礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

手杵とは、女性が使うタテの杵のこと

2025-01-07 00:01:11 | コラムと名言
◎手杵とは、女性が使うタテの杵のこと

『社会経済史学』第3巻第9号(1934年1月)から、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢」を紹介している。本日は、その七回目。

          
 是は恐らくは我々の祖先の、食物に対する観念の今よりも遥かに精神的であつたこと、もしくは生存といふものの意義を、ずつと物質的に解して居たことを、別の語で言へば体霊一如〈タイレイイチニョ〉の考へ方であつたことを意味するかと思ふが、其点は深く入つて行く必要も亦能力も私には無い。社会経済史学の立場から言つても、この日本の餅なり団子なりが斯くも平凡極まる毎日の食物となつてしまつたのには、未だ究められざる文化史上の大いなる動力、殊に近世に於ける複雑なる変遷が其原因であつたといふことを認めるを以て足るかと想ふ。糯米〈モチゴメ〉といふ一種の稲がいつから日本に存在し又どういふ足取りを以て普及し且つ増産したかといふことも、経済史の一つの題目に相違無いが、仮に其物が夙く〈ハヤク〉我々の農村にあつたにしても、是を非常に旨【うま】いものだと経験した機会は、さう容易には出現しなかつた筈である。それには先づ今日のやうな餅の搗き方の起ることを条件とし、しかも其搗き方は至つて新らしいものであつた。それよりも晴の日の食物に色々の形状を要求することゝ、次で其方法の改良とが無かつたら、今ある餅といふものは日本には出来なかつたので、つまりは粢【しとぎ】といふ古来の習慣が元である。沖縄の島へ行つて見ると餅と、団子の名はあるが其物は我々のとちがひ、又二者の差別もヤマトとは同じで無い。蒸した穀粒を臼で搗いて、餅とする風はまだ島には入つて居らぬのである。さうして内地でも今いふ餅の始は新らしい。臼と杵との大なる改良が無かつたら、今日の変化は完成しなかつたのである。
 其実験も亦南の島々へ行けば出来ると思ふ。女性が日本の手杵〈テギネ〉で穀粉をはたいて居る間は、如何に糯米が糊分の多い穀物であらうとも、是を搗き潰して今のやうな餅にすることは出来ない。それが可能になつたのは横杵〈ヨコギネ〉の発明又は輸入で、男子が之を取扱ふやうになつた結果である。横杵の使用は多分は支那から入つて来た技術であらう。男の力で無いと取扱へぬ代りに、餅も米の精白も此為に手早くなつた。杵は日本の古語ではキ、恐らく木といふ語ともとは一つであつた。東北では手杵〈テギネ〉即ち女の使ふ竪の杵を、今でもキゲ又はキギと謂つて居る。標準語のキネは後に出来た語で、単なる樹木のキと区別する必要からかと思ふが、それを四国と中国の一部で、キノと謂つて居るのを見ると、元はキノヲであつたことが想像し得られる。キノヲのヲは男の意で、臼を女と見立てゝの至つて粗野なる異名であつた。是と同じ思想は、今では擂鉢と擂木とが承け継いで居る。スリコギのコギは小杵であるが、八重山の島〔石垣島〕などでは是をダイバノブトと謂ふ。ダイバはライバンの訛で即ち擂盆〈ライボン〉、ブトはヲツトであるから擂鉢の夫【をつと】といふことに帰着するのである。横杵は大きいからアヲといふ土地もある。即ちオホヲ、大なる夫【をつと】の義であつた。キネといふ語の国語として固定したのも、その分〈ワケ〉はこの横杵の採用の時以後であらう。兎に角に是に由つて、且つ糯米の利用によつて、粢【しとぎ】で物の姿を作る必要は半減した。従うて又手杵と舂女【つきめ】とは全く閑になったのである。
 我邦の農家の主要なる什具は、何れも近世に入つて色々の改良を受けたが、其中でも臼の系統には殆ど革命とも名づくべき大変化があった。米の籾摺り〈モミスリ〉にも一旦は横杵の使用があつて、多くの城下町では粗町【あらまち】と称して、一区画を其作集の地に宛てゝ居たが、程無く各農家が摺臼〈スリウス〉を使用することになつて、玄米納租が行はれ粗町の必要は無くなつた。次に製粉器械としての石臼の普及であるが、是は石工の技芸進歩と、其数の増加の御蔭であつた。以前は薬材絵具や茶の類に限られ、僅かに上流の家だけに使用せられて居た石の小さな挽き臼が、どんな田舎でも手に入り、又目立て屋といふ職人まであるやうになつた。農家が各自の穀粉を挽くやうになつて、一旦起りかけた粉屋【こなや】といふ専門業が早く衰へてしまひ、名残を粉屋の娘の民謡に留めて居る。
 最後に今一つの大きな改良が、前に挙げた擂鉢〈スリバチ〉擂木〈スリコギ〉であつた。是も亦臼と杵との変化であることは、その各地の名称からでも察せられる。スリコギが擂る小杵であつた如く、メグリギ・マハシギ等のキも亦杵であつた。在来の手杵と異なる点は、搗く代りにまはすことで労力が遥かに軽くなつた。陶器の内側に臼の目を立てゝ焼くなどは、国内でも発明し得たか知らぬが支那の方が古い。所謂鎖国時代に斯ういふ事までを聞き伝へて、直ちに全国に普及させた無名氏の智能は敬服すべきである。擂鉢の世に行はれる迄は、一切の柔かな食物は皆臼で搗いて居た。味噌は擂鉢が出来てからかも知れぬが、其以前の食物であつた豆のゴ〔呉〕の汁、又多くのあえ物類は、すべて臼によるの他は無かつた。それが百年か百五十年の間に、全国住民の九割九分までが、手杵無くして生活し得ることゝなり、餅と団子とは全く独立の存在を確保し、起源の最も久しい粢【しとぎ】の白餅は、神霊以外には之を省みる者が無くなつた。古代の食物慣習を解説せんとすれば是だけの面例な考察を必要とし、しかも多数の人は今有る状態を昔からだと思つて居る。此激変が主として臼と杵と擂鉢との力であったのである。〈20~22ページ〉【以下、次回】

 文中、「女性が日本の手杵で穀粉をはたいて居る」というところがある。この「日本」は、速記時に、「二本」を聞きまちがえたものであろう。ちなみに、手杵(てぎね)というのは、中央のくびれた部分を握ってタテに搗く杵で、「女性が二本の手杵で」といった場合、ふたりの女性が向かいあい、それぞれ一本の手杵を手にして搗くのである。

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宮城県のオシトネは新米の粉を水で固めたもの

2025-01-06 03:47:27 | コラムと名言
◎宮城県のオシトネは新米の粉を水で固めたもの

『社会経済史学』第3巻第9号(1934年1月)から、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢」を紹介している。本日は、その六回目。

          
 米を水に浸し柔げ〈ヤワラゲ〉て後に、臼で粉に搗くといふことの第二の便宜は、又是を以て色々の物の形象を作り得る点にあつた。今日の所謂シンコ細工は、一旦米の粉を煮てから作るのだが、それでは油でも用ゐないと手にくつゝいて仕方がない。生粉の水練りならば水を使ふから、取扱ひがずつと便利なのであつた。自分などはそれが粢【しとぎ】といふものゝ最初からの特徴であつたと思つて居る。日本人の食物の中で、最も古くから文献の上に見え、一方には又北海道の原住民の中にも、採用せられて居るのがシトギといふ語であるから、其使用は近世まであつたと言つてよいのだが、存外に多くの日本人はこの語の意味内容、もしくは是と餅との関係を早く忘れてしまつて居る。たまたま其語を用ゐる土地が有つても、是を用ゐるのは或る限られたる場合だけである故に、それが一般的なる前代生活の残留破片であると迄は心づかない。何処でもわが土地ばかりの方言と心得て、有りもせぬ標準語の対訳を見付けるに苦しんでゐる。其事自身がすでに驚くべき変遷であつた。
 シトギという語の現在も行はれて居るのは、多くの場合には古い神社であり、祭礼の折にその語が現はれて来る。たとへば越前敦賀〈ツルガ〉郡の東郷村の諏訪社では、シトギは三合三勺の米を以て作つた三つの丸い餅であつた。餅とは云つても水練りの粉を固めたものだつたらうと思ふ。熊本県の北部で棟上式〈ムネアゲシキ〉の日に投げる餅だけをヒトギ、是は既にたゞの餅をさう謂つて居る。能登の北川村の諏訪神社九月二十七日の祭に作るヒトミダンゴ、是もシトギの訛音〈カオン〉らしいが此方は今いふ団子になつて居る。東北では宮城県北部の村々でオシトネ、九月九日の節供に新米を以て製するもので、是は生の粉を水で固めたものであつた。岩手県では一般にこれをシツトギと謂ひ、風の神送りの日に作つて藁苞〈ワラヅト〉に入れて供へ、又は山の神祭りの際に、田の畔〈クロ〉に立てる駒形〈コマガタ〉の札に塗りつけた。青森県の八戸地方で、同じく神に供へるナマストギも是である。人は今日では煮るか焼くかして食ふ故に、特に之を生のシトギといふのである。生米〈ナマゴメ〉を噛んで食ふ風習とも関係があつて、以前は人間も生のまゝで食べて居たのが、いつと無し嗜好が改まつて、後には神仏に参らせるだけの食物の如く考へられるに至つたのである。だから粢という古い言葉は用ゐなくとも、其実物を作つて居る土地は今でも中々多い。現在の名称の最も弘く行はれて居るのは、シロモチ・シラモチまたはシロコモチといふのが是に該当する。煮たり焼いたりしたのと比べると色がずつと白いからで、成人はめつたに是を生では食べぬが、子供は昔どほり珍しがつて貰つて食ひ、口の端〈ハタ〉を真白にして喜んで居る。