礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

金堂薬師三尊と瓜二つの「講堂薬師三尊」

2018-05-22 07:07:10 | コラムと名言

◎金堂薬師三尊と瓜二つの「講堂薬師三尊」

 鈴木治は、『白村江』(学生社、初版一九七二、新装版一九九五)の中で、「薬師寺講堂三尊」との出会いについても語っている。本日は、これを紹介してみよう。第四章「薬師寺の諸仏」の中の、「薬師寺講堂三尊」という項である(一〇八~一一〇ページ)。

 薬師寺講堂三尊 これらのほか薬師寺には、金堂薬師三尊と瓜二つの黒光りした巨大な金銅薬師三尊がもう一セット、金堂の後の講堂にあることは、あまり知らない。この講堂は永年開かずの御堂〈ミドウ〉だった。昭和五年〔一九三〇〕にはじめて訪れた時も、われわれを案内された〔橋本〕凝胤師は、ただ黙々とこの堂の前を通り過ぎた。以来ひそかに私は、この堂に少なからざる興味を持った。ある時、小林剛〈タケシ〉博士にその話をすると、あれは郡山の付近で土中から掘出されたもので、大したものではないと、私をたしなめるようにいった。私はケロイド状の仏像が、薄暗いお堂の中に放置されている有様を想像して、鬼気せまる思いをするとともに、これは容易なことでは調べられまいと観念して、以来十何年かを過ごした。
 しかるに数年前ようやく一葉の写真が手に入った。見ると、ケロイドどころか、完璧なじつに堂々たる三尊である。たまたま薬師寺などにあるから、金堂三尊の日蔭になって、知る人もないのだ。さっそく薬師寺に電話で問合わすと、その年の春から講堂は公開しているという。早速に出かけた。タクシーでわずか二、三十分の距離である。
 昭和五年には石橋君に負われた私だったが、今は全く歩行不能なので、車椅子で拝観させてもらった。驚いたことには、薄暗い堂の中は一杯の参拝者である。目が暗闇になれるにつれて、それらがことごとく篤信の善男善女で、口々に経文をとなえながら、燭台の灯にゆらぐ巨大な本尊を、一心に讃仰〈サンギョウ〉している風景に私はいた。じつに演出効果満点で、それはまさに「キラキラしき蕃神」の姿だった。こんなことはついぞ金堂三尊でも見たことがない。日蔭者どころか、薬師信仰は金堂よりも講堂の中で生きていた。

 鈴木治は、初めて「薬師寺講堂三尊」に接した年月を明記していないが、「数年前」とあるから、本書初版が出た一九七二年(昭和四七)より数年前、すなわち一九七〇年(昭和四五)前後のことだったと思われる。
 この「薬師寺講堂三尊」の由来については、諸説あって決着していない模様だ。鈴木治も、この本で自説を展開しているが、それが有力説として注目されたという話は聞かない。ちなみに、今日、薬師寺では、これを「弥勒三尊像」と呼んでいる。

*このブログの人気記事 2018・5・22

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする