ研究が続けられています。 『ローマン・コンクリート』のウェブ情報です。

ローマン・コンクリートの製法上の特長
古代ローマ時代にコンクリート建築が、爆発的に増えた製法上の秘密とは何か。
 それは古代ローマ人の「ある発見」によるものだったのである。 その発見こそが、『奇跡の粉と呼ばれる火山灰、ポッツォナーラ』。

イタリアの中部に、日本と同じく独立峰の火山が存在する。 ウェスウィオ火山である。 紀元79年、8月24日の噴火で古代ローマ都市、ポンペイや周辺の町を滅ぼしたことでも有名。 このウェスウィオ火山周辺の地域には、火山灰などを含む土が堆積している。 この火山灰が、ポッツォナーラである。

ユリウス・カエサルや、初代皇帝アウグストゥス帝の時代に活躍した、ウィトルウィウスの著書『建築論』には、次のような記述がある。 『自然のままで驚くべき効果を生じる一種の粉末がある。 これがポッツォナーラである。 これは、バーイエ(ナポリの西方にある海岸の保養地)一帯およびウェスウィオ山の周辺にある町々の野に産する。 これと石灰および割石との混合物は、建築工事に強さをもたらすだけでなく、突堤を海中に築く場合にも水中で固まる。』

一方、こんなウェブ情報もあります
『ユタ大学の地質学者マリー・ジャクソン氏が行った研究によると、ローマン・コンクリートの結合力はその構造と海水に含まれるミネラルによるもので、コンクリートの隙間を海水が通り抜けることで、ミネラルの結合を強めるという構造とのこと。』

余談ですが、現代の鉄筋コンクリートの脆さは『セメントと砂、砂利を固めたコンクリートの内部には「毛細管空隙」と呼ばれる非常に細かい空隙が多数あり、そこから水、酸素、二酸化炭素、塩化物イオンなどが入り込んでコンクリートと鉄筋が劣化』とあります。 日本も火山国ですので、この情報がコンクリートの改善に繋がれば、と期待しております。
(記事投稿日:2024/01/08、#715)
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『大ピラミッドのこと 13-3(2013/12/30テレ東の「古代エジプト”新世界七不思議”」見て、増々その凄さと不思議が残った!) 』

2024-01-03 23:19:37 | 歴史・世界・古代
『大ピラミッドのこと 13-3(2013/12/30テレ東の「古代エジプト”新世界七不思議”」見て、増々その凄さと不思議が残った!) 』

キャプストーンの石材が、白色石灰岩(化粧石と同じ)であれば、10トンぐらいに分割して作られて、載せてから組み立てられたか、

『謎「大ピラミッドのキャップストーンの重さ・大きさ・載せ方」?』

古代エジプト王国の墓所・神殿建造物の形式推移は再掲載、

  • BC2600-BC1800ピラミッド複合体(墓所と神殿)
(約千年続き、真ん中が全盛期の三大ピラミッド、以後は衰退)
          ↓
  • BC1600-BC1100カルナック神殿複合体(神々のすむ場所)
          ↓
  • BC1500-BC1000王家の谷(岩窟地下墓所群)、とありますが、

それでも、やはり、凄いのは、ピラミッド建造の歴史約800年の、ほぼ真ん中が最盛期で、その構造・技術・規模が最高であったクフ王の大ピラミッドです。

ギザのピラミッドのキャップストーンは、現在、残っていないようです。 キャップストーンがあったのはわかっていますが、どうなったのかが不明だそうです。 作られてから約4000年経過していますが、その半分ぐらいのところで既に無かったようです。 

次の写真は、アメンエムハト3世のピラミッド(紀元前1800年頃、アメンエムハト3世がファイユーム盆地に造営したピラミッド)のキャップストーンで、石材は隕石ともいわれていますがこんな大きな隕石は入手できたかどうか? 
 
