◎非常識に聞える言辞文章に考え抜かれた説得力がある
昨日の続きである。鈴木治著『白村江』の新装版(学生社、一九九五)の「解説」において、杉山二郎は、次のように述べていた。
その〔鈴木先生の〕判断には透徹した適確な判断力が裏打ちされていて、一見非常識に聞える言辞文章にも考え抜かれた説得力があったので、わたくしは毎度驚嘆したものであった。
今回、鈴木治の『白村江』を再読してみて、僭越ながら私も、杉山二郎と同様の感想を抱いたのである。たとえば、序章「古代史への挑戦」の2「危機の日本史」における、次のような箇所に。
近代文化 つぎに、第三回の近代文化大量流入時代たる幕末明治期には、まず巨費を投じた品川の台場も物の役には立たず、幕府は戦わずして白旗をかかげ、無血降伏となって、黒船の大砲の射程内で安政五年〔一八五八〕の通商条約(いわゆる不平等条約)が各国との間に結ばれた。安政の大獄〔一八五八~一八五九〕は、「安保条約」ならぬ「安政条約」反対の吉田松陰以下を大量処刑したが、翌年〔一八六〇〕三月三日桃の節句に責任者井伊直弼は大雪の桜田門外で水戸浪士のために報復暗殺された。ついで英人リチャードソン殺害の生麦事件から英艦の薩摩砲撃(薩英戦争)と、英仏連合艦隊の下関砲撃は、広島長崎二発の原子爆弾ならぬ二発の原始爆弾として、チョン髷日本を一挙に粉砕し、慶応元年九月、連合艦隊の摂海〔大阪湾〕進入は、昭和二十年〔一九四五〕九月、品川湾頭ミズリー号の場の、八十年前のリハーサルだった。ついで慶応二年十二月二十五日のXマス〔一八六七年一月三〇日〕、孝明天皇は何者かの手によって毒殺され給い、宝算三十六才とある。翌明治元年〔一八六八〕、大政奉還、十六才の明治天皇は敗戦国の君主として即位された。
内憂外患一時に殺到した維新回天史は、世界一の雄篇『大菩薩峠』はもとより無数のチャンバラ演劇、小説、講談になって尽きるところがない。上〈カミ〉は公卿・大名から、下〈シモ〉は浪人・博徒・雛妓〈スウギ〉の末にいたるまで、卍巴え〈マンジドモエ〉に入り乱れるが、じつはぜんぜん話の筋がわからない。それというのが、安政条約というものが、無血降服の結果であった。しかしそれだけでは話がつかないで、鹿児島、下関砲撃となって、やっと流血降服となったが、それでも「あれは薩摩藩と長州藩が負けたので、日本が負けたのではない」という感覚だった。そこで連合艦隊摂海進入となった。しかし海上だけでは「上陸占領」ほどの実感が湧かなかった。ついに孝明帝毒殺の悲劇となり、しかる後に大政奉還、明治維新となったので、維新政府は今日にいたるまで不敗の面目を保ったかのようであるが、じつは日本はすでに伊豆の下田で降服していたのである。
われわれ明治生れの「維新戦争を知らない子供たち」は、その後の教科書や教育講談や大衆小説のおかげで、これらの事情をまったく知らなかったが、明治維新を生きぬいたわれわれの祖父たちは充分に知っていた。明治初年に人々が電線の下を通る時は、頭上に扇子をかざして「キリシタン.パテレンの術」の下を通ることを潔しとしなかったというのは、敗戦の屈辱感と反感の故だった。
もしも真の維新史を書くのならば、維新回天史の舞台廻しとして、長崎名所「グラバー邸」の主、イギリス人の武器商、トーマス・ブレーク・グラバーに照明を当てるほかはない。彼は高島(軍艦島)炭鉱の持主であり、後に三菱造船所の前身の創設者となったが、すでに鹿児島砲撃にも参画し、やがて彼の方寸〔こころ〕の下にイギリスは薩長二頭立ての馬車を「官軍」に仕立てて江戸へ乗り込んだ。坂本龍馬も高杉晋作も、 彼の下請けにすぎない。明治維新は封建制からの脱皮と同時に、敗戦からの立ち上りであった。そこに明治の苦悩があった。
けっきょくは列強の「力の相殺」によつて、日本はからくもたすかったが、最後的にはフランスの幕府援助を断った勝海舟の明察が、日本を救ったのだ。明治十六年〔一八八三〕兵庫沖で催されたわが国最初の観艦式を見下ろす大倉山の御野立所〈オノダチジョ〉で、海舟が時の松方〔正義〕蔵相をつかまえて「松方さん、これだけ立派な軍艦ができたのは私のおかげだよ」と啖呵を切ったが、たしかに彼にはそれだけの資格があった。フランスの援助を断って内戦を回避し、江戸城を開け渡して、日本を何んとかここまで持ってきた彼らの努力は、正に「明治の元勲」の名に価する。
英国は、鹿児島砲撃の焼跡の屋敷町から東郷〔平八郎〕少年をアドミラル〔提督〕に仕立て上げて、「日英同盟」によって後年日本海海戦において「目の上のたん瘤」ロシアのバルチック艦隊殲滅〈センメツ〉に成功してインドを確保した。それに味を占めた海軍至上の大艦巨砲主義は、日本の戦略を誤らせて今次の大敗となった。
引用が長くなったが、「近代主義」の項の全文である。一見、ザツに書き流した文章のように見えるが、随所に、大胆にしてユニークな指摘がある。「十六才の明治天皇は敗戦国の君主として即位された」、「日本はすでに伊豆の下田で降服していた」など。「一見非常識に聞える言辞文章にも考え抜かれた説得力があった」。杉山二郎の指摘の通りである。開国・維新と今次の敗戦とを重ね合せる鈴木治の史眼は、ナミタイテイのものではない。まさに今日、再評価されるべき歴史家ではないのだろうか。