礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

志摩の姉らは何食て肥える

2025-01-04 02:26:27 | コラムと名言
◎志摩の姉らは何食て肥える

『社会経済史学』第3巻第9号(1934年1月)から、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢」を紹介している。本日は、その四回目。

          
 炒り粉はこしらへて直ぐに賞玩しないと味が悪くなる。是が此食物の晴の日の用に、元は限られて居た理由かと思ふ。是に反して生の穀物を搗いて粉にしたものは、貯蔵にはずつと便利であつた。それだから同時に亦褻【け】の食物としても使用せられたのである。石の挽臼〈ヒキウス〉が弘く行はれる迄は麦類は却つて生粉〈ナマコ〉には向かず、主としては屑米砕け米等の飯にはならぬもの、次には蕎麦などが盛んに粉にはたかれて居た。山野で採取せられる葛・山慈姑〈サンジコ〉・蕨の類、甘藷馬鈴薯等の栽培球根は水分を利用して粉砕せられたけれども、後に乾燥して貯蔵する故に、やはり常食の中に加へられて居る。生粉の調理法は二通りあつた。其一つは直接に熱湯を注ぎかけて和熟せしめるもの、三河の北部でカシアゲコと謂ひ、越後の中蒲原〈ナカカンバラ〉あたりでコシモチといふのも是らしいが、普通にはカイモチと称して食ふことになつて居る。我々の葛湯〈クズユ〉のこしらへ方のやうに、簡単に出来るものなら何でも斯うしてかいて食つたもので、カクといふのは攪拌〈カクハン〉することであつたらしい。関東の山村でカッコといふのは蕎麦カキのことだが、岡山地方の田処〈タドコロ〉で、カキコと謂つて居るのは米の粉を湯でかきまぜ、甘諸の煮たのなどゝ共に食ふ。飯の不足な急場に作るものださうである。奥羽の八戸あたりでカッケといふのも、名前の起りは同じであらう。現今は練つてからもう一度煠でる〈ユデル〉ので、やゝ食ひ方のちがつた蕎麦切りに過ぎぬが、元は只かいて食ふからカッケと名づけたものと思ふ。
 能登ではカイノゴは三番以下の籾〈モミ〉まじりの粗米で、団子の材料にするものだと謂つて居るが、その米の粉をも亦カイノゴといふから、やはりかい餅にする粉といふ意味であつた。それを汁に入れて再び煮たものを、伊勢ではやはりカイノコ汁といふのは、是も奥州のカッケの如く、後に調理法がやゝ改良したのである。多くの食物史家には無視せられてしまつたけれども、穀粉の消費も古くから相応に多く、殊に小麦粉が石臼で挽かれるやうになると、それだけ又農民の食品は変化を加へたのである。信州の北部でツメリ、関東でツミイレと謂つたのは、通例粗米の粉を水で練つて汁の中に投じて煮たものであつた。関西では之を汁団子、之は単に汁ワカシとも謂つて、冬分〈フユブン〉三食の一度は之を食わぬ農家も稀であつた。たゞ余りにもそれが尋常であり、又公衆の話題とするに足らぬが故に、書物にも録せられず、人も亦是を我土地ばかりの偶然の事実の如く考へたのである。単なる過去の貧しい生活の跡としてならば、忘れてしまふのも一つの幸福かは知らぬが、我々の新たに知り得ることが、是と伴なうて尚色々と残つて居たのである。少なくともどうして其種の慣行が起り、又斯くまで全国に行渡つて居るかを一応は考へて見る必要が有ると思ふ。
 大体に日本人は生活のこの部面において、甚だしく変化を好んで居たやうに見える。現代の多種多様なる飲食品目を見ても輸入採択の歴史の明らかなものが多く、是こそ昔から、たとへば十代の祖先の世と同じであらうと認め得るものは有るのかも知らぬが自分などにはまだ一向に見付からない。どうして又此様にひどく変つたものか。本来変化して止まらざるものであつたか。はた又近世に入つて急激に古風が消えたのか。もし後者だとすれば其原由や如何。食物は人が生きるといふことの、何よりも主要な外貌である。それに是だけ多くの未解決の問題を持ちながら、勇敢なる概括に走ることは順序が悪い。少しは面倒でもやはり此根本から、事実を積上げて行く必要が有るやうに私は考えて居る。
 近世の一つの顕著なる事実は、石の挽き臼の使用が普及して、物を粉にする作業がいと容易となり、従うて是を貯蔵して常の日の褻の食物と為し得たことかと思ふ。是と前から有つた粉製の晴の食物とは、味や形に於て格別の差の無いものも多く、珍らしく無くなれば有難くも無くなり、その結果は又斯る二種の食事の、分堺をぼやけさせた原因となつて居るやうである。是に就いて私の心づいた一つの例を挙げると、全国方言集には宮崎県のどこかで、食用米をデハと謂ふとある。他の地方ではまだ聞いたことが無く、語の意味も取りにくいが、壱岐島〈イキノシマ〉方言集にはあの島の常食の一種として、芋と穀物の粉とを釜で練つたものをデーハと謂ふとあつて、少なくとも起りは一つであるらしい。さうして此類の補食方法ならば、弘く他の地方にも行はれて居るのである。伊豆の新島〈ニイジマ〉でネリコと謂つたのは、甘藷の粉を米麦飯の中に入れて攪拌したものだといふことであるが、是は此島に薩摩芋が入つてから後の変化と思ふ。山梨県東部の山村では、蕎麦粉と南瓜〈カボチャ〉とを練り合せたものをオネリといふことあり、同県西北隅の田舎に在つては、モロコシの粉を練つて作る食物がオネリだといふ。原料にはよらなかつたのである。秋田県河辺〈カワベ〉郡のネリガユは、粃米【しひな】の粉であつて之を午食用に供し、三重県南海岸のネリゲはまた蕎麦粉であつた。この地方に行わるゝ茶揉み唄に、
    志摩のあねら〔姉等〕は何食て肥える
    蕎麦のねりげに塩辛添へて
    うまいうまいといふて肥える
と歌つたのは素より貧しい人々の自嘲の笑ひ節〈ワライブシ〉であつたらうが、曽ては又たそんな食物を以て、米の消費を節約する必要もあつたことを意味する。さうして是が忙しい労働の日に於ても、尚企て得られたのは製粉法の進歩であり、同時に我々の祖先の才覚のすぐれた点でもある。尤も此等の材料の中には、凶年その他の極度の欠乏の中で、始めて実験したものが多かつたらうが、製作が簡便で無かつた間は、平日に是を利用することは出来なかつた。蕨の根餅〈ネモチ〉や葛の粉の類は、今でも飢饉の際にはこしらへて食ふだけで、曽て常食の資料には編入せられたことが無く、却つて各地の名物として改良せられて居る。つまり手数の掛ると掛らぬとが、二通りの食事の主たる差異であつたからである。〈9~12ページ〉【以下、次回】

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