 ウエブ情報から引用
ピラミッドの頂上を飾るキャップストーンは「ベンベネト」と呼ばれ、あったのはわかっていますが、どうなったのかが不明。 逆にキャップストーンが残っていたら、銘があるはずですから、大ピラミッドが誰のピラミッドか、はっきりわかったはずと言われているほどです。

このキャップストーン(ベンベン石)は、表題『古代エジプト”新世界七不思議”』の 番外編ですが、やはり気になったのは『大ピラミッドのキャップストーンの重さ・大きさ・載せ方』でした。 いろいろ調べましたが、『載せ方』も、さらには『降ろし方』も、当然、想像もつきません。 地震で落ち、その後盗難もありえます。 キャップストーンの高さ、4~8ⅿは分かりました。 最近見た大ピラミッドの上空からの写真と解説で、201段目と、トップ202段目の広さも分かりました。

ウエブ情報から引用
201段目の大きさが13.64ⅿ x 13.64ⅿでした。 トップの202段目は11.9ⅿ x 11.7ⅿでした。 ここで目から鱗です。 『大ピラミッドのキャップストーンの重さ・大きさ・載せ方』の、載せ方を除き、『大ピラミッドのキャップストーンの重さ・大きさ』は何とか、素人でも計算ができました。 

大ピラミッドの高さですが、『現在の高さで138.74m、ただし、完成時の高さは146.94m』とありますので、キャップストーン(ベンベン石)の高さは、146.94m-138.74m=8.2ⅿとなります。 いろんな解説書にあります『高さが、4~8ⅿ』に符号します。

ここで、キャップストーン(ベンベン石)の『重さ(最大)』の計算です。

体積は、11.9m x 11.7mx8mx1/3=371.3m³
重さは、371.2m³ x 2.6ton/m³(石灰岩の比重2.5-2.7)=965.3tons

となり、こんな重いものをピラミッドの天辺まで上げられるとは考えられませんので、デザイン的には上手く会いませんが、多分。 これよりずっと小さいものか平たいものが、が乗っていたのでしょうか?

さらには、キャプストーンの石材が、吉村作治氏が言われる白色石灰岩(化粧石と同じ)であれば、10トンぐらいに分割して作られて、載せてから組み立てられたか、もっとずっと小さいものであった可能性があります(約10tonsの化粧石を天辺迄張り付けた技術があるのですから。

約4500年とは思えないほど、素晴らしい、斬新な四角錐のデザインの大ピラミッドですから、キャプストーンの底辺が数メートル四方の『もっとずっと小さいもの』で、『アンバランス』であったとは想像もできません。 平たいものが、が乗っていた可能性はありそうですが、これも載せてから組み立てられたもので、『化粧石』同様に外されて転用されたのが真相でしょうか。

まさに大ピラミッドの謎よ『永遠』にです。
(記事投稿日:2024/01/02、#713)
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『古代は凄い、古代人は凄い 4(古代文明「マヤ・ティカル」)』 『漆喰コンクリートで、山を象徴、急峻で、天に近づく、4号神殿は高さ70ⅿ』

2023-09-17 16:56:07 | 歴史・世界・古代
『古代は凄い、古代人は凄い 4(古代文明「マヤ・ティカル」)』
『漆喰コンクリートで、山を象徴、急峻で、天に近づく、4号神殿は高さ70ⅿ』
『17世紀末、スペイン人修道士が密林に迷い込み、巨大ピラミッド群を発見』

マヤ文明のティカル遺跡は、石材運搬のしやすい草原に建造され、その後の気候変動による熱帯雨林気候でジャングルに覆われたと思っていました。
ウキペデイア情報から引用
現在の鬱蒼とした森が広がるグアテマラ北部のペテン県は、ティカルをはじめとする中央アメリカでも最も重要なマヤの遺跡が残されている。 マヤ文明は7~9世紀にかけて最盛期を迎え、10世紀に差し掛かる頃に滅亡した。

 文明が滅亡した理由をさらに詳しく知るために、NASAの考古学者であるトム・セーバー博士は、人工衛星プログラムで収集された画像を解析している。 博士が検証しているのは、マヤの滅亡は自ら、もたらした生態系の破壊が原因であるとする説だ。 マヤ人が行なった焼畑農業によって森林の伐採が進んでいたことが示唆されている。 またバホ(bajo)という湿地を枯渇させ、干ばつや気温の上昇を招いたことも判明した。 マヤが辿った運命は、森林伐採と気候変動のリスクを明確に物語っている。