伊勢の松阪あたりの山神祭りの飾り人形に、白餅喰ひといふのがあつたことは、本居〔宣長〕先生の日記にも見えて居る。秋の終りの神送りの日には、是は欠くべからざる神供〈ジンク〉であつた。三河の半島の或町の祭には、小児が烏の啼声〈ナキゴエ〉を真似て此白餅を貰つて食ふ風があつた。それで此日は彼等をカラスと呼んで居た。前に述べた石城平の、烏のオノリと同じ風習から出て居ると思ふ。白餅といふ名は東海道の諸国から紀州まで、九州でも北岸の島々ではシラモチと謂ひ、阿蘇の山村ではシイラ餅と謂つて居ると共に、一方秋田県の鹿角〈カヅノ〉地方などにもシロコダンゴといふ名がある。分布の此様に古いのを見ると、此名称もおそらく新たに起つたものではないと思ふ。
 信州は南北とも、一般に之をカラコ又はオカラコと謂つて居る。主として秋の感謝祭の日に、今年米〈コトシゴメ〉を粉にして作るのだが、正月その他の式日〈シキジツ〉にも用ゐることがある。形は主として丸い中高〈ナカダカ〉の、今謂ふ鏡餅のなりに作るので、或は又その名をオスガタとも呼んで居る。オスガタは御姿、即ち色々の物の形といふ意味かと思はれる。是を湯に入れ汁に投ずれば、単純なる我々の煮団子〈ニダンゴ〉であり、鍋で焼けば普通のオヤキすなわち焼餅となるのだが、形をこしらへるには生のまゝの時に限るので、それで粢を御姿と謂つたのかと思ふ。後代技術が進んで搗き抜きの団子を丸め、臼で蒸米を餅にすることが出来て、始めて我々の慣習は改まり、材料も従うて変化して来たのである。滋賀県の田舎などでは、今でも餅団子をツクネモノと謂つて居る。ツクネルとは捏ね〈コネ〉あげることで、現在の餅や団子はつくねはしないが、本来が生粉の塑像であつた為に、今にその名前を継承して居るのである。ダンゴが上古以来の日本語で無いことは誰でも知つて居るが、そんならその前には是を何と謂つたかといふと、それには答へることが六づかしい〈ムズカシイ〉ので、人によつては名称と共に、支那天竺からでも入つてきた食物かの如くに考へられてゐるが、一方に粢【しとぎ】が国固有の古い食物である以上、是を外国から学ぶべき必要は有り得ない。新たに採用したのは言葉だけで、それはたしかに丸いから団子と謂つたのであつた。信州の諏訪あたりでは、正月の餅花〈モチバナ〉につける飾り団子をオマルと謂ひ、山梨でもカラコの白餅だけを、特にオダンスといふ村がある。団子は古くはダンシと謂つて居たのである。東北へ行くと、今でも之をダンス又はダンシといふから、其起原は想像することが出来る。或は壇供〈ダンク〉といふ漢字の音かとも考へえられるやうだが、この中間の団または団子【だんす】といふ語がある為に、是がもと仏教徒の用語に出で、丸く作った粢だけを意味して居たことが判つて来るのである。
 ところが我々の作つて居たシトギは、必ずしも常に団なるものとは限らなかつた。長くも平たくも節毎〈セチ・ゴト〉の旧慣によつて、色々の形が好まれて居たのである。たとへば田植終りの頃のサノボリの小麦団子は、中国地方では馬のセナカと称して、鰹節を小さくしたやうな形であつた。盆の送り祭りの食物には、セナカアテと称して薄い平たいものを作り、もしくは鬼の舌などゝいふ楕円形のもの、編笠〈アミガサ〉焼きと謂つて笠の形をした焼餅を作る日もあつた。中部地方では二月涅槃〈ネハン〉の日にヤセウマという長い団子をこしらへ、又は同じ月にオネヂと謂ふものを作る日もあったが、是も後には捻り〈ネジリ〉団子には限らず、蕪〈カブ〉や胡蘿蔔〈コラフ〉等の野菜類まで、色々と形を似せて美しく彩色した。香川県には有名な八朔〈ハッサク〉の獅子駒〈シシゴマ〉がある。是も現在は米の粉を以て、見事な動物の形を作り並べて見せるので、此風習は中国地方に及び、之をタノモ人形などゝいつて、男女の姿に似せたものさへ作つた。尾張三河の方面では三月の雛の節供の日に、やはり米の団子を以て鯛や鶴亀七福神までも製作した。もう斯うなると工芸と言はうよりも美術で、専門家の手腕を必要としたのであるが、しかし日本の民芸は発達して居る。民間には屡々〈シバシバ〉無名の技術家があつて、一日か二日で食つてしまふ物に、斯様な手の込んだ製作を施して、僅かな見衆を感動させていたのである。
