◎西野文太郎関係の出版物、発禁となる
本日は、『明治二十二年 法令全書 第三号 内閣官報局』(長尾景弼、1889年4月11日)を紹介してみたい。これは、今月10日から12日にかけて紹介した『明治二十二年 法令全書 第弐号 内閣官報局』(長尾景弼、1889年3月15日)の次号にあたる。
『法令全書』(毎月一回発行)の明治二十二年第三号には、内務省告示第五号ないし第十号が載っている。このうち、第六号、第七号、九号は以下の通り。
○内務省告示第六号
一西野文太郎略伝 下谷区御徒町一丁目四十三番地佐野金之助発行
一古今百家伝西野文太郎 下谷区阪本町一丁目十六番地浅賀鉄次郎発行
一西野文太郎辞世 神田区山本町二十番地鶴田富三発行
一西野文太郎君肖像 京橋区南紺屋町一番地小川寅松発行
右四種ノ出版物ハ治安ニ妨害アルモノト認メ其発売頒布ヲ禁止ス
明治二十二年三月十三日 内務大臣伯爵松方正義
○内務省告示第七号
一{絵/入}西野文太郎詳伝 一冊 麻布区材木町五十四番地高山善内発行
右出版物ハ治安ニ妨害アルモノト認メ其発売頒布ヲ禁止ス
明治二十二年三月十五日 内務大臣伯爵松方正義
○内務省告示第九号
一浮世一ツトセぶし 一枚 日本橋区若松町十五番地尾関トヨ発行
一{当/盛}浮世一ツトセぶし 二枚 下谷区御徒町一丁目四十三番地佐野金之助発行
右出版物ハ治安ニ妨害アルモノト認メ其発売頒布ヲ禁止ス
明治二十二年三月十六日 内務大臣伯爵松方正義
帝国憲法発布時の文部大臣は、森有礼(もり・ありのり、1847~1889)だったが、発布式の当日、式に向かうため官邸を出たところで、国粋主義者の西野文太郎(にしのぶんたろう、1865~1889)に腹を刺され、その翌日、死亡した。
ウィキペディア「西野文太郎」には、次のようにある。
1887年(明治20年)、文部大臣森有礼が伊勢神宮において不敬な態度をとった(伊勢神宮不敬事件。伊勢神宮に参拝した際、拝殿に掛かる布の簾をステッキで払い除けて中を覗いた)という報道が行なわれる。この事件については、事実ではないという説も強く真偽は不明であるが、当時伊勢神宮造営掛であった西野はこれを信じ、森を許せないと考えるようになった。こうして西野は、1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典の出席準備をしていた森を訪ね、出刃包丁でその腹部を刺すという犯行に及ぶ。森は出血多量で翌日死亡したが、西野もまたその場で森の護衛に台所まで追い詰められ、仕込み杖により斬られて死亡した。23歳であった。
暗殺の当日に所持していた斬奸状には、「天皇を頂く我が国の基礎を破壊し、我が国を亡滅に陥れようとした」などと記載されていた。
1889年(明治22年)2月25日付の『東京日日新聞』によれば、西野に対して無名で香典を贈る者や、葬送の際に霊前で祭文を読む者、西野の経歴や逸事を調べてまとめた物を販売し、その代金を西野の将来の祭祀料にしようと計画した者などがおり、民衆からはある程度人気を集めたとされる。
内務省は、1889年(明治22年)3月に、告示第六号、第七号を発し、西野文太郎関係の出版物を「治安ニ妨害アルモノ」として発禁にしている。告示第九号にある『浮世一ツトセぶし』『当盛浮世一ツトセぶし』の内容は確認していないが、これらも、西野文太郎に関わるものだった可能性が高い。
本日は、『明治二十二年 法令全書 第三号 内閣官報局』(長尾景弼、1889年4月11日)を紹介してみたい。これは、今月10日から12日にかけて紹介した『明治二十二年 法令全書 第弐号 内閣官報局』(長尾景弼、1889年3月15日)の次号にあたる。
『法令全書』(毎月一回発行)の明治二十二年第三号には、内務省告示第五号ないし第十号が載っている。このうち、第六号、第七号、九号は以下の通り。
○内務省告示第六号
一西野文太郎略伝 下谷区御徒町一丁目四十三番地佐野金之助発行
一古今百家伝西野文太郎 下谷区阪本町一丁目十六番地浅賀鉄次郎発行
一西野文太郎辞世 神田区山本町二十番地鶴田富三発行
一西野文太郎君肖像 京橋区南紺屋町一番地小川寅松発行
右四種ノ出版物ハ治安ニ妨害アルモノト認メ其発売頒布ヲ禁止ス
明治二十二年三月十三日 内務大臣伯爵松方正義
○内務省告示第七号
一{絵/入}西野文太郎詳伝 一冊 麻布区材木町五十四番地高山善内発行
右出版物ハ治安ニ妨害アルモノト認メ其発売頒布ヲ禁止ス
明治二十二年三月十五日 内務大臣伯爵松方正義
○内務省告示第九号
一浮世一ツトセぶし 一枚 日本橋区若松町十五番地尾関トヨ発行
一{当/盛}浮世一ツトセぶし 二枚 下谷区御徒町一丁目四十三番地佐野金之助発行
右出版物ハ治安ニ妨害アルモノト認メ其発売頒布ヲ禁止ス
明治二十二年三月十六日 内務大臣伯爵松方正義
帝国憲法発布時の文部大臣は、森有礼(もり・ありのり、1847~1889)だったが、発布式の当日、式に向かうため官邸を出たところで、国粋主義者の西野文太郎(にしのぶんたろう、1865~1889)に腹を刺され、その翌日、死亡した。
ウィキペディア「西野文太郎」には、次のようにある。
1887年(明治20年)、文部大臣森有礼が伊勢神宮において不敬な態度をとった(伊勢神宮不敬事件。伊勢神宮に参拝した際、拝殿に掛かる布の簾をステッキで払い除けて中を覗いた)という報道が行なわれる。この事件については、事実ではないという説も強く真偽は不明であるが、当時伊勢神宮造営掛であった西野はこれを信じ、森を許せないと考えるようになった。こうして西野は、1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典の出席準備をしていた森を訪ね、出刃包丁でその腹部を刺すという犯行に及ぶ。森は出血多量で翌日死亡したが、西野もまたその場で森の護衛に台所まで追い詰められ、仕込み杖により斬られて死亡した。23歳であった。
暗殺の当日に所持していた斬奸状には、「天皇を頂く我が国の基礎を破壊し、我が国を亡滅に陥れようとした」などと記載されていた。
1889年(明治22年)2月25日付の『東京日日新聞』によれば、西野に対して無名で香典を贈る者や、葬送の際に霊前で祭文を読む者、西野の経歴や逸事を調べてまとめた物を販売し、その代金を西野の将来の祭祀料にしようと計画した者などがおり、民衆からはある程度人気を集めたとされる。
内務省は、1889年(明治22年)3月に、告示第六号、第七号を発し、西野文太郎関係の出版物を「治安ニ妨害アルモノ」として発禁にしている。告示第九号にある『浮世一ツトセぶし』『当盛浮世一ツトセぶし』の内容は確認していないが、これらも、西野文太郎に関わるものだった可能性が高い。
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