礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

仇を報ゆるに恩を以てせよとやら

2018-05-02 05:39:09 | コラムと名言

◎仇を報ゆるに恩を以てせよとやら

 野村無名庵著『本朝話人伝』(協栄出版社、一九四四)から、「石川一夢」のところを紹介している。本日は、その三回目で、「石川一夢 (二)」の後半部分を紹介する。

「とうとうそんな訳で、何が何して、何だもんですから、二人はどんな事があろうとも決して別れまい離れまい。末は必ず夫婦にならうねと、堅い約束をしたのですけれども、お浜さんは不仕合【ふしあは】せな身の上で、幼【ちい】さい時に両親に死別【しにわか】れ、他人の手で育てられたんですが、その養ひ親が強慾【がうよく】の怠け者で、のべつにお店へ来てはお浜さんを呼出し、小遣銭を貸せと強請【せび】るんです。水商売ぢやアあるまいし、堅気【かたぎ】の家へ奉公している仲働きが、何でそんなに一々貢げる力がありませう、その度毎〈タビゴト〉に私が見るに見兼ねて一両二両用立【ようだて】て上げましたが、私だつて奉公人の身で、そんなお金の有らう筈もなく、ついお店のお金を使ひ込んぢまつたのが、たまりたまつて、とうとう百両……」
「えツ、それは又えらい穴をあけたものだな」
 と、これには一夢も呆れました。頭をかいた芳次郎が、
「イエそれといふのも一番しまひに、お浜ちやんの親父といふ人に掛合はれ〈カケアワレ〉、どうにも手元が苦しいから、お浜にお店から暇を取らせ、勤め奉公に出し度いと思ふが、それも可哀想【かあいさう】だと思つたら、まとまつて五十両貸して貰ひ度【た】いとせがまれて、苦し紛【まぎ】れにその金を融通したので、前方【まへかた】からの分と合せ百両金という大きな使込みになつちまつたのでございます。その中に何とか穴埋めをしようものと、今まではどうやら胡魔化してゐたのですが、もういけません。明日になればお店で総勘定【そうかんぢやう】の棚卸しをしますので、今まで隠してゐた使ひ込みも一遍に現れてしまひます。私はお暇になるだけでは済みますまい。次第によれば突出されてお仕置【しおき】も受けなくてはならず。そんな事になりましては、お浜さんと添ふ望みも絶え、この世に楽しみはありません。なまじ生き恥をさらさうより、御主人様への申訳【まをしわけ】に、死なうと覚悟をきめまして、お浜ちやんにもその事を話しましたところ、お浜ちやんがこれは皆私から起つたこと、私ゆゑにお前さんを、一人殺すことは出来ませぬ。互ひに不運だつた今の世の中にお去らばをして、未来とやらで、楽しく一緒になりませうと、心中【しんぢう】の相談がまとまつたのでございます。そこを人もあらうに先生に見つけられ、こんな愧【はづ】かしいことはございません」
 と芳次郎が打ちしをれゝば、お浜は袂【たもと】を美しい顔に押当て、潸々【さめざめ】と泣くばかりであります、幾度も打【うち】うなづいた石川一夢が、
「アヽそうか、分つた分つた、大方【おほかた】そんなことだらうと思つたが、さりとは如何に若い者とはいへ、突きつめて無分別な考へを起したものだなア。死んで行くお前たちは、好いた同志が手を取り合ひ、三途の川に死出【しで】の山も、仲むつまじく越えて行き、一つ蓮【はちす】に托生【たくしやう】の、未来は夫婦とそれでよかろうが、主人の迷惑、親たちの歎き、世間のことを考へないのか。百両や二百両のはした金で命を捨てようとは何という浅はかだえ。と云つてその百両が無ければ、死にでもせずば引込みもつくまいが、よし、仕方がない、乃公【わし】が今夜この場へ通り合せたのも因縁だらうし、殊に知合の仲であつて見ればこれも掛り合〈カカリアイ〉だ、何とか始末をつけてやらうから、あまり心配をしなさんな」
 慰めました時に芳次郎が、
「先生、その思召【おぼしめし】は有がたう存じますが、どうも私として先生へ、この御面倒を背負【せお】はせましては、どうにも心が済みません」
「フーム、そりやア又何故【なぜ】だね」
「先生、私は何もかも、皆父親から聞いて居ります。外の者なら兎も角〈トモカク〉も、私は先生の御修業時代から意地の悪いことをし通して、先生に辛く当つた笹川五岳の伜【せがれ】でございます。親父〈オヤジ〉が上方へ逃げて行つたのも、先生へ済まないと思ふきまりの悪さから、江戸にいたゝまれなくなつた為めでございます。謂はゞ先生には敵【かたき】の伜が、先生に助けられましては、あ、あんまり悪うございます」
 唇をかんで芳次郎、今さら自分の身に報【むく】うて来た親の因果を、慚愧後悔【ざんきこうくわい】して居ります様子。元より一夢としても芳次郎の顔を見た時から、その親の五岳に対する不快な感情を、思ひ出さずに居られよう筈もなかつたのでありますが、今芳次郎に斯う〈こう〉言われました時に、ハツと胸中の弱点をつかれた心地がいたし暫くはぢーつと考へて居りましたが、
「芳次郎さん。それなればこそ私は尚【なほ】のこと、お前さんに尽して上げなくてはならない。成程私はお前さんのお父さんに、辛抱の出来ぬ程、随分ひどい目にも遭はされて、血の涙を流した事もあつたが、それを世間で知つてゐるだけに、お前さんの不仕合せを、アヽいゝ気味だ、ざまを見ろと私が見殺しにする事が出来ないんだよ。君子振【ぶ】つたことをいふやうだが、仇【あだ】を報ゆるに恩を以てせよとやら、また考へて見れば、私が五岳さんに苛【いぢ】められ、今に見ろつと奮発したればこそ、どうやら今の境涯になれたのだから五岳さんは却つて〈カエッテ〉私の恩人とも云へよう。その恩人の伜さんへ、今こそ一夢の恩返し、どうか心配せずに受けておくれ」
 と申しましたのはさすがに人の頭【かしら】に立つて、第一流と云はれる人物の考へ、また違つたものであります。芳次郎はますます痛み入つて頭も上りません。しかしもう夜も更けたことだからと一夢は若い男女【ふたり】を一間へ寝かせ、夜あけを待つて出向いて来ましたのは、相生町【あいおひちやう】の伊勢屋万右衛門といふ、これは一夢を贔屓【ひゐき】にする大きな質屋の主人さんで、平生【へいぜい】心やすくして居りますから、一夢はこれへ参りまして、
「伊勢屋の旦那、早朝から突然【だしぬけ】に、無理なお願ひをいたすやうでございますが、若い男に若い女、人間二人の命の助かること、どうかこの私に百両御用立【ごようだて】下さいませぬか」
 と事情を話して頼み込みました。

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