ティカル(Tikal)は、 グアテマラのバホ(bajo)・ペテン低地にあった古典期マヤの大都市で、マヤ文明の政治、経済中心都市として紀元4世紀から9世紀ごろ(日本の古墳-飛鳥-奈良時代)にかけて繁栄を極めた。 ティカルの遺跡は1979年に世界遺産の複合遺産に登録された。

1525年、スペインの征服者エルナン・コルテスがティカルを通り過ぎたが、本国への手紙には書きこんだりしなかった。 1696年、スペイン人修道士アンドレス・デ・アベンダーニョ(Andrés de Avendaño)が密林の中に迷い込み、ジャングルにそびえる巨大ピラミッドを発見した。これがおそらくティカルだったといわれている。

複合神殿群(コンプレッホ)
複合神殿群は、ピラミッドと石碑、祭壇などからなる複合体で、4つの建物が一組になっている様式です。 ティカル独特の建物群で、マヤ歴のカトゥンを祝ったといわれています。 極彩色の都、珍しく大河無き古代文明、6万人の人口は雨水頼り、石灰岩は水を通しやすいが、建物も貯水も漆喰で対応、高台、丘陵に選んで、神殿を建造した。 今のジャングルが文明を謎にしている
カトゥン
古代メソアメリカ文明で用いられた長期歴で、20トゥン、乃ち7200キン(日)にあたる単位である。 グレゴリオ暦で約19.7年に相当する。 カトゥンの終了にあたる日には、その日を祝って、石碑が建てられたり、戦争捕虜を生贄に捧げたり、新しい神殿を建築したり、古い神殿を改築したりした。

密林に隠れていたティカル遺跡、17世紀末に発見、密林の中のネットワーク王国、1号神殿、高さ47ⅿの神殿。 山を象徴、天に近く、4号神殿は高さ70ⅿ、漆喰コンクリートで、白と赤で鮮やかに塗られた。
漆喰コンクリート
マヤ文明はコンクリートジャングル・舗装道路まであった! マヤの建造物の多くは、石灰岩や凝灰岩が使われている。 石材として使われた石灰岩は雨に弱いという性質を持ち、その弱点を克服するために、固まると水をはじく漆喰が使用された。 漆喰は石灰岩を砕いた粉を焼き、水を混ぜたもので、建物の壁や地面に塗ることにより建物の劣化や地下への浸水を防いでいた。 事実、ティカル遺跡では公共広場で約7cmの厚さの漆喰層が発掘されている。
この広場は全体がわずかに傾いていて、漆喰にはじかれた雨水を貯水池へ導く工夫がされている。(日本の漆喰使用は飛鳥時代(AD593~712)の高松塚古墳やキトラ古墳などの建造物に漆喰が用いられていることから、日本には約1,300年前に漆喰の加工技術が渡ったと考えられています。)

マヤ文明では本もあった! この漆喰を利用して、木の皮から作った紙のようなものに漆喰の粉で下塗りして、文字や絵を色彩豊かに書き込んだ絵文書がある。 多くはスペイン侵攻の折に焼き尽くされたといわれ、現存するのは4冊だけとなっている。(スペイン・マドリードの考古学博物館所蔵)
ウエブ情報から引用
(日本の最古の本は712年「古事記」)

今では、グアテマラ北部のペテン県は、ティカルは、鬱蒼とした森が広がっていますが、9世紀末から10世紀初には複合神殿群(コンプレッホ)の建造のための無計画な森林皆伐と気候変動の複合原因で滅亡しました。 森林が世界各地で自然発火の山火事を起こしている地球温暖化対策が待ったなしの課題です。

掛け替えのない地球に人間がいつまでも住めるように毎度の祈りですが、温暖化対策は、みんなでやれる『できるだけの節電・節水・節食、移動には自転車・バス・電車』と、政界・産業界のリーダーの皆様に頑張って頂く、CO2排出削減は次のビッグ3『発電業・製造業・運輸業』での喫緊対策です。 みんなでやる『節電・節水・節食、移動には自転車・バス・電車』も、『発電業・製造業・運輸業』の規模縮小につながります。 限界のある狭い地球ですので、皆で頑張りましょう。
(記事投稿日2023/09/17、#685)
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