 しかしそれも是も、すべて水で練つた生の穀粉の彫塑であつたから出来たのである。是がもし蒸した粉や穀粒であつたら、つくね上げることは相応に困難であつたらう。私達が少年の頃には、酒屋の職人たちが酒の仕込みの日に、蒸した白米を釜からつかみ出して、ヒネリ餅というものを拵へて居た。普通には扁平な煎餅のやうなものしか出来なかつたが、巧者〈コウシャ〉な庫男〈クラオトコ〉になると是で瓢箪や松茸や、時としては又人形なども作り上げた。蒸米は冷えるとすぐに固くなるので、熱いうちに手を火ぶくれにしてこんな技術を施したのであつた。シンコに比べると餅の方は殊に細工を施し得る間が短かい。故に今では丸餅や熨斗餅〈ノシモチ〉などの、至つて単純な物しか出来なくなつたのである。是が生粉であるならばゆつくりといかなる形の物をでもつくね上げ得たのは当然である。問題は所謂オスガタを作る手段よりも、如何にしてさういふ色々の物の形を、現はさなければならぬと考へたかの、動機如何といふ点に存在する。注意をして見ると我々の晴の日の食物は、単に是が為に時と労とを費したゞけで無く、その形態にも幾通りかの計画が有り意途〈イト〉があつた。一つの顕著な例は三月の桃節供に、必ず菱形の餅を飾ることである。是を桝形〈マスガタ〉の餅とも称して、奥州では正月に人の家に贈る餅の、定まつた〈キマッタ〉一つの形となつて居た。出羽の方の正月には、昔からヲカノモチといふものが、家族一人に一つゞつ作つて歳棚〈トシダナ〉に飾られて居た。是は楕円形で中程に指で窪みを附けたものであるといふ。東京でも婚姻の祝に配る鳥の子または鶴の子といふのが、一部分是と似て居る。つまりそれぞれの機会に対して特殊の形といふものがあつて守られたのである。其中でも特に私たちの注意して居るのは、五月端午〈タンゴ〉の節供に作られる色々の巻餅〈マキモチ〉が、必ず上を尖ら〈トガラ〉せた三角形に結ばれたことである。是なども最初は生粉の間に形をきめ、それを湯に入れて煮て引上げて食つたのである。それと同じ形が年の暮の供物、御霊【みたま】の飯といふものにも附いてまはつて居る。是は米粒であるがやはり笹の葉などで三角形に包み、蒸して食ふやうにしたのである。葉に包まぬ場合には握り飯だが、是もこしらへる手がきまつて居た、必ず三角に結ぶことになつて居た。それを盆と暮とに御霊に供へて居る土地も多いのである。私の一つの想像では、鏡餅は円いといふ点ばかり問題にされているが、是が上尖り〈ウエトガリ〉に出来るだけ高く重ねようとして居た点は、五月の巻餅や粽〈チマキ〉の円錐形と、同じ動機に出て居るものではないか。すなわち是を人間体内の最も主要なる一臓器と、わざわざ似せて作り上げた所に、是を儀式の日に食ふといふ意義があつたのでは無かつたか。仮に其想像が半分でも中つて〈アタッテ〉居つた〈オッタ〉とすると、粢が我々の晴の食物として、選まれた理由は略〈ホボ〉わかるのである。握り飯の三角などは只偶然のやうだが、此歴史の無い他民族に任せたら、自然には斯うは握れぬのみならず、現に我国でも凶事の際だけには、わざと違つた形の握り飯を作つて居るのである。要するに此等の食物が、ぜひとも一定の姿にこしらへぬと、晴の日の食物とするに適しなかつた其理由こそ先づ考へて見るべきである。〈15~20ページ〉【以下、次回】

