礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

この通り、御開山のお姿が刻みこんであります

2022-12-21 04:10:56 | コラムと名言

◎この通り、御開山のお姿が刻みこんであります

 関山和夫『話芸の系譜』(創元社、一九七三)から、「深夜の御開帳」という文章を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

 鯨波【とき】のような念仏が起こると、やがて、敬道師は、あざやかな手つきで、さッと厨子の扉を開いた。三十センチほどの親鸞像(木像・旅姿)がローソクの光でまことに尊く見えている。電燈はいつのまにか消されていた。またもや鯨波の大念仏が起こった。善男善女はまるで親の前にひれふす子のように、泣きくずれんばかりに厨子〈ズシ〉の前へ近づいていく。念珠を手にかけた爺婆〈ジジババ〉たちは、一心に念仏を唱えながら「御開山さま、御開山さま」と呼び、「ありがとうございます、ありがとうございます」と感涙にむせぶのである。中には、木像にすがりつくようにして感きわまって絶句するものもあった。
 その間に敬道師かたたく鐘の音が、不可思議な効果を発揮しているのに気づいた私は、ここにみごとな説教芸能の真価を発見したのである。
 敬道師の鐘叩きの技術は無類のものであった。強弱・緩急の呼吸の巧妙さ、時には半鐘のスリバンのように鐘をこすることもある。私はここにその昔の説教芸能者の姿を見た。
 この御開帳の興奮のさ中に、賽銭方は抜け目なく盆をさしだす。あまりのありがたさに善男善女は、ひとたまりもなく我を忘れて、木像の前に身を投げだし、惜しげもなく千円札や五百円札を盆の上に置く。〝喜捨〟というものの典型だ。すすり泣きと念仏の声とが堂内に充満し、説教の効果は物凄い勢いで盛りあがってしまう。
 現代の法話のセンセイ方は、これを軽蔑し、悪しざまにいう。だが、私たちのような話芸の徒にとっては、敬道師のこの旧態依然たる方法、かたくなな近代性の拒否の姿勢に心から共鳴をおぼえる。かつて日本話芸の主流を占め、幾多の大衆芸能を創造した説教の真価を敬道師はまともに継承しているのだ。
深夜の御開帳は大成功であった。目をしょぼつかせながら、金ピカの袈裟〈ケサ〉をこすりながらの得意のポーズをとった敬道師は、最後にこういい放った。
「千載一遇の御開帳に、ようこそお参り下されましたなァ。それでは、この御開山親鸞聖人が、御年【おんとし】六十歳をもって無事に長い旅を終えられたのをしのんで、ここに交通安全のバッジを作りました。これもよそでは絶対に手にはいらぬ当山独特のものであります。ほら、この通り、御開山のお姿が刻みこんであります。今夜の御開帳参りの記念に、是非ともお持ち帰り下さい。イッコ 二百円ッ!」
バッジは飛ぶように爺婆の懐の中へはいった。

 敬道師の「話芸」が活写されている。読んだだけでも、藤嶽敬道師の「話芸」に圧倒される。そして、その「魔力」を余すところなく伝えている関山和夫さんの「筆芸」にもまた、感嘆させられるのである。
 さて、「深夜の御開帳」という文章は、このあとも、「節談説教」、「絵説き説教」の節があり、結局、四二ページまで続く。今回は、「節談説教」、「絵説き説教」の両節の紹介は割愛し、このあと、同じ『話芸の系譜』から、「説教の会」という文章を紹介したいと思う。ただし、明日は、いったん、話題を変える。

*このブログの人気記事 2022・12・21(8位になぜか野村兼太郎)

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