◎手杵とは、女性が使うタテの杵のこと
『社会経済史学』第3巻第9号(1934年1月)から、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢」を紹介している。本日は、その七回目。
七
是は恐らくは我々の祖先の、食物に対する観念の今よりも遥かに精神的であつたこと、もしくは生存といふものの意義を、ずつと物質的に解して居たことを、別の語で言へば体霊一如〈タイレイイチニョ〉の考へ方であつたことを意味するかと思ふが、其点は深く入つて行く必要も亦能力も私には無い。社会経済史学の立場から言つても、この日本の餅なり団子なりが斯くも平凡極まる毎日の食物となつてしまつたのには、未だ究められざる文化史上の大いなる動力、殊に近世に於ける複雑なる変遷が其原因であつたといふことを認めるを以て足るかと想ふ。糯米〈モチゴメ〉といふ一種の稲がいつから日本に存在し又どういふ足取りを以て普及し且つ増産したかといふことも、経済史の一つの題目に相違無いが、仮に其物が夙く〈ハヤク〉我々の農村にあつたにしても、是を非常に旨【うま】いものだと経験した機会は、さう容易には出現しなかつた筈である。それには先づ今日のやうな餅の搗き方の起ることを条件とし、しかも其搗き方は至つて新らしいものであつた。それよりも晴の日の食物に色々の形状を要求することゝ、次で其方法の改良とが無かつたら、今ある餅といふものは日本には出来なかつたので、つまりは粢【しとぎ】といふ古来の習慣が元である。沖縄の島へ行つて見ると餅と、団子の名はあるが其物は我々のとちがひ、又二者の差別もヤマトとは同じで無い。蒸した穀粒を臼で搗いて、餅とする風はまだ島には入つて居らぬのである。さうして内地でも今いふ餅の始は新らしい。臼と杵との大なる改良が無かつたら、今日の変化は完成しなかつたのである。
其実験も亦南の島々へ行けば出来ると思ふ。女性が日本の手杵〈テギネ〉で穀粉をはたいて居る間は、如何に糯米が糊分の多い穀物であらうとも、是を搗き潰して今のやうな餅にすることは出来ない。それが可能になつたのは横杵〈ヨコギネ〉の発明又は輸入で、男子が之を取扱ふやうになつた結果である。横杵の使用は多分は支那から入つて来た技術であらう。男の力で無いと取扱へぬ代りに、餅も米の精白も此為に手早くなつた。杵は日本の古語ではキ、恐らく木といふ語ともとは一つであつた。東北では手杵〈テギネ〉即ち女の使ふ竪の杵を、今でもキゲ又はキギと謂つて居る。標準語のキネは後に出来た語で、単なる樹木のキと区別する必要からかと思ふが、それを四国と中国の一部で、キノと謂つて居るのを見ると、元はキノヲであつたことが想像し得られる。キノヲのヲは男の意で、臼を女と見立てゝの至つて粗野なる異名であつた。是と同じ思想は、今では擂鉢と擂木とが承け継いで居る。スリコギのコギは小杵であるが、八重山の島〔石垣島〕などでは是をダイバノブトと謂ふ。ダイバはライバンの訛で即ち擂盆〈ライボン〉、ブトはヲツトであるから擂鉢の夫【をつと】といふことに帰着するのである。横杵は大きいからアヲといふ土地もある。即ちオホヲ、大なる夫【をつと】の義であつた。キネといふ語の国語として固定したのも、その分〈ワケ〉はこの横杵の採用の時以後であらう。兎に角に是に由つて、且つ糯米の利用によつて、粢【しとぎ】で物の姿を作る必要は半減した。従うて又手杵と舂女【つきめ】とは全く閑になったのである。
我邦の農家の主要なる什具は、何れも近世に入つて色々の改良を受けたが、其中でも臼の系統には殆ど革命とも名づくべき大変化があった。米の籾摺り〈モミスリ〉にも一旦は横杵の使用があつて、多くの城下町では粗町【あらまち】と称して、一区画を其作集の地に宛てゝ居たが、程無く各農家が摺臼〈スリウス〉を使用することになつて、玄米納租が行はれ粗町の必要は無くなつた。次に製粉器械としての石臼の普及であるが、是は石工の技芸進歩と、其数の増加の御蔭であつた。以前は薬材絵具や茶の類に限られ、僅かに上流の家だけに使用せられて居た石の小さな挽き臼が、どんな田舎でも手に入り、又目立て屋といふ職人まであるやうになつた。農家が各自の穀粉を挽くやうになつて、一旦起りかけた粉屋【こなや】といふ専門業が早く衰へてしまひ、名残を粉屋の娘の民謡に留めて居る。
