◎八月革命の革命たる所以は神権主義の否定にある(宮沢義俊)
『世界文化』第一巻第四号〔新憲法問題特輯〕(一九四六年五月)から、宮沢義俊の論考「八月革命と国民主権主義」を紹介している。本日は、その四回目。傍点(圏点)は、太字で代用した。
この八月革命はいはゆる「國體」の変革を意味するであらうか。
この問ひに対する答へは「國體」の名の下に何を理解するかによつて異つて来る。
もし「國體」の下に天皇が神意にもとづいて日本を統治せられるといふ神権主義的天皇制を理解するならば、さういふ「國體」は八月革命によつて消滅してしまつたといはなくてはならぬ。八月革命の八月革命たる所以が何よりそれまでの神権主義の否定にある以上、これは当然である。日本政府は降伏の申入に際して、天皇の大権に関する希望を附し、それによつて「國體を護持」しようと企図した。しかるに、それに対する連合国の回答にはこの条件を承認する旨の言葉が見出されなかつた。そこで軍部大臣はじめ抗戦論者は「これでは國體を護持し得たことにならぬ」といつて抗戦を主張したさうであるが、もし「國體」の下にそれまでのやうな神権主義的天皇制を理解するとすれば、彼らが連合国のかやうな回答では國體を護持し得たことにならぬ」といつたのはきはめて正しいのであり、それでも國體を護持し得たと解していいといふ政府の解釈は、実際政治の観点からはともかく、理論的には誤つてゐると評せざるを得ぬ。
「國體」の下に天皇制を理解するとすれば、八月革命は〔ママ〕廃止されはしなかつたのであるから、そこで「國體」を〔ママ〕変革されなかつたといふことができる。しかし、この場合でも天皇制の根柢が神権主義から国民主権主義に変つたこと、従つて天皇制の性格がそこで根本的な変化を経験してゐることは注意せらるべきである。
この意味の「國體」はかやうに八月革命で変革されはしなかつたが、だからといつて必ずしもそこでその意味の「國體」が護持されたといふことにならぬことは、常ながら、注意せられていいであらう。それは天皇制の根拠がそこで神権主義から国民主権主義に変つたことと関連する。なるほど連合国は天皇制の廃止を要求しなかつた。しかし、神権主義が否定せられ、国民主権主義がみとめられた結果として天皇制の根柢も人民の意思にあるとせられることになつたから、人民の意思如何によつては天皇制も廃止せられる可能性が与へられたわけである。天皇制の根拠たる神の意思は永却不変のものとせられたが、国民の意思は決して不変のものではないからである。〈六九~七〇ページ〉【以下、次回】
途中、〝「國體」の下に天皇制を理解するとすれば、八月革命は廃止されはしなかつたのであるから、そこで「國體」を変革されなかつたといふことができる。〟という部分があるが、このままでは意味が通らない。
「八月革命と国民主権主義」という論考を、宮沢俊義みずからが紹介した「日本国憲法生誕の法理」という文章がある。それによれば、当該部分は、次のように書き直されている。
これに反して、もし「国体」の下に、単なる天皇制を理解するとすれば、八月革命は、かならずしも、そういう意味の天皇制を廃しはしなかったのであるから、そこで「国体」は、変革されなかったということもできないわけではない。
宮沢の「日本国憲法生誕の法理」は、宮沢俊義著『憲法の原理』(岩波書店、一九六七)に収録されている。当該部分は、同書の三八五ページにある。