◎近畿の諸県でいうケンズイは間食の呉音
『社会経済史学』第3巻第9号(1934年1月)から、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢」を紹介している。本日は、その二回目。
二
晴の食事の形の崩れた理由としては、幾つかの重要なものが挙げられるが、最初に気の付くことは是と常の食事との中間に、どつち付かずのものが現れて来たことである。ヒルマ即ち昼食〈チュウジキ〉といふものが、我々にも普通となり、所謂三度の食事を要するに至つたのは最も大きい変遷である。以前の食事が朝夕の二度であつたことは、江戸期の学者も之を説いて居る。奥羽で一般に一パイと謂ひ、九州ではゴ一つと称へたのは、共に今日の枡目の約二合五勺であつた。是が一人扶持〈イチニンブチ〉の五合を二つに分けて、朝夕一かたけ〔片食〕づゝ食はせた痕跡であることは疑が無い。多くの農家には関西でゲビツ東北でケシネギツなどゝいふ糧米櫃〈ロウマイビツ〉があつて、其中には略そ〈オヨソ〉の分量を盛る瓢〈フクベ〉又は古椀〈フルワン〉などが入れてあつた。此器を以て家に働く者の名を思ひつゝ量り出せば、主婦には掛け算の胸算用をする必要が無かつた。さうして常の日の食物ごしらへは、今よりも遥かに簡略で済んだのである。
ヒルマは元来は餉〈カレイ〉即ち運搬せられる食物の名であつた。今でも是を家に於ける昼飯と区別して、田植の日などに屋外へ持つて来るものだけを、ヒルマと呼んで居る地方は多い。恐らくは最初或る特殊の作業の日だけに、斯ういふ食物を調へ〈トトノエ〉て田人〈タヒト〉をねぎらうて居た習慣が、追々に拡張して来たものであらう。しかも烈しく働く日が多くなつて、三度はいつの日でも食はずに居れぬやうになつたのみならず、更にそれ以上に春の末から夏にかけては、午前と午後ともう一度づゝのコビルといふものを運び出すととにさへなつた。総計で少なくとも五度は食事をする。是などは明かに上代からの旧慣では無かつたのである。
小昼は何処でも午前十時頃と、午後三時頃とに給与せられる。関東では普通に是をコヂウハン(小昼飯)もしくはコヂハンなどゝ謂ふが、東北は秋田県の如く、昔の通りにコンビリマンマといふ土地も多い。越中では訛つてコボレと謂ひ、又はナカマとも謂つて居る。ナカマは即ち中間食の意で、九州でも薩摩の南端でナカンマとも呼んで居るから、可なり古くからの名であつたことがわかる。山陰地方は一帯に、この食車をハシマと謂つて通ずる。ハシマもハサマも即ち中間の食物であつて、村によつて是を又小バシマとも、コバサマとも謂ふのを見ると、前のコギルマと同様に、ハシマが本来は今の昼飯のことを意味したことが察せられる。即ちハサマはもと朝夕二度の常食の中間にたべるものゝ名であつたのが、昼飯が定例となると、更に転じて是と朝夕二度の飯との、中間のものを指すことになつたのみならず、今日九州北部などに於て、ハサグヒ又はハダグヒと謂ふのは、唯の御八つや御十時の間食を意味するのである。近畿と其周囲の諸県でケンズイといふ語は、閑田耕筆にも既に注意して居る如く、「間食」の呉音であつて寺家〈ジケ〉から出た言葉らしいが、是を東国の小昼飯の意味に田舎では用ゐて居り、町方では子供に与へるナンゾと同じやうに解して居る他に、中国九州では普請の日に、大工や手伝に給与する酒食に限つて、ケンズイ又はケンジーと謂ふ土地も多い。言葉は保存布せられても内容はもう変化して居るのである。
右の五回の食事の外に、又夜食といふものがある。夜なべに働く人々に食はせるだけで無く、吉凶さまざまの事件の為に、夜遅くまで起きて居る人にも出す。日中の間食を或はヒナガとも謂ふに対して、是をヨナガといふのは夜長であらう。肥前の島原半島などでは是をヨナガリとも謂ふさうである。妙な言葉であるが其起原は、朝食をアサガリといふ語にかぶれたものと思ふ。アガルは田畠仕事場から上つて来ること、即ち休息を意味する。どんなにせわしい日でも食事の時間だけは休む。それで食事をアガリとは謂ひ始めたのである。朝上りといふ語は通例の朝飯以前に既に一働き働いて居た痕跡に他ならぬ。多くの農家ではその朝仕事に就く為に、別に起きぬけに簡単なる一回の間食をさせて居る。それと夜食とを加へると、都合七度は食ふことになるのである。此早天〔あけがた〕の間食を、陸中遠野などでアサナガシといふのは古語らしいが、今は全国ほゞ一様に、是をオチャノコと呼ぶことになつて居る。御茶の子の材料は区々〈マチマチ〉である。鍋に残つた前夜の飯の余りを食ふ場合もあるが、東日本では普通その為に焼餅といふものがある。稗〈ヒエ〉や蕎麦の粉や屑米を挽いたものを水で練つて大きな団子にして、炉の火に打込んで焼く。それを引出して灰を払ひ落したものが一個づゝ与へられる。山村では馬上にそれをかぢりながら、娘や男が朝草を苅りに出かけるのである。江戸でも以前はさういふ生活があつたと見えて、楽な仕事だ小さな骨折だといふ意味に、「そんな事は朝飯前だ」とも謂へば、又「そんな事はお茶の子だ」とも謂つて居た。即ち亦御茶の子は朝飯前の食事であつたのである。
茶は農民の最も愛用したものと見えて、ハシマ・コバサマ・コヂウハンのことを、御茶と呼んで居る地方も甚だ多く、食事と食事との間の時間を、ヒトコマンチャなどゝ薩摩では謂つて居り、単にチヤドキといへば午後三時もしくは午前十時頃を意味して居た。茶とはいふけれども必ず固形物を伴なひ、それも漬物の塩気ぐらゐでは、働く人々は承知しなかつた。オケヂヤもしくはウケヂヤといふ食物は、日本海側では越後や出雲、太平洋側では紀州の熊野、備中あたりにも分布して居る。或は炒米〈イリゴメ〉と甘藷とを合せ炊き、又は豆飯であつたり茶飯であつたりするが、兎に角にどこでも味附飯のことを謂つて居る。斯ういふ一種の食物が発明せられ又弘く行はれたのである。早天所謂御茶の子を除いて、其他の間食は皆御茶と謂つて居る。東京でも職人には必ずこの御茶が給与せられる。それが更に拡張して簡単なる客招び〈キャクヨビ〉をも、御茶と謂つて居る処は方々にある。東日本では主として仏事の小宴が御茶だが、九州では誕生婚姻の如き、吉事にも人をこの御茶に招いて居る。茶樹が外国の輸入だといふ説は誤りながら、少なくとも茶の飲用だけは中世以後に始つて居る。従うて此語の固有のもので無いことは明かだが、それが代表して居る頻々たる食事回数も、恐らくは亦それより古くなく、両者ともに之を促した原因が新たに起つたものと思はれる。
食事の回数の増加は、勿論栄養量の増加とは関係が無かつた。以前朝夕たゞ二度に喰ひ尽してゐたものを、五度にも七度にも分けて食ふといふ場合もあつたか知れない。人が喰ひ溜めをする力といふものが、是に就いて先づ考へられる。喰ひ溜めは睡りだめと共に、以前は壮年の男の長所の一に算へられ、或は努力修養すべき美徳とさへ考へられて居たやうである。是が無用になつたのは平和の世の恩沢であらう。次に考へられるのは趣味即ち人が降伏にならうとする念慮、及び労働する人々の希望が少しづゝ容れられて来たことであり、最後にはそれを支持し又可能ならしめた先例と社会慣習が、此事実を透して窺ひ知られるのである。慣習は多くは古いものであるが、それとても不変常在のもので無かつた。何か偶然の機縁で始まつたことが、次第に悦び迎へられて確乎たる先例を作り得たのである。何にもせよ食事回数の増加は新らしい現象であつて、しかも其普及によつて意外なる変化を我々の生活に及ぼしたことは確かである。ヒルマや小ビルマは最初に限られたる日の食事であり、又特別の調理に成るものであつた故に、用途は褻【け】であつたけれども人に晴の食物のやうな好い印象を与へた。それから今一つは何れも分割と運搬とを許す食物であつた為に、他の多くの雑餉〈ザッショウ〉と同様に、次第に共同食事の色々な拘束から、独立して発達することになり、其結果は終に家々又は各例人の食物選択の自由を、促進する動力ともなり得たのである。〈3~7ページ〉【以下、次回】
『社会経済史学』第3巻第9号(1934年1月)から、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢」を紹介している。本日は、その二回目。
二
晴の食事の形の崩れた理由としては、幾つかの重要なものが挙げられるが、最初に気の付くことは是と常の食事との中間に、どつち付かずのものが現れて来たことである。ヒルマ即ち昼食〈チュウジキ〉といふものが、我々にも普通となり、所謂三度の食事を要するに至つたのは最も大きい変遷である。以前の食事が朝夕の二度であつたことは、江戸期の学者も之を説いて居る。奥羽で一般に一パイと謂ひ、九州ではゴ一つと称へたのは、共に今日の枡目の約二合五勺であつた。是が一人扶持〈イチニンブチ〉の五合を二つに分けて、朝夕一かたけ〔片食〕づゝ食はせた痕跡であることは疑が無い。多くの農家には関西でゲビツ東北でケシネギツなどゝいふ糧米櫃〈ロウマイビツ〉があつて、其中には略そ〈オヨソ〉の分量を盛る瓢〈フクベ〉又は古椀〈フルワン〉などが入れてあつた。此器を以て家に働く者の名を思ひつゝ量り出せば、主婦には掛け算の胸算用をする必要が無かつた。さうして常の日の食物ごしらへは、今よりも遥かに簡略で済んだのである。
ヒルマは元来は餉〈カレイ〉即ち運搬せられる食物の名であつた。今でも是を家に於ける昼飯と区別して、田植の日などに屋外へ持つて来るものだけを、ヒルマと呼んで居る地方は多い。恐らくは最初或る特殊の作業の日だけに、斯ういふ食物を調へ〈トトノエ〉て田人〈タヒト〉をねぎらうて居た習慣が、追々に拡張して来たものであらう。しかも烈しく働く日が多くなつて、三度はいつの日でも食はずに居れぬやうになつたのみならず、更にそれ以上に春の末から夏にかけては、午前と午後ともう一度づゝのコビルといふものを運び出すととにさへなつた。総計で少なくとも五度は食事をする。是などは明かに上代からの旧慣では無かつたのである。
小昼は何処でも午前十時頃と、午後三時頃とに給与せられる。関東では普通に是をコヂウハン(小昼飯)もしくはコヂハンなどゝ謂ふが、東北は秋田県の如く、昔の通りにコンビリマンマといふ土地も多い。越中では訛つてコボレと謂ひ、又はナカマとも謂つて居る。ナカマは即ち中間食の意で、九州でも薩摩の南端でナカンマとも呼んで居るから、可なり古くからの名であつたことがわかる。山陰地方は一帯に、この食車をハシマと謂つて通ずる。ハシマもハサマも即ち中間の食物であつて、村によつて是を又小バシマとも、コバサマとも謂ふのを見ると、前のコギルマと同様に、ハシマが本来は今の昼飯のことを意味したことが察せられる。即ちハサマはもと朝夕二度の常食の中間にたべるものゝ名であつたのが、昼飯が定例となると、更に転じて是と朝夕二度の飯との、中間のものを指すことになつたのみならず、今日九州北部などに於て、ハサグヒ又はハダグヒと謂ふのは、唯の御八つや御十時の間食を意味するのである。近畿と其周囲の諸県でケンズイといふ語は、閑田耕筆にも既に注意して居る如く、「間食」の呉音であつて寺家〈ジケ〉から出た言葉らしいが、是を東国の小昼飯の意味に田舎では用ゐて居り、町方では子供に与へるナンゾと同じやうに解して居る他に、中国九州では普請の日に、大工や手伝に給与する酒食に限つて、ケンズイ又はケンジーと謂ふ土地も多い。言葉は保存布せられても内容はもう変化して居るのである。
右の五回の食事の外に、又夜食といふものがある。夜なべに働く人々に食はせるだけで無く、吉凶さまざまの事件の為に、夜遅くまで起きて居る人にも出す。日中の間食を或はヒナガとも謂ふに対して、是をヨナガといふのは夜長であらう。肥前の島原半島などでは是をヨナガリとも謂ふさうである。妙な言葉であるが其起原は、朝食をアサガリといふ語にかぶれたものと思ふ。アガルは田畠仕事場から上つて来ること、即ち休息を意味する。どんなにせわしい日でも食事の時間だけは休む。それで食事をアガリとは謂ひ始めたのである。朝上りといふ語は通例の朝飯以前に既に一働き働いて居た痕跡に他ならぬ。多くの農家ではその朝仕事に就く為に、別に起きぬけに簡単なる一回の間食をさせて居る。それと夜食とを加へると、都合七度は食ふことになるのである。此早天〔あけがた〕の間食を、陸中遠野などでアサナガシといふのは古語らしいが、今は全国ほゞ一様に、是をオチャノコと呼ぶことになつて居る。御茶の子の材料は区々〈マチマチ〉である。鍋に残つた前夜の飯の余りを食ふ場合もあるが、東日本では普通その為に焼餅といふものがある。稗〈ヒエ〉や蕎麦の粉や屑米を挽いたものを水で練つて大きな団子にして、炉の火に打込んで焼く。それを引出して灰を払ひ落したものが一個づゝ与へられる。山村では馬上にそれをかぢりながら、娘や男が朝草を苅りに出かけるのである。江戸でも以前はさういふ生活があつたと見えて、楽な仕事だ小さな骨折だといふ意味に、「そんな事は朝飯前だ」とも謂へば、又「そんな事はお茶の子だ」とも謂つて居た。即ち亦御茶の子は朝飯前の食事であつたのである。