最後に今一つの大きな改良が、前に挙げた擂鉢〈スリバチ〉擂木〈スリコギ〉であつた。是も亦臼と杵との変化であることは、その各地の名称からでも察せられる。スリコギが擂る小杵であつた如く、メグリギ・マハシギ等のキも亦杵であつた。在来の手杵と異なる点は、搗く代りにまはすことで労力が遥かに軽くなつた。陶器の内側に臼の目を立てゝ焼くなどは、国内でも発明し得たか知らぬが支那の方が古い。所謂鎖国時代に斯ういふ事までを聞き伝へて、直ちに全国に普及させた無名氏の智能は敬服すべきである。擂鉢の世に行はれる迄は、一切の柔かな食物は皆臼で搗いて居た。味噌は擂鉢が出来てからかも知れぬが、其以前の食物であつた豆のゴ〔呉〕の汁、又多くのあえ物類は、すべて臼によるの他は無かつた。それが百年か百五十年の間に、全国住民の九割九分までが、手杵無くして生活し得ることゝなり、餅と団子とは全く独立の存在を確保し、起源の最も久しい粢【しとぎ】の白餅は、神霊以外には之を省みる者が無くなつた。古代の食物慣習を解説せんとすれば是だけの面例な考察を必要とし、しかも多数の人は今有る状態を昔からだと思つて居る。此激変が主として臼と杵と擂鉢との力であったのである。〈20~22ページ〉【以下、次回】
文中、「女性が日本の手杵で穀粉をはたいて居る」というところがある。この「日本」は、速記時に、「二本」を聞きまちがえたものであろう。ちなみに、手杵(てぎね)というのは、中央のくびれた部分を握ってタテに搗く杵で、「女性が二本の手杵で」といった場合、ふたりの女性が向かいあい、それぞれ一本の手杵を手にして搗くのである。
『社会経済史学』第3巻第9号(1934年1月)から、柳田國男による講演の記録「餅と臼と擂鉢」を紹介している。本日は、その七回目。
七
是は恐らくは我々の祖先の、食物に対する観念の今よりも遥かに精神的であつたこと、もしくは生存といふものの意義を、ずつと物質的に解して居たことを、別の語で言へば体霊一如〈タイレイイチニョ〉の考へ方であつたことを意味するかと思ふが、其点は深く入つて行く必要も亦能力も私には無い。社会経済史学の立場から言つても、この日本の餅なり団子なりが斯くも平凡極まる毎日の食物となつてしまつたのには、未だ究められざる文化史上の大いなる動力、殊に近世に於ける複雑なる変遷が其原因であつたといふことを認めるを以て足るかと想ふ。糯米〈モチゴメ〉といふ一種の稲がいつから日本に存在し又どういふ足取りを以て普及し且つ増産したかといふことも、経済史の一つの題目に相違無いが、仮に其物が夙く〈ハヤク〉我々の農村にあつたにしても、是を非常に旨【うま】いものだと経験した機会は、さう容易には出現しなかつた筈である。それには先づ今日のやうな餅の搗き方の起ることを条件とし、しかも其搗き方は至つて新らしいものであつた。それよりも晴の日の食物に色々の形状を要求することゝ、次で其方法の改良とが無かつたら、今ある餅といふものは日本には出来なかつたので、つまりは粢【しとぎ】といふ古来の習慣が元である。沖縄の島へ行つて見ると餅と、団子の名はあるが其物は我々のとちがひ、又二者の差別もヤマトとは同じで無い。蒸した穀粒を臼で搗いて、餅とする風はまだ島には入つて居らぬのである。さうして内地でも今いふ餅の始は新らしい。臼と杵との大なる改良が無かつたら、今日の変化は完成しなかつたのである。
其実験も亦南の島々へ行けば出来ると思ふ。女性が日本の手杵〈テギネ〉で穀粉をはたいて居る間は、如何に糯米が糊分の多い穀物であらうとも、是を搗き潰して今のやうな餅にすることは出来ない。それが可能になつたのは横杵〈ヨコギネ〉の発明又は輸入で、男子が之を取扱ふやうになつた結果である。横杵の使用は多分は支那から入つて来た技術であらう。男の力で無いと取扱へぬ代りに、餅も米の精白も此為に手早くなつた。杵は日本の古語ではキ、恐らく木といふ語ともとは一つであつた。東北では手杵〈テギネ〉即ち女の使ふ竪の杵を、今でもキゲ又はキギと謂つて居る。標準語のキネは後に出来た語で、単なる樹木のキと区別する必要からかと思ふが、それを四国と中国の一部で、キノと謂つて居るのを見ると、元はキノヲであつたことが想像し得られる。キノヲのヲは男の意で、臼を女と見立てゝの至つて粗野なる異名であつた。是と同じ思想は、今では擂鉢と擂木とが承け継いで居る。スリコギのコギは小杵であるが、八重山の島〔石垣島〕などでは是をダイバノブトと謂ふ。ダイバはライバンの訛で即ち擂盆〈ライボン〉、ブトはヲツトであるから擂鉢の夫【をつと】といふことに帰着するのである。横杵は大きいからアヲといふ土地もある。即ちオホヲ、大なる夫【をつと】の義であつた。キネといふ語の国語として固定したのも、その分〈ワケ〉はこの横杵の採用の時以後であらう。兎に角に是に由つて、且つ糯米の利用によつて、粢【しとぎ】で物の姿を作る必要は半減した。従うて又手杵と舂女【つきめ】とは全く閑になったのである。
我邦の農家の主要なる什具は、何れも近世に入つて色々の改良を受けたが、其中でも臼の系統には殆ど革命とも名づくべき大変化があった。米の籾摺り〈モミスリ〉にも一旦は横杵の使用があつて、多くの城下町では粗町【あらまち】と称して、一区画を其作集の地に宛てゝ居たが、程無く各農家が摺臼〈スリウス〉を使用することになつて、玄米納租が行はれ粗町の必要は無くなつた。次に製粉器械としての石臼の普及であるが、是は石工の技芸進歩と、其数の増加の御蔭であつた。以前は薬材絵具や茶の類に限られ、僅かに上流の家だけに使用せられて居た石の小さな挽き臼が、どんな田舎でも手に入り、又目立て屋といふ職人まであるやうになつた。農家が各自の穀粉を挽くやうになつて、一旦起りかけた粉屋【こなや】といふ専門業が早く衰へてしまひ、名残を粉屋の娘の民謡に留めて居る。
最後に今一つの大きな改良が、前に挙げた擂鉢〈スリバチ〉擂木〈スリコギ〉であつた。是も亦臼と杵との変化であることは、その各地の名称からでも察せられる。スリコギが擂る小杵であつた如く、メグリギ・マハシギ等のキも亦杵であつた。在来の手杵と異なる点は、搗く代りにまはすことで労力が遥かに軽くなつた。陶器の内側に臼の目を立てゝ焼くなどは、国内でも発明し得たか知らぬが支那の方が古い。所謂鎖国時代に斯ういふ事までを聞き伝へて、直ちに全国に普及させた無名氏の智能は敬服すべきである。擂鉢の世に行はれる迄は、一切の柔かな食物は皆臼で搗いて居た。味噌は擂鉢が出来てからかも知れぬが、其以前の食物であつた豆のゴ〔呉〕の汁、又多くのあえ物類は、すべて臼によるの他は無かつた。それが百年か百五十年の間に、全国住民の九割九分までが、手杵無くして生活し得ることゝなり、餅と団子とは全く独立の存在を確保し、起源の最も久しい粢【しとぎ】の白餅は、神霊以外には之を省みる者が無くなつた。古代の食物慣習を解説せんとすれば是だけの面例な考察を必要とし、しかも多数の人は今有る状態を昔からだと思つて居る。此激変が主として臼と杵と擂鉢との力であったのである。〈20~22ページ〉【以下、次回】
文中、「女性が日本の手杵で穀粉をはたいて居る」というところがある。この「日本」は、速記時に、「二本」を聞きまちがえたものであろう。ちなみに、手杵(てぎね)というのは、中央のくびれた部分を握ってタテに搗く杵で、「女性が二本の手杵で」といった場合、ふたりの女性が向かいあい、それぞれ一本の手杵を手にして搗くのである。
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