礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

御座所にはRCAのポータブルラジオが……

2024-08-15 00:02:19 | コラムと名言

◎御座所にはRCAのポータブルラジオが……

 篠田五郎著『天皇終戦秘史』(大陸書房、1980)から、冒頭の部分を紹介している。本日は、その二回目。

 東京・渋谷の焼け跡でも、焼け残ったラジオの前に人びとが集まっていた。そのラジオは、焼けトタン板を集めて作られた掘立て小屋の前に置かれていた。焼けるまでは、かなり広い邸のようだった。玄関跡らしい、広い石畳が残っていた。
 人びとの中に、袖に日の丸を链いつけた飛行服姿の海軍中尉が混っていた。黒線の筋が入った草色の戦闘帽の下の顔はまだ若かった。強い陽の下で、彼は空を見上げるようにして立っていた。その傍らに、四、五人の中学生がひと塊りになって佇んでいた。草色の学生服の片袖に、「勤労報国隊」と墨で書いた白い布ぎれがあった。
 中学生たちは、この近くの焼け跡整理に来ていたのだった。少年たちは明らかに青年将校を意識していた。その眼は、少年らしい憧憬の色を見せていた。その時、一人の中学生が、
「きっと、しっかりやれというお言葉だぞ」
 すぐ横の仲間に話しかけた。声は低かったが、その言葉もまた、青年将校を意識したものであった。少年は多分、青年将校に向かって、「僕たちも頑張ります」と、言葉を続けたかったのに違いない。少年たちもまた、近い将来、戦場へ狩り出される運命を担っていたし、また、国民は最後までの戦いを決意していた。
 それはすでに、〝本土決戦〟という言葉で示されており、十五歳から六十歳までの男子、十七歳から四十歳までの女子を総動員する国民義勇戦闘隊の編成が下令され、〝国民皆兵〝が実施されていたのである。
 国民は、日本人の戦いに死はあっても降伏はない、国家としても玉砕こそあれ敗北はないと理解していたのだった。
 しかし、中学生の言葉に、青年将校はいささかの反応も示さなかった。空を仰ぐようにして見ている。少年たちはいくらか不服そうであった。
〝君が代〟のレコードが終わった。中学生たちは眼を細めるようにしてラジオの方へ耳を向けた。天皇のお声が間こえてきた。
「……朕【ちん】ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ……惟【おも】フニ今後帝国ノ受クへキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾【なんじ】臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」
 玉音放送は、雑音がひどかった。しかも勅語は難しく、天皇の朗読は耳慣れぬ独特の抑揚に終始していた。そのため、多くの国民は事態の異変こそ感じはしたが、尚、当惑と不審さとを拭うことは出来なかった。
 天皇は御文庫〈オブンコ〉防空壕の会議室の隣の御座所〈ゴザショ〉にあって、ご自分のラジオの声に聞き入っていた。それは十二時間前に録音された、二枚からなる録音盤から流れるものであった。御座所の傍らには、RCAの古いポータブルラジオが用意されているのだった。
 その三十分前、会議室では議長・平沼騏一郎枢相をはじめとする十七人の長老が、天皇の親臨を仰いで、枢密院本会議が開かれたところであった。
 詔書公布前に枢密院の議を経ねばならないのである。会議は一時中断され、十七人の長老たちは細い回廊に一列に並んで放送に耳を傾けていた。
 詔書が進むにつれて、枢密顧問官たちの間に泣き声が低く洩れていった。平沼枢相は、つい先刻、天皇にかわって、お沙汰書を朗読したばかりであった。
「朕は政府をして米英支蘇のポツダム宣言を受諾することを通告せしめたり。これはあらかじめ枢密院に諮詢すべき事項なるも、急を要するをもって、枢密院議長をして議に参ぜしむるにとどめたり。これを諒承せよ」
 その平沼枢相が遂に堪えかね、長身の躯〈カラダ〉を二つに折って慟哭【どうこく】しはじめた。天皇は御座所の椅子に腰掛けたまま、俯向き、お躯を固くしている。
 同じ頃、学習院初等科六年生の皇太子明仁親王は、学友四十人と共に、疎開先の日光・南間〈ナンマ〉ホテルで玉音放送を聞いていた。皇太子が奥日光へ移ったのは、前年七月のことであった。
 居間の籐椅子〈トウイス〉に腰掛けている明仁親王の傍らには、東宮太夫〈トウグウノダイブ〉・穂積重遠〈ホヅミ・シゲトオ〉と侍従・黒木従達〈クロキ・ジュウタツ〉の二人が陪席していた。
 玉音が進むうちに、「クククッ……」という声が聞こえ始めた。黒木侍従であった。やがて彼は、たまらず両手で顔を掩【おお】うと、小走りになって、部屋の外へ向かって行った。
 明仁親王は不審そうな表情で、穂積東宮太夫の顔を振り返り見た。穂積東宮太夫もまた、なにかを懸命に堪えているようであった。明仁親王は尚、怪訝【けげん】そうな顔で見上げている。視線が合った。穂積東宮太夫は慌てて、顔を仰向かせた。そうしないと、いまにも涙が溢れ、零れ〈コボレ〉落ちそうなのだった。やかて彼は顎先を前へ突き出すようにしたまま、静かに、事情を説明した。しかしその声は時々、途切れがちであった。〈8~11ページ〉【以下、次回】

「RCAの古いポータブルラジオ」とあるが、RCAは、アメリカの電機会社である(Radio Corpration of America)。今日、インターネットで、「RCA ポータブルラジオ」と検索すると、それらしい画像が、何種類もあらわれる。ポータブルと称する以上、電池が電源だったようだ。
 ところで、当ブログでは、昨年8月31日に、「枢密院本会議を休会し陛下の録音放送を拝聴した」という記事を載せ、その中で、東郷茂徳の回想文を引用した。東郷によれば、1945年8月15日の午前11時半に始まった枢密院本会議は、12時に暫時休会し、「録音放送」を聴いたという。しかし、これだけでは、枢密顧問官らが、どのような形で放送を聴いたのかがわからない。
 篠田五郎によれば、当日、御座所には、ポータブルラジオが用意されていた。昭和天皇は、そこで放送を聴き、枢密顧問官らは回廊に一列に並んで放送を聴いたという。なお、東郷茂徳(当時、外務大臣)が、枢密院本会議に出席していたのは、ポツダム宣言受諾にいたる経緯について報告を求められていたからである。

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