茶は農民の最も愛用したものと見えて、ハシマ・コバサマ・コヂウハンのことを、御茶と呼んで居る地方も甚だ多く、食事と食事との間の時間を、ヒトコマンチャなどゝ薩摩では謂つて居り、単にチヤドキといへば午後三時もしくは午前十時頃を意味して居た。茶とはいふけれども必ず固形物を伴なひ、それも漬物の塩気ぐらゐでは、働く人々は承知しなかつた。オケヂヤもしくはウケヂヤといふ食物は、日本海側では越後や出雲、太平洋側では紀州の熊野、備中あたりにも分布して居る。或は炒米〈イリゴメ〉と甘藷とを合せ炊き、又は豆飯であつたり茶飯であつたりするが、兎に角にどこでも味附飯のことを謂つて居る。斯ういふ一種の食物が発明せられ又弘く行はれたのである。早天所謂御茶の子を除いて、其他の間食は皆御茶と謂つて居る。東京でも職人には必ずこの御茶が給与せられる。それが更に拡張して簡単なる客招び〈キャクヨビ〉をも、御茶と謂つて居る処は方々にある。東日本では主として仏事の小宴が御茶だが、九州では誕生婚姻の如き、吉事にも人をこの御茶に招いて居る。茶樹が外国の輸入だといふ説は誤りながら、少なくとも茶の飲用だけは中世以後に始つて居る。従うて此語の固有のもので無いことは明かだが、それが代表して居る頻々たる食事回数も、恐らくは亦それより古くなく、両者ともに之を促した原因が新たに起つたものと思はれる。
食事の回数の増加は、勿論栄養量の増加とは関係が無かつた。以前朝夕たゞ二度に喰ひ尽してゐたものを、五度にも七度にも分けて食ふといふ場合もあつたか知れない。人が喰ひ溜めをする力といふものが、是に就いて先づ考へられる。喰ひ溜めは睡りだめと共に、以前は壮年の男の長所の一に算へられ、或は努力修養すべき美徳とさへ考へられて居たやうである。是が無用になつたのは平和の世の恩沢であらう。次に考へられるのは趣味即ち人が降伏にならうとする念慮、及び労働する人々の希望が少しづゝ容れられて来たことであり、最後にはそれを支持し又可能ならしめた先例と社会慣習が、此事実を透して窺ひ知られるのである。慣習は多くは古いものであるが、それとても不変常在のもので無かつた。何か偶然の機縁で始まつたことが、次第に悦び迎へられて確乎たる先例を作り得たのである。何にもせよ食事回数の増加は新らしい現象であつて、しかも其普及によつて意外なる変化を我々の生活に及ぼしたことは確かである。ヒルマや小ビルマは最初に限られたる日の食事であり、又特別の調理に成るものであつた故に、用途は褻【け】であつたけれども人に晴の食物のやうな好い印象を与へた。それから今一つは何れも分割と運搬とを許す食物であつた為に、他の多くの雑餉〈ザッショウ〉と同様に、次第に共同食事の色々な拘束から、独立して発達することになり、其結果は終に家々又は各例人の食物選択の自由を、促進する動力ともなり得たのである。〈3~7ページ〉【以下、次回】
*このブログの人気記事 2025・1・2(10位になぜか永山則夫、8位は時節柄か)
- 柳田國男の講演記録「餅と臼と擂鉢」を読む
- 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト108(23...
- 女流小説家にして男まさりの大和心を持つてゐる
- 読んでいただきたかったコラム10(2024年後...
- 礫川ブログへのアクセス・歴代ワースト60(24...
- 紫式部は理論的かつ創作的天才(島津久基)
- デアルがヂャとなり、行キアレが行キャレとなる
- 生方恵一アナウンサーと「ミソラ事件」
- 日本堂事件(1947)と帝銀事件(1948)
- 永山則夫との交流を回想する柏木隆法氏