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東北では正月、カラスに神供を投げ与へる

2025-01-05 00:49:32 | コラムと名言
◎東北では正月、カラスに神供を投げ与へる

『社会経済史学』第3巻第9号(1934年1月)から、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢」を紹介している。本日は、その五回目。
 文中に、「是を人根(ニンゴン?)と謂ふ」というところがあるが、この「?」は、原文にあったものである。

          
 所謂麺類は此意味に於て、今尚村落では晴の日の食物である。是が三度の食事よりも、更に自由に得られるといふことは、都市に於てもさう古くからの現象で無く、しかも一たび其風習が起ると、忽ち〈タチマチ〉にして大いなる町の魅力となつたのは、餅や団子も同様に、簡便なる石の挽臼の普及に助けられたので、古風に規則正しい田舎の生活が、外部の影響に勝てなかつた弱味も爰〈ココ〉に在つた。東北で今日ハツトウと謂つて居るのは、主として蕎麦のかい餅をつみ入れた汁類のことであり、出来た食品が関西のハツタイとは全く違つて居る為に、両者もとは共にハタキモノの義であつたことは忘れられて居る。栃木県の東部では是をハツト汁と謂ひ、あまりに旨いから飢饉年には作つて食ふことを禁じた。それで法度汁【はつとじる】と謂ふのだといふ説明伝説まで生れて居る。しかし此名称と調理法は、古いと見えて可なり弘く分布して居る。たとへば信州でも下伊那方面にはハツトといふ語があつて、只その上流から甲州の盆地にかけて、是をホウトウと謂ふのである。ホウトウは現在の細く切つた蕎麦饂飩〈ソバ・ウドン〉の原形であつたらうと思ふ。刃物を当てゝもごく太目に切るだけで、中には紐の如く手で揉んで細長く、食い易くするだけのものがある。是を小豆〈アズキ〉と共に煮たものをアヅキボウトウとも謂つて居る。三河の渥美半島では三十年余り以前、私も是をドヂョウ汁と謂つて食はされて喫驚〈ビックリ〉した。珍しい名前も有るものと思つて居ると、佐渡島でも蕎麦切〈ソバキリ〉を味噌汁に入れたのを、やはりソバドヂョウと謂ふさうであつた。其形泥鰌〈ドジョウ〉に似たる為なるべしと佐渡方言集にはある。それもあるか知らぬが尚ホウチョウといふ語の意味不明になつた結果であらう。三河の山村では是と同じものをソバボットリと称して山神祭の欠くべからざる供物であつた。是もホウトウをそう訛つたのである。九州では豊後〈ブンゴ〉の或部分に、小麦粉を練つて味噌汁に落したものをホウチョウと謂つたことが、古川古松軒〈フルカワ・コショウケン〉の西遊雑記〈サイユウザッキ〉には見えて居る。大友氏の時代から始まつた食物で、文字は鮑腸と書くと云ふのは、やはり泥鰌同然の考へ過ぎであつたと思ふ。何れにしても生粉〈ナマコ〉の臼挽きが普及し従つて粉の貯蔵が可能になる迄は、是は相応に面倒な調理法であつた。それが家々の補食の一種となり又飲食店の商品ともなつたのは、器械の進歩であると同時に、晴と褻の食事の混乱でもあつたのである。
 もし入用に臨んで新たに作る物であつたならば、特に面倒をして生の穀物をはたき、又はわざわざ炒つて脆く〈モロク〉する必要は無い。最初から水に浸して柔かくして搗けばよかつたのである。だから以前の晴の日の品がはりには、水を加へて粉末にする第三の搗き方が、今よりもずつと多く行はれて居たのである。だから以前の晴の日の品がわりには、水を加えて粉末にする第三の搗きかたが、今よりもずつと多く行はれて居たのである。石臼が入つてから後も、大豆などはネバシビキが多く、豆腐以外にも其用途は色々あつた。蕎麦だけは性来生粉が作り易く、又香気を保つ為にも水に浸さぬ様であるが、其他の穀物は粉のまゝで食ふもの以外は、大抵はネバシビキにして居る。