礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

東北では正月、カラスに神供を投げ与へる

2025-01-05 00:49:32 | コラムと名言
◎東北では正月、カラスに神供を投げ与へる

『社会経済史学』第3巻第9号(1934年1月)から、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢」を紹介している。本日は、その五回目。
 文中に、「是を人根(ニンゴン?)と謂ふ」というところがあるが、この「?」は、原文にあったものである。

          
 所謂麺類は此意味に於て、今尚村落では晴の日の食物である。是が三度の食事よりも、更に自由に得られるといふことは、都市に於てもさう古くからの現象で無く、しかも一たび其風習が起ると、忽ち〈タチマチ〉にして大いなる町の魅力となつたのは、餅や団子も同様に、簡便なる石の挽臼の普及に助けられたので、古風に規則正しい田舎の生活が、外部の影響に勝てなかつた弱味も爰〈ココ〉に在つた。東北で今日ハツトウと謂つて居るのは、主として蕎麦のかい餅をつみ入れた汁類のことであり、出来た食品が関西のハツタイとは全く違つて居る為に、両者もとは共にハタキモノの義であつたことは忘れられて居る。栃木県の東部では是をハツト汁と謂ひ、あまりに旨いから飢饉年には作つて食ふことを禁じた。それで法度汁【はつとじる】と謂ふのだといふ説明伝説まで生れて居る。しかし此名称と調理法は、古いと見えて可なり弘く分布して居る。たとへば信州でも下伊那方面にはハツトといふ語があつて、只その上流から甲州の盆地にかけて、是をホウトウと謂ふのである。ホウトウは現在の細く切つた蕎麦饂飩〈ソバ・ウドン〉の原形であつたらうと思ふ。刃物を当てゝもごく太目に切るだけで、中には紐の如く手で揉んで細長く、食い易くするだけのものがある。是を小豆〈アズキ〉と共に煮たものをアヅキボウトウとも謂つて居る。三河の渥美半島では三十年余り以前、私も是をドヂョウ汁と謂つて食はされて喫驚〈ビックリ〉した。珍しい名前も有るものと思つて居ると、佐渡島でも蕎麦切〈ソバキリ〉を味噌汁に入れたのを、やはりソバドヂョウと謂ふさうであつた。其形泥鰌〈ドジョウ〉に似たる為なるべしと佐渡方言集にはある。それもあるか知らぬが尚ホウチョウといふ語の意味不明になつた結果であらう。三河の山村では是と同じものをソバボットリと称して山神祭の欠くべからざる供物であつた。是もホウトウをそう訛つたのである。九州では豊後〈ブンゴ〉の或部分に、小麦粉を練つて味噌汁に落したものをホウチョウと謂つたことが、古川古松軒〈フルカワ・コショウケン〉の西遊雑記〈サイユウザッキ〉には見えて居る。大友氏の時代から始まつた食物で、文字は鮑腸と書くと云ふのは、やはり泥鰌同然の考へ過ぎであつたと思ふ。何れにしても生粉〈ナマコ〉の臼挽きが普及し従つて粉の貯蔵が可能になる迄は、是は相応に面倒な調理法であつた。それが家々の補食の一種となり又飲食店の商品ともなつたのは、器械の進歩であると同時に、晴と褻の食事の混乱でもあつたのである。
 もし入用に臨んで新たに作る物であつたならば、特に面倒をして生の穀物をはたき、又はわざわざ炒つて脆く〈モロク〉する必要は無い。最初から水に浸して柔かくして搗けばよかつたのである。だから以前の晴の日の品がはりには、水を加へて粉末にする第三の搗き方が、今よりもずつと多く行はれて居たのである。だから以前の晴の日の品がわりには、水を加えて粉末にする第三の搗きかたが、今よりもずつと多く行はれて居たのである。石臼が入つてから後も、大豆などはネバシビキが多く、豆腐以外にも其用途は色々あつた。蕎麦だけは性来生粉が作り易く、又香気を保つ為にも水に浸さぬ様であるが、其他の穀物は粉のまゝで食ふもの以外は、大抵はネバシビキにして居る。