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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

文学報国会ができたとき俳句部会のみ入会申込が多く……

2019-10-18 02:43:29 | コラムと名言

◎文学報国会ができたとき俳句部会のみ入会申込が多く……

 桑原武夫『現代日本文化の反省』(白日書院、一九四七年五月)から、論文「第二芸術」を紹介している。昨日は、七六~七八ページのところを紹介したが、本日は、七九~八一ページのところを紹介する。仮名づかいなどは、『現代日本文化の反省』に従う。

 芭蕉が生きたのは、将軍自ら「四書」を講ずるといつた――もとよりルネサンスなどとは全く質的に別のものではあるが、ともかく――古典的学問芸術の向上期にあつた。町人が学問をしたといふのではないが、町人も恐らくその上げ潮には無関心ではなかつた。その風潮に乗つたればこそ、彼はもともと鋭いその眼に西行の和歌、杜甫の詩句の眼鏡をかけて自然を見ることもでき、かくして俗化を脱れえたのであらう。(彼は今日吾々が見るやうに自然を見たのではない。また自然科学を知つた吾々には彼のやうに自然を見ることは決してできない。)また彼の旅は身をさゝやかな危機におくことによつて、さきの矛盾を止揚とまではゆかずとも、せめて消さうとする手段であつたのであらう。そして、子規が俳句の革新をはかつたのが、不治の病床においてであつたことは、意味ふかく思はれる。
 芭蕉以後においては、俳句がいよいよ大衆の間にひろまると共に、恐らく世界に類例なき安定性をもつた徳川期の封建制はいよいよ整備されてきた以上、俳人が堕落するのは寧ろ当然のことであつた。これを後の俳人が芭蕉の精神を忘れたためとか、あるひは芭蕉の求めたものを求めなくなつたからなどといふのは当らない。むしろ、芭蕉を崇拝しつゞけたゆゑに堕落したといふべきであらう。それも芭蕉の言葉がさまざまの弟子や後人たちの解釈をへて神秘化したためのみではない。芭蕉を捨てなかつたところに堕落の原因があつたのである。およそ芸術において、天才の精神と形式とを同時に学ぶことは許されない。かくするとき精神は形式に乗つたものとして受けとられ、精神そのものも形式北するのは必然である。これをアカデミスム、マンネリスムといふ。芭蕉は西行、杜甫に学んだといふが、それは和歌、漢詩といふごとぎ別の形式であつたために、精神のみを抽出消化せざるを得ず、伝統精神をとり入れつゝもマンネリスムに陥ることを避け得たのであらう。後の俳諧者が、芭蕉の用ひたのと同じ形式を守りつゞけつゝ芭蕉に還へれなどといふ以上、月並の発生は不可避であつた。
 一つの芸術様式が三百年もそのまゝ続き得たといふことはへ日本の社会の安定性あるひは沈滞性を示すものであらうが、明治以後日本の軍隊が近代装備をとりつゝも、その精神は封建のさむらひであつたと同じく、俳壇は雑誌を数万も印刷し、洋館のオフィスをもちつゝもその精神は変らなかつた。たゞその本来有する矛盾は、社会の進展にともなひ、いよいよ露呈されざるを得なくなつた。さび・しをりなどといふ超俗的な教説を習慣的にとなへる一方、新しい社会に生きるために、いよいよ持ちまへの世俗的生活技巧を発揮せざるを得なくなつた。だから「人生の究極は寂し味だ」などとはいふが、一たん強力な勢力が現はれると器用にそれになびく。そして強い風がすぎさるとまた超俗にかへる。柳に雪折れはないのである。(このことは一般に高踏的芸術および日本的芸事の通性である。たとへば戦争中の茶の湯を考へること。文学報国会ができたとき、俳句部会のみ異常に入会申込が多く、本部はこの部会にかぎつて入会を強力に制限したことを私は思ひ出す。

 桑原武夫という人が、俳諧というものについて一家言を持っていたことがわかる。また、当時の俳壇の事情についても、かなり通じていたようである。当然、戦中における俳壇の動向、戦中における新興俳句運動への弾圧についても知悉していたであろう。
 桑原は、この「第二芸術」という論文で、俳諧の芸術性を否定し、物議を醸したわけだが、今となってみれば、むしろここでは、戦中における俳壇の動向を完膚なきまでに明らかにすることのほうが、意義があったのではないか。この文章を読んで、そんなことを考えた。

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