挽臼を用ゐなかつた時代は尚更のことであつたと思ふ。其中でも米には特にこのネバシ搗きの必要のあつたのは、臼に入れる水の加減を以て堅く又は柔く、時には稍〈ヤヤ〉液体に近い練粉までこしらへて居たからで、勿論一旦粉にしてから、水で薄めることも可能ではあるが、以前は専ら臼の中での仕事になつて居た。記録の上ではまだ見当らないが、私は是が一つの正式の米食法であつたらうかと思つて居る。現在伝はつて居るのは乳の不足な赤子〈アカゴ〉などに、布で包んでしやぶらせる位なもので、是にも地方的に色々の名がある。此以外には大抵は神霊の供御〈クゴ〉とするだけで、もう人間は生のまゝの米は食はないが、儀式の食品としては可なりよく保存せられて居る。もう忘れかゝつて居るから其名称を採録して置かねばならぬ。岐阜県の海津〈カイヅ〉郡などで、ナマコと謂つて居るのがこの米の汁の普通の名であつたらしい。淡路島でシロトアゲといふのがそれで、正月に之を製して神棚や仏壇に、檞〈カシワ〉の葉を以て注ぎかける。能登の穴水〈アナミズ〉地方では是を人根(ニンゴン?)と謂ふさうである。旧九月十五日の地蔵講の日に、七寸ほどに切つた藁を膳に載せ、是に白米を摺つて糊状〈ノリジョウ〉にしたものを注いで居る。これを人根といふのは珍しく、又どうしてさういふ事をするのかも私に判らぬが、考へてみなければならぬと思つて居る。福島県の石城平〈イワキ・タイラ〉附近の村では、同じものをオノリと謂つて居る。是も九月秋収後の幣束祭〈ヘイソクサイ〉に、こしらへて餅と共に神に供へる。祭の後には烏【からす】が来て之を食ふことになつて居る。烏に神供〈ジンク〉を投げ与へる風は、正月に東北一般に行はれて居るが、処によつては秋にも同じ事をするのである。色の黒い男が白足袋をはいて居るのを嘲つて〈アザケッテ〉、「烏がオノリを踏んだやうな足をして居る」などといふ諺も、此事実を知つて居る者には格別にをかしいのである。
 信州川中島地方で二月八日に作るチウギ餅なども、餅とは謂つても至つて柔かなものだと見えて、此日は子供がそれを持つて行つて、道祖神の石像の顔に塗り付ける。土地により甘酒地蔵もしくはモロミ地蔵と謂つて、路傍の地蔵に甘酒やモロミを注ぎ掛け、臭くて鼻をつまむやうだが、洗い落さうとすると罰〈バチ〉が当るなどといふのも、材料は異ふ〈チガウ〉が同じ信仰であつた。羽後〈ウゴ〉の神宮寺の道祖神を始とし、祭の日に神体に米の粉をふりかけるといふなども、乾いた粉の得にくかつた時代には、やはりこ此オノリを注いだものと思ふ。同じ習慣は東北地方、殊に旧南部領の盆の墓祭りの時にもある。やはり多くの他の食物と共に、この白色の粉を解いた液体を墓場の前と周囲にまき散らすので、土地では此行事をホカヒと謂つて居る。ホカヒはもと食物容器の名、即ち盆(瓮)という漢字の和語であつた。中部以西の盆の精霊棚〈ショウリョウダナ〉には、この白い米の水の代りに、鉢に水を入れたものを具へ〈ソナエ〉、ミソハギの枝を以て供物の上にふり掛け、又は墓参の往復にも之を路上に注ぐが、其水鉢の中へは茄子〈ナス〉や豇豆〈ササゲ〉などの細かく刻んだものゝ他に、家によつては米粒を入れて置く。それを「水の実)」とも又「水の子」とも謂つている。起りは皆一つであらうと思ふ。今では何故〈ナニユエ〉にさういふことをするのか、説明し得る者は一人も無いけれども、何れも祖霊に供養するものであるからには、本来は我々の晴の日の食物で、人だけは嗜好が転じてもう之を食はなくなつても、御先祖には前通りのものを進めて居たわけで、乃ち〈スナワチ〉日本の晴の食事にも、やはり時代の変化があり、我々は容易に国固有のもの、もしくは昔通りの食物といふものを知つて居るとは言へないのである。〈12~15ページ〉【以下、次回】


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志摩の姉らは何食て肥える

2025-01-04 02:26:27 | コラムと名言
◎志摩の姉らは何食て肥える

『社会経済史学』第3巻第9号(1934年1月)から、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢」を紹介している。本日は、その四回目。

          
 炒り粉はこしらへて直ぐに賞玩しないと味が悪くなる。是が此食物の晴の日の用に、元は限られて居た理由かと思ふ。是に反して生の穀物を搗いて粉にしたものは、貯蔵にはずつと便利であつた。それだから同時に亦褻【け】の食物としても使用せられたのである。石の挽臼〈ヒキウス〉が弘く行はれる迄は麦類は却つて生粉〈ナマコ〉には向かず、主としては屑米砕け米等の飯にはならぬもの、次には蕎麦などが盛んに粉にはたかれて居た。山野で採取せられる葛・山慈姑〈サンジコ〉・蕨の類、甘藷馬鈴薯等の栽培球根は水分を利用して粉砕せられたけれども、後に乾燥して貯蔵する故に、やはり常食の中に加へられて居る。生粉の調理法は二通りあつた。其一つは直接に熱湯を注ぎかけて和熟せしめるもの、三河の北部でカシアゲコと謂ひ、越後の中蒲原〈ナカカンバラ〉あたりでコシモチといふのも是らしいが、普通にはカイモチと称して食ふことになつて居る。我々の葛湯〈クズユ〉のこしらへ方のやうに、簡単に出来るものなら何でも斯うしてかいて食つたもので、カクといふのは攪拌〈カクハン〉することであつたらしい。関東の山村でカッコといふのは蕎麦カキのことだが、岡山地方の田処〈タドコロ〉で、カキコと謂つて居るのは米の粉を湯でかきまぜ、甘諸の煮たのなどゝ共に食ふ。飯の不足な急場に作るものださうである。奥羽の八戸あたりでカッケといふのも、名前の起りは同じであらう。現今は練つてからもう一度煠でる〈ユデル〉ので、やゝ食ひ方のちがつた蕎麦切りに過ぎぬが、元は只かいて食ふからカッケと名づけたものと思ふ。
 能登ではカイノゴは三番以下の籾〈モミ〉まじりの粗米で、団子の材料にするものだと謂つて居るが、その米の粉をも亦カイノゴといふから、やはりかい餅にする粉といふ意味であつた。それを汁に入れて再び煮たものを、伊勢ではやはりカイノコ汁といふのは、是も奥州のカッケの如く、後に調理法がやゝ改良したのである。多くの食物史家には無視せられてしまつたけれども、穀粉の消費も古くから相応に多く、殊に小麦粉が石臼で挽かれるやうになると、それだけ又農民の食品は変化を加へたのである。信州の北部でツメリ、関東でツミイレと謂つたのは、通例粗米の粉を水で練つて汁の中に投じて煮たものであつた。関西では之を汁団子、之は単に汁ワカシとも謂つて、冬分〈フユブン〉三食の一度は之を食わぬ農家も稀であつた。たゞ余りにもそれが尋常であり、又公衆の話題とするに足らぬが故に、書物にも録せられず、人も亦是を我土地ばかりの偶然の事実の如く考へたのである。単なる過去の貧しい生活の跡としてならば、忘れてしまふのも一つの幸福かは知らぬが、我々の新たに知り得ることが、是と伴なうて尚色々と残つて居たのである。少なくともどうして其種の慣行が起り、又斯くまで全国に行渡つて居るかを一応は考へて見る必要が有ると思ふ。
 大体に日本人は生活のこの部面において、甚だしく変化を好んで居たやうに見える。現代の多種多様なる飲食品目を見ても輸入採択の歴史の明らかなものが多く、是こそ昔から、たとへば十代の祖先の世と同じであらうと認め得るものは有るのかも知らぬが自分などにはまだ一向に見付からない。どうして又此様にひどく変つたものか。本来変化して止まらざるものであつたか。はた又近世に入つて急激に古風が消えたのか。もし後者だとすれば其原由や如何。食物は人が生きるといふことの、何よりも主要な外貌である。それに是だけ多くの未解決の問題を持ちながら、勇敢なる概括に走ることは順序が悪い。少しは面倒でもやはり此根本から、事実を積上げて行く必要が有るやうに私は考えて居る。
 近世の一つの顕著なる事実は、石の挽き臼の使用が普及して、物を粉にする作業がいと容易となり、従うて是を貯蔵して常の日の褻の食物と為し得たことかと思ふ。是と前から有つた粉製の晴の食物とは、味や形に於て格別の差の無いものも多く、珍らしく無くなれば有難くも無くなり、その結果は又斯る二種の食事の、分堺をぼやけさせた原因となつて居るやうである。是に就いて私の心づいた一つの例を挙げると、全国方言集には宮崎県のどこかで、食用米をデハと謂ふとある。他の地方ではまだ聞いたことが無く、語の意味も取りにくいが、壱岐島〈イキノシマ〉方言集にはあの島の常食の一種として、芋と穀物の粉とを釜で練つたものをデーハと謂ふとあつて、少なくとも起りは一つであるらしい。さうして此類の補食方法ならば、弘く他の地方にも行はれて居るのである。伊豆の新島〈ニイジマ〉でネリコと謂つたのは、甘藷の粉を米麦飯の中に入れて攪拌したものだといふことであるが、是は此島に薩摩芋が入つてから後の変化と思ふ。山梨県東部の山村では、蕎麦粉と南瓜〈カボチャ〉とを練り合せたものをオネリといふことあり、同県西北隅の田舎に在つては、モロコシの粉を練つて作る食物がオネリだといふ。原料にはよらなかつたのである。秋田県河辺〈カワベ〉郡のネリガユは、粃米【しひな】の粉であつて之を午食用に供し、三重県南海岸のネリゲはまた蕎麦粉であつた。この地方に行わるゝ茶揉み唄に、
    志摩のあねら〔姉等〕は何食て肥える
    蕎麦のねりげに塩辛添へて
    うまいうまいといふて肥える
と歌つたのは素より貧しい人々の自嘲の笑ひ節〈ワライブシ〉であつたらうが、曽ては又たそんな食物を以て、米の消費を節約する必要もあつたことを意味する。さうして是が忙しい労働の日に於ても、尚企て得られたのは製粉法の進歩であり、同時に我々の祖先の才覚のすぐれた点でもある。尤も此等の材料の中には、凶年その他の極度の欠乏の中で、始めて実験したものが多かつたらうが、製作が簡便で無かつた間は、平日に是を利用することは出来なかつた。蕨の根餅〈ネモチ〉や葛の粉の類は、今でも飢饉の際にはこしらへて食ふだけで、曽て常食の資料には編入せられたことが無く、却つて各地の名物として改良せられて居る。つまり手数の掛ると掛らぬとが、二通りの食事の主たる差異であつたからである。〈9~12ページ〉【以下、次回】

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吉事の支度には三本杵が用ゐられた

2025-01-03 00:01:52 | コラムと名言
◎吉事の支度には三本杵が用ゐられた

『社会経済史学』第3巻第9号(1934年1月)から、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢」を紹介している。本日は、その三回目。