挽臼を用ゐなかつた時代は尚更のことであつたと思ふ。其中でも米には特にこのネバシ搗きの必要のあつたのは、臼に入れる水の加減を以て堅く又は柔く、時には稍〈ヤヤ〉液体に近い練粉までこしらへて居たからで、勿論一旦粉にしてから、水で薄めることも可能ではあるが、以前は専ら臼の中での仕事になつて居た。記録の上ではまだ見当らないが、私は是が一つの正式の米食法であつたらうかと思つて居る。現在伝はつて居るのは乳の不足な赤子〈アカゴ〉などに、布で包んでしやぶらせる位なもので、是にも地方的に色々の名がある。此以外には大抵は神霊の供御〈クゴ〉とするだけで、もう人間は生のまゝの米は食はないが、儀式の食品としては可なりよく保存せられて居る。もう忘れかゝつて居るから其名称を採録して置かねばならぬ。岐阜県の海津〈カイヅ〉郡などで、ナマコと謂つて居るのがこの米の汁の普通の名であつたらしい。淡路島でシロトアゲといふのがそれで、正月に之を製して神棚や仏壇に、檞〈カシワ〉の葉を以て注ぎかける。能登の穴水〈アナミズ〉地方では是を人根(ニンゴン?)と謂ふさうである。旧九月十五日の地蔵講の日に、七寸ほどに切つた藁を膳に載せ、是に白米を摺つて糊状〈ノリジョウ〉にしたものを注いで居る。これを人根といふのは珍しく、又どうしてさういふ事をするのかも私に判らぬが、考へてみなければならぬと思つて居る。福島県の石城平〈イワキ・タイラ〉附近の村では、同じものをオノリと謂つて居る。是も九月秋収後の幣束祭〈ヘイソクサイ〉に、こしらへて餅と共に神に供へる。祭の後には烏【からす】が来て之を食ふことになつて居る。烏に神供〈ジンク〉を投げ与へる風は、正月に東北一般に行はれて居るが、処によつては秋にも同じ事をするのである。色の黒い男が白足袋をはいて居るのを嘲つて〈アザケッテ〉、「烏がオノリを踏んだやうな足をして居る」などといふ諺も、此事実を知つて居る者には格別にをかしいのである。
 信州川中島地方で二月八日に作るチウギ餅なども、餅とは謂つても至つて柔かなものだと見えて、此日は子供がそれを持つて行つて、道祖神の石像の顔に塗り付ける。土地により甘酒地蔵もしくはモロミ地蔵と謂つて、路傍の地蔵に甘酒やモロミを注ぎ掛け、臭くて鼻をつまむやうだが、洗い落さうとすると罰〈バチ〉が当るなどといふのも、材料は異ふ〈チガウ〉が同じ信仰であつた。羽後〈ウゴ〉の神宮寺の道祖神を始とし、祭の日に神体に米の粉をふりかけるといふなども、乾いた粉の得にくかつた時代には、やはりこ此オノリを注いだものと思ふ。同じ習慣は東北地方、殊に旧南部領の盆の墓祭りの時にもある。やはり多くの他の食物と共に、この白色の粉を解いた液体を墓場の前と周囲にまき散らすので、土地では此行事をホカヒと謂つて居る。ホカヒはもと食物容器の名、即ち盆(瓮)という漢字の和語であつた。中部以西の盆の精霊棚〈ショウリョウダナ〉には、この白い米の水の代りに、鉢に水を入れたものを具へ〈ソナエ〉、ミソハギの枝を以て供物の上にふり掛け、又は墓参の往復にも之を路上に注ぐが、其水鉢の中へは茄子〈ナス〉や豇豆〈ササゲ〉などの細かく刻んだものゝ他に、家によつては米粒を入れて置く。それを「水の実)」とも又「水の子」とも謂つている。起りは皆一つであらうと思ふ。今では何故〈ナニユエ〉にさういふことをするのか、説明し得る者は一人も無いけれども、何れも祖霊に供養するものであるからには、本来は我々の晴の日の食物で、人だけは嗜好が転じてもう之を食はなくなつても、御先祖には前通りのものを進めて居たわけで、乃ち〈スナワチ〉日本の晴の食事にも、やはり時代の変化があり、我々は容易に国固有のもの、もしくは昔通りの食物といふものを知つて居るとは言へないのである。〈12~15ページ〉【以下、次回】


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