          
 元来食物の褻【け】と晴【はれ】との区別は、必ずしも材料の優劣を意味しては居なかつた。晴の日の食物とても皆うまい物とは限らず、常の日以下のものさへ折々は用ゐられて居る。たとへば稲苅り終つて後の農神祭には、土穂餅【つちぼもち】又はミヨセ団子などゝ称して、仕事場の臼のこぼれを掃き寄せたものを食料とし、夏のかゝり〔初め〕の水の神祭には、小麦の粉をこねてボロソ餅などを製して居る。たゞ大いなる二者の相違は、其調整の為に費さるゝ労力の量であつた。ケシネ即ち平日の飯米は、一度に多く搗いて始から粟稗〈アワ・ヒエ〉の定量をまぜて置き、それを毎日片端から炊いて居た。アハセもしくはオカズといふ副食物も、大体に手数のかゝらぬ物をきめて、いつも同じ様な献立をくりかへして居た。是に反して時折〈トキオリ〉と称する節〈セチ〉の日には、必ずシナガハリを拵へ〈コシラエ〉て食つたので、カハリモノは通例皆多分の準備を要するものであつた。女が当然に其役目をつとめる。家に女性の重んぜられた理由の、最も大いなるものは晴の食物の生産と分配にあつた。酒の歴史に於ては此点が既に認められて居るが、餅や団子に就いても女の機能は同じであつた。
 是を説明するには一通りハタキモノの沿革、即ち臼の歴史を叙述しなければならぬ。神代の記録の中にも、既に葬式の日に舂女〈ツキメ〉が働いたことが見えて居るが、その風は今でも田舎には尚残つて居る。独り突如として起つた死喫の場合のみならず、予て〈カネテ〉定まつて〈キマッテ〉居る祭典祝賀のすべての日にも、元は是に先だつて臼の仕事があり、其臼はすべて手杵であつた。(碾磑〈テンガイ〉の輸入は可なり古いけれども、其用途は薬品香料の如き、微細なものに眼られて居たやうである)。吉事の支度には三本杵が用ゐられた。即ち三人の女性が是に参与したので、臼に伴なふ古来の民謡は、何れもこの手杵の操作を其間拍子〈マビョウシ〉に用ゐて居る。其臼には大小の種類があつて、米麦でいふならば粗搗【あらづ】きから精白を経て、是を粉にしてしまふ迄、以前は悉く搗き臼の作業であつた。籾摺り臼の普及は一般に新らしいことであるが、製粉の方だけは土地によつて、百年以上も前から石碓〈イシウス〉をまはして挽いて居た。しかし是も亦曽つては皆はたいて粉にして居たことは炒粉【いりこ】をハツタイと謂ふたゞ一つの語からでも判る。さうして限在もまだ辺隅の地に於ては、其方法が持続して居るのである。
 臼で穀物を粉にする方法は、昔から三通りあつたやうである。其中でも最も面倒なのは、今の製粉工業の如く生のまゝで粉にはたくことであつた。他の二つは是に比べると共に遥かに簡便なもの、即ち炒つて脆く〈モロク〉して之を搗き砕くのと、今一つは水に浸して柔らげて押し潰すものとであつた。米にも東北ではシラゴメと称して、妙つてはたいて食ふものがある。津軽秋田等のシラゴメは、八月十五夜の祭の正式の供物で、或は女には食ふことを許さぬ土地さへある。大豆の炒粉〈イリコ〉はキナコと謂つて今も普通であるが、是には今一つの水浸けの法も行はれて居る。炒り搗きを主とするのは麦類が多かつた。是は他の方法の殊に施し難いのと、今一つには斯うして食ふのが最も旨かつたからであらう。色々の名称があるが、コガシといふ語は最も弘く行はれ、又夙く〈ハヤク〉新撰犬筑波集〈シンセンイヌツクバシュウ〉にも見えて居る。是を訛つて大和ではコバシ、土佐ではトガシとも謂つて居る。東京附近のコウセンは、香煎との混同だと思つて居る人も多いが、或は亦コガシの転じたものかも知れぬ。以前の標準語でオチリ又はオチラシと謂つたのは、此粉のこぼれ易い所から出た名で、乃ち又粉のまゝで食ふ食物なることを語つて居る。
 此以外にやゝ珍らしい一例は、淡路でワカトと称する正月八日の晴の食物で、是は米と大豆とを交ぜて炒つたものを、挽いて粉にして神にも供へて居る。他ではあまり聞いたことは無いが、現在オイリと称して雛の節供などに、豆と米粒と霰餅〈アラレモチ〉とを併せて炒つたのを食ふのが是に近く、たゞ一方では臼の役目を、めいめいの臼歯に委譲したゞけの相違である。それから考へて行くと、滋賀県北部などで麦の炒粉〈イリコ〉をカミコと謂ふのと、飛騨で焼米をカミゴメといふのと、二つの言葉の似て居るのは偶然で無く、双方共に以前は儀式の食物であつたことが推察せられる。記録の側でも焼米の出現は古い。はたいて是を粉にする風習は、是に次いで起つたものであらう。〈7~9ページ〉【以